第29章
第29章 ライバート・ジェシー・カイトウ名誉市長
「忘れないうちに、これを返しておくよ。やっぱりおまえが持っていた方がよさそうだ」
ブレア警部補の運転する黒のスポーツカーの後部座席で、わたしは、隣に座るアンドレアにハンドガンを手渡した。
アンドレアは銃を受け取り、慣れた手つきでマガジンを抜いて残弾数を確認した。
「一発減ってるな。だれを殺して来た?」
「そんな質問には、弁護士立会いの上でなければ答えられないな」
わたしは陽気に答えた。冗談でも言わなければ、やっていられない気分だったのだ。
アンドレアはそれ以上追及しようとせず、無言で座席の下のボックスに銃を収めた。わたしに人を撃てるだけの腕前がないことを察しているようだった。
その落ち着き払った横顔を、わたしは誇らしいような、うらめしいような複雑な気分で眺めた。
いつもわたしのことを嘘つきだの詐欺師だのと非難するが、おまえだって、相当なハッタリ屋じゃないか。これを血筋と言うんじゃないのか(そんなことを口にしたら撃たれそうだから黙っているが)。
市警本部ビルの署長室で、わたしがテイスペス准教授の演説の録画を見ている間、アンドレアが銀色の円筒をすばやく自分の腕に突き立てていたことを、わたしは知っている(アンドレアはわたしに見られないように注意していたようだが、わたしは人より視野が広いので、横目でちゃんと見ていた)。
あれは、間違いなく賦活剤の簡易注射だ。わたしも若い頃よくお世話になった。
賦活剤は、疲労、痛み、眠気、倦怠感等々、体のあらゆる不調を「感じなく」させ、神経を興奮させ、まやかしの元気を与える。死人でも立ち上がらせると言われる強力な刺激剤だ。服用者に無理を強いるわけだから、病気を治すどころか回復を遅らせる。文明国で正式な医薬品として認可されているのが不思議なほど、体に悪い薬物だ(もちろん未成年への処方は禁止されている)。
そんなものに頼っているということは――アンドレアは本当は、まだ職務に復帰できるような状態ではないのだ。
考えてみれば当然のことだ。瀕死の重傷を負ったあの日から二十日足らずしか経っていない。
それなのに、市警の実質的な最高責任者として組織を率い、クテシフォン市始まって以来の非常事態に正面から向き合っている。弱っている様子など、かけらも見せていない。「どんな敵でもかかって来い」と言わんばかりの、いつも通りの強気で好戦的な態度だ。
その上、さっきは部下に向かって堂々と「勝算がある」などと言っていた。
あれこそハッタリ以外の何物でもない。
こんなギャンブルみたいな一か八かのシナリオで、勝算があるなどとよくも言えたものだ。不確定要素ばかりで、成功の可能性がほとんど見えない。
わたしはそれほど臆病な方ではないと思うが、それでも前途に待ち受けるものを思うと緊張のあまり胸が悪くなる。市議会を制圧し憲法の停止を宣言した武装テロリストの中へ、丸腰でのこのこ入り込んで行こうというのだ。演壇で四十丁の銃の的になるのはぞっとしない。興奮している彼らが、こちらの話をちゃんと聞いてくれるとは思えない。
彼らを納得させるのに失敗したら、わたしも市議会議員たちと同じく人質の身となる。
わたしがうっかり地雷を踏んで彼らを怒らせたりしたら、その場で蜂の巣にされる。
――楽観的になれる未来がひとつも見えてこない。
『おまえさんはいずれ、この国を救うことになる。この国の命運がおまえさんの双肩にかかっておるのじゃ』
もう何か月も前、ヘレナ婆さんに言われた言葉が、今になって重く響く。
婆さんはこの事態を予想していたのだろうか。だとすれば、さすがは王宮付きの占術師。おそるべき神通力だ。
わたしはパールシー王国を救うかもしれない。しかし、婆さんは「生きて」救うとは言っていなかった。もしかすると、わたしの死が何らかの経緯で国を救う結果になるのかもしれないのだ。
「そう緊張するなよ。バックアッププランを考えてある」
運転席と後部座席を隔てるシールドを上げて、運転しているブレア警部補に話を聞かれないようにしてから、アンドレアはあっさりそう言った。
見抜かれていたか。わたしの怯えを。
「バックアッププランって何だ?」
わたしは父親の権威を守るため、怯えを懸命に隠し、余裕の態度を作った。
