第3章(1) アンドレア・カイトウ署長
ぼくがそのアパートメントの奥の部屋へ踏み込むと、年のころ五、六歳の女児があどけない顔でこちらを見上げていた。
頬は汚れているし、長い金髪はからまって、もつれている。この十日間着替えもしてもらっていないに違いない、というのは、姿を消したときに着ていたと両親が証言したのとまったく同じ服装をしていたからだ。それでも、血色は良く、健康状態は悪くなさそうだった。
ぼくは女児に微笑みかけた。
「きみはマーゴ・ラインスバッハだね」
「……おにいちゃん、だれなの」
怯えの色濃くにじんだ声。
「ぼくは警察官だ。きみを助けに来たんだよ」
「マーゴを……たすけてくれるの。こわかったよ。はやくおうちへかえりたい。ママにあいたいよ」
女児は駆け寄ってきて、もう二度と離さない、といわんばかりに力をこめてぼくの手を握りしめた。
この小汚い子供は、国際企業インターギャラクシー・コマース社のパールシー支店長の令嬢なのだ。十日前に誘拐され、自宅に身代金を要求する連絡が入った。犯人の居場所をつきとめる手掛かりはなく、捜査は暗礁に乗り上げていた。
誘拐犯のアジトが北区のこのアパートメントにあることを知らせてきたのは、ぼくの古い友人のひとりだった。
警官隊を送り込んでもよかったのだが――偶然というべきか、そのアジトは、ぼくがそのとき会議に参加していた内務省分室のすぐ近くだったのだ。人質の救出は一刻を争う。増援を待つよりぼくがひとりで行った方がいいだろうと判断して、内務省からこのアパートメントへ直行した。その判断は正しかったようだ。とにかく人質を無事に確保できたのだから。あきらかに築三十年以上は経過している灰色の建物の四階。間口の狭い没個性的な居住区のひとつ。そのいちばん奥の、ほとんど物置といってもいいような小部屋にマーゴは閉じ込められていた。
「ぼくがいいと言うまで、目をつぶっているんだよ、マーゴ」
なるべく優しく言い聞かせ、彼女の手を引いて居間へ出た。最低限の調度品しかない殺風景な居間にはぼくが撃ち倒したばかりの二人の犯人が虫の息で転がっている。そんな光景を幼い子供に見せるわけにはいかない。居間を通り抜け、玄関へ通じる短い廊下へ出たとき、玄関の扉が外から開かれて袋を抱えた若い男が入ってきた。
男の反応は素早かった。
室内の状況を一瞬で見てとると、なんのためらいもなく袋を手から離した。床に落ちた袋はけたたましい音をたて、開いた口から缶詰だの補助栄養剤チューブだのをまき散らした。
ジャケットの懐から銃を半ば引き抜きかけたところで、男の動きは静止した。ぼくの銃がぴたりとやつに狙いをつけていたからだ。
一触即発の状態のまま、ぼくらはしばし睨み合った。
「……人質を殺害せずにおいたのは、誉めてやる。だからおまえに生き延びるチャンスをやろう。銃を捨てろ。そうすれば、生きたまま署に連行してやるぜ」
マーゴを背中にかばって、穏やかな口調で言った。ぼくの使っている単語が難しすぎて彼女には理解できないことを祈りながら。
男は凍りついたように動かず、じっとこちらを凝視していた。
その黒い眸が激しく揺れている。めまぐるしく頭の中で計算をめぐらせているらしい。勝負に打って出るべきかどうか、考えているのだ――やつはすでに銃を手にしていて、あと五インチほど持ち上げるだけでぼくを狙うことができるのだから。
ぼくがこの男なら、間違いなく勝負に出るだろう。
すばやく玄関の外へ飛び出して扉の陰に身を隠せば、簡単に有利な位置を手に入れることができる。こちらはたった一人だし、おまけに人質を連れていて動きがとれない。楽なターゲットに見えるはずだ。
微妙な視線の動き、息遣いの変化、筋肉の緊張。
男が攻撃態勢に入ったのがぼくには感じとれた。
撃ってくるのはわかっていたが、避けなかった。すぐ背後にマーゴが立っていたからだ。彼女を危険にさらすわけにはいかない。一歩も引かずに廊下の真ん中に立ち、男が発砲するのとほぼ同時にぼくは引金をひいていた。
