第27章
第27章 ライバート・ジェシー・カイトウ名誉市長
わたしは目を開けた。ぼんやりした視界の中に、まばゆい光の塔が林立していた。
ここは、どこだろう。この光景は見覚えがあるような気がする。
第四十八星区のアルチメーナ共和国。「現世の楽園」と呼ばれる歓楽都市マインスの摩天楼群か。
それとも第四十二星区のフィニス自治領にあるレヴィウス正教の総本山、栄光に包まれたフルマイン大聖堂の双子の塔か。
いや。これはアルテア王国の首都テーラパックスの街並みだ。独自の科学体系を発達させたために《中央》に危険視された謎多き王国。今は亡きゾフィー皇太子とわたしが、何があっても守りたいという熱情に駆り立てられたあの国……。
もっとよく見ようと、わたしは目をこすった。
不意に焦点が合った。わたしが眺めているのは、空になった酒瓶の列だった。十本を超える瓶がずらりとテーブルの上に並んでおり、カーテンを開けっぱなしの窓から差し込む日光が、それらを透過し不思議に歪んだ輝きを与えているのだった。瓶はテーブルの上だけではなかった。すりきれたカーペットの床にも何本かが転がっていた。すべて空だ。窓から差し込む日光は暖かく、室内に妙に平和な雰囲気を生んでいた。
わたしは、頬に当たる堅いマットレスの感触、胸元の強い圧迫感を意識した。
スプリングの全然効いていないベッドに、うつ伏せに横たわっている。見覚えのないベッド、見覚えのない部屋だ。ベッドと、少し離れた所にテーブルと二脚の椅子があるだけの簡素な部屋で、安ホテルの一室らしかった。頭は泥が詰まったように重く、うまく働かない。同じぐらい重い体をのろのろと動かして、胸元の圧迫感の正体をたしかめようとした。ハンドガンだった。ブローニング・ハイパワー。わたしは銃の上に倒れ込んで眠っていたらしい。
こんなことをしている場合ではないと気づき、わたしは起き上がろうとした。
その急な動作が、割れるような頭痛と猛烈な吐き気を引き起こした。わたしは呻き、再びベッドに倒れ込んだ。
飲み過ぎだ。完全に。これらの酒瓶をわたしがすべて一人で空にしたのだとしたら、常軌を逸した飲み方だ。かなり錯乱していたに違いない。
メフィレシア公爵の屋敷を飛び出してからの記憶が混乱していて、どこで何をしていたのかぼんやりとしか思い出せないのだ。あてもなく街をさまよった。人目を気にせずわめき散らした。すれ違ったチンピラにわざと喧嘩をふっかけた。意識がなくなるまで殴ってもらうために。飛び降りようと何度もビルの屋上まで昇った。悲しみと共に我が身も捨ててしまいたかった。
あれから何日経ったのだろう。無精髭の伸び方から察するに、一日や二日ではない。
こんなことをしていてはいけない。息子を失ったのがどれだけつらくても――わたしは大人だ。生きている者に対し、社会に対し、果たさなければならない責任があるのだ。チェリーを病院に置き去りにしてきてしまった。きっと心配しているだろう。そしてこれからは、妻エレノアを守り続ける責任を、わたしが負わなければならない。
わたしは、ひどい頭痛と、食道を逆流してくるアルコールの不快な感触に耐えながら、無理やりベッドから体を起こした。フロントに電話してリフレッシャーの錠剤を頼んだ。届けられたのはいちばん安いタイプのリフレッシャーだったが、飲むとすぐに効果を発揮し、二日酔いの症状が軽減した。熱いシャワーを浴びて髭を剃ると、少しだけ人間らしい気分に戻った。これでなんとか世の中に立ち向かえそうだ。よれよれではあるが。
わたしは聖アスバーナブル病院の理事長に電話をかけた。アンドレアの遺体を病院から引き取り、葬儀と埋葬の手配をしなければならない。
理事長はわたしの顔を見て、なぜか狼狽した顔をした。
「ライバート……! このたびは申し訳ない! 完全に、こちらの手違いで……」
わたしはぼんやりと理事長を見返した。相手の言っている内容が頭に入ってこないのは、まだ酒が残っているせいだろうかと自問しながら。
「手違いとは、どういうことなんだ?」
「ご子息の退院を許可したのは、うちの外科部長なのだ。彼が自分の独断で許可を出した。こちらでも調査してみたのだが。彼は、保護者の同意がないとは知らなかったと言い張っている。しかし、あなたの署名した退院同意書がないのは事実だから、そんな言い分は通らない……」
「何だって!? 退院!?」
わたしの声は驚愕のあまり裏返った。
理事長もびっくりした様子でこちらをみつめていた。
「いや……不手際な退院に対する抗議の電話ではなかったのか?」
わたしは何も知らないのだということを、理事長に納得させるのに少し時間がかかった。
理事長は事情を説明してくれた。その内容は、予想もつかないものだった。
――アンドレアは死んでいなかった。昏睡状態から回復していた。そして昨日、病院を出て行った。意識を取り戻してからまだ一週間しか経っておらず、本来なら退院できるような状態ではないが、外科部長が「自分の責任で」退院を許可すると明言したらしい。
アンドレアを入院させたのは父親であるわたしだから、手続上、わたしが同意しなければ退院はできないことになっている。
外科部長の独断による不正な退院が発覚したのは今朝のことだった。病院は大騒ぎになった。保護者の同意なく未成年の患者を退院させたことは、病院側の重大な契約違反となる。理事長は外科部長に説明を求めたが、返ってきた返事はどうにも要領を得ないものだった――。
理事長の話は途中からわたしの頭を完全に素通りしていた。
いちばん大切な情報は、いちばん初めにもう聞いてしまったからだ。
アンドレアが生きていた――生きていた――生きていた……!
