第28章(2)
第28章(2) アンドレア・カイトウ署長
「入っちゃだめですってばぁ! 署長は今、大事な電話中なんですから」
制止するブレアの手を振り切り、名誉市長は思いつめたような目をして、ずかずかと室内に入り込んできた。
その間抜け面を見たとたん――解決策を求めて猛回転していたぼくの脳が、数か月前に聞いたせりふを記憶からよみがえらせた。
『こないだなんか、市議会で発言もさせてもらったぞ……ザカリア君にやれることで、わたしにできないことはないと言ってもいいぐらいだ』。
この男に対する反発が常に先に立っていたから、「名誉市長」なる存在の法的な地位についてまじめに検討したことがなかった。もしかすると、この男は意外と権限を持っているのか?
ぼくはデスクトップを操作してミズ・グレイスバーグを呼び出した。
「アンネ・ロックザイン卿を至急つかまえてくれ。元事務次官の」
その時、名誉市長の存在を完全に失念していた。
気がつくと、やつはデスクを回り込んでこちらへ近づいてきていた。ぼくの椅子のすぐ傍らでしゃがみ込み、床に膝をついたので、やつの目線の高さがぼくと同じになった。不穏な気配を感じ、やつの顔面に肘打ちを喰らわせてやろうとしたが、その動作が傷に障るのではないか、という思いから一瞬ためらった。それが、失敗だったのだ。
「アンドレア……! よかった……!」
名誉市長はいきなりぼくを抱きしめた。
安酒の臭いが立ちのぼり、ぼくを包んだ。
「やめろ。何の真似だ。死にたいのか?」
ぼくは反射的に、顎に掌底突きを入れて名誉市長を押しのけた。やつは床に尻餅をついた。
「自殺したいんなら、酔っ払いらしく、そのへんの道端にでも転がってろ。すぐに群衆に踏まれて圧死できる。……バーンズ! 『いい光景を見た』みたいな顔をして、眼をうるませるのはやめろ。不気味だぞ」
「ロックザイン卿との回線がつながりました。そちらへ回します」
ミズ・グレイスバーグの言葉と同時にデスクトップに新しい画面が開き、健康そうに丸々と肥えた頬を持つごま塩頭の女性が大写しになった。
デイム・アンネ・ロックザインは長年にわたり事務次官を務め、先日定年で退官したばかりの市政府の重鎮だ(「卿(サー/デイム)」の称号は、クテシフォン市政府の高官を一定の年数以上務めると国王から儀礼的に授与されるもので、たいした意味はない)。行政先例に関する知識にかけては右に出る者がなく、現役の頃は「歩くデータベース」と重宝がられていたと聞く。
ロックザイン卿の顔には怯えの色が見えた。背景の様子からすると自宅の書斎にいるようだが、外出用のコートまでしっかり着込んでいるのは、おそらく、暴徒が家に乱入してきた場合すぐに逃げられるよう備えているのだろう。
「私に取り急ぎ御用とのことですが。この事態の解決に役立つことでしたら、何でも協力しますわよ。さあ、用件をどうぞ」
怯えながらも彼女の口調は毅然としていた。
「行政法的な観点から見た、名誉市長の権限を教えていただきたいのですが」
ぼくの質問に、ロックザイン卿は虚を突かれたような表情を見せたが、答えは淀みなく発せられた。
「名誉市長とは、純粋に儀礼的な呼称であって、そのような正式な官職名があるわけではありません。行政法に『名誉市長』に関する規定は存在しません。『市長に準ずる者』にさえ該当しないでしょう」
「やはり……そうですか」
「しかし、ライバート・カイトウさんについては話は異なります。この方は、《市の鍵》の授与を受けておられます。《市の鍵》は、わが国において自由都市制度が成立する以前より存在していた慣行が元になっており――古くはアルダシル八世統治下の《王の鍵》に由来すると考えられています」
卿はぼくの目をまっすぐ見て、単語をはっきり区切った明確な口調で結論を告げた。
「《市の鍵》が意味するのは、全権の委譲です」
その言葉は爆弾のように響いた。
「全権とは……クテシフォン市の行政権、ということですか?」
「行政権にとどまらず、立法権、司法権……つまり、自由都市であるクテシフォン市が持つすべての権力、ということです。《市の鍵》の授与は『あなたにこの市のすべてを委ねる』という意思表示なのです。歴史をさかのぼると、《市の鍵》を授与された者が、その権力を実際に行使した例はいくつもあります。他の自由都市での話ですが。そのような権力行使を法的に有効だと認めた王国審判院の判決もあります」
いつの間にか卿の顔から怯えが消えていた。目前のテーマに熱中するあまり、外部の状況を忘れたらしい。むしろ、動揺しているのはぼくの方だった。顔に出さないよう注意してはいたが。
