第3章(2) アンドレア・カイトウ署長
グレタ・リーベルトは年齢五十八歳。針金のようにやせこけ、背筋をぴんと伸ばした非常に潔癖そうな女性だ。自分にも他人にも厳しい生活態度が顔立ちにも表れている。
男爵邸に勤めるようになってもう四十年以上になる。有能かつ勤勉、責任感が強く、男爵夫人にとっては手放せない存在だ。男爵夫妻に対する燃えるような忠誠心をもって仕えている。
知的で、信念に満ち、清廉潔白。なかなか手ごわい相手だ。
ぼくは警官を男爵邸に派遣し、彼女が目撃したという男について訊きたいことがある、という口実で彼女に署までの同行を求めた。そして九階にある取調室のうち、空調と照明素子の調子が悪いため業者に修理を依頼してある部屋に通させた。
ちらちらと不安定な光を放つLE。空調のきかない薄暗い部屋は、この季節ではおそろしく寒くなるはずだ。
その部屋でリーベルトを約五時間ひとりで待たせておいた。取調室の表には警官を配置し、彼女を絶対に部屋から出すなと厳命しておいた。
五時間後、ぼくは取調室に入っていった。
リーベルトは極限に達した緊張と不安とで、顔をこわばらせていた。細い目が吊り上がっている。いきなり警察に連れて来られ、暗くて寒い取調室になんの説明もなく五時間も閉じ込められれば、普通の市民ならパニック寸前になる。
彼女はぼくの姿を見て、なにか言おうと口を動かしかけたが、声が出てこないらしかった。
ぼくはそんなリーベルトににっこり微笑みかけた。気づかうような、誠実であたたかい微笑み。(これもぼくの得意技のひとつなのだ)
「ずいぶん長い間、不自由な思いをさせましたね、ミス・リーベルト。ぼくは署長のカイトウです」
「あ……」
リーベルトの瞳に涙が湧きあがってきて玉となった。一気に緊張が溶けたらしい。
しかし、さすがに厳格で有能な女性らしく、そのまま泣き崩れるような真似はしなかった。目をしばたかせて懸命に平静を取りつくろおうとしながら、
「どういうことなのか、説明していただきたいですわ。私は何も悪いことはしていないのに、まるで犯人みたいに、こんな所に長いこと閉じこめられて……」
「あなたが目撃したという男の身元を確定するのに、今までかかってしまったんですよ」
優しい微笑みを崩さないまま、ぼくは彼女の顔面に言葉の刃を突き立てた。
彼女の抗議の流れが不意にやんだ。彼女は息を詰めてぼくをみつめていた。
ぼくは言葉を続けた。相手の顔から一瞬も視線をそらさずに。
「まったく架空の人間の顔をでっち上げるのは、意外と難しいんですよ。適当にでっち上げているつもりでも、見たことのあるだれかの顔を無意識のうちに描写している……そういうことがよくあります。あなたの場合は、TVで見た古い映画の悪役俳優でした。あなたの家のテレビ視聴記録を調べたんですよ。警察に出頭して合成顔写真を作成する前日に『黒い欲望』という映画を見てますね。その映画の出演俳優のひとりが、あなたが作成したモンタージュの男とほぼ同じ人相でした」
しばらく間を置く。彼女にとってこの沈黙は耳に痛く感じられたはずだ。
「ハニールウ・トラビスをいつも迎えに来ていた男がいたなんて、嘘なんでしょう? 大昔の俳優がまだこの辺りをうろうろしているとは考えにくいですからね。あなたは架空の男の人相をでっち上げようとして、TVで見た俳優のモンタージュを作ってしまったんです」
リーベルトは動かなかった。指の関節が白くなるぐらい自分の膝をぎゅっと握りしめている。唇が震えている。
極度の緊張から安堵、という急激な精神状態の変化を経た後なので、この程度の揺さぶりでも彼女の鉄壁のガードを崩すのに十分だったようだ。ぼくは歩み寄って、近くから女中頭の顔をのぞき込んだ。そしてできるだけしずかな、優しい声でとどめを刺した。
「隠し立てするとますます立場を悪くするだけですよ、ミス・リーベルト。あなただけじゃなく、あなたの雇主であるグラッドストン男爵の立場もね。……本当のことを話してくれますね?」
リーベルトはこっくりうなずいた。その目に、再び涙が溜まり始めていた。
彼女の口から引き出せた事実は以下のとおりだ。