「あんたの存在は、むしろ囮だ。あんたの随行員という形であれば、ぼくは議事堂に入れるし……あんたが演壇で話している間、全員の注意があんたに集まる。その隙にぼくはテイスペスに近づいて……あんたの演説が失敗に終わった瞬間、テイスペスを人質にとる。戦闘になる可能性が非常に高いから、あんたは演説がうまくいかなかったと判断したら、すぐに演壇の陰に伏せろ。ARFもあるし、命は助かるだろう。よっぽど運が悪くない限り」
「戦闘って、おまえ。丸腰なんだろう? 議事堂の入口で見張りに銃を取り上げられるだろうし。どうやって戦うつもりだ?」
「銃は持って行かないが、爆弾と閃光弾ならある。王宮のセキュリティチェックにも引っかからなかった代物だ。問題なく持ち込めるだろう」
武装したテロリストの真っただ中で、ろくな武器も持たずにテロリストの親玉を狙う。
そんな行き当たりばったりで無茶な計画をバックアッププランと呼んでいいのか。まるで穴の開いた救命胴衣を着て滝壺落下ボートに乗るみたいなものじゃないか。
わたしは、アンドレアの部下たちの気持ちが少し想像できた。きっとこの無謀で自信満々な上司に毎日振り回されているんだろう。「そんなの無茶ですよ」が口癖になっているに違いない。
だが、この子の自信は、伝染する。
「なんとかしてくれるんじゃないか」という信頼を、周囲の者に抱かせるだけの力がある。そしてたぶん、今までずっと、なんとかしてきたのだろう。とんでもない騒動を何度も引き起こしながらも、この子がこうやって無事に生きているところを見ると。
だから、わたしもかなり気が楽になった。緊張と恐怖がやわらぎ、「ひょっとしたら生きて議事堂を出られるかもしれない」という希望を持てるようになった。
気がつくと、わたしたちはもう議事堂のすぐ近くまで来ていた。市警本部ビルと市議会議事堂は同じ中央区内にあり、それほど距離は離れていない。車は、非常線を通過するときだけ減速したが、それ以外は安定した速度で議事堂へ近づいていった。議事堂は、常緑樹の並木に縁取られた八車線の直線道路のつき当たりにあるロータリーの向こうだ。非常線で封鎖されているので、よく整備された道路はからっぽだ。
クテシフォン市議会議事堂は、わが国のほとんどの自由都市の市議会がそうであるように、貴族院の議事堂を模して造られている。中央に巨大なドーム型屋根を頂く円形建造物があり、それを挟んで左右に東棟、西棟が増築され、全体として左右対称形を成している。正面には幅広の階段が二十段ほどあり、それを昇りきると八本の巨大な柱が規則正しく並ぶポルチコとなっている。
離れた所からでは、正面玄関を見張っているというテロリストたちの姿は見えない。
しかしポルチコの柱列は、人が身を隠すのにうってつけの障害物だ。警察や軍に狙撃されるのを防ぐため、テロリストたちは柱の陰に潜み、こちらの様子をうかがっているに違いなかった。
一見ひとけのない議事堂の玄関の穏やかなたたずまいは、ぽっかり開いた罠の入口にしか見えなかった。
わたしはみぞおちにぐっと力をこめた。
やるしかない。腹をくくるしかない。もう後戻りはできないのだ。
「そう言えば」
と、アンドレアが窓の外を眺めながら軽い口調で言った。
「あんたの口車に乗せられてあんたを善人だと信じ込んでる気の毒な女に約束したんだった。あんたに、命を助けられた礼を言うと」
あまりに思いがけない言葉に、わたしはぽかんと口を開けたまま固まった。
こちらを見ようとしないまま、アンドレアは続けた。
「約束だから仕方なく、いちおう礼を言っておく」
「ああ、うん。まあ、その、親として当然のことをしたまでだよ」
わたしは動揺のあまり、しどろもどろになってしまった。口から先に生まれたわたしは、言葉に詰まるなんてことはめったにないのだが。
ずきっ、と心が痛んだ。
刃物を突き通されたような痛みだ。聖アスバーナブル病院でのつらかった日々の記憶がありありと蘇ってくる。
あんな思いは、もう二度としたくない。
その瞬間、わたしは自分が何をしなければならないかを、はっきりと悟った。
車はロータリーで停車した。議事堂の正面の階段からは、四十ヤードと離れていない。わたしたち三人は車を降り、歩き出した。石畳の広場を横切り、階段へ向かう。
「さっき言ってた『気の毒な女』ってチェリーのこと、だよな?」
「他にだれがいるんだ」
「言っておくがアンドレア。わたしはチェリーに嘘をついたことはない。本当のことをすべて話したわけじゃないが……少なくとも嘘はついてない。一度も」
「被害者が勝手に誤解しただけ、ってやつか。詐欺師の典型的な言い訳だな」