投了寸前の不利な盤面に、いきなり最強の駒が出現した。
今の状態をチェスにたとえるなら、そう表現できるだろう。
ロックザイン卿の説明は続く。
「もちろん若干の制約はあります。《市の鍵》による全権の委譲は、現体制が特恵として行うものです。ですから、授与された権力は、現体制を尊重する形で行使されなければならないとされています。《市の鍵》を使って、現在の政体を損なうような行為――つまり、制度の変更や公務員の任免などを、行うことはできません。また当然のことですが、《市の鍵》はカイトウさん個人に与えられたものですから、その権力は属人的です。譲渡、相続することはできず、他の人間による代理行使も認められません」
「……そんな重大な権限を、こんな無責任な男に与えるなんて、少し軽率に過ぎやしませんか」
ぼくの言葉に、卿はちらりと苦笑いを浮かべた。
「あの当時は、ゾフィー皇太子ご帰還のニュースに、国じゅうがお祭り騒ぎでしたからね。それに、皇太子を連邦軍から救出したカイトウさんの功績は、やはり《市の鍵》の授与に十分値するものでした。そのおかげで我が国は悲惨な大戦に巻き込まれずに済んだのですから。……まあ、正直なところ、専門知識のない方に市政に介入されては混乱を招きますので。私たちも《市の鍵》の効力について、カイトウさんにはっきりとはお伝えしなかったのです。あくまで儀礼的なもの、という姿勢を保ちました」
不意に、彼女の目が威圧的に光った。
「ライバート・カイトウさんの取り扱いについては……《市の鍵》の授与の直後に、市内の全行政機関に通達を出しました。もちろん市警にもです。あなたも読んでいるはずですよ、カイトウ署長?」
「ああ。読まずに廃棄したんです、そう言えば。あまりに不愉快だったので」
二年ほど前、回覧された通達に「ライバート・カイトウ名誉市長」の文字を見つけたとたん反射的にデータシートを破壊してしまった時のことを、ぼくははっきりと思い出していた。
ロックザイン卿は、化粧っ気のない唇をへの字に結んだ。現役の頃なら、ここで叱責の言葉のひとつも飛び出してくるところだ。しかし彼女も、自分がもう現役ではないことを思い出したのか、穏やかな表情に戻って「《市の鍵》の歴史と位置づけに関する文献を送りますわ。あなたもお忙しいでしょうから、目を通す暇があるかどうかはわかりませんが」とだけ言った。
ぼくは卿に礼を言って通信回路を閉じた。
脳の神経が焼け切れそうなぐらい、頭の中はフル回転していた。
名誉市長はすでに立ち上がり、顎をなでたり頭を軽く振ったりしていたが、ぼくが思考をまとめてやつに向き直るまで口を閉ざしているぐらいの分別は持ち合わせていた。
「今日は、いつもみたいに『さっさと帰れ』と言わないんだな、アンドレア」
冗談めかした口調。ゆったりと落ち着いた態度。
その冷静ぶった面の皮がどれぐらい分厚いものか、この目でたしかめる機会が来たようだ。
「あんた、今、どの程度酔ってる? 素面でもたいしてまともとは言えないから、見た目じゃ判断できない」
「酔ってなどいないさ、これっぽっちも。……酒くさいのは、服に酒の臭いがしみ込んでるせいなんだ。すまん。急いでいたので着替える暇がなかった」
「あんたにひとつ訊きたい。この街を救うために、体を張る覚悟はあるか。前にたしか、『手の届く範囲はすべて守りたい』とかなんとか言っていたようだが」
「も……もちろんだ。わたしにできることなら、何だってやってみせるさ」
「あんたは、口から先に生まれたような天性の詐欺師で、舌先三寸で人を欺き、自分にとって都合のいい方向へ誘導する手管に長けた最低のろくでなし野郎だが……あんたのそのペテンの才能を生かして、やってもらいたいことがある」
ぼくは、名誉市長の充血した双眸の奥をのぞき込んだ。
「手玉にとってみせろ。全クテシフォン市民を」
褒められているのかけなされているのかわからないよ、とぼやく名誉市長を黙らせ、バーンズとブレアを部屋から出してから、ぼくは計画を説明した。
「あんたにやってほしいことは、市議会で議案を提出し、議員連中にそれを承認させることだ。議案の内容は、ぼくが考える。あんたはそれに適当に肉付けして、議員たちに受け入れさせろ」
「ふーむ……まあ、できなくはなさそうだな。議案の提出なら前にもやったことがある。問題はないと思うぞ」