ある日、小間使いのハニールウ・トラビスが急に出勤して来なくなった。本来であれば西区のスラム出身の小娘など絶対に雇ったりはしないのに、篤志家のジェローズ侯爵夫人の熱心な推薦があったもので採用した娘だ。それだけのことはあって、厳しいリーベルトの目から見てもハニールウの勤めぶりはまじめで満足のいくものだった。だからこそ、この無断欠勤は非常に奇異に思えた。
ハニールウがいかがわしい男とつき合いがあったかのように偽証しろ、と彼女に指示したのは執事のロシュフォルだった。
「あの娘がなぜ急に仕事に来なくなったか、本当のところはわからないが……そんな無責任な小間使いを雇っていたとなれば男爵様の体面にもかかわる。世間知らずのうぶな娘がおかしな男に引っかかった……そういうことにしておくのが無難だろう」
いまひとつ飲みこめないものがあったが、リーベルトはうなずいた。
男爵邸におけるロシュフォルの権威は絶対的なものであったからだ。邸内のこまごました事柄は男爵に代わってこの執事がほとんど取りしきっているといっても過言ではない。
それに『男爵様の体面にかかわる』という言葉が魔法のように彼女を縛りつけた。
ぼくがリーベルトを刑事に任せて取調室を出ると、すぐ外に特務課のジョー・ブレア警部補が腕組みをして立っていた。
「さっき署長があの女におっしゃってたこと、本当なんですかぁ? ……合成顔写真が映画俳優の人相に一致した、という話」
髪をかき上げ、けだるい口調でブレアは尋ねた。どうやら隣室でぼくらのやり取りを聞いていたらしい。
ぼくは肩をすくめた。
「一部は本当だ。彼女の家のテレビ視聴記録を調べ、彼女が『黒い欲望』という映画を見たことを確認した。そこまでかな」
「そこまでしか本当じゃないんなら、それは本当とは言えませんね。だましたんですかぁ、あの人を」
言葉は悪いがそういうことになるな、とぼくは答えた。
該当する人間がいる可能性がきわめて低いのに、リーベルトが顔写真を作成するときに無意識に参考にしたかもしれない男を探して、過去数日間の視聴履歴をすべてチェックするなど非現実的だ。ハッタリをかました方が早い。
歩き始めたぼくを、ブレアのハイヒールの靴音が追ってきた。
窓のない九階の廊下は陰鬱な雰囲気に閉ざされている。
「署長のでまかせで、あんなに追いつめられて。ちょっと可哀相でしたよぉ、あのリーベルトって人」
背後から再び響いたブレアの声には非難と、読み取るのが難しいなにか他の感情が含まれていた。
「彼女は警察に虚偽の情報を提供したんだ。同情の余地はない。……もっと厳しい手を使ってやってもよかったぐらいだ」
ぼくは振り返らずに答える。背後の鋭い靴音はまるで追い立てるように響く。
「署長のムチャクチャにはわたしたちも慣れてますけど。ときどき、そばで見てて怖くなります」
「『怖い』、って?」
「署長は怖くならないんですかぁ。世の中にはきっと、因果応報ってものがあると思うんですよ」
ぼくは振り返り、自分の目線より高い位置にある化粧の濃い顔を見やった。
「――迷信なんて、らしくないな、ブレア。因果応報が通用しないからこそ、ぼくたち警察の出番があるわけだろう」
その日、ぼくが執務を終えて署長室を出たのは真夜中近くだった。
警察本部ビルの一階ロビーも、この時刻になると人影が少ない。だれも目にとめる者がいないまま、壁面のディスプレイから大量の情報と映像が吐き出されている。
玄関扉を出たぼくに向かって、
「……今日は何人殺しました、署長?」
柱の陰からぬっと顔を出した三十代半ばの男が、挑戦的に笑いかけた。
砂色の短い髪。知的な容貌。そこそこ高価そうだがくたびれているスーツ。
あまり会いたくない相手だった。――疲れている時には、なおさらだ。
「あいにく、今日はだれも殺してないよ。わざわざそんなことを調べるためにこんな時刻まで夜回りとは、新聞記者も大変だな」
ぼくは男の横を歩き過ぎた。
男の名前はクリス・ポーキー。ぼくを批判するキャンペーンを大々的に展開している市内随一の大新聞パールシー・タイムズ紙の記者だ。犯人の人権がどうのこうのと、記者会見のたびにいつもいちばん大騒ぎするのがこのポーキーだ。
どうやら、ぼくが出て来るのをずっと待ち構えていたらしい。ポーキーはぼくの後ろをついて歩きながら、似合わない猫なで声を出した。