銃の射線はぼくの身体から十インチの距離のところで消滅する――それがあらかじめわかっていても、敵の銃口にまともに身をさらすのはあまり気分の良いものじゃない。すべての外勤警官が装備するARFジェネレータ。そこから発生する高エネルギー波偏向フィールドが、あらゆる増幅光線攻撃を無効化する。《中央》が後生大事に隠匿している古代地球文明のレムナント・テクノロジーの、ほんの一端というわけだ。
もっともARFにもそれなりの限界がある。
そのひとつが、至近距離で発射されてあまり拡散していない強い光線だと、完全には防ぎ切れないということだ。
ぼくは、ビームが左腕の肉をほんのわずか焦がして通り過ぎた熱い痛みを感じながら、自分がまた死にそこなったことを知った。
男は狙いを外したが、ぼくの方は外さなかった。発砲すると同時に身をひるがえして扉の陰へ飛び込もうとしていた相手の、肩のつけ根から右腕を丸ごと吹き飛ばした。鮮血が天井にまでほとばしった。男は目に見えない大きな足に踏み潰されでもしたように床に倒れ伏した。
ぼくの左手を握っているマーゴの手がぎゅっと締まった。
「おにいちゃん、おにいちゃん、どうしたの。もう目をあけてもいい?」
握りしめてくる小さな手から震えが伝わってくる。
ぼくは絶叫しながら床を転げ回る男を見下ろして、可能なかぎり穏やかな声で答えた。
「いや、まだだめだ。早くこの部屋を出よう」
――ふだんなら、ぼくに銃口を向ける犯罪者は、即座に頭を吹き飛ばしてやるところなんだが。人質が無傷だったことに免じて、腕一本で済ませてやったのだ。
アパートメントの建物を出ると、おだやかな午後の日差しに照らされて、どちらかというとさびれた感じの閑静な街並みが広がっていた。低層住宅と工場・倉庫街の同居する古い街だ。煉瓦の敷き詰められた舗道には人影はない。
ぼくが交差点の公衆端末で署に連絡を入れているあいだ、マーゴはまぶしそうに青空を見上げ、ひさしぶりの自由を満喫するかのように何度も深呼吸をした。
「ねえ、おにいちゃん」
彼女の呼ぶ声に、ぼくは振り返った。マーゴは曇りのない青い瞳でまっすぐこちらを見上げていた。
「おにいちゃんって、もしかして、天使なの?」
あまりに唐突な質問に、ぼくはつかの間返答に窮した。
「いいや、違うよ。なぜそんなことを?」
「だって、マーゴの持ってる絵本に出てくる天使、おにいちゃんとそっくりなんだもん。それにね、マーゴのこと、助けに来てくれたでしょ。天使はいつも人間をまもってくれるんだよ」
ぼくはちらりと笑った。
アパートメントの四階の部屋に転がっている、あと二十分以内に手当てを受けなければ確実に失血死するであろう犯人たちのことを考えながら。
公務員として初めて、大新聞パールシー・タイムズ紙で「民衆の敵ナンバーワン」に指名された。ぼくはそういう人間だ。彼女以外のだれも、ぼくを天使などとは呼ばないだろう。
「――きみの天使が、ぼくをここへ遣わせたのかもしれないな」
ほんの数分もしないうちにパトカーと救急隊が到着した。しずかだった住宅街が急に騒然たる空気に包まれた。犯人たちとマーゴは救急用エアクラフトで病院に搬送され、警官たちが現場の確保のためアパートメントの中へ消えて行った。ぼくを病院へ連れて行こうとする救急隊員と押し問答をしていると、見覚えのある黒いスポーツカーが滑って来て、ぼくのすぐ目の前で停車した。
ハイヒールの靴音を高く響かせて、非常に背の高い人影が車から降り立った。
「もぉっ。こんな所で、なに遊んでるんですか。署長が会議の途中でいなくなったと内務省から連絡があったもので、ずいぶん探したんですよぉ」
けだるく言って、艶やかな黒髪をかき上げる。
特務課のジョー・ブレア警部補は、黒目がちの大きな瞳でじっとぼくを見つめた。
「遊んでるわけじゃない。現場を掌握するのも管理職の務めだ」
「またまたぁ、そんなこと言って、ほんとは暴れたかっただけなんでしょ? まったく血の気が多いんだから。……あ。怪我してますね。撃たれたんですかぁ。どうせまた、なにも考えずに、真正面から突入したんでしょう」