「あんたが丸め込まなければならないのは議員だけじゃない。現在、市議会は、四十名の分離独立派の武装テロリストに占拠されている。あんたはそのテロリストたちにも、議案を受け入れさせる必要がある。もし、やつらを丸め込むのに失敗したら、あんたは議場の真ん中で蜂の巣にされるだろう。そうなるのがいやなら、真剣に取り組むことだな」
「ふーむ」
名誉市長は、先ほどまでの快活さをやや失った口調でつぶやいた。それきり、しばらく考え込んだ。
「何だ。おじけづいたのか?」
ぼくの問いかけに「まさか! わたしはピンチの時ほど燃える性質なんだ」と名誉市長は答えたが、それはどう見ても嘘だった。ぼくのデスクと、名誉市長の腰かけているソファとの間には若干の距離があったが、それでも動揺の様子は明白だった。
「市議会を占拠しているテロリストは、見たところ学生ばかりだ。ただ一人気をつけなければならないのは、こいつだ。分離独立派の指導者のコンラッド・テイスペス。クテシフォン市立大学の政治学研究科の准教授だ」
ぼくは議事堂内部の映像を名誉市長に示し、演壇に立つ小太りの男を指さした。
「学生どもはこの男に心酔しているらしいので、もしこの男の説得に成功すれば、全員をこっちのものにできるだろう」
「学者先生をだますのか? それはなかなか手ごわそうだな」
「この男の演説の映像があるから、それを聞いて分離独立派の主張を分析し、何を差し出せばやつらが折れるかを推測しろ。カモが何を欲しがっているのかを察して、それをカモの鼻先にぶら下げてやるのが、詐欺師の常道だろう? あんたの得意分野のはずだ」
「人聞きが悪すぎるぞ、アンドレア。おまえは誤解してるようだが、わたしは詐欺師じゃない……」
「そういう不毛な議論をしている時間はない。あんたの詐欺師としての手腕を高く評価してる、と言ってるんだ。なんとかやってみせろ。市の平和がかかってる。ああ、あと、あんたの命もな」
「なんてひどいやつなんだ……!」
市議会で提案すべき議案を書いたデータシートを手渡そうとして、ぼくはふと思い直した。もうひとつ、早急に手を打つべき問題がある。
「その前に、あんたに別の仕事がある。今から防衛軍のターフメイン大元帥に電話するから、あんたはできるだけ偉そうにふんぞり返って、こう言うんだ……」
「わたしは《市の鍵》を持つ者として、貴殿に命じる。非常事態宣言を出してはならない。戒厳令を布告してはならない」
名誉市長の朗々たる声が響きわたった。
なかなか立派な押し出しであることを認めざるを得なかった。酒の臭いをぷんぷん振りまいている、くたびれきった二日酔いの男とは思えない。背筋を伸ばし、いかめしい表情を作った名誉市長は、逆らえない威厳を発散させていた。ターフメイン大元帥の合成音声よりも、よほど迫力のある声だ。
大元帥は唇をひき結び、あきらかに困惑していた。
軍にしてみれば、まったく予想外の事態だっただろう。
「クテシフォン市政は、わたしが掌握した。これからザカリア市長と市議会議員の救出に向かう。防衛軍は即刻、議事堂を包囲している部隊を解散させたまえ。本日、議事堂の周囲一マイル以内に防衛軍の兵士が立ち入ることを禁止する。ただし、ターフメイン大元帥……貴殿だけは、すぐに議事堂に来てもらわなければならない可能性があるので、近くで待機していてもらいたい」
「了解致しました、名誉市長閣下」
不機嫌さをあらわにしながらも、はっきりした口調で大元帥は答えた。上官からの命令に応じずにいられない軍人の性かもしれない。
通話を切ると、名誉市長は満面の笑みでぼくに向き直った。「うまくやっただろう?」と言わんばかりに瞳を輝かせている。
たしかに上出来だったが、それを認めるのもしゃくにさわる。
「それぐらいのことで喜ぶな。いちばん難しい舞台はこれからだぞ」
「なあ、アンドレア。ふと思ったんだが……わたしは、もしかして、おまえにも命令できるのか? 《市の鍵》があれば?」
ぼくは最大限の殺気をこめて、やつを睨み返した。
「ぼくの自制心に負荷をかけるような真似はやめろ。自分で言うのも何だが、たいした自制心じゃない」
「ああ……まあ……そうだろうな」
「これが市議会に出す議案だ」
ぼくはデータシートを名誉市長に渡した。
それほど長い文章じゃない。読むのに一分とかからないはずだ。
それでも、やつはしばらくデータシートから視線を上げなかった。
ぼくは窓の外、超高層建物群の隙間に見える王宮の屋根を眺めていた。王宮周辺にはしきりと黒煙が立ちのぼっていた。デスクトップに表示された市内の治安レベルの概況図は、ほぼ全域が真っ赤に染まっていた。それでも室内はしずかだった。