「そう言うおまえの方が嘘つきじゃないか。『ドンパチはしない』とブレア警部補に約束したのに。あれこそ真っ赤な嘘だ。そうだろう?」
「あーっ、やっぱりあれ、嘘なんですかぁ。そうじゃないかとは思ってましたけど」
階段を昇りかけたところで、正面の柱列のうち一本の陰から、光がひらめいた。と同時に、ぴしっと音がして、わたしの足元の段が抉られた。撃たれたのだ。
「それ以上近づくな! 殺すぞ!」
場違いなほど若々しい声が響いた。
わたしは足を止め、相手の様子を探ろうと見上げた。
テロリストたちは、八本の柱のうち中央の二本を除いた残りの柱の陰に隠れていた。声を合図にしたかのように、いっせいに柱の後ろから半身だけを表し、銃口をこちらへ向けた。近くで見ると、本当に若い。二十歳前後といったところだ。たしかに、学生にしか見えない。
わたしは、さっきまで自分を支配していた緊張や恐怖が消え、平常心が戻ってきているのを自覚した。七つの銃口に狙われているというのに、何も感じない。
いったん物事が転がり始めたら、人間、意外と度胸がすわるものだ。怯えたり心配したりする段階は過ぎてしまった。わたしは大きく息を吸い、気のきいたジョークをかましてやろうと口を開きかけた。
しかし言葉を発したのは、隣のアンドレアの方が早かった。
「うろたえるな、腰抜けども。おまえらは知らないのか、この男を?」
とんでもなく尊大な口調で言って、わたしを指さす。
「こいつは名誉市長だ。二年前に《市の鍵》の授与を受けた男だ。……《市の鍵》を持っているということは、クテシフォン市の全権を握っていることを意味する。こいつの権力は、ザカリア市長や市議会の権力を上回る。つまり……おまえらは市長や議員を人質にとって、街を支配したみたいな気になってるかもしれないが、こいつがいる限り、そんなもの、なんの意味もないということだ。こいつの権限はすべてを上書きするからな」
――そんなにも偉いわたしに対して、『こいつ』呼ばわりはないんじゃないか?
ちらりとそんな思いが心をよぎったが、口を閉ざしておくことにした。テロリストたちの幼い顔に動揺が広がっており――アンドレアが場を支配し始めていることがわかったからだ。
「銃を下ろせ。ぼくたちは、議事堂内への入場を要求する」
人に命令し慣れている者の権威あふれる態度で、アンドレアが続けた。
「名誉市長はこれから市議会に議案を提出し、審議を求める。おまえらにそれを止めることはできない」
「……!」
テロリストたちは動かない。硬直しているようにも見える。
「なんだったら、テイスペスにお伺いを立ててみろ。テイスペスは、名誉市長を議場へ通せと言うはずだ」
アンドレアは言い放った。
テロリストたちが躊躇しているのは明らかだった。高い位置にある物陰という狙撃の最適ポジションで真新しい銃を構えているにもかかわらず、圧されているのは彼らの方だった。アンドレアの放っている貫禄、と言うか殺気は、桁違いだった。もし彼らが、自分たちと対面しているのが悪名高き墓場署長であると気づいていなかったとしても、「おまえらの命など、ぼくにとっては塵ほどの重みもない」とでも言いたげな、アンドレアの殺す気満々の雰囲気を無視することはできなかっただろう。まるで草食動物の群れと獰猛な肉食獣の遭遇のようだ。
――昔は優しい子だったんだがなぁ。
わたしが内心しみじみしている間にも事態は進行していた。テロリストの一人が俊敏な動作で身を翻し、議事堂の中へ駆け込んだ。わたしたちは全員、息を殺してその場に佇立し、彼の帰りを待った。
やがて、中から再び姿を表したテロリストの若者は、困惑したような表情を浮かべていた。先ほどまでの攻撃的な空気が消えている。わたしに向かって、
「えーっと、中へ入ってください、と准教授が言ってます」
と、ぎこちない敬語で言った。
「中へ入ってもいいのは、あなた一人だけです」
驚いたな。市政打倒をめざすテロリストに占拠された市議会議事堂に正面から乗り込んで行って、本当に中へ入れてもらえるとは。テイスペス准教授というのは、よほど話がわかる人物らしい。
「断る」
と、鞭のように鋭いアンドレアの声が響いた。
「こっちはおまえらに新たな人質を提供するために来たわけじゃない。名誉市長の身を守るために、ぼくら二人が同行する。それが絶対条件だ。おまえら腰抜けどもをこれ以上怯えさせないために、ぼくらは丸腰で行ってやる。そこまで譲歩してもらえるだけ、ありがたいと思え」
