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第5章(2) チェリー・ブライトン

 西区の外れで、ジェスはトラックを乗り捨てた。

 そこからホテル・グランディオールまで、あたしたちはゆっくり歩いて帰ることにした。

 王家の森沿いの小道を通って、港区へ。このあたりは市内最高のデートコースだ。石畳の小道は、左手にチグリス川のきらきら光る水面、右手に王家の森。都会とは思えないほどしずかで空気がおいしくて、鳥が軽やかに鳴きながらそのへんを飛びかってる。

「ありがとう。助けてくれて……」

 しばらく小道を歩いているうち、あたしはようやく、お礼を口にできるくらい落ち着いた。

 まだ心臓がばくばく打ってる。あの刑事に追いつめられて、本当にもうおしまいかと思った。それに四階の屋根から飛び降りた時のおそろしさ……!

「あぶないところだったな、チェリー。それにしても、よく飛んだよ。あの高い所から」

 ジェスはそう言って、にっこりした。

 その優しい笑顔に、あたしは安心のあまり涙が出そうになったけど、ふと引っかかる言葉があった。

「よく飛んだよって……ジェスが言ったんじゃない、大丈夫だから飛べって。あれは何だったの?」

「む……? そうだったかな」

 ジェスは急に口笛を吹き始めた。調子っぱずれの、聞いたことのない曲だった。

 あたしはしばらく、自分が生きている、とにかく無事で五体満足で自由で生きている、という現実のありがたさを噛みしめていた。辺りの風景は平和そのものだ。王家の森沿いの小道を抜けると、やがて港区へ。華やかな色あいの、おしゃれな店が建ち並ぶ通りには、着飾った人たちが足取りも軽やかに歩いてる。高価そうな服がウィンドウでポーズをとってるブティック。落ち着いた雰囲気のカフェテラス。だれもが苦労なんてないような顔をして行き交ってる。

 あたしたちは南へ向かって歩いた。

「あなたって魔法使いみたいね、ジェス。なんだって手に入れて来られるし……あたしたちが困った時にはいつもちゃんと助けに来てくれる。どうしてあんなにタイミングよく来てくれたの? あたし、もうおしまいかと思ってたよ」

 そう言って、並んで歩くジェスの横顔を見上げた。守られてるって、すごく素敵な気分だ。あたたかい毛布に全身をくるまれてるみたいな安心感。こんな気持ち、ずいぶんひさしぶりだ。

 ジェスはあたしに片目をつぶってみせた。

「種明かしを、聞きたいかい」

「うん。聞かせて」

「シュナイダー盗賊団のメンバーに警察が監視をつけていることは、だいたい予想がついていた。連続殺人の下手人が、次の標的を求めていつ現れないとも限らないんだから、まあ当然の措置だろう。そこへきみたちが乗り込んでいけば、警察としては話を聞きたがるだろうな……と思ったので、どんな状況になっても対応できるようにあのトラックを調達して、ラッセル氏の家の近所で待機していたんだよ。せいぜい、荷台の衣服を道路にぶちまけて、パトカーの追跡を阻むぐらいのつもりだったんだが、あのトラックがあんなにも役に立つとは思わなかった。きみは本当にラッキーだな、チェリー」

 ジェスの言葉を聞いているうちに、あたしは頭がくらくらしてきた。ふんわりした幻想はどこかへ消えてしまった。

「ちょっと待ってよ! 警察が待ち受けてること、初めから予想がついてたっていうの? それならそうと、どうして行く前に言っておいてくれなかったのよ?」

 ジェスはとぼけた顔で肩をすくめた。

「きみたちが自分で考えて決めた行動計画だ。第三者がとやかく口をはさむことじゃない。殺されたのはきみたちの大切な人なんだから。わたしとしては、きみたちの意思を最大限に尊重したかったんだよ。だから陰でこっそり援護に回ろうと思ったんだ」