「『なにも考えずに』は余分だ。署へ戻るから、車を回してくれ」
特務課の連中はだいたい、上司に対する口のきき方というものを心得てない。このブレアは、特にそうだ。
ジョー・ブレア警部補は、仕事熱心で頭も切れる、優秀な捜査官だ。銃の腕も立つ。おまけに署内ナンバーワンの怪力の持ち主で、テンシル鋼で補強された扉さえ一撃で蹴破る。女らしさをことさらにアピールする服装やあでやかな物腰からは、とてもそんな剛腕ぶりは想像できないが。
「ハニールウ・トラビスの消息がわかりました」
車をふわりと浮上させながら、ブレアが口を切った。
「七、八年ほど、グラッドストン男爵邸で小間使として働いていたようです。仕事ぶりはまじめで勤勉だったそうですが、先月突然無断欠勤し、そのまま姿を消しました。姿を消す数週間前から、勤め帰りに柄の悪そうな男が男爵邸の前まで迎えに来ていることが多かったという話です。それで、次に姿をあらわした所はといえば、東区・ハールーン街の『プラシッド』という売春クラブ。彼女、今はそこで働いてます。……まあ、よくある話ですわね」
ぼくはしばらく答えなかった。まさか彼女がそんなことを、と抗議するほど純真じゃない。人間というやつは何をしでかすかわからない、それがこの世の真実なのだ。
「『プラシッド』といえば……風俗課の方で、強制捜査をやりたいと言ってたところだな。女たちを麻薬漬けにして客をとらせている疑いが濃いという……」
「ねぇ署長。このハニールウって娘、署長の何なんですぅ? もしかして昔の彼女とか?」
そう尋ねる声に奇妙なほどの真剣味がこもっているように聞こえたので、ぼくは思わずやつの横顔を見直した。ブレアは前方を見据えたまま不自然な頻度でまばたきをしていた。
そんなのじゃない、とぼくは答えた。
彼女はただの幼なじみ。
最後に会った八年前には、誇り高く正直で、人生をまっすぐに歩いていく姿しか想像できなかった幼なじみだ。
しかし、だからといって特別扱いするつもりはない。通常の業務の範囲内で処理するだけだ。
その日のうちに、ぼくは風俗課に『プラシッド』の強制捜査の許可を出した。
『プラシッド』強制捜査の結果について、翌日ぼくは署長室のデスクトップで確認してみた。風俗課から初期報告が出ている――踏み込んだ際の経緯と押収物一覧。連行された店の経営者と従業員の氏名・顔写真。初期報告なのでデータはその程度だ。
ぼくは女たちの顔写真を順番に眺めていった。
ハニールウ・トラビスは、最後に会った時とずいぶん印象が変わっていた。少しやせ、髪を伸ばし、そばかすを化粧で上手に隠していた。二十三歳という年齢相応の大人の女性になっていた。
写真の下にはただ『ハニールウ』とだけ書かれ、姓は書かれていない。
――麻薬反応なし。現在、警察病院にて入院加療中。
「どういうことだ、入院加療中とは?」
ぼくは風俗課の担当者を呼び出して質問してみた。
担当者は困惑の表情で肩をすくめた。
「様子がおかしかったんです。動かないし、ひとこともしゃべらないので、ぼんやりしているのかと思えば、こちらがなにか言うと気味悪いぐらい正確に従う。たぶんストレスでおかしくなったんでしょう。それでとりあえず病院に送って処置を任せました。栄養状態も良くありませんでしたから」
ぼくはスケジュールの合間を縫って、警察病院に様子を見に行くことにした。たとえルティマ助祭にハニールウが売春婦になり果てたことを報告しなければならないとしても――ぼく自身の目でたしかめたことを率直に話そう、と思ったからだ。
ハニールウの個室は病院の四階にあった。
彼女はベッドの上にひどくおだやかな表情で腰かけていた。部屋に入ってきたぼくを見ても、何の反応も示さない。
「ハニールウ……。わかるか、ぼくのこと? アンドレアだよ」
「アンドレア……わかる……?」
彼女の声は異様なほど不鮮明だった。まるで壊れかけた電子頭脳みたいだ。
