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第2章(2) チェリー・ブライトン

 ジェスが滞在してるのはチグリス川の堤防沿いにある小じんまりとしたホテルだった。

 七〇七号室と七〇八号室。ジェスが泊まってるのは、その二部屋だった。

 ベッドとテーブルと大きなソファがある。新しくはないけどきちんとした感じの部屋で、居心地は良さそうだ。二つの部屋のあいだにはドアがあって、自由に行き来できるようになってる。たった一人で泊まってるにしては広すぎるスペースだった。

 ジェスはあたしたちに七〇七号室を丸ごと使わせてくれた。

「あいにく部屋にベッドは一つしかないんだが……」

 あたしたち三人を見比べて、ちょっと申し訳なさそうに言う。あたしは首を振った。

「気にしないで。どうせ今夜は眠れるような気分じゃないから」

 その夜、フリントとロニーとあたしはソファに座り、ひとことも口をきかなかった。フリントもロニーも泣いていた。ずっと泣いていた。あたしも泣きたかった。わーっと大声で泣けば胸の苦しさが減るんじゃないかという気がしたけど、なぜかちっとも涙が出て来なかった。あたしはただ呆然としていた。

 気がつけば朝だった。窓からまぶしい朝日が差し込み、鳥の鳴く声がした。あたし、ソファに腰かけたまま眠りこんでいたらしい。

 フリントもロニーも泣き疲れたらしく、ソファで体を丸めるようにして眠っている。

 あたしはバルコニーに出た。

 朝のクテシフォン市街は、なにごともなかったみたいに明るく晴れ渡ってる。いいお天気だ。

 ケインおじさん――。

 おじさんにどうしても尋ねたいことがあったのに、訊けなくなってしまった。

 ――ねえ、もしかして、おじさんがあたしの本当のお父さんなの?

 ついに訊けずに終わった質問。永遠に知ることのできない答え。

 あたしたち、これで本当のみなしごになってしまったんだね。帰る『家』は、おじさんのいるあのアジトだけだったのに。もうどこへも行く場所はない。あたしたちを待っててくれる人は、この世にもうだれもいない――。



 片づけなければならない用事があると言って、ジェスは朝早くからホテルを出て行った。

「腹が減ったら、ルームサービスで何でも頼むといい」

 ありがとう、とあたしは答えたけど、食欲なんてまるでなかった。ところが呆れたことに、フリントとロニーったら、目を覚ました途端に「なんだか腹が減ったよな」と言い出し、ルームサービスで朝食を五人前ぐらい頼むじゃないの! がつがつ食事をむさぼる二人を、あたしは目を丸くしてみつめた。どういう神経してんの、あんたら? こんな時によくそんなに食べられるわね!

「おれ、昨日いろいろ考えたんだけどさぁ……」

 口いっぱいに頬ばりながらフリントが言い出した。

「クラウディア姐さんのところへ行けば、なにかと相談に乗ってくれると思うんだ」

「わ。それ、すごくいい考え。どうして今まで思いつかなかったのかな」

 あたしは思わずぽんと手を打った。

 クラウディア姐さんはシュナイダー盗賊団のナンバーツーだ。美人で、度胸があって、腕も立つ。並の男じゃとてもかなわない。ケインおじさんが結婚しないかと一度くどいたけど、だめだったらしい。

 姐さんはいつもあたしたちのこと、すごく可愛がってくれてる。きっと助けてくれるだろう。

「行こうよ。今すぐ行こうよ!」

 ロニーが急に元気になって大声を出す。あたしはためらった。

「待ってよ。ジェスにひとこと、挨拶して行かなくちゃ。彼が帰ってくるまで待って、姐さんのところへはそれから……」

「バカなこと言ってんなよ、チェリー。あんな得体の知れない奴、信用するのかよ? おれたちをここにかくまったのだって、何か魂胆があるかもしれないんだぜ?」

 フリントが口をとがらせる。

 たしかに……と、あたしはうなずくしかなかった。ジェスはそんな悪い人間じゃないと思うけど、あたしたち彼のこと何一つ知らないのだ。会ったのだって昨日が初めてだし。

「あいつがでかけてる今が、チャンスなんだよ。さっさとここを抜け出そうぜ」

「わかったわ。じゃ、行きましょ」

「その前に……ちょいと部屋の探検、といくか」

 いかにも悪そうな顔でフリントがにやっと笑った。

 あたしはあっけにとられて彼を見返した。

「なによ。まさか……ジェスの物を盗もうって言うの?」

「おれたち、これから三人だけで生きていかなきゃならないんだぜ? 金はいくらあったっていいだろ。あいつ、すごい金持ちなんだから、おれたちがちょっとぐらい頂いて行ったって困りゃしねぇよ」

「だけど……ジェスは親切であたしたちをここに泊めてくれたのに……」

「おれたちはプロの泥棒だ。あいつだってそんなこと承知してるはずだ。昨日だっておれたちに金を恵んでくれようとしたじゃないか。きっと構わねぇんだよ、おれたちに盗まれるぐらい」

 いけない。あたしったらなんで、そこらへんの普通の女みたいなこと言ってるんだろう。

 そうよ、あたしはプロの泥棒なのよ。シュナイダー盗賊団にだって入れてもらえることになってた腕利きなのよ。ちょっと優しくされたぐらいで、ほだされてる場合じゃない。

「あたし、どうかしてたわ。きっと寝不足のせいね」

 きっぱり言って、あたしはソファから立ち上がった。

 それから三十分ほどかけて、あたしたちは二つの部屋を徹底的に物色した。

 現金はみつからなかった――昨日の分厚い財布は、きっとジェスが持ち歩いてるんだろう。ジェスは大変な衣装持ちであることがわかった。クロゼットには洋服がいっぱい詰まっていたのだ。仕立てのいいスーツやタキシードから始まって、軍服、召使のお仕着せ、タクシー運転手の制服、メカニックの着るつなぎ、医師の白衣、作業着――と、ありとあらゆる職業の服が揃ってる。なんでこんな物が必要なの!? ジェスが得体の知らない人間である、というあたしたちの印象はこれでさらに深まった。彼の本当の身元を示すような物は、なにひとつ出てこない。

 ロニーが机の隠し引出しを発見した。中には指輪、ネクタイピンなどのアクセサリーが詰まってる。どれも立派なものだ――換金すればかなりの額になりそうだ。

 その獲物で十分満足したので、あたしたちはホテルを去ることにした。ホテルの従業員に見られないように、窓の外の非常階段から出る。

 階段を降りながら、あたしは心の中でつぶやいた。

 ――さよなら、ジェス。悪く思わないでね。



 クラウディア姐さんは下町のアパートで一人住まいをしてる。ごちゃごちゃしていて、知らない人間なら確実に道に迷ってしまうような辺りだ。あたしたちは何度か訪れたことがあったので、くねくねした細道や路地を迷わず抜けて、すぐに姐さんのアパートにたどり着くことができた。

 お昼前のこのあたりは、やけに人気がなくてしずかだ。

 あたしたちは黙ってアパートの狭い階段を昇った。

 四階にある姐さんの部屋のドアが細く開いたままになってる。あたしはそのドアをこんこん、とノックしてから引き開けた。

「こんにちは~。チェリーだけど。姐さん、いる?」

 返事はなかった。あたしたちは廊下を通って奥の居間へ向かった。

「姐さん。クラウディア姐さ~ん」

 先頭を歩いていたフリントが急に立ち止まったので、あたしはその背中にぶつかった。

「いたたた、急に止まらないでよ。鼻、打っちゃったじゃない」

 あたしは文句を言ったけど、フリントは答えず、そのまますとんと床に座り込んだ。

 フリントの背中がなくなったおかげで視界が広がった。初めてあたしの目に居間の全体が映った。椅子に腰かけているクラウディア姐さんの姿も。

 見覚えのある豊かな黒髪がなかったら、姐さんとはわからないところだった。顔がぐちゃぐちゃに叩きつぶされ、血と肉のかたまりになっていたからだ。姐さんの体は椅子からずり落ちそうになってる。完全に落ちてしまわないのは、椅子の背に後ろ手に縛られているせいらしい。

 死んでいた。

「ロニー! 見ちゃだめよ!」

 あたしは振り返って、すぐ後ろに立ってるロニーにしがみついたけど――それはロニーにこのひどい光景を見せないようにするためと言うより、あたし自身が何かにしがみつかずにはいられなかったせいだ。底無し穴に落ちていくような、ものすごい恐ろしさが湧き上がってきて、もうなにがなんだかわからなくなりそうだった。

 ロニーが悲鳴をあげた。あたしはぎゅっと目をつぶり、さらに堅くロニーにしがみついた。昨日はケインおじさんで、今日はクラウディア姐さん。あたしたちの知ってる世界が壊されていく。どうして、どうして、どうして? いったいなにが起こってるの!?

 あたしたちの背後から、ジェスが室内に駆け込んできた。

「しまった! ……一足、遅かったか……!」

 くやしそうに呟く。

 どうしてジェスがここへ? という疑問はそのときは湧いてこなかった。あたしの心はショックで麻痺していたのだ。ジェスのほうも、あたしたちがここで何をしているのか尋ねようとしなかった。

「逃げるぞ。ここに長居するのはまずい」

 促されて、あたしたちはのろのろと姐さんの部屋を後にした。



 ジェスがタクシーを拾ってくれて助かった。ホテルまでの長い道のり、とても歩く気力なんてない。あたしたちは呆然としていた。打ちのめされていた。頼るべき人がいなくなった――というだけじゃない。なにかとてつもなく恐ろしいことがあたしたちの周りで起きつつある、ということがはっきりしたからだ。

 一体だれが……どうして……? シュナイダー盗賊団の商売敵のしわざ? こんなひどいことをされるほど、恨まれていたんだろうか。

 タクシーは橋を渡り、ホテルの前で滑るように止まった。

 ジェスがいちばん初めに降りた。ごく何げない動作でちらりとホテルの建物を見上げ――それから再びタクシーに乗り込んできた。

「気が変わった。ランクマー街までやってくれ」

「なに、どういうこと? ホテルへ帰るんじゃなかったの?」

 タクシーがまた走り出したので、あたしはきょろきょろ辺りを見回した。

「七〇八号室のカーテンが動いた。中でだれかが待ち伏せしてるらしい」

「ホテルのメイドじゃないの?」

「今はベッドメイクの時間帯じゃないよ。それにわたしは、メイドを部屋に入れないようホテルに頼んであるんだ」

 ジェスは、くつろいだ気楽な口調を全然崩さずに、

「きみたち、あのホテルでだれかに顔を見られなかったか? それとも、知り合