「あのね~、ジェス。ひとつお願いするわ。今度から、なにか気がついたことがあったら、黙ってないで全部あたしたちに教えて。遠慮しなくてもいいから。わかった?」

 あたしはつい大声を出してしまった。周りを歩く人たちが驚いたようにこちらを振り返った。

 わかったよ、とジェスは誓いの言葉でも述べるみたいに片手を上げて答えた。

「でも、うれしいよ。それは、わたしをきみたちの仲間として認めてくれたということだ。そうだろう? 今後はきみたちと一緒に今後の行動を考えたり、協力して動いてもいいわけだ」

「まあ……そういうことになるのかな。よくわからないけど」

 ジェスが心底うれしそうに笑っているのがあたしには不思議だった。あたしたちみたいな、ただのちんぴらの仲間になれるってことが、どうしてそんなにうれしいことなの?

 楽しそうな口調を崩さないまま、ジェスは続けた。

「じゃあ、さっそく、気づいたことを話しておこうか。……わたしたちは、さっきから妙な二人組にずっと尾行されている。振り返るな! 中の一人は、ラッセル氏のアパートの近所でも見かけた男だ。おそらく警察ではないだろう」

 あたしはびっくりした。振り返るな、と言われたけど後ろを見たい衝動が強すぎて、首が引きつりそうになった。胸のむかむかするような恐怖が戻ってきた。

「えーっ、うそ……! まさか、犯人?」

 ジェスはうなずいた。

「そう考えざるを得ないようだ。まあ、心配しなくてもいい。連中はわたしがなんとか足止めするから、きみはこのままホテルへ戻れ」

「足止めするって……どうやって。武器は持ってるの?」

「荒っぽいことは、嫌いでね。わたしの武器はいつでもここさ」

 ジェスは指先で額をつついてみせ、ウインクした。

 そしてあたしから離れて、交差点にある花屋に向かった。店員に頼んで、花束を作らせてるようだった。色とりどりのリボンがいっぱいついた、花よりもリボンの方が多いように見える花束だ。

 あたしはどうしていいのかわからず、その場にぼーっと立ちつくしていた。

 やがて店から出てきたジェスは、そのままちょっと離れた場所にあるオープンタイプのカフェテラスへ歩いて行った。道路に面した丸テーブルに、恋人同士らしい若い二人が差し向かいで座っていた。男の人は体格が良く、服装がちょっと派手だ。ギャングの下っ端かもしれない。女の人はけっこう美人。二人はみつめ合い、テーブルの上で手を重ね合っている。

 ジェスはその二人に歩み寄った。快活な彼の声が、あたしにも届いた。

「まいど~。シャルマン花屋の者ですが。あの看板の陰に立ってる紳士から、この花をあなた様にお届けするよう頼まれまして」

 花束を女の人の手に押しつけたジェスは、北の方角を指さした。

 あたしもその方角を振り返った。レストランの看板の陰に、こざっぱりした服装の中年紳士が半分身を隠すようにして立っている。

 男の人がすさまじい表情でそちらを睨みつけているのに目もくれず、ジェスはポケットからメモらしいデータシートの切れ端を取り出した。

「あなた様宛てのメッセージも承っております。えーっと、『きみの美しい瞳を今夜はひとりじめしたい。華麗な花は香りを送る相手を選ぶべきだ。一緒に座っている貧乏ったらしいトンマ野郎はきみにふさわしい相手ではない。いざ、可憐な天使よ、わが腕の中へ……』」

 もっともらしい口調でメモを読み上げるふりをするジェス。男の人の顔が怒りで紫色に変わった。椅子を倒して立ち上がり、駆け出した。「落ち着いてよ、リグ!」という女の人の声が響いたけど、振り返りもしない。

 あっという間に看板の所まで達すると、男の人は中年紳士の胸ぐらをつかみ、振り回した。怒り狂ってわめき散らしている。人の女にちょっかいかけやがって、というようなセリフが道に響きわたる。無理もない話だけど、中年紳士はなにがなんだかわからないという表情をしていた。

 ああ、でもこの紳士――そう言えばさっき下町でも見かけたような気がする。ラッセルおじさんのアパートのある路地の入り口で、待ち合わせでもしてるみたいな雰囲気で立っていた。どこにでもあるタイプの目立たない顔なので記憶に残ってないけど、服装にぼんやり見覚えがある。たしかに、この人だ。下町からずっと、あたしたちを尾けてきたの!?