手に何一つ役がないのに、勢いとハッタリだけで勝負を進めようとするその姿勢は立派だ(やはり血筋だな、という感想は口にしないでおく)。しかし、それもここまでだ。
わたしはアンドレアの肩に手を置いた。
不審そうに振り返るアンドレアに向かって、わたしはとっておきの声を出した。
かつてわたしは歌い手としてのボイストレーニングを受けたことがある。その気になれば、すばらしく良く響く堂々たる声が出せるのだ。
「わたしは《市の鍵》を持つ者として、貴殿に命じる、カイトウ署長。わたしと共に市議会議事堂へ入ってはならない。わたしが戻るまで、車の中で待機していてもらいたい。これは命令だ。わたしは一人で議事堂へ入り、議案を提出する」
「……!」
アンドレアは、表情筋こそほとんど動かさなかったが、すさまじい怒りの瞳でわたしを睨みつけた。
――いくらわたしがクテシフォン市の全権を与えられていたとしても、ふだんのアンドレアなら絶対にわたしの命令など聞かない。
しかし今回は、《市の鍵》を持つ者としてのわたしの権威を前面に押し出す作戦をとっている。だから今、テロリストたちの前で、わたしの権威を少しでも貶めるような言動をとるわけにはいかないのだ。作戦上、わたしはあくまで、市長や議員の権力さえ上書きできる全権者でなければならないのだから。
わたしは目を丸くしているブレア警部補に向き直った。
「きみにも命令だ。わたしが議事堂にいる間、きみの上官が予定外の行動をとらないよう、しっかり見張っておいてくれ」
「りょ……了解致しましたぁ、名誉市長殿!」
ブレアは軍人も顔負けなほど完璧な敬礼をきめてみせた。
元の場所にたたずんだまま、凶悪きわまりない目つきでこちらを睨んでいるアンドレアに向かって、わたしは片目をつぶってみせた。
そして軽い足取りで階段を昇りきった。目の前では議事堂の玄関がぽっかりと不吉な口を開けていた。
たまには、わたしにも格好つけさせろよ、アンドレア。
父親らしいところを見せるチャンスをくれ。
賦活剤で体をだましながらようやく立っている状態のおまえに、これ以上危険を冒させるわけにはいかない。
さあ、一世一代の大芝居の幕開けだ。
二千万人の観客を擁する大ステージだ。舞台として不足はない。
おまえの描いた奇想天外なシナリオを、完璧に演じきってやる。
わたしぐらいの年齢になるとあれこれ雑念が入り過ぎて、「国のため」「平和のため」などというきれいごとでは体を張れなくなるのだが。
欲しいものは、おまえからの拍手喝采だけなんだ。「上出来だ」と言わせたいんだ。
そのためなら命だって賭けられる。
銃を構えた若者に背後から見張られつつ、階段を昇り、東棟の本会議場へ入った。本会議場は緑色を基調とした落ち着いた内装だ。部屋の奥にある演壇がいちばん低くなっていて、演壇を中心とした半円状に配置された座席は、後ろへ行くにつれて徐々に高くなっていく。どの座席からも演壇がよく見下ろせる構造だ。
わたしは入口でいったん足を止めた。
その高い位置から、シャンデリアに照らされた場内を一望した。
演壇に立つコンラッド・テイスペス准教授。
演壇の周囲の床に、身を寄せ合って座っている議員と議会職員たち。
彼らを取り囲むように、少し高い位置で油断なく銃を構えて立ち並ぶテロリストの若者たち。
それらすべてを視界に収めて、わたしはさざ波のような興奮と高揚が身の内を駆けめぐるのを感じた。
大丈夫だ。多少緊張してはいるが、怯えはない。心は澄みきっている。
ベルトに装着したARFジェネレータをちらりと見下ろし、作動状態を示す赤のライトの点灯を確認した。ほんの気休めだ。ARFがあれば、一発、二発撃たれたぐらいなら射線を無効化できる――何丁かの銃で集中射撃を浴びたら、そうはいかないが。
わたしは昂然と頭を上げ、場内の全員の視線を受けながら、通路をゆっくりと下った。
床に座り込んでいる者たちの恐怖に彩られた顔が、わたしの移動に従って向きを変える。彼らの目には、救世主を迎えた希望の光、などはない。ただ重苦しい絶望だけだ。わたしは顔見知りの議員たちに会釈しながら彼らの間を通り抜け、演壇に達した。
演壇に立っているテイスペス准教授は、黙ってわたしにマイクを譲った。
録画で見たときは巨漢のような印象を受けたが、実際の准教授は意外と小男で、わたしより頭一つ分背が低かった。あれほど流暢で堂々たる弁舌を繰り広げた人物なのに、その血色の悪い顔に浮かんでいる表情は恐怖に似ている。いったい何を恐れているのか? 何十人もの武装集団を従えているリーダーが?
わたしはマイクの前に立ち、議場を見渡した。
思い出せ。思い出すんだ。オレイユ星系で教わった、人を魅了する歌い手の発声法を。プディクク星系で役者の真似ごとをしていたときに学んだ、舞台映えする姿勢と物腰を。今こそわたしの持つすべての技量を発揮するときだ。
「わたしはカイトウ名誉市長。二年前に、そこに座っておられるザカリア市長から《市の鍵》の贈呈を受け、この市の全権を付与された者だ。
今、この議事堂の外では民衆が荒れ狂っている。長年積もり重なった不満が爆発し、止められない奔流となって渦巻いている。こんなにも大きな不満を市民に抱かせる社会は、あきらかに、正しい社会ではない。変革が必要だ。その事実から、もはや目をそらせることはできない。
わたしは全権を付与されているとは言え、現政権の政体を変える力は与えられていない。だからこそ、今ここに、市議会に提案しに来たのだ――改革を。わたしがこれから述べる議案を、議員の皆さんは検討してもらいたい。もしも議員の皆さんがわたしの議案に賛成してくださるなら、合法的かつ円滑な形で改革が成し遂げられるだろう。真の意味での《無血革命》だ。
そして、わたしは、テイスペス准教授率いる分離独立派の諸君にもわたしの議案を検討してもらいたい。分離独立派の諸君。おそらく、今ここにいる諸君のほとんどは政治学を学んでいる者だろうから、理解しているだろう。きみたちがこのように市議会を占拠し、憲法の停止やパールシー王国からの独立を叫んでも、それはなんの正統性をも持たないということを。きみたちは、言葉は悪いが、たわごとをほざいている無法者の集団に過ぎない。本来であれば防衛軍が一六〇〇時ジャストにこの議事堂へ突入してくることになっていたのだ。人質の安全を顧みない軍の攻撃の前に、きみたちは手もなく全滅していたことだろう。わたしが止めなければ。
そう。わたしが防衛軍の突入を止めたのだ。平和的な解決の可能性が、まだ残されていると信じているからだ。
きみたちはわたしの言葉を聞くべきだ。分離独立派の諸君。そして無血革命について検討すべきだ。クテシフォン市民の幸福……それこそが、われわれ皆の共通の目標だからだ。われわれは、きっとわかり合える」
わたしがいったん言葉を切ると、バターナイフで切り取れるほど濃密な沈黙が場を満たした。しわぶき一つ聞こえなかった。
この広々とした議場を自分の声だけが支配しているという事実に、一瞬恐慌に近い恐怖を覚えたが、わたしは己を励ましてさらに声を張り上げた。
「クテシフォン市民の大半が、自らを不幸だと感じ、不満を募らせているのはなぜだろう? われわれのこの街の、どこがいけないのだろうか?
経済的格差。たしかに、それも大きな原因だろう。クテシフォン市はパールシー王国の中で最も貧富の差が大きい街だ。わたしはこれまで銀河連邦内のあちこちの国を旅してきたが、豊かな者たちの繁栄と、持たざる人たちの貧困が、これほどまでに強烈な対比をなしている街は見たことがない。
低層七区などとひどい呼ばれ方をしている市西部の一帯。特に西区では荒廃とスラム化が進んでいる。わたしもかつて西区で暮らしていたからわかる。議員諸君の住居のある港北区などと比べてみると、とうてい同じ市内とは思えないほどだ。低層七区の人々がどんなに困っているかについては、わたしがここで語らなくとも、分離独立派の諸君の方がよく知っているだろう。貧困と無知との組み合わせは想像を絶する悲惨を生み出し得るのだ。今回の騒動が収まったら、わたしは議員諸君の全員に、西区で一か月生活することを命ずるつもりだ。西区区民の平均月収と同じ金額でどのような暮らしができるか、実地に経験してみるといい。為政者に必要なのは経済データではなく実体験だ……今の市の福祉政策を見る限り、議員諸君は低層七区の現状を理解しているとはとても思えないからな」
驚いたことに、銃を構えた《分離独立派》の若者たちの間から、軽い笑い声があがった。
彼ら自身、自分たちが笑ってしまったことに驚いた様子で、すぐに険しい表情を取り繕ったが。
わたしの言葉は彼らに届き始めている。その事実に勇気づけられ、わたしは懸命にしゃべり続けた。
「しかし……わたしは思うのだ。人間の真の不幸は、希望を持てないことにあると。経済的な困窮は二次的な要素にすぎない。『明日が今日より良くなる』という思いを持てないこと。それどころか、今日持っているわずかな物さえ明日失うおそれがあると感じること。それこそが人間の心を砕き、荒ませる原因なのだ。
人が明日への希望を持てない社会。広い銀河系宇宙には、そのような社会はたくさんある。例えば、戦乱に引き裂かれた国。無政府状態の国。暴君に支配された国。そういった地域では、人々は明日の命すら知れない状態で、日々怯えながら暮らしている。
しかし、パールシー王国は、ときおり自由都市間の小規模な紛争はあるものの、おおむね平和な国家だ。先の銀河大戦にも中立を守り、対外戦争のない状態がもう百年近く続いている。そのような平和な国で、人はなぜ希望を抱けず、不満をかこち続けるのか?
……わたしは経済学者でも社会学者でもない。理論的なことはわからない。ただ、これまで数えきれないほどの国を旅し、数えきれないほどの社会を見てきた。地に足のつかない根なし草。しかし、根なし草だからこそ、見えるものもある。
『努力すれば報われる』。人々がそう信じることができない社会は、不幸な社会だ。
がんばれば、明日は現在より良いものになる。すぐに結果が出ないとしても、努力すれば、良い方向へ進んでいける。そう信じるからこそ、人は努力をするし、明日に希望を抱くことができる。健全な勤労意欲も生まれる。
努力しても報われない。がんばっても無駄だ。そんな社会のどこに希望があるだろう。運悪く『持たざる側』に生まれた人たちは、社会を憎む以外に何ができるというのか?
――クテシフォン・シティに必要なのは、教育制度だ。
教育は、人が社会に厳然と存在する格差を乗り越えていくための、唯一の手段だ。教育がなければ、知識がなければ、人は努力の仕方さえわからない。自分に可能性が秘められていることや、その可能性を伸ばしていく方法さえ、知らないままだ。教育が人に、前へ進むための手段と力を与える。そこから初めて、希望が生まれる。社会を憎むことしかできなかった人々も、希望を胸に、自分の明日をより良いものにするための努力を始めることができる。
すべての子供たちに義務教育を。そして貧しい家庭の子供たちにも、高等教育の機会を。教育制度の充実こそが、今のこの社会を変えるために、最初にやらなければならないことだ」
わたしは、演壇のすぐ下に座っている議員たちの強い視線を感じた。彼らは真剣な表情でこちらを見上げていた。
今のところ、わたしが語っている内容は、それほど目新しいものではない。これまでも様々な学者や政治家が、クテシフォン市の教育制度を充実させるべきだと主張してきている――実現に至ったことはないが。つまり、わたしの議案は議員たちにとって、現実問題として検討することの可能な、常識の範疇の話なのだ。議員たちは実務的な関心を持って、わたしの話に耳を傾けているのだ。
「国王一家と貴族をクテシフォンから追い出し、市民の完全普通選挙による市政の運営を実現すれば、より良い社会が生まれるだろうか? ……《分離独立派》の諸君には申し訳ないが、答えはノーだ。完全普通選挙を基盤とする民主主義が必ずと言っていいほど崩壊し失敗に終わることは、あらゆる星系国家の歴史が証明している。大衆の本質は無責任だ。そのような大衆に、ただ漠然と“主権”を与えても、行使できるはずがない。為政者が無責任な民意に振り回されて衆愚政治に陥るか、あるいは、大衆が政治に興味を失い、選挙にさえ行かなくなる結果、民意を反映しない政治が横行することになる。……『民主主義』や『平等』といった概念はいかにも口当たりが良いので、失敗するとわかっていても、人は何度もチャレンジせずにいられないのだが。
現在の我が国の国王主権が悪いわけではない。主権の所在はそれほど問題ではない……主権が国民の幸福のために行使されるのであれば。
そして現在のわが市の制限選挙制度が悪いわけでもない。『納税と選挙権は表裏一体のもの』という考え方は、ある意味、筋が通っている。高額の税金を納める人ほど、その税がどのように政治に使われるか、強い関心を持って眺めることができるだろう。わたしの知る限り、完全普通選挙を敷く地域では選挙の投票率は低いが、クテシフォン市のように納税額による制限選挙を行っている地域では、投票率はおおむね高い。民意が反映された政治が行われているわけだ。
ただし、義務教育制度のない地域で、納税額による制限選挙を行うことは、決定的に社会の格差を固定する……貧しい人たちは教育を受けられず、高い収入を得られる仕事に就くチャンスすらない。その上、政治に声を反映させる手段も持たない。一方、裕福な人たちは金にあかせて高度な教育を受け、良い仕事に就いて高い報酬をもらい、政治を思うままに動かす。完全な富裕層中心の政治だ。そしてそれが、今のクテシフォン・シティの現状なのだ。
教育制度を充実させないまま市民主権を宣言し、完全普通選挙を実施しても、生まれるのは混乱だけだ。教育を受けていない貧困層は、与えられた選挙権をきちんと行使できないだろう……日々の生活に追われるあまり、政治に関心すら示さないかもしれない。
教育制度の充実。それこそが急務だ」
議場はあいかわらず静寂に満たされていた。目を閉じれば、この広大な空間にはだれもいないのだと信じることもできただろう。しかし、わたしは百八十人の注視を浴びていることを、いわば皮膚感覚で感じていた。無言の視線が錐のようにわたしに突き刺さっていた。特に、演壇のすぐ近くに立ってこちらを凝視しているテイスペス准教授の目は、まばたき一つしていないのではないかと思えるほどだった。
「市民が明日への希望を持てる社会。それを実現するためには、他にもいろいろ実施しなければならない政策がある。公共事業による雇用の創出。職業訓練制度の普及。困窮した人、弱い立場にある人などが社会から振り捨てられないようにするための社会福祉の充実。……すべて、これまで語り尽くされてきたことだ。わたしは何一つ目新しいことなど述べていない。ただ、どれも、これまでのクテシフォン市政府が手をつけずにきたことだ。先ほども言った通り、このクテシフォン・シティでは富裕層中心の政治が行われてきたからだ。議員諸君、あなた方は否定できるだろうか? 市内の貧困層をこれまでないがしろにしてきたことを? 『経済の発展が全体の幸福をもたらす』という時代遅れな経済偏重主義のもと、大企業を優遇し、富裕層をさらに豊かにする政策にばかり力を入れてきたことを? あなた方はおそらく、市内における貧困層の存在など、意識したこともなかったのではないか? つまるところ彼らは有権者ではないのだから。そして、その傲慢と怠慢のツケが今、怒れる市民の爆発となって返ってきているのだ」
わたしはいったん言葉を切り、場内を見回した。
場内の全員の注目を漏らさず集めていることを感じ取り、満足して微笑んだ。
ここからが見せ場だ。わたしは主演男優の激情をもって声を震わせ、張り上げた。
「わたしは貧しい人たちの暮らしを知っている。わたしは富み栄える人たちの暮らしも知っている。わたしは、わたしこそが市民すべての代弁者として改革を実行する資格を備えていると考える。実現したいのは『すべての人が明日への希望を持てる社会』だ。そのために必要な施策があれば、《市の鍵》によって与えられた全権をもって、わたしがただちにそれを実施する。わたしがこの市の政治を変えていく。この手で。
教育制度の改革。社会福祉の充実。単純労働者の雇用を生み出すための公共政策。わたしが命令したからといって、すぐさまそれらを実施できるわけではないだろう。まず必要なのは資金だ。
そこで、わたしは《市の鍵》を持つ者として、今年度のクテシフォン市政府の歳出予算の変更を命じる。クテシフォン市による、パールシー王国政府機構の運営費の拠出を、本日をもって停止する。クテシフォン市は今後一切、王国政府の運営費を負担しない。また、貴族院の議員である貴族たちが屋敷を構えている土地を、現在クテシフォン市から無償で貸与しているが、その無償貸与も停止する。貴族たちには、周辺の地価に見合った相当な金額の地代を請求することになる。
これは、提案ではない……決定事項だ。《市の鍵》を持つ者であるわたしが、今ここで、そう決定したのだ」
場内にどよめきが轟いた。
「何だと」「そんな」「なんてことを」
――議員たちからもテロリストたちからも、抑えきれない驚愕の声があがる。
テイスペス准教授だけは、蒼白に近い顔で、ひとことも発せず固く唇を結んでこちらを凝視していた。
「皆さんはたぶん、こうお思いだろう。……そのような勝手な行いを貴族たちが許すはずがない。貴族院はすぐさま、いわゆる王国軍――貴族たちの連合軍を結成し、王国に反逆したクテシフォン市に侵攻してくるだろう、と。貴族連合軍の兵力は圧倒的だ。わが市の防衛軍ではとうてい勝ち目はない。
しかし現在、貴族院の議員のうち百名近くは獄中にある。わが市の刑法に違反した容疑で市警に拘束されているのだ。そして、残された貴族院議員たちの混乱ぶりは、毎日マスコミで報道されてきた通りだ。現在、貴族たちは一致団結して連合軍を結成できる状態にない。
じつは現在、わたしは貴族たちと水面下の交渉を続けている。パールシー王国政府の運営費を、王国の大臣たちが分担して支出するという規定を設けるよう、王国憲法を改正してもらうための交渉だ。それによりクテシフォン市は、王国政府の運営費の負担から永遠に逃れられる。貴族たちがそんな案に同意するはずがない、と思われるかもしれないが……交渉は非常に順調に進んでいるのだ。わたしには、貴族たちを説得する奥の手があるのでね」
ハッタリだった。まったく、途方もない、嘘八百だ。わたしの人生の中でも一、二を争う大法螺と言ってもいい。
しかし、皆はわたしの言葉を鵜呑みにしたようだった。議場に興奮と高揚が湧き上がってくるのをわたしは肌で感じ取った。まさかこのような緊迫した状況下で、ここまで堂々と、こんなにも大それた嘘をつく人間がいるとは、だれも思いもしなかったのだろう。
わたしは、自信たっぷりに見えることを祈りながら、こちらを注視するすべての顔を見渡した。
「わたしは《市の鍵》によって、改革を実施するための全権を与えられている。何者もわたしを止めることはできない。“上の決裁”だの“規定の手続”だの“所轄官庁の承認、許可”だの、改革を妨げ遅らせるような一切のお役所主義を、わたしは飛び越えられる。
しかし、わたしの権力は万能ではない。先ほども言った通り、わたしは現在のクテシフォン市の政体を変更できない。組織の追加や変更、公務員の任免などはわたしの権限外だ。 また、わたしは正直言って、政治や経済にかけては素人に近い。具体的な政策の策定にあたっては行政の専門家の助言が必要だ。
わたしが今日、市議会に提案しに来たのは、『暫定政府設置』の議案だ。わたしを補佐し、わたしと共に改革を実施してくれる暫定政府を設置するための法律を、市議会で制定してもらいたいのだ。制定後は、現在の市政府に代わって、暫定政府が市政を運営する」
わたしは、演壇のかたわらに立つテイスペス准教授に向き直った。
「そして、テイスペス准教授。わたしは、できればあなたに暫定政府に加わってもらいたいと考えている。弱い立場にある人たちを支えるための政策については、わたしよりあなたの方がはるかに検討を重ねてきているはずだ。武器を置いてくれ。市内で無益な戦いを続けているあなたの同志にも、銃を置いて投降するよう呼びかけてくれ。……もう、市民同士で傷つけ合い、血を流す必要などないはずだ。改革は今、始まったのだから。
そして、市議会の議員諸君。どうか公平な目でわたしの議案を吟味してほしい。あなた方の支持母体である経済団体や企業がどう思うかなど……事ここに至っては些末な問題ではないか? すべての秩序が足元から崩壊しつつあるのに、ちっぽけな利権にこだわるのか? 市民はあなた方のこれまでの政治に『否』を宣言したのだ。改革を決意しなければ、クテシフォン市に明日はない。わたしの議案を承認してくれ。暫定政府の設置を決定してくれ。改革を行うために。いつかきっと、あなた方の勇気を、多くの人々が称える日が来るだろう。さあ、議長!」
議長は立ち上がり、「それでは、カイトウ名誉市長の議案に対する表決を取ります」と定例の口上を述べ始めた。緊張のあまり口の中が乾いているのか、声を出せるようになるまでに議長は何度も咳払いしなければならなかった。その間にも、すでに議員たちの間から「異議なし!」「賛成!」の声が次々と発せられていた。
「議案に賛成する議員は起立してください」
議長のその言葉が終わるか終らないかのうちに、全員の議員が立ち上がっていた。
「賛成多数につき議案を可決します……!」
議長の声は、議場を埋め尽くした激しい歓声に飲み込まれた。議員もテロリストも全員が叫んでいた。歓声は高い天井にこだまし、シャンデリアを揺るがせた。わたしは演壇に棒立ちになったまま、わたしの言葉が引き起こした熱狂を眺めていた。
コンラッド・テイスペス准教授が演壇に上がってきて、わたしの手を固く握った。
歓声が耳を聾せんばかりに高まった。銃を捨てたテロリストたちが泣き笑いの表情で互いに抱き合い、背中を叩き合っていた。
わたしはふうっと息を吐き、気合を入れ直した。
とりあえず第一幕が成功し、市議会議場の真ん中で蜂の巣にされずに済んだので、安堵のあまり腰が砕けそうだ。だが、ほっとするのはまだ早い。わたしにはまだ、演じなければならない第二幕が残っているのだ。
わたしはテイスペス准教授を促して演壇を下り、興奮に頬を紅潮させている議長に歩み寄った。
「街頭テレビで市民に呼びかけたい。暫定政府が成立したことを知らせて、暴動を止めさせたい。どうすればいいのかな?」
「西棟に特別スタジオがありますから、そこから中継できます。スタジオの準備に十分ほどかかりますが、それが済んだら、すぐに放送できます。私の方から市営放送局には連絡を入れておきましょう」
「あなたも……そしてコンラッドも。――コンラッドと呼ばせてもらってもいいかな? わたしたちはもう同志なのだから。――二人とも、わたしと一緒にテレビに映ってください。そして、議事堂の近くにカイトウ署長とターフメイン大元帥が待機しているはずなので、呼びに行かせてください。彼らにも顔を出してもらわなくては。わが市の実力者が揃って暫定政府を推していることを、市民に見てもらいたいのです。お願いできますかな?」
議長は大きくうなずき、さっそく周囲の若手議員たちに指示を出し始めた。
わたしは人込みに交じって、ディオン・ザカリア市長の姿を見つけた。市長は周囲の熱狂に加わろうとせず、床に座り込んだままだった。頭を垂れ、体を二つに折っている。まるで涙を隠しているかのように。
「悪く思わないでくれ、ディオン。あなたの職を奪うような形になってしまった」
わたしはできるだけ軽い口調を心がけた。
「経験豊かなあなたの助言は貴重だ。これからもアドバイザーとして、暫定政府を支えていってくれないだろうか。より良いクテシフォン市を築くために。さあ、顔を上げてくれ、ディオン。……ディオン?」
ざわめきを縫って、ザカリア市長の口から洩れている獣のような低いうなり声が、かろうじてわたしの耳に届いてきた。
わたしはかがみ込み、市長の肉厚の肩に手を置いた。苦悶に歪む市長の顔が目に飛び込んできた。両手の拳を、完全に見えなくなるぐらいまで深々と胴の贅肉にめり込ませている。それほど強く、自分の腹を押さえているのだ。
この苦しみようは、ただごとではない。
わたしは立ち上がり、叫んでいた。
「救急車を……だれか、急いで救急車を呼んでくれ!」




