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第30章

第30章 チェリー・ブライトン

 たしかに、悪いのはあたしだ。それはわかってる。

 人が電話しているのに横から無理やり割り込んで奪うなんて、礼儀知らずもいいところだ。そんなこと今まで一度もやったことがない。

 でも、電話の画面に映ってるジェスの顔を見たとたん、我慢ができなくなったのだ。

 頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなって――ふと気がつくと、あたしは通話していたシンシア姐さんを押しのけ、代わりに電話の前に立っていた。

 画面に映るジェスの顔は微笑んでいる。みつめ返してくる茶色の目がきらきら輝いている。陽気で、いたずらっぽくて、目尻の皺さえ素敵に見える、いつもと同じジェスだ。

 今日は髪形がちょっと乱れてるし、顔色はあまり良くないけど。

 それでもジェスがまた笑ってくれているというだけで、あたしの胸はぎゅうっとしめつけられた。涙が出そうになった。

 心配だったんだ。これまでずっと。

 病院から走り去ったきり、音沙汰がなかったんだもの。ジェスがいなくなってからの日々は、とても長く思えた。病院の廊下で最後に見た、あの絶望的な表情を思い出すと――悪い想像しか浮かんでこなかった。

「よかった、ジェス……! 連絡してくれて。本当によかった……!」

 あたしがジェスと話をしている間、電話を取り返そうとしてシンシア姐さんが何度もつかみかかってきたけど、ロニーが押さえつけてくれていた。

「アンドレアに、『一か月分ぐらいの食糧を買いだめして、アジトにこもって、しばらく外出しないようにしろ』って言われたんだけど……どういう意味かわかる? なんだか今、外がすごく騒がしいの。何か変なことが起きてるのかな」

 ジェスの顔を見て気がゆるんだので、つい、あたしの口から不安がこぼれ出た。

 返ってきたジェスの声は、あいかわらず自信たっぷりで心強かった。

「アンドレアがそう言ったのなら、とりあえずその通りにしておいた方がいいな。心配はいらないさ。すぐにわたしもアジトに合流する。そこで待っていてくれ」

「でも、ジェスもあまり動き回らない方がいいんじゃない? なんだか外は危なそうだよ」

 あたしがそう言い終わらないうちに、ロニーの手を振り切ったシンシア姐さんが飛びかかってきて、あたしを床に押し倒した。

 その衝撃で電話が床に落ち、通話が切れた。画面のジェスの顔も消えてしまった。

 ああっ、せっかくジェスとつながったと思ったのに。

 残念がっている暇はなかった。おたけびと共に、シンシア姐さんの握りこぶしがあたしの顔や頭に降り注いだのだ。あたしは必死で両手を上げて防いだ。

「乱暴はやめてよ! 仲間同士で何やってるんだよ!」

 ロニーがそう叫びながら、シンシア姐さんの後ろから、止めようとしてつかみかかった。姐さんはあたしに馬乗りになったまま後ろ向きに体をひねり、ロニーを思いきり突き飛ばした。

 その瞬間、あたしを床に押さえつけている姐さんの重みが、少し軽くなった。あたしは必死で姐さんの下から逃れ、立ち上がった。

 背中をどんと突き飛ばされて、目の前の壁に叩きつけられた。

 顔を激しく打ちつけた痛みで、涙がにじむ。

「あんた! 前からっ! 気に入らなかったのよ! かわい子ぶってジェスを一人占めして……!」

 後頭部や背中を殴られた。壁に押しつけられたあたしは逃げることも反撃もできず、後ろから殴られ続けた。

 たしかにシンシア姐さんとは、昔から色々あって、仲良しというわけじゃなかったけど、ここまで嫌われているなんて知らなかった。

 突然あたしの前で扉が開いた。

 すごい力でお尻を蹴られた。完全にバランスを崩したあたしは、外へよろめき出て、そのまま前のめりに地面に倒れた。

 バンと音をたてて、扉が閉まった。

「いったぁ……!」

 呻き声をあげながら、あたしが立ち上がろうとしていると、再び扉が開き、ロニーが転がり出てきた。そして扉は激しく閉じた。中から鍵をかける音も聞こえた。

 アジトから追い出されたんだ、あたしたち。

 ひ……ひどいよ、シンシア姐さん。たしかに電話に割り込んだのはあたしが悪かったけど、何も追い出さなくても。

 あたしは立ち上がり、おそるおそる辺りを見回した。

 街はめちゃくちゃになっていた。たぶん、ものすごいハリケーンか何かが通り過ぎたら、こんな風になる。店のショーウィンドウのガラスはすべて割れ、看板は壊れて地面に落ち、道路は色々な物の破片だらけだった。違法駐車している車も、棒か何かで連打されたみたいに、べこべこに凹んでいた。