 男の人は紳士を完全に道路の隅に追いつめていた。その怒りは収まる様子がない。紳士にはとうぶん逃げ道はなさそうだった。

 一方、ジェスは花束を抱いて呆然としてる女の人から離れて、また北へ歩き始めた。その方角では、地味な灰色のコートを着た男が街頭テレビを熱心に見上げている。

 そう言えばあの男もラッセルおじさんのアパートの近所にいた。あたしたちを尾けてきた敵なんだ。

 ジェスはあの男をどう料理するつもりなんだろう。あたしになにか手伝えることはないんだろうか。

 そう思って、ちょっとためらった。

 だけどここはジェスの言葉に従うのがいちばんいいような気がした。あたしは早足でホテル・グランディオールへ向かって歩き出した。



 フリントもロニーも、もうホテルの部屋に戻っていて、ほっとしたような顔であたしを出迎えた。うまく刑事をまくことができたらしい。

 豪華な居間の、体を包み込んでくれるみたいに座り心地のいいソファに、あたしはへたりこんで目を閉じた。わずか十日ほど暮らしただけのこの部屋だけど、今じゃ『わが家』って感じがする。ここに戻って来ると本当に安心できる。

 あたしは、ジェスに助けられたいきさつと、犯人に尾行されてたことをふたりに話した。フリントの顔をさっと恐怖が横切った。

「犯人たちがラッセルおじさんもマークしてるってことか。もし監視の刑事がいなけりゃ、おじさんも……!」

「そう、そういうことだよね。警察も意外と役に立つじゃん? おじさんを守ってくれてるなんてねー」

 あはははっ、とあたしは軽薄な笑い声をあげたけど、それにはかなり努力が必要だった。

 膝に置いた自分の手をじっと見下ろすフリントの顔は、暗い雲に覆われたままだった。

「どうすりゃいいんだ。おれたちに……勝ち目なんてあるのかよ?」

「なに弱気なこと言ってんのよ、男のくせに!」

「いま思いついたんだけどよぉ、チェリー……もしラッセルおじさんの家から尾行されてたのが、おまえひとりじゃなかったら? ロニーかおれを尾けてた奴がいたとしたら? おれ、とにかく逃げるので精一杯だったから、後ろなんて全然気にしてなかったぜ。ひょっとするともう、犯人はこのホテルまで……」

