最終章
第32章 アンドレア・カイトウ外務担当主席行政官
閣僚級会議なんて、もっと形式的で退屈なものだと思っていた。
法律と行政先例しか頭に詰まっていない半死人どもが重箱の隅をつつくような応酬を繰り返す、実のない会議を想像していた。
しかし、パールシー国内の二百五十余の貴族領と三百の自由都市の代表者(おおむね、それぞれの領土で外務大臣に相当する地位に就いている連中)が雁首を揃えたこの『政治改革人民会議』は、意外にも、びりびりするような興奮と緊張感に満たされている。武装ギャング団にもひけをとらないほど強烈な殺気だ。
この会議場で行われているのは、まさに殺し合いだ。相手の息の根を止めるための真剣勝負だ。
戦うための武器が、銃や刃物ではなく法律や詭弁だというだけだ。危険さにかけては銃撃戦にもひけをとらない……一瞬でも気を抜いたら葬り去られる。だれもが自分の代表する領土のために、つかみ取れるだけの権益をつかみ取ろうと戦っているのだ。
「……クテシフォン市代表のカイトウ代議員。あなたの提出した第四十一次総括案に対して、指摘したい点が二十六か所ほどあります」
シャンデリアに照らし出された重厚な雰囲気の議場の中央。質問台に立ってかん高い声をはりあげるラナ・コートブランジェは十七歳。連邦中央大学でぼくと同級だった。当時は同じパールシー王国出身ということで親しくしていたが、今のラナはスサ市政府の外務副大臣としてこの会議に出席している。スサ市とクテシフォン市との外交関係は最悪だ。何度も武力衝突を重ねている。ようするに、彼女はぼくの敵だということだ。
面倒だな。ラナは頭が切れる。
彼女は、見覚えのある動作で、肩にかかった白金色の長い髪を振り払い、戦意に燃える目線をちらりとぼくに投げかけた。
「あなたはどうやら、制度の大枠のみを早急に決定して、詳細については別途調整すればよいという姿勢のようですが。このような重大な問題において拙速はけっして良い結果をもたらしません。すべての細部について、本会議で十分な審議を尽くすべきだと考えます。第一点目、第四十一次総括案第二版の九十六ページ、第三編第十二章第七節第六十四項の項目(K)についてですが……」
よどみないラナの弁論の続く中、ぼくはふと、目立たないよう通路を歩いてくる紺色のスーツ姿の補佐官が気になった。
会議中、議事堂内を補佐官が歩き回っているのはけっして珍しい光景ではない。
各領土を代表する代議員たちは補佐官を山ほど引き連れており、代議員一人あたり五人までの補佐官を議事堂内に随行することを認められている。これだけの長期間にわたる会議になると参考資料も膨大な量になるので、資料を読み込んで内容を分析し、会議中に行われたすべての発言を記録して対応を検討し、自分の市(または領主)と連絡をとり、過去の事例を検索したりするのに、補佐官チームが必要となるのだ。補佐官を連れずに単身で会議に出席しているのは、ラナやぼく、その他数人の、いわゆる『早期成熟者』と呼ばれる年代の連中だけだ。
発言者席のぼくにも、質問台のラナにも、補佐官はいない。議長も補佐官を必要としない。
それでは、こちらへ向かって通路を歩いてくるこの男は、いったいだれに用事があるというのか。
――慣れ親しんだ感覚がよみがえってきた。ぼくは無関心を装いながらその紺色のスーツの男を注視し、その男の一挙一動に神経を同調させた。
ぼくらから十歩ほどの距離で、男が足を止めた。遠慮がちな補佐官のように頭を垂れたまま、男はスーツの懐に手を差し入れた。
その手が鈍く光る金属の塊をつかみ出したのを確認した瞬間、ぼくはブローニングハイパワーを抜いて発砲していた。
通常の光線銃ではなくハンドガンを使ったのは、会議場内ではARFによってビームが無効化されるからだが、ハンドガンの銃声は思っていたより大きく響きわたった。男は鮮血の尾を引いて後方へ吹き飛び、仰向けに倒れた。力を失ったその手から改造銃が落ちた。
場内があっという間に悲鳴と恐慌で満たされた。ラナが気を失って倒れた。
「休会を宣言してください」