うれしさのあまり泣き崩れたいという衝動をこらえ、冷静な大人の顔を取りつくろうだけで精一杯だ。
契約違反で訴えられることばかりを心配している理事長に対し、「訴訟などしない。するはずがない」と保証して安心させ、わたしは電話を切った。
そして涙を流しながら部屋の中を走り回り、何度も雄叫びを発した。
まず最初にやりたいことは、アンドレアの元気な顔を見に行くことだった。
「用もないのに来るな」と毒舌を吐かれるだろうが、その毒舌さえもうれしい。
わたしはクテシフォン市警へ赴く前に、チェリーに電話して行くことに決めた。わたしの所在を告げて、ひとまず彼女を安心させなければ。
ひとことでは語り尽くせない感謝と心配させたことへの謝罪は、後でシュナイダー盗賊団のアジトで会った時に、ゆっくり時間をかけて伝えよう。
アジトに電話すると、金髪のシンシアが出た。
「今までいったいどこへ姿をくらましてたのよぉ、ジェス!?」
シンシアはわたしの不在をとても心配してくれていたらしい。心のこもった言葉が次々と飛び出してくる。その気持ちはうれしかったが、わたしはチェリーと話がしたいのに、シンシアはなかなか電話を代わってくれなかった。何とか失礼にならないように会話を打ち切る方法を考えていると、突然横から手が伸びてシンシアの顔を画面から押し出した。
「ジェス。……大丈夫? 今どこにいるの?」
チェリーが食い入るような瞳でこちらをみつめていた。
「ああ。今、港区のビジネスホテルにいるんだ」
わたしはすらりと嘘を答えた。実を言うと、自分が今どこにいるのか、皆目見当がついてはいなかったが。
「迷惑をかけて本当にすまなかった。勝手に姿を消したりして。気が動転していたんだ……どうか、許してくれないか。もう二度とあんなみっともない姿は見せないよ」
「いいのよ、そんなこと」
チェリーは首を横に振り、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「よかった、ジェス。連絡してくれて。本当によかった……!」
まっすぐわたしをみつめる瞳には、信頼と愛情と、わたしのだらしなさ加減を知りながらも受け入れてくれる優しさがたたえられている。わたしは胸が詰まる思いがした。たぶん娘がいたら、こんな感じなのだろう。
そしてケイン・シュナイダー氏を亡くして間もないチェリーも、わたしに父親を見ているに違いなかった。
電話の画面の外から「ちょっと、あんた何様のつもりよ、チェリー!?」というシンシアのすさまじい怒りの声が聞こえてくる。「ロニー! あんたも! 放しなさいよ。生意気なのよ、あんたたち……!」
チェリーが早口でしゃべり始めた。
「ねえ聞いて。アンドレアは助かったよ。元気になって、もう退院しちゃったんだよ」
「ああ、そうらしいな。さっき聞いたよ。これから会いに行こうと思っているところだ」
「退院するとき、アンドレアに、『一か月分ぐらいの食糧を買いだめして、アジトにこもって、しばらく外出しないようにしろ』って言われたんだけど……どういう意味かわかる? なんだか今、外がすごく騒がしいの。何か変なことが起きてるのかな」
――うかつな話だが、チェリーにそう言われるまで意識しなかったのだ。窓の外からかすかに聞こえてくる常ならぬ喧騒を。大勢の人間が叫んでいる。パトカーのサイレンも響きわたっている。
ここ数日間の記憶がないわたしには、まったく寝耳に水の事態だった。
でも不安そうな瞳でみつめてくる女の子を前に、「何もわかりません」と答えたのでは男の沽券にかかわる。わたしは、すべてを掌握している人間の自信に満ちた態度で、きっぱり答えた。
「アンドレアがそう言ったのなら、とりあえずその通りにしておいた方がいいな。心配はいらないさ。すぐにわたしもアジトに合流する。そこで待っていてくれ」
「でも……」
チェリーの言葉は途中で遮られた。獣のように俊敏な動作で、シンシアがチェリーに襲いかかったのだ。たなびく金髪が一瞬画面を覆い尽くし、次の瞬間、通話が切れた。