「やっ、やーね! こわくなるようなこと言わないでよ~!」

 われながら引きつった声であたしが笑っているとき、ドアのチャイムが鳴った。

 やわらかい響きの、耳に心地よい音だ。

 だけどあたしたちは飛び上がった。

「――ルームサービスでございます。当ホテル特製ケーキをお持ち致しました」

 おだやかなボーイの声に、あたしたちは胸をなでおろした。

 フリントがドア越しに応対した。

「すみませんが、いま室内の空気成分を測定中ですので、ドアを開けるわけにはいかないのです。特製ケーキはまた別の機会に、ということで……」

「かしこまりました」

 ボーイは立ち去ったらしい。あたしたちはお互いに顔を見合わせて笑った。みんな、さっきの自分の怯えぶりがちょっと恥ずかしくなったのだ。

「バカみたいだよな、びくびくして……」

「ぼく食べたかったな、ケーキ。なんだか走り回ってお腹がすいちゃったよ」

「なに言ってるのよ。だめよ、ロニー。ジェスの留守中にボーイが来てもドアを開けちゃいけないって言われてるでしょ」

「おれも腹減った。この部屋、なにか食べ物なかったっけ?」

「もうっ。あんたら、いつも食べる話ばっかりね」

 そのとき。

 ロニーがすさまじい声で悲鳴をあげた。

 ベビーブルーの瞳を限界いっぱいまで見開いて、震えながらなにかを見つめてる。あたしの後ろにあるなにかを。

 ぞっとして振り返った。

 部屋のドアが開いてる。しっかり錠を下ろしてあったはずなのに。そして立ち去ったはずのボーイがいつの間にか居間の中に入り込んできていた。

 二人いる。

 一人は、けっこう整った顔立ちをした若い男。もう一人は三十七、八歳ぐらいの、幽霊みたいに青白い男だ。顔色の悪さを除くと不思議なくらい特徴がない。あとでこの男の人相を説明しろと言われたらきっと困ると思う。妙に目立たない、という点で、さっきあたしを尾行してきた紳士と共通するものがあった。

 ボーイの制服を着たこの二人の男は、完全に無表情なまま、まっすぐあたしたちに近づいてきた。

 フリントの恐れていた通りだった。彼か、ロニーが尾けられていたんだ、下町からこのホテルまで。こいつらは敵。ケインおじさんたちを殺した犯人の一味だ。

 こわさなんて感じてる暇はない。あたしの行動は本能的だった。

「このぉっ! 甘く見てるんじゃないわよ!」

 叫びざま立ち上がり、座っていたソファを、男たちの方へ思いっきり蹴倒した。続いて、手近なガラステーブルに乗ってるポットをつかんで、投げつける。湯気をたてて熱湯が飛び散った。

 男たちの姿が見えなくなった。

 次の瞬間、あたしのすぐ目の前に、若い男の顔があった。

「――!」

 悲鳴をあげる余裕もない。みぞおちの辺りに息の詰まるような衝撃を受けて、あたしは崩れ落ちた。辺りが真っ暗になって、もう何がなんだかわからない……



 ふと、意識がはっきりした。

 あたし、どれぐらい気絶していたんだろう。今あたしがいるのは書斎だった。背もたれのまっすぐな椅子に縛りつけられて座っている。同じように椅子に縛られてるフリントとロニーの姿も見えた。

 かなりひどく殴られたらしい。ロニーの顔は腫れあがって血だらけで、彼だと見分けるのに苦労するほどだった。きっとがんばって犯人たちに抵抗したんだろう。ロニーは甘えん坊だけど意外と勇敢なところがあるのだ。それに対してフリントは、左目の周りを腫れあがらせているだけで、ほとんど無傷に近いように見える。あんた……まさか無抵抗で縛られたわけじゃないでしょうね?

「質問がある。痛い目をみるのがいやなら、素直に答えることだ」

 フリントに向かって、若い男が言った。凶悪犯にしては驚くほどおだやかで、優しいとさえ言える声だった。

 あたしは偽ボーイたちの顔を見上げ、覆面とか変装とか素顔を隠すための努力を、こいつらが何一つしていないことに気づいた。

 あたしたちに素顔を目撃されたって、この二人は一向に構わないのだ。それが意味していることもすぐにわかったので、恐怖で吐き気がした。

「何もしゃべっちゃだめよ、フリント」

 あたしは叫んだ。声が震えるのをおさえられない。

「こいつら、どっちみち、あたしたちを生かしておくつもりなんてないんだから。ケインおじさんを殺した連中に、協力してやることない!」 

「勝気なお嬢さんだね」

 若い男が平然と言い、仲間に向かって顎をしゃくった。

 もう一人の男があたしの背後に立ち、なにか冷たい物を耳の後ろにぴたりと突きつけてきた。

「これから、おまえの目の前で、彼女の耳を一つずつ切り取る。次は鼻をそぎ落とす。それから、手足の指の爪を一枚ずつはがす。それから、指を一本ずつ切り取る。手足の関節を折ってから、最後に舌を切り取ってジ・エンド――というメニューになるが。どこで止めてほしい? 質問に答えれば、三人とも楽に死なせてやる」

 こっちを見つめるフリントの目に涙がいっぱい溜まっていた。鼻水も出てる。

 あたしは目を閉じた。膝がどうしようもなく震えていた。

 ケインおじさんやクラウディア姐さんの、すさまじい死にざまを思い出す。あんな残虐な拷問を、これからあたしたちも受けるのだ。逃げられない、手も足も出ない。ホテル・グランディオールの客室の防音は完璧だから、助けを求めてもだれにも聞こえないだろう。

 ああ、痛いだろうな~。こわいよ。

 こんな奴らにやられて、ひいひい泣き声あげるなんて嫌だけど、どこまで悲鳴を我慢してられるか自信がない。このまま耳を切られたら……!

 ほとばしるようなフリントの叫びが響いた。

「しゃべるっ。全部しゃべるよ。だから、チェリーにひどいことするのはやめてくれ」

「ばかぁぁぁっ……なに言ってんのよ、フリントの弱虫……!」

 あたしもいつしか涙声になっていた。耳元に突きつけられてる刃物の冷たい感触に、おそろしさでわけがわからなくなりかけていた。

 若い男はうなずいた。

「それでいい。ケイン・シュナイダーと同居していたおまえなら答えられる、簡単な質問だ。……シュナイダー盗賊団は、仕事の獲物の分配を、どのようにしていた?」

 思いもかけない質問に、フリントはこわさを忘れたのか、一瞬ぽかんとした表情になった。

「獲物の……分配?」

「そうだ。盗んできた物を、どうしていたかということだ」

 フリントはしばらく天井を睨んで考え込んだ。そしてゆっくりした、慎重な口調で答えた。

「たしか……現金は、妙な印がつけられてないかアジトで確認してから、仕事に参加したメンバーで平等に分けてたと思う。宝石や貴金属は、クラウディア姐さんが知り合いの業者んところへ持って行ってさばいてくる。証券は、コニー婆さんがさばくルートを持ってる。そうやって全部現金に換えてから、改めてメンバーに配り直すんだ。分け前をめぐってトラブルが起きたことはない。みんなクラウディア姐さんやコニー婆さんのこと信頼してるから……」

「宝石や貴金属を、直接分け前として分配することはないわけだな? すべて売りさばいてから、現金を分ける、ということか」

「ああ、そうさ。盗品は足がつきやすいから、さばくのはクラウディア姐さんやコニー婆さんといった幹部連中だけ、と決めてあったんだ」

「それで、宝石や貴金属は、どこへ流していたんだ?」

「し……知らない。それは、クラウディア姐さんしか……」

 フリントは怯えた表情で口ごもった。

 あたしには彼の気持ちがわかった。「知らない」と答えたら、とたんにこいつらがあたしの耳を切り落とすかもしれない。フリントはそれを恐れているんだ。

 若い男は眉ひとつ動かさなかった。

「質問を変える。シュナイダー盗賊団の最後の仕事についてだ」

 フリントがごくりと唾を飲み込んだ。彼の喉仏が大きく動いた。

 あたしたちはシュナイダー盗賊団のメンバーじゃない。ただの使いっ走りなのだ。仕事のルールや仲間うちの掟については聞きかじりで少々知ってるけど、具体的な仕事のことなんてちっともわからないよ。どこへ侵入したか、何を盗んだか――そんなこと訊かれたら、お手上げだ。

 恐怖が心の中にふくれ上がってきた。《死》がいよいよ目前に迫ってきてる、フリントにもあたしにもそのことがわかった。あたしたちは息をつめて質問を待った――。

 けたたましいベルが脳天を貫いた。

 とにかくすさまじい音だった。

 あまりに思いもかけない展開に頭の中が真っ白になったので、それが火災警報ベルであると気づくのにしばらくかかった。

 うるさいベルの響きの中、天井から突き出してきたスプリンクラーが細かい水粒を書斎じゅうにまき散らし始めた。

 偽ボーイたちは、少しあわてた様子で辺りを見回した。

「火事だと? いったい、どこで……」

 そのとき書斎のドアが開いて、ジェスの顔がのぞいた。筒みたいな物が投げ込まれたと思うと、ドアはすぐにぴたりと閉まった。筒は書斎のなめらかなカーペットの上を転がっていく――突然、筒の両側から、すごい勢いで煙が噴き出してきた。発煙筒だったのだ。

「うわあ、なんだ、これは……くそっ!」

 若い男は発煙筒をつかもうとしたけど、どこにあるのかわからないみたい。すでに部屋じゅうが白煙だらけになってしまっていたからだ。目の前は真っ白。なにも見えない。

 書斎のドアのすぐ外で、ジェスが叫んでいる声が聞こえてきた。

「こっちだ……火元は、この書斎だ……突入しろ! 早く!!」

 重い機械が動くような音が響いた。ドアを打ち壊したらしい、どしーん、という鈍い音も聞こえた。やがて煙を割ってあたしのすぐ前に現れたのは――ずんぐりした、背の低い火災対策用ロボットだった。頭のてっぺんにあるセンサーがくるくる回転している。本当なら高熱を感知して火災の位置をロボットに教えるはずのセンサーなのに、故障してるようだ。あたしの横からもロボットが現れた。部屋のあちこちでロボット同士が衝突してるらしい、どしん、ずしんという金属音が聞こえてきた。ホテル中の火災対策用ロボットがこの書斎に集まってきてるみたいだ。

 すごい騒ぎになってきた。

 急にどこからか冷たい風が吹き込んできた。だれかが書斎の窓を開けたらしい。煙が窓から外へ吸い出され、だんだん書斎の中の様子が見えるようになってきた。思ったとおり、書斎には六台ものロボットがひしめいていた。どのロボットのセンサーもくるくる回っている。

 偽ボーイたちの姿は、消えていた。

 壊れたドアから、ジェスが身軽に入ってきた。順番にあたしたちの手足のいましめを切り、椅子から解放してくれた。

「ホテルに戻ってみたら、部屋の前の廊下にカートが置きっぱなしになってるじゃないか。これは何かあったな、と思って、ホテルの施設管理システムにちょっといたずらをして、火災警報を出させたんだ。そして、集まってきた火災対策ロボットをここへ突入させた。センサーを壊した上でね」

「あいつらは、どこへ……?」

 あたしの声はまだ震えていた。ジェスは窓を指さした。

「そこから逃げたんだろう。もうすぐホテル中の人間が集まってくる。顔を見られたくはないだろうからね」

 おそるおそる、窓から顔を突き出してみた。窓のすぐ横にワイヤーロープがぶら下がっていた。これを伝って、屋上へのぼって行ったんだろうか。あたしも見上げてみたけど、もう男たちの姿はとっくになかった。

「――さあ、逃げるぞ、わたしたちも。ホテルの人間にあれこれ質問されると面倒だ」

 元気よく、ジェスが促した。

 あたしはジェスの顔を見返した。

 こわかった。本当に、こわかった。殺されると思った。助けに来てくれたジェスの顔が神様みたいに見えた。「こわかったよー」と叫びながらジェスにしがみついて泣き崩れたかった。もう大丈夫だよ、と背中を叩いて慰めてもらいたかった。

 だけどもちろん、そんなことしてる場合じゃない。ジェスのきっぱりした態度が、そのことを優しくあたしに教えていた。

 あたしたちは、ロボットに埋め尽くされた書斎を出て、走り始めた。

 再び、あてもない逃亡の旅へ。

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