ぼくは議長に声をかけたが、議長は目を大きく見開いたまま茫然と固まっており、反応がない。議事運営は難しそうだ。
ぼくは議長の手から取り上げた小槌を打ちつけて静寂を促し、議長席のマイクで「三時間、休会とします」と宣言した。だれも聞いていないだろうが、いちおう形式のためだ。その頃になってようやく警備兵が駆けつけてきた。
「改造銃を持った人間が場内へ入るのを、わざと見逃したな? ぼくに始末させるために?」
警備隊の隊長らしい男の表情のない目を、ぼくは睨みつけた。
「上官に伝えておけ。……今度こんなふざけた真似をしたら、防衛軍の予算を十パーセント削減してやる、と」
「きみの、あの発砲シーン。テレビでもう十五、六回は見たよ。ちょうど中継のカメラがきみに向いている時だったから、銃を抜いてから撃つところまで、しっかり撮れている。見事な早撃ちだ」
リース・ティントレット博士は、ぼくにお茶を勧めながら、からかっているのか真面目なのか判別しにくい口調でそう言った。
「あらゆる点で注目度抜群だ。ニュースでも繰り返し放映されている。きみの使っている銃を分析している番組もあった。武器マニア向けの番組だろうな、あれは。市警の、なんとか言う名前の博士がコメンテーターとして出演していたよ。きみより年下で、丸顔の……」
ニコライ博士か、と聞き返すと「そう。そんな名前だった」とティントレット博士は満面の笑顔になった。ずいぶん上機嫌な様子だった。
「まあ、あの事件のおかげで、良い意味でも悪い意味でも『政治改革人民会議』に市民の目が向いた。市民は会議の行方に注目し始めたよ。……結果オーライじゃないか。こんなにも重大な問題なのに、今まで世間の注目が少なすぎたんだ。まあ、クテシフォン市内でも大きな改革が同時進行中だから、市民の目が市の外にまで及ばないのも無理はないが。貴族政治から民主政治への一歩を踏み出し始めたわが国の改革には、国外からも関心が集まっている」
ティントレット博士は白いカップの底に少しだけお茶を入れ、そこに大量のミルクを注いだ。不動の姿勢でソファに腰かけているハニールウ・トラビスの手に、カップを押しつけた。聞き取りやすい明瞭な声で指示を出す。
「ゆっくり飲みなさい」
指示を受けたハニールウは旧式の機械のようにぎこちない動作で、お茶を飲み始めた。その白い喉がこくこくと動いた。
聖アルカイヤ教会の教務舎の三階。ルティマ助祭の事務所の隣の、かつて物置き代わりに使われていた部屋に、ティントレット博士は設備一式を持ち込んで自分の診療室にしていた。博士はここ数か月、ハニールウの治療のため聖アルカイヤ教会に常駐しているのだ。
《星砂》で自発意思を失ったシスティーン王女を元に戻すため、国内最高の頭脳を結集させた医師団が現在も研究を続けている(王女の不調の原因が《星砂》であるという事実は一般には伏せられている)。
ティントレット博士は、専門誌などに発表されるその研究結果を、ハニールウの治療に応用しているところだった。
治療が効果をあげているのかどうかは定かではない。ハニールウはあいかわらず表情のない顔でじっとしており、だれかに指示を出されない限り動こうともしない。
最新の医療機器が詰め込まれた狭い部屋。――しかし、窓の外には、昔から見覚えのあるシバ杉の木が揺れており、三人で座ってお茶を飲んでいるとまるであわただしい時の流れが止まってしまったかのようだ。
「きみが撃ったあの男は、スサ市の代議員を狙っていたんだって? スサ崇高主義を唱える過激派の一員で、スサ市が他の自由都市に交じって二院制に組み込まれることに反対していた、と聞いたが」
「そうらしい。まったく迷惑な話だ……スサ政府に文句があるなら、スサ市内で勝手に暴動でも暗殺でもしてればいいんだ。こっちは、他市の過激派の面倒まで見ている暇はない」
そうは言っても、今回の一件は、悪い結果ばかりでもなかった。スサ市代表のラナ・コートブランジェがぼくの提案した総括案に異議を述べるのをやめたため、会議で総括案が可決され、下院の設置準備が正式に開始されたのだ。それ以外にも、ぼくの会議での提案や発言に対する他の代議員からの反対意見が、目立って減ったような気がする。