 いつもあたしたちのアジトを見渡せる位置に停まっていたパトカーは、どこかへ消えてしまっている。

 ぐおおおおっという妙な音がした。まるで猛獣の吠え声みたいだ。

「やばいよ、チェリー! 逃げなきゃ!」

 ロニーがあたしの袖を引っ張った。

 見ると――人間の洪水が、こちらへ押し寄せてくるところだった。

 それは、腕を振り回したり棒を振りかざしたりわめき散らしたりしている、とんでもなく大勢の人たちだった。塊になって、こっちへ向かってくる。猛獣の吠え声だと思ったのは、この人たちの叫びが集まった音だったのだ。あんなのに巻き込まれたら大変だ。あたしたちは反対方向へ向かって駆け出した。

 人波に追われるようにして走った、走った、走った。どこまで行っても、めちゃくちゃに壊れた街並みばかり続く。押し寄せてくる人間の波は意外と速くて、あたしたちも真剣に走らないと追いつかれそうだ。

 世の中はいったいどうなっちゃったの? 何が起きてるの?

 こんなの――まるで地獄みたいだ。

「チェリー、ぼくたち、どこへ向かって走ってるの? どこへ行くつもり?」

 息をはずませながらロニーが尋ねた。

 あたしもぜえぜえ言いながら叫び返した。

「考えてないわよ、そんなの。とりあえず、あの人たちから逃げなきゃっ」

「どこか……隠れられる場所は……?」

 隠れられる場所。そんなのない。シュナイダー盗賊団のアジトを追い出されてしまったら、あたしたちには行く所はない。

 あたしは絶望と寂しさに打ちのめされた。

 でも、しっかりしなきゃ。強く振る舞わなきゃ。生き延びなくちゃ。あたしはぎりっと歯を食いしばり、走る速度を上げた。目の前に《おぼろ公園》が見えてきた。冬でも濃いままの緑の木々が生い茂っていて、いつも薄暗い公園だ。

 《おぼろ公園》の手前には大きな交差点がある。

 そこへ駆け込んだら、左側の道からも人波が押し寄せてきていて、あたしたちは一瞬で呑み込まれた。

 ロニーとあたしはもみくちゃにされ、引き離された。だれもがわめいてる。周りの人が振り回す腕や肘が、次々とあたしに当たる。あたしはこづかれ、押され、突き飛ばされた。倒れたりしたら、間違いなく踏みつぶされる。だから、周りの人と同じ速さで、同じ方向へ歩いて行くしかない。どこへ向かって進んでいるのかわからないけど。

「独立! 独立! 独立! 独立! ……」

 おそろしいほどの大声が空気を揺るがせている。どれだけ多くの人が声を揃えてるんだろう。規則正しいリズムで延々と続く、このやかましい声に包まれていると、気が遠くなりそうだ。

「貴族を追い出せ!」

「王宮をぶっつぶせ!」

「クテシフォン市独立万歳!」

 ときどき別の怒鳴り声があがる。だれもが喉を嗄らせてわめいているみたいだ。

 あたしは人の波に乗って運ばれながら、なんとかここから抜け出す道はないかと、きょろきょろ周りを見回していた。

 規則正しく続いていた「独立!」のかけ声が止んで、わあああっという、言葉にならない叫び声に変わった。前の人が急に止まったので、あたしはその背中にぶつかった。後ろの人もあたしにぶつかってきて、重い体で思いっきり押されたあたしは「うえっ」と変な声を出してしまった。後ろからものすごい圧力がかかってくる――押しつぶされちゃうよ!

 前の人が体をひねった拍子に、その肘があたしの頬にがつんとぶつかった。あまりの痛さに涙が出た。だれかに強く背中を突き飛ばされて、あたしは前のめりに倒れそうになった。懸命に足に力を入れて踏ん張り、こらえた。いつの間にか、あたしを呑み込んだ人の波は前へ進むのをやめ、辺りはただの大混乱になっていた。大勢の人たちがわめきながらむやみやたらに走り回ってる。

 走り回る人たちの向こうに――道路の幅いっぱいに広がっている警官隊が見えた。ずらりと並んだ警官の列に向かって、大勢の人たちが石や何かの破片を投げたり、殴りかかったりしている。警官たちのヘルメットやテンシル鋼の盾が、日光を受けて輝いている。