「こんな時間じゃ、もう公用車の運転手も帰っちゃってるでしょう。よろしければ私の車でお宅までお送りしますが?」
「……気味が悪いな。何が狙いだ」
「内密に署長とお話ししたいことがあるんですよ。ま、善良な市民による情報提供とでも考えていただければ」
「もっと気味が悪いな。『情報を共有する』なんて言葉はきみらブン屋の辞書にはないはずだ。善良な市民なんて柄じゃないだろう」
「最近グラッドストン男爵に興味をお持ちのようですね。どうです?」
ぼくは足を止めて記者を振り返った。
ポーキーは目を光らせてぼくを見返していた。如才ない笑みを浮かべてはいたが、その目はちっとも笑っていなかった。
ぼくは溜め息をついた。
「……警察病院まで送ってもらおうか」
「なんです。こんな夜遅くにお見舞いですか?」
ポーキーは驚きの声をあげたが、特にそれ以上追及するでもなく、ぼくを地下駐車場にある自分の車まで案内した。
車は冷えきった夜の大気の中へすべり出した。
記者は慣れたドライバーらしく、一般道からミドルウェイ、ハイウェイへの上昇をスムースにこなした。深夜でも交通量の多い内周ハイウェイに車を乗せてから、ポーキーは口を切った。
「私、いろいろあって、ここ数週間ほど男爵邸をマークしてたんですよ。そしたら、昔いたトラビスっていう小間使いの件で警官が質問に来るし、今日はいきなり女中頭のグレタ・リーベルトが引っ張られるじゃありませんか。どうやら今回の一件では署長が直接動いてるらしい、と聞けば……こっちも心穏やかではいられませんわな?」
「情報を提供するのは、そっちの方だったはずだぜ」
ぼくはポーキーを睨んだ。
「グラッドストン男爵に、なぜ関心を持つ? 男爵ははっきり言って貴族としては三流どころだ。領地だってクールドの僻地にあるし、家柄も財産も大したことはない。男爵の身辺のスキャンダルを暴いたところでパールシー・タイムズの発行部数の伸びにはつながらないんじゃないか?」
「そう……おっしゃる通り。たしかに男爵は下っ端です。でも野心のある下っ端なんですよ。大物貴族の仲間入りをして、王国政府で高い地位に就きたい……そのためにまず、有力貴族とお近づきになって顔を売りたい……と、ありとあらゆるつてを駆使して社交界の重要な会合に顔を出しまくってます」
「珍しい話じゃないな、田舎貴族としては」
「ええ、そこまではね。でも男爵邸の人間が最近足しげく西区のスラム街に出入りしてる、というのは……? あやしげな店で評判の悪い連中と話しこんでるところを、よく目撃されてるんですよ。それが私のアンテナに引っかかったというわけでして」
ポーキーはそこでちょっと間を置き、次に来るせりふが重要であることを示した。
「一度なんか男爵自らスラム街に出向いたことがあるんですよ。カタギの人間なら絶対に近寄らないような感じの、《胃憩室》というクラブに入って行きました。……そもそも西区は貴族が足を踏み入れるような所じゃありません、いくら三流の貴族でもね」
車はしばらくミドルウェイを走ってから一般道に降りた。
しばらく沈黙を守ってから、ぼくは言った。
「きみが男爵をマークしている理由はよくわかった」
「そうでしょ?」
「わからないのは、なぜそれをわざわざぼくに話すのかということだ。ぼくのやり方に対して、きみらはいつも批判的じゃないか? それに、うまくすれば特ダネになる情報を他人に教えるなんて、きみらしくもない。センセーショナルな独占記事を書くためなら命も賭けるんじゃなかったのか」
「……」
ポーキーが答えるまでに少し間があった。
暗くてやつの表情がよく読めない。車は病院や学校の多い文教地区を走っており、この時間帯にはほとんど明りがともっていないからだ。
「男爵の動きの裏には、なにかとてつもなく大きな物がある。……ってのが記者としての私の勘なんですよ。今回あなたが動き出したことで、その勘が裏づけられました。署長が動くと、たいていとんでもない大事件に発展していきますからねぇ、こないだの《ベスケット》号の一件みたいに……」
「《べスケット》号のエンジンが爆発したのは事故だ。航空調査委員会もそう結論を出した。いくらテロリストどもが乗ってたからといって、ぼくが墜落させたわけじゃない」