「それにしても、よその自由都市の代議員は、さぞかし仰天しただろうな。銃を持ち歩いている市政府高官だなんて。……みんな、きみに反対したら撃たれるとでも思い込んだんじゃないか?」
博士はちらりと笑って、ぼくが内心で思っていたのと同じことを口にした。ぼくは反論した。
「いくらぼくでも、意見が違うという理由だけで人を撃ったりはしない」
「でも、周囲にそう思わせておくことは有効だろう。外交交渉に有利じゃないのか。事実、きみたち暫定政府の当初のもくろみ通りの形で、下院の枠組みが決まりつつある」
「社会正義をめざす元革命家とは思えないせりふだな、博士」
「コンラッドが、きみを外務担当にしたのは、正解だと思うよ」
その名前を聞いて、ぼくは思わず顔をしかめた。暫定政府で共に働くようになって三か月になるが、あの男をぶち込みたい、撃ち殺したいという衝動がいまだに完全には消えていない。
殺さずに泳がせてやっている理由は、コンラッド・テイスペスが今のクテシフォン市にとって、なくてはならない人間だからだ。
現在のクテシフォン暫定政府は、名誉市長と六名の主席行政官で構成され、形の上では名誉市長が指導者ということになっている。しかし実質的にすべての政策を決定し、市政の舵取りをしているのは、かつて分離独立派の指導者だったテイスペス准教授だ。テイスペスは、統一性に欠ける暫定政府のメンバーを使いこなし、混乱なく市政を運営している。影響力の拡大を狙ってときおり姑息な揺さぶりをかけてくる防衛軍とすら、つかず離れずの巧みな距離を保っている。
テイスペスは、難しい政策に対する市民の意見を吸い上げ、あるいは政策を市民に浸透させるために、名誉市長をうまく使っている。いわば暫定政府の広告塔だ――口のうまいペテン師にはぴったりの役回りといえる。名誉市長の派手なパフォーマンスと陽気な弁舌は、富裕層にも貧困層にも等しく受けが良い。「わたしは市民の人気者だ」と本人が言い張っているのも、まんざら根拠がないわけではないのだ。名誉市長は市内のあちこちに顔を出し、暫定政府の政策を広報し続けている。
「……生き生きしているな、最近のコンラッドは。長年温めてきた政策を現実のものにできるんだから、活気づくのも当然か。彼は何年もの間、市政改革の計画を、実に具体的に練ってきたんだ。それを本当に実現できるとは、彼自身信じちゃいなかっただろうが」
遠くに視線を飛ばしてつぶやく博士の声には、若干の羨望の響きが混じっていた。
「あんたは政権に加わろうとは思わないのか?」
ぼくは尋ねずにはいられなかった。
「テイスペスはいつもブレーンが足りないとぼやいてる。あんたが望めば、すぐにでも何らかのポストを用意するだろう」
博士の視線が再びぼくの上で焦点を結んだ。疲れたような笑みを浮かべて、ゆっくり首を横に振った。
「エイブに撃たれて死にかけたとき、痛感したんだ。僕は政治には向いてない。初めから、向いていなかった」
「……」
「僕は地面に足をつけて、この手で現実にできることだけをやっていくよ。目の前にいる人たちに、手を差し伸べる。それだけでも、けっこう多くの幸せを生み出せることがわかったからね。……それに、僕がやりたかったことは、おおむねきみが実現してくれた。《無血革命》の時のお父上の演説。あれはきみのアイディアだろう? 僕が話していたことを、きみが意外とよく聞いていてくれたんだとわかって、うれしかったよ」
「あんなやつのことを『お父上』なんて言うのはやめてくれ」
「あれ。仲直りしたんじゃなかったのかい……あの人と。だって今は、市長官邸で一緒に暮らしているんだろう?」
「仕方なく、だ。母さんが『市長官邸に住んでみたい』と言うから……」
「リース君。ケイスウェイン公爵夫人の寄付の件ですが……」
不意に扉が開いて、ルティマ助祭が入ってきた。ぼくに気づくと、「ああ、来ていたのですね、アンドレア。いらっしゃい」と、柔和な笑みを見せた。助祭とティントレット博士は実務的な問題について言葉を交わした。打ち合わせは長くかからなかった。短い会話の中でも、主導権を握っているのは助祭ではなく博士であることがうかがえた。