 あたしの周りでも大勢の人がでたらめに物を投げていて、石だの棒だの板切れなどが雨のように降り注いでくる。わあああああっというやかましい叫び声は、もう人間の声には聞こえない。まるで機械のノイズを目一杯拡大したみたいだ。

 そのわめき声が、悲鳴に変わった。

「催涙ガスだ!」

という叫び声が、伝言ゲームみたいに人混みの中を走って伝わってきた。少し遅れて、突然目の前に表れた白い雲があたしとあたしの周りの人たちを情け容赦なく包み込んだ。

 目、が、痛い。猛烈に痛い。

 分厚い涙の膜が目を覆い尽くしたみたいになって、何も見えない。

 あたしは悲鳴をあげて、閉じた目のまぶたに上から拳を当てて、ぎゅっと押さえつけた。少しでも痛みがやわらぐかと思ったのだ。だめだった。まぶたの中で釘が暴れ回ってるみたいだ。目玉の奥の奥、芯の部分にまで痛みが届いて――息が苦しくなってきた。

 あたしは大きく口を開けてあえいだ。そうしないと十分空気が吸い込めないような気がした。口から入ってくる空気は、変な味がした。薬品っぽい味。

 だれかが、どんと背後からあたしにぶつかった。目が見えないあたしは自分を支えられず、そのまま転んだ。脇腹を蹴られた。手を踏まれた。人の膝が、地面に座り込んでるあたしの頭にぶつかった。これじゃまるで袋叩きだ。目が痛くて、息苦しくて、頭痛までしてきたけど、このまま座り込んでいたら怪我してしまう。必死で立とうとしているあたしに、横から人がぶつかってきた。あたしは吹っ飛ばされ、また地面に倒れた。


 助けて――だれか助けて。

 痛いよ、苦しいよ。このままじゃ死んじゃう。


 お願い、助けて、ジェス。


 助けて、神様――!!!


 助けは来なかった。あたしは催涙ガスのせいか悲しみのせいかわからない涙を流し続けていた。立つことはあきらめて、四つん這いのまま進んだ。少しでも人の少ない方向へ。進んでいる途中、駆け回っている人たちの膝が何度もあたしの顔や頭に当たった。口の中が切れて、血の味がした。もうあらゆる物が痛すぎて、どうでもよくなってきた。

 ぼんやりした頭のまま、あたしはなにも考えられず、ただひたすら手足を動かし続けた。

 前へ。とにかく前へ。

 だれかの手が突然、あたしの肩をがっしりつかんだ。

「チェリー……! やっと見つけた……!」

 聞き覚えのある声だ。

「立てるか? ほら、おれにつかまれよ」

 フリントだ。あたしの腕をつかんで引っ張り上げ、立たせてくれた。

 ――助かった。

 あたしの中で、うれしさが爆発した。思わずフリントに抱きついていた。命綱にしがみつくみたいに。フリントの体が意外とがっちりしていたので、あたしは驚いた。もっとひょろひょろした子だと思ってたのに。

「お、おれが来たからにゃもう安心さ、ベイビー。こういう稼業をやってりゃ……えーっと、何だったっけ……」

「え? 今、なんて言ったの? ベイビー?」

「な……なにも言ってねえよっ! とりあえず逃げようぜ。ここは危なすぎる」

 あたしはフリントに手を引いてもらって、歩きかけた。何人もの人がぶつかってきて、つないでいる手がもぎ離されそうになった。「おれの背中に回れよ」とフリントが言うので、あたしは彼の後ろから肩を両手でつかみ、彼が進むのに合わせて歩くことにした。

 ものすごーく楽だった。こうやって誘導してもらうのは。

 前を進むフリントが盾になってくれるおかげで、もうだれも、あたしにぶつかって来ない。

 フリントのことを「頼りになる」と感じたのは生まれて初めてだった。

 あたしたちはそんな風に、縦に連なって、のろのろと歩き続けた。目が開かないせいで、どこをどう歩いてるのかさっぱり見当がつかない。だけど周りが少しずつしずかになっていくのはわかった。あたしたちは騒ぎの中心地から離れて行っているみたいだ。