――女の戦いの結末は気にかかるが、わたしが電話をかけ直すことは、状況を改善する役には立たないだろう。
アジトへ戻ったら必ずフォローする、すまないチェリー、と心の中で詫びながら、わたしは部屋を出て階下へ降りた。ホテルの一階ロビーは狭くて、薄暗くて、うらぶれていた。フロントカウンターと、かろうじて人一人が通れるスペースがあるだけだ。どうやらここはビジネスホテルなどではなく、連れ込み宿に毛が生えた程度の安宿のようだ。カウンターにはよれよれのネクタイを締めた五十がらみの男が陣取っていた。古めかしいデザインの色ガラスが嵌まった玄関の扉の向こうから、暴力的とさえ言える大音量が続いていた。十万人収容できるスタジアムを埋め尽くした観衆が、一斉に歓声を上げている時のような騒音だ。巨大な集団と化した時の人の声は、むしろ怪物の咆哮に似ている。
「いったい何が起きてるんだい」
チェックアウトの手続をしながら、わたしはフロントの親爺に尋ねてみた。
皮膚も眼も髪も乾ききってしまったようなくたびれた親爺は、騒音に負けまいと声を張り上げた。
「暴動ですよ。最近多いですからね」
「そう……なのか」
「それにしても今日のは特にひどい。危ないんじゃないですか。そろそろ、あれですよ、あれ」
「あれって何だい?」
どぉぉぉん、という爆音がすぐ近くで響き、親爺の返事は聞き取れなかった。しかし、わたしはその唇の動きを読むことができた。
――かくめい。
たしかに、そう読めた。
色ガラスの扉を押して、歩道へ歩み出た。
ここは東区のハールーン街に近い一角だ。周囲の店の看板から、わたしにはそのことがすぐにわかった。しかし今わたしの目前に展開しているのは、ふだんの街並みとはまるで異なる光景だった。群衆が街路を埋め尽くしている。数十人という単位ではない、数百人、いや、数千人単位の群衆が。彼らは年齢も性別もまちまちだった。しかし共通している点が二つあった。だれもが決然と一つの方向を向いて歩き続けていること、そして、声を限りに叫び続けていることだ。
「独立! 独立! 独立! 独立! ……」
群衆は西へ向かっている。
その行先は、市長官邸や市議会のある中央区か、それとも王宮や貴族の屋敷の建ち並ぶ南区か。
チェリーは、アジトの外が騒がしいと言っていた。これと同じような騒ぎが西区でも起きているのか。
だとすると、騒動の規模は想像を超える。
わたしは群衆の流れに逆らって走った。近くに地下鉄の駅があることを知っていたからだ――車道を群衆が埋め尽くしている現在、タクシーは用をなさない。中央区の市警本部ビルまで行くには地下鉄が早道だ。
見覚えのある市営地下鉄のマークが掲げられた地下への入口へ駆け込んだ。
しかし階段を降り切らないうちに、無駄な試みであることがわかった。地下のコンコースは人でごった返していた。見渡す限り人間の頭でいっぱいだった。天井近くの運行表示板には「遅延」の赤い文字が並び、各列車の到着予想時刻はどれも「計算不能」となっている。
駅員たちは客の怒声に対しもはや答えようともせず、投げやりな態度で視線を彼方へ飛ばしている。
――地下鉄も機能を止めているのだ。
わたしは中央区まで徒歩で移動する覚悟を決めた。
「こんな忙しいときに来るな」とアンドレアに怒られるだろう。虫の居所が悪ければ発砲されるかもしれない。しかし、火急の時だからこそ、息子に会いたかった。
本当に革命が起きているのだとすれば、お互い無事に切り抜けられる保証はない。市民の蜂起に続くのは、ほぼ確実に、市民と軍との武力衝突だからだ。全市が血で染まるだろう。そしてアンドレアは嬉々として、最も危険な場所へ飛び込んでいくだろう。
今度こそ、父親として、あの子を守りたい。たとえ力が及ばないとしても、父親として最後まで守るために戦いたい。もう二度と失いたくないのだ。愛する者を。