「助祭。……少し老けましたか?」
その質問は、ひとりでにぼくの口から飛び出した。
ルティマ助祭はもともと年齢が外見に出にくい人だが、今日はおちくぼんだ瞳、たるんだ皮膚などがことさらに目につき、助祭が老人に分類される年代に近づいていることを感じさせる。
「あいかわらず手厳しいですね、あなたは」
助祭は気分を害した様子もなく笑った。目尻の皺。張りを失った肌。しかし、その笑みは満ち足りた穏やかなものだ。
「良い後継者ができましたからね。ちょっと、気が抜けてしまったのかもしれません」
その言葉は、助祭が部屋を出て行ってしまってからもしばらく、たしかな存在感を持って中空に漂っていた。ティントレット博士は特にコメントもせず黙って微笑み続けていた。そういうことか、とぼくは思った。博士なら、助祭の孤児院運営を引き継ぐのに適任だ。学生時代からボランティアとして孤児院の手伝いをしているし、医師になってからも西区で診療所を開いていたので、貧困層の事情にも詳しい。
「助祭は喜んでおられるよ。きみが市警を辞めたことを。『もうこれで、あの子の無事を朝夕祈らなくてもよくなりますね』と言っておられた」
博士はにこにこ笑いながら、重い言葉を投げ込んできた。
「辞めたわけじゃない。今の地位は暫定的なものだ。その気になれば、いつでも市警に復職できる」
ぼくは反射的に言い返した。本気ではなかったが。
今のクテシフォン市警はうまく回っている。ぼくが抜けた後バーンズが凱旋門本署署長代行となり、無能な本部長に手を焼きながらも、組織を順調に運営しているようだ。バーンズは正義感の強い男で、悪と戦う気概にかけてはだれにも負けない。ぼくが戻る必要もないだろう。
「きみはべつに、これまでと違う道を歩んでいるわけじゃないんだ。そうじゃないか? きみたち暫定政府のやっていることは、貧しい人たちの生活を良くし、『前向きに努力していれば報われる』という希望を与えることだ。市民全体の幸福……それは何よりも犯罪の抑止に効果的だよ。個々のギャング団を壊滅させていくよりはるかに確実に、きみたちは犯罪を減らしているんだ。王国内に新たな秩序を打ち立て、ひずみを正していくことにより、治安の長期的な安定がもたらされる。……犯罪の撲滅と秩序の確立。きみが市警でめざしていたことと、それほど変わらないだろう? 目標を達成するための手段が違っているだけだ」
ティントレット博士は真剣な目でぼくをとらえた。
ぼくはその優しく強い視線を正面から受け止めた。
――今さらそんなことを言うなんて。博士の目には、ぼくが迷っているように映るんだろうか、といぶかしく思いながら。
「以前は、政治家や官僚なんて、机上のデータをいじくり回して世の中を動かしている気になってるだけの軟弱な連中だと思ってたが。実際にやってみて、意外と攻撃的な仕事だと気づいたよ」
ぼくがそう言うと、博士は笑った。
「そうかもしれないな。そんな戦意満々で取り組んでいるのはきみぐらいだろうが。きみは自分で思っているよりずっと政治に向いているよ、カイトウ主席行政官」
「……その妙な肩書きで呼ぶのはやめてくれ。そんな肩書き、なんの意味もない。暫定政府設立の時に、適当に作っただけの呼称だ。何か呼び方が決まってないと不都合だろうからって」
「じゃあ、きみのこと、何と呼べばいいんだ」
「普通に名前で呼べばいいだろう? 昔はそうしてたじゃないか」
驚いたことに、突然博士の顔が真っ赤になった。
何かの病変かと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。博士はそわそわした様子で椅子から立ち上がった。左の脇腹を押さえ、わずかに顔をしかめた。
「古傷が痛む。……今晩あたり、ひと雨きそうだな」
「非科学的だな。そんなのでわかるのか」
「そう馬鹿にしたものでもない。王国気象庁の天気予報より、よほど精度がいいよ」
「ぼくだって古傷なら山ほどあるが、そんな便利な機能がついているのは一つもないぜ」