「ねえ。ロニー……ロニーは大丈夫かな?」

 あたしは痛い口を無理に動かして尋ねた(さっきいろんな人にぶつかられたせいで口の中は傷だらけだ)。

「大丈夫だろ、あいつなら? おまえいつも、あいつのことチビ扱いするけど。ロニーはおれたちの中で、たぶんいちばんしぶといぜ」

 体の一部が触れ合っているせいか、フリントの声がやけにはっきり伝わってきた。

「ひでえよな、シンシア姐さんも。こんなヤバい騒ぎの中に、おまえらを追い出すなんて。ラッセルおじさんもかんかんに怒ってたよ。『なんてことしやがった』って」

 その言葉を聞いて気分が沈んだ。

 ラッセルおじさんがあたしたちの身を心配してくれたのは、うれしい。だけど、そうでなくても最近ぎくしゃくしているシュナイダー盗賊団の雰囲気が、これ以上悪くなるのはつらい。

「姐さん、すぐにカーッとなっちゃう人だもんね。……でも、あたしも悪いのよ。姐さんを怒らせるようなことしたから」

「もう、おしまいかな。シュナイダー盗賊団も。最近みんな喧嘩ばかりだもんな」

 フリントの言葉は、あたしの心の中の思いとぴったり重なった。さすがは、きょうだい同然の仲間だ。気持ちはいつも同じだ。

 あたしはうなずかずにはいられなかった。

「そうだね。一緒に住むのは、もうやめた方がいいのかもね。共同生活に向いてる人、だれもいないもん」

 終わりが近づいている。ラッセルおじさんやクララ姐さん、ヴィックス兄さん。昔からよく知っている人たちと一つのアジトでわいわいにぎやかに暮らす、安心で心地よい生活の。

 ――いつまでも続く生活じゃない、ということはうすうすわかっていた。

 シュナイダー盗賊団を狙う目に見えない敵と戦うため、身を守るために始めた共同生活だ。メフィレシア公爵が逮捕された今、もう共同生活の必要もなくなってしまった。

 この共同生活が終わったら。きっともう、ジェスともお別れだ。

 ジェスだってもう、あたしたちと一緒にいる必要はないんだから――。

「催涙ガスを喰らった人、こっちへ来てー! 目を洗うから。さあ、みんな、こっちよー!!」

 元気いっぱいな女の人の声が響いた。辺りは再び騒々しくなってきていた。見えないけど周りに大勢の人がいる気配が感じられる。

 フリントの肩をしっかりつかんでいたあたしの手を、だれかが引き離した。

 えっ、何するの。怖い。

 怯えるあたしの顔に、何か堅いものがぶつかってきた。

 水だ。

 痛いほど激しい水の流れが、あたしの顔を叩き、覆い尽くした。ブラウスにじっとり冷たい濡れた感触が広がり始める。

 あたしはぷはっと口を開け、なんとか呼吸を続けるだけで精一杯だった。

 しばらくすると、水の流れが止んだ。なにか柔らかい、タオルみたいな物が、あたしの顔に当てられた。

「目をこすっちゃだめよー。我慢して? さあ。火に当たって温まって。風邪ひかないようにね!」

 タオルがあたしの顔から離れた。

 あたしは、自分の目が開くことに気づいた。

 かゆい。ものすごく目がかゆい。でも女の人に言われたことを思い出して、懸命に我慢した。

 目が見えるようになったので、自分が今いるのは、工場の中庭みたいな所だということがわかった。そんなに広くないスペースなのに、びっくりするほど大勢の人たちがたむろしてる。中年の男の人と、若い女の人と、あたしより少し年下ぐらいの男の子が片手にホース、片手にタオルを持って立ち、ホースの先から激しく噴き出している水を次々と人の顔にかけているところだった。催涙ガスのせいで痛んでいるあたしたちの目を、洗ってくれているんだ。ホースを持ってる三人は似た顔つきをしてるし、同じ色の赤毛なので、まちがいなく親子だとわかる。

 倉庫みたいな建物の入口シャッターが開きっぱなしになっていて、ホースはその奥から伸びてきていた。倉庫の入口に、上半分が切り取られたドラム缶が置いてあって、その中で火が燃えていた。

 あたしは身震いした。今まですっかり忘れていた寒さを、急に思い出したんだ。濡れた服を着ていると、冷たさはまるでナイフみたいに鋭く刺さってくる。

 あたしはドラム缶に近づき、他の大勢の人たちと一緒に、火に当たった。

 あたたかい。

 あたしは火の熱を体の前半分に受けて、うっとりした。一時はどうなるかと思ったけど、なんとか助かったんだということを実感した。

 寒さが収まったところで、今度はあたしの全身の傷がいっせいに痛みを訴え始めた。肌の表面の切り傷のぴりぴりした痛み。蹴られたりぶつかったりした、体の奥のずきずきする痛み。口の中は血だらけだ。これじゃしばらくご飯は食べられないかも。