「本気で、この内容を、市議会で可決させようというのか?」
名誉市長がデータシートに視線を落としたまま尋ねた。あらゆる虚勢を取り払った、素の真剣な口調で。
ぼくはうなずいた。
「ああ。他に方法はない」
名誉市長とぼくが署長室を出ると、控室に待機していたバーンズ副署長とブレア警部補が揃ってこちらを見た。
「ちょっと市議会まで行ってくる。革命を止めに」
ぼくがそう言うと、ミズ・グレイスバーグがショックを受けたように口を手で覆った。常に冷静沈着な彼女にしては珍しい仕草だった。
バーンズが気色ばんで一歩前進し、何か言いかけた。しかし、ぼくと視線を合わせたとたん、急に考えを変えたようだった。理由はわからないが。浮かびかけた興奮の色が、バーンズの丸い顔からすーっと引いていった。
「……勝算はあるんですか」
ひとことだけ発した。他の言葉はすべて呑み込もうと決めたかのように。
ぼくは即答した。
「もちろんだ。勝ち目のない勝負はしない」
一パーセントでも勝ち目があれば、勝負に打って出るのがぼくの主義だが、それは言わない方がいいだろう。バーンズは重々しくうなずいた。
「ちょっと待ってくださいよぉ、副署長。なんで認めちゃうんですかぁ? 行かせられるわけないでしょ、テロリストどもが占拠してる議事堂なんかに!?」
ブレアが大声を張り上げた。大股に移動し、ぼくたちの進路を遮った。
「いい加減にしてください。どうせ市議会に突っ込んでテロリストを皆殺しにしようとか考えてるんでしょ? 無茶苦茶だわ。あなたがドンパチ大好きなのはよく知ってますけど、ものには限度ってものがあります。『ご自分の立場を考えてください』って、もう何度も何度も何度も、舌がすり切れるぐらい言ってきました。ぜんっぜん聞いてくださってないみたいですけどねっ!」
興奮のあまり、その声が次第に上ずっていく。体の両脇で拳を握りしめているのは、殴ってでも止めるという意思の表れだろう。
「私は絶対に認めませんよ、署長! 後に残される人間の気持ち、考えたことあるんですかぁ? 私たちがいつもどれだけ心配してると思ってるんですか。今回の怪我だって……署長がいない間、こっちも生きた心地がしなかったんですからね。もう本当につらかったんですからね。少しは私たちの身にもなってください!」
ぼくは、興奮しているブレアを見返した。
その言葉には、聞き逃してはいけない感情が込められているような気がした――今まで一度もはっきりと発せられたことがなかった感情が。
ブレアには規則や上官の権威を盾にとっても通用しないし、素手で戦っても勝ち目はない。難攻不落に近い障壁だ。
けれどもブレアの黒目がちの瞳を眺めているうち、理屈ではなく直感で、障壁を崩すための言葉がぼくの唇に湧き上がってきた。
「どうしても行かなくちゃならないんだ。……きみが背中を守ってくれれば助かる」
「……!」
ブレアの顔色が変わった。固く握られたままの拳がふるふると震えた。
殴りかかってくるのか、とぼくは身構えた。ブレアの怪力は常人離れしている。その拳をまともに喰らったら全治二か月は確実だ。
バーンズも警戒の表情で、ブレアとぼくをしきりと見比べた。
ブレアの目に何かが光った。
「そう。おっしゃって。くださるのを。待ってたんですよ。今まで。ずっとずっと」
すばやく身を翻し、ぼくらの先に立ってドアの方へ進み始める。
ブレアが完全に顔をそむける前に――その頬に涙がひとすじ走ったのを、ぼくはたしかに見たと思った。
しかし再び振り返ったときのブレアは、いつもの豪胆なベテラン捜査員の顔に戻っていた。真紅のルージュを引いた口元でにやりと笑い、
「……のたれ死ぬ時は一緒ですからね、署長!」
「のたれ死ぬ予定はない。きみの推測と違って、ドンパチも予定に入ってない」
「えーっ。そんなの署長らしくないですぅ。まさか『危険なことはしない』なんて柄にもないこと言ったりしませんよね?」
「心配するな。今回、命が危ないのはこの男だけだ」
「なんという言い草だ。おまえ、父を励まそうとかそんな気はないのか? これから大事な出番が控えているというのに。嘘でもいいから『安全だ』と言ってくれよ」
バーンズとミズ・グレイスバーグに見送られ、ぼくたち三人は騒々しく言葉を交わしながら署長室を出、エレベータホールへ向かった。ぼくらはつまるところ、「ピンチの時ほど無駄口を叩く」というクテシフォン市警の伝統を踏襲しているわけだった。外では嵐が吹き荒れ、すべての秩序が音をたてて崩壊しているところだったが。