そりゃあきみは若いから、と言いながらティントレット博士は、空になったお茶のカップを握りしめたままのハニールウの手から取り上げ、テーブルに置いた。愛情に満ちた手つきで彼女の頭を軽く叩き、ぼくに向き直った。
「裏庭に干してある手染めの布を取り込んでこなくちゃならない。すまないが、ちょっとハニールウを見ていてくれないか……アンドレア」
ぼくはうなずいた。
ティントレット博士はいそいそと部屋を出て行った。
ハニールウと室内に二人きりになると、建物内の静けさが急に存在を主張し始めた。この建物はいつもしずかだ。これまで数えきれないほどの孤児たちの嗚咽と孤独を呑み込んできたにもかかわらず。修理の必要な板張りの天井。茶色くなりかかっている漆喰の壁。この教会だけは、昔とまるで変わらない。ティントレット博士の持ち込んだ近代的な医療設備が、古ぼけてみすぼらしい周囲の環境と合っていない。
ぼくは来客用の椅子から立ち上がり、窓ぎわへ移動した。昔風の少し歪みの入った窓ガラスごしに、庭を見下ろした。七、八人の子供たちが庭を駆けていた。その後ろをジョー・ブレアが走っているのが見える。長い黒髪が後ろにたなびいている。
ブレアは市警を辞め、今ではぼくの護衛官の一人だ。ぼくのすぐそばで敵に目を光らせるのが、やつの仕事のはずだ。
暫定政府のメンバー全員に護衛官をつけると言い出したのはテイスペス准教授だった。貴族連中をはじめとして、暫定政府を快く思っていない人間は数多い。また、二院制へ向けての協議が始まり、パールシー王国全体の構造が大きく変わろうとしている中、自由都市同士の敵対関係は以前よりいっそう先鋭化した。クテシフォン市の勢力を削ぐために、他の自由都市が暗殺者を送り込み、できたてのクテシフォン暫定政府を潰しにかかるかもしれない。
「護衛官など必要ない。下手な護衛より、ぼくの方が強い」
と言ってやったが、テイスペスは「あなたの身の安全は、今やわが市にとっての重要事項です。いかなる危険も冒すわけにはいきません」と、怯えた様子ながらも一歩も譲らなかったのだ。
――ブレアが走りながら拳を振り上げ、何かを叫んだ。子供たちのわあっという笑い声が、風に乗ってこの三階まで届いた。
どうやらブレアは子供たちにからかわれ、怒って追い回しているところらしい。
平和だな。ぼくは窓の外を眺めるのをやめ、室内へ向き直った。
椅子に腰かけたままのハニールウが、顔をこちらへ向け、ぼくを眺めていた。
なんの変哲もない日常的な光景。しかし、ぼくは雷に打たれたような衝撃を覚えていた。
ハニールウはさっきまで、まっすぐ正面に顔を向けていた。今こちらを見ているということは、自分の意志で頭を動かしたということだ。外から命令されない限り食事、排泄、睡眠といった基本的な動作さえできないほど、自発意思を完全に喪失してしまったはずの彼女が。
こちらをみつめるその薄紫色の瞳には、たしかに、意識の光があった。
「ハニールウ……ぼくのこと、わかるのか?」
ぼくは自分の声がひとりでに震えるのを聞いた。
ハニールウが、ごくわずかに、口を動かした。もう一年近く使われていない彼女の声帯は、まともな声を形成することはできなかったが、それでも、吐息とほとんど区別のつかないような声で、ぼくの名前を呼んだ。かすかに。
次の瞬間、彼女の瞳は、再びどんよりした重い《無》に閉ざされた。浮かびかけた意識の光は消えてしまった。
ぼくは、再び生ける彫像と化してしまった不動のハニールウをみつめた。しかし、心は荒々しい歓喜に満たされていた。部屋を飛び出してルティマ助祭やティントレット博士を呼びに行きたいという衝動を必死で抑えていた。ハニールウの様子から一瞬も目を離したくない気持ちが、同じぐらい大きかったからだ。
彼女は回復しつつある。間違いなく。
きっと、またいつか、意識が戻るだろう。
意識が戻っている時間は徐々に長くなるだろう。
いつか、いつになるかはわからないが、元の状態に戻る時が来るかもしれない。博士の治療は効果をあげているのだ。
未来。希望。
これまで単なる《言葉》でしかなかったそれらのものが、たしかな熱を持って手の中に落ちてきたのを、ぼくは感じずにいられなかった。【完】
 