 フリントがやって来て、あたしの隣に並んだ。

 あたしたちはしばらく黙って、生き物みたいに踊り狂う炎を眺めていた。


 どれぐらい時間が経ったんだろう――。


 炎をみつめてぼんやりしていたあたしは、はっとした。聞き覚えのある、聞き間違いようのない声が、どこからか聞こえてきたからだ。

「市民諸君。武器を置いてくれ。戦うのはやめてくれ。どうか……わたしの言うことを聞いてくれないか」

 ――ジェスの声だ。

 マイクを通して響いてくる声だ。どこにいるんだろう。この近くまで来てるんだろうか。

 ひどい目に遭って全身が痛くて沈んでいた気分が、一気に浮かび上がった。あたしは考える前に駈け出した。声の聞こえてくる方角へ向かって。フリントもあたしのすぐ後ろを走ってくるのがわかった。

 工場の敷地を飛び出して路地へ、そして大通りへ。

「わたしはカイトウ名誉市長だ。わたしはここに、クテシフォン暫定政府の成立を宣言する。ザカリア市長は本日付をもって辞任し、これまでの市政府は機能を停止する」

 あたしは足を止めた。

 徹底的に壊された街。破片の広がる大通りに、うずくまっている人たち。物を打ち壊すための棒を握りしめている人たち。血を流している人たち。みんなが見上げているのは街頭テレビだ。

 ジェスが映っていた。

 さっき――と言っても、もうかなり時間が経ってる――電話の画面で見たときと同じ姿だ。少し乱れた髪型。くたびれたシャツ。目の下のクマ。なつかしさに、あたしの胸が熱くなる。でも。

 今のジェスはあたしの方を見てくれてはいない。

「暫定政府は公約する。クテシフォン市は今後いっさい、王国政府の維持のための費用を支出しない。その分の予算をすべて市の福祉政策に回す」

 ジェスが見ているのは、ずっともっと大勢の人たち。クテシフォン市全体だ。

「学校を作り、病院や療養センターを増やし、貧困層に住宅と雇用を提供する。クテシフォン市の金を、クテシフォン市民の幸福のためにのみ使っていく」

 ジェス以外に、四人の人がテレビ画面に映ってる。そのうちの一人はアンドレアだ(とても機嫌が悪そうだ。人でも殺しそうな目つきをしてる)。軍服を着たおじさんもいる。これでもかとばかりに勲章をたくさん並べすぎて、みっともないほどだ。あとの二人は、どこにでもいそうな感じの普通のおじさんたちだ。

「クテシフォン市はもはや、王国政府の統制を受けない。一自由都市として完全な自治権を行使する。今日からは市民による、市民のための政治が始まるのだ……」

 あたしの近くに立っている、棒を握りしめた男の人が、ぽつりとつぶやいた。

「……革命だ」

 その声がきっかけになったみたいに、人々の口から、次々と言葉がこぼれ出た。

「革命だ。無血革命だ」

「革命が成就したぞ」

 ――地面に根を生やしてしまったみたいに、あたしの足はその場に貼りついて動かなかった。あたしは傷だらけの体で茫然と立ち、街頭テレビを見上げていた。ジェスは語り続けていた。くるくる変わる表情。ときどき浮かぶ人なつっこい微笑み。深い響きの声。身を隠していたホテルで、シュナイダー盗賊団のアジトで、ずっと眺めてきたのと同じ彼の姿だ。だけど今のジェスの言葉はひとつもあたしに届かない。あたしには理解できない言葉ばかりだ。その声はあたしの頭上を素通りしていく。

「無血革命ばんざーい!!」

「暫定政府ばんざーい!!」

 あたしの周りで大喜びし、絶叫している人々の熱狂。それを生み出しているのはジェスなんだということは、なんとなく理解できる。


 あたしの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。


 ジェスはみんなのジェスなのだ。あたしの周りで叫んでいる大勢の人たち、クテシフォン市じゅうの人たちが、ジェスを必要としてるんだ。

 もう、あたしたちがジェスを独り占めしていられる時期は、終わってしまった。



「目をこすっちゃだめだって、さっきの女の人に言われただろ」

 横に立っているフリントが、あたしの脇腹を肘でこづいた。

「ほっといてよ。まだ催涙ガスが残ってるのよ」

 あたしはフリントの方を見ずに答え、手の甲で顔をぐしぐしとぬぐった。

 辺りは再び大騒ぎになっていた。今度は、喜びの叫びで。

「暫定政府ばんざい! 名誉市長ばんざい!」

 街を揺さぶる叫び声はいつまでも轟き続け、終わることなどないかのようだった。

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