あきらかに、ぼくを見分けた様子はない。どころか、ぼくの言葉さえ理解できていないようだった。水面に起こったさざ波がやがて消えていくように、ハニールウの顔もまた元の無表情に戻った。その顔には、人間らしい生き生きした感情のかけらも見られない。彫像のようなおだやかさ。
「我々はこういう状態を『受動性』と呼んでいますがね。お見せしましょう。ハニールウ、片足で立ってごらん」
担当医が彼女に声をかけた。
ハニールウは即座にベッドから立ち上がった。両腕を横に大きく広げてバランスをとり、片足を上げる。その不安定な姿勢のまま、彼女は黙ってじっと立っていた。
なにも言わない。その顔は無表情のままだ。
五分が経過した。ハニールウは動かない。片足を上げたままじっと立っている。
「よし。ハニールウ、きみは疲れただろうから少し眠るんだ。一時間ぐらい、な」
担当医が命じると、ハニールウはすぐにベッドに潜り込んで横になり、瞳を閉じた。三秒とたたないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
医師はぼくを振り返って、
「彼女には自分の意思というものがまったくないかのようです。他人の意思をそのまま受け入れるのです。指示されればどんなことでも従順に従う。指示されなければ自分からは何一つしようとしない。……食事も排泄も睡眠も看護婦が指示してさせています。もし指示されなければ、食べず眠らず排泄もせず、そのままじっとしているんじゃないでしょうか……死ぬまで」
「原因は?」
「おそらくショックによる一種の精神障害でしょう。機能的にはなんの問題もなく、薬物投与の痕跡も脳手術の形跡もないので、精神的なものだろうと判断せざるを得ません。彼女がこれまでいた場所を考えると、無理がない、とも言えますね。若い女性にとっては耐えがたい経験だったでしょうから……自ら望んで陥った境遇でない限り」
「回復の見込みは?」
「今のところはなんとも……。なにしろ前例のない症例なので……」
担当医は首をひねるばかりだった。
ぼくが聖アルカイヤ教会に連絡すると、ルティマ助祭はすぐに警察病院へ飛んできた。変わり果てたハニールウの姿を助祭はなんとも言えない表情でじっとみつめていた。
その日から、女性ボランティア三人が交代で彼女につき添うことになった。
『プラシッド』の経営者の取り調べは順調に進んでいた。ハニールウについてその男はこう語ったということだ。
「あの娘はな……見たこともねぇ男がある晩うちに連れて来たんだ。『おまえにくれてやるから、客をとらせるなりなんなり、好きなようにするといい』ってな。女を売りに来る奴は多いんだが、タダで置いてくってのは珍しい。考えてみれば妙な野郎だったよ、夜中だってのに大きなサングラスかけてやがって……おかげでこっちも全然奴の顔を覚えちゃいねぇ。
ふつう女は麻薬漬けにして言うこと聞かせてるんだが、あの娘はそんな手間かけなくてもよかった。まったく言いなりなんだ、驚いちまうよ。客に何されても、どんな要求されても黙って言うこと聞くもんで、客にはすごく人気があったな……」
ハニールウは柄の悪そうな男とつき合うようになって堕落した、というのがグラッドストン男爵邸での聞き込みから得られた印象だった。
邸の前まで、勤め帰りにハニールウを迎えに来ていた男の顔をリーベルトという古参の女中が目撃している。彼女の証言をもとにその男の合成顔写真も作成できている。
しかし今のハニールウの様子は――異常だ。病的な受動性。売春クラブでの勤務のせいで精神を病んだわけでなく、彼女はクラブに連れて来られた時点ですでに意思を失っていたのだ。男爵邸から『プラシッド』に至るまでの間、ハニールウに何が起こったのか。
ぼくは市警本部ビル四十二階にある科学捜査研究室のオフィスに顔を出した。
用途のわからない複雑な器具が並ぶ部屋はまるで工房か実験室のようで、とても同じ市警本部ビル内とは思えない。
「最近ニキビがひどくってさー、参ってるんだよ。昔ぼくがランドルフ製薬のために開発してやったニキビ薬があるんだけど、どういうわけか、ぼくにだけはちっとも効かないんだよねー」
器具に半ば埋もれるようにして、休みなく菓子を口に運びながらべらべら喋っている、背の低い小太りの少年。それが科学捜査研究室と火器管理課を一手にたばねる天才J・P・ニコライ博士だ。医学、生物学、生化学、機械工学、電子工学の博士号を持ち、発明家としても名高く、銀河連邦中の製薬会社から入社の誘いが殺到したが「武器が好き」というそれだけの理由でクテシフォン市警への入署を決めた変わり者である。
年齢は十七歳。ぼくにとっては数少ない、年下の部下だ。
「これに合う弾丸を作れるか」
ぼくは、名誉市長から贈られたハンドガンを博士に手渡した。
「ほ、ほーっ! ブローニング・ハイパワーの復刻版かー。おもしろい物持ってるねー」
ニコライ博士はうれしそうな声をあげてハンドガンを吟味した。
「全長七・八インチ、重量二・〇ポンド、装弾数十三発、弾丸初速三百八十三ヤード毎秒。実物を見られるなんて夢みたいだよ。弾丸? もっちろん作れるさ。よかったら超小型核弾頭でも埋め込んどこうか?」
博士の上機嫌な目に、ちらりと狂気の光がひらめいた。ぼくは急いで否定した。
「いや、いらない。ふつうの銃と同じぐらいの殺傷力があればいいんだ」
博士は病的な兵器マニアなのだ。その豊かな知識を利用して、空いている時間に次々と奇怪な新兵器を開発し続けている。だれもが認める天才である博士をぼくがいまだに管理職にしないでいるのは、人格的に問題があり過ぎるのが理由だった。
「だけどこれ、使いこなすの大変だと思うよ? 知ってるだろうけど、このタイプのハンドガンが現在の光線銃に完全にとって代わられたのは、装填弾数の少なさももちろんだけど、重いうえに反動がでかいからなんだよねー。あ、でも……」
博士はちらりとぼくの顔を見て、
「あんただったら大丈夫だろうな、署長。火器の扱いにかけちゃ化物レベルだから」
「別件で、ひとつ意見を聞きたいことがあるんだが……」
ぼくは本題に入った。
「なんの痕跡も残さずに人間の自由意思を奪ってしまうような薬物に、心当たりはないか。人間を、感情も意欲も持たず、他者からの命令を受けつけるだけの低級ロボットみたいに変えてしまう薬物だ」
「あるある。そんなの珍しくないよ。人間の自由意思を抑圧するための研究にかけちゃ、《中央》はそりゃあ進んでるんだから」
ニコライ博士はとんでもないことをさらりと言ってのけ、ゲームに興じる子供のように無邪気に笑った。
「この国で手に入りそうなものといえば……《星砂》かなぁ。それを投与された人間は非常に受動的になる。催眠術をかけられた人間とおんなじさ。他人の指示を待ち、指示されたことはなんだってやるんだ。効果は何年も続くと言われてる。もちろん、そう簡単に手に入る薬じゃないよ? なんで《星砂》がこの星区にあるかっていえば、戦時中に連邦軍の物資運搬船がこのあたりで難破したからなんだよねー。そんなことでもなくちゃ一般には出回らない。こういうたぐいの薬は、《中央》がものすごく厳重に管理してるから」
「《星砂》か……」
「いったん摂取された《星砂》はいかなる検査でも一切検出されない。死後解剖して、あらゆる臓器を調べてみたって同じことさ。なんの痕跡も残さずに人間の精神を完全に破壊するんだ……すごい薬だろ?」
ニコライはきらきら目を輝かせた。
「じつはぼくもそういうのを開発してみたいと思って、いろいろやってるんだよ。だって、そんな薬があればどんな女でも思いのままだもんねー?」
そして、うひひひひ、というかん高い笑い声を響かせた。
そんなことをすれば犯罪だ、とぼくは博士に指摘してやらなくてはならなかった。
考え方を変えてみると、「ハニールウが妙な男に引っかかって失踪した」という推論の根拠になっているのは、彼女が男と待ち合わせて帰るところを見かけたという、男爵邸の女中頭リーベルトの証言だけである。
これだけ不審材料が揃ってくると、リーベルトの証言そのものを疑うべきかもしれない。