「ふふ、まあそういうことにしておきましょうか。私としちゃあ、男爵の件をあなたがどう料理するのか、早い段階からずっと観察してみたい……と思ったわけなんですよ。私が自分で調査して記事にするより、断然おもしろい展開になりそうだ。まあブン屋の好奇心と呼んでもらってもいいですが」
「好奇心か。記事のためなら警察でも利用する、というわけか?」
「仕事ですからね」
「きみらはいつも、ぼくが犯罪者の人権を蹂躙しているといって批判する。それなのに記事を書くためなら、ぼくを動かして、起こるかもしれない暴力や人権蹂躙も容認しようっていうのか。きみの言う『おもしろい展開』というのはそういうことだ。そうじゃないか? ――きみはもう少し信念のある人間だと思っていた。きみの甘っちょろい人権第一主義も、徹底している分、それなりに評価していたのに。記事が書ければいい、新聞の売上げが伸びればいい……その程度の記者だったのか」
「信念、ですか……?」
ポーキーの声の調子が不意に変わった。
「言論の力で私なりの正義を実現する、それが私の信念です。世の中の不正を白日の下に晒し、陰でのさばってる悪人を叩く。そのためなら多少イレギュラーな手段も厭いません。……ちょうどあなたが、法律をぎりぎりいっぱいまで悪用して犯罪者を虐殺することによって、ご自分の正義を実現しているのと同じことですよ、署長」
ひどく、真剣な声だった。作り笑いはもうどこかへ消えてしまっていた。
車内は暗かったが、ポーキーが食いつかんばかりの激しい瞳でこちらを注視していることは察しがついた。
ぼくは黙っていた。記者は言葉を続けた。
「あなたの気持ちだってそりゃあ、わからなくはない……たしか十三年前でしたね? お母様があなたの目の前で街のちんぴらに刺され、脊髄を損傷して、全身麻痺の身になられたのは。あらゆる犯罪者を撲滅するとあなたが思いつめたとしても責められることではない。それがあなたの正義なんでしょう。問題はただ、その方法です」
「……余計なことまで調べ過ぎてるようだなパールシー・タイムズ。その労力をもっと社会のためになる方向に使ったらどうだ?」
ぼくは、やつに対する殺意が声ににじむのを懸命に抑えながら言った。ぼくを怒らせるには母の話題を持ち出すのがいちばん早道だ。それがどんな結果をもたらすか、この男に教えてやってもいいかもしれない。
警察病院の黒々としたシルエットが近づいてきた。
「あなたに情報を提供するからといって、あなたの無法な捜査方法を容認してるわけじゃないんです。ただ今回の件に関しては……正直言って、私、ちょっと怖いんですよ。今のこの街の現状……王党派と反王党派の対立、クーデターの噂、王国からの独立を目指す政治運動、そしてなにもかもぶち壊してやりたいと願ってる大勢の貧困層……ものすごい緊張だ。少しでも誤った刺激を与えたら大爆発ですよ。下手すると、火薬庫に火を投げ込むようなことになるかもしれない。そんな予感がするもんでね」
車が病院の玄関前で止まった。
ぼくは降りながら、最後にもう一度だけ記者の顔を見やった。
「……きみはいささか空想力が強すぎるようだな。まあ、針の先ほどの事実を膨らませて派手な記事に仕立てあげる仕事には、その空想力が必要なんだろうが。グラッドストン男爵の動きも、じつは意外と大したことじゃないのかもしれないぜ?」
しかし、ぼくは記者の不安を本気で笑ったわけではなかった。
クテシフォン全市によどむ不穏な空気、重苦しい緊張――。まともな人間ならそれを感じずにいることは不可能だった。しかもその緊張感は年々強まっている。
パールシー王国は昔から、政治的には非常に不安定な国なのだ。特にそれが強く表れるのが、自由都市でありながら王国政府の統制をも受ける首都クテシフォンというわけだった。
ぼくは警察病院のロビーに入った。
もちろん正規の面会時間などとっくに終わっている。でもどうしてもハニールウ・トラビスの顔を見ておきたい、と思ったのだ。
彼女は眠っているはずだ――看護師がひとこと「朝までぐっすりお休みなさい」と言うだけで、たちどころに深い睡眠に落ちて朝まで目覚めない有様だから。
この真っ暗で曲がりくねっていて複雑怪奇な街では、ぼくもときどき進むべき道がわからなくなることがある。
ハニールウの顔を見ればまた自信を持って歩き出せる。そんな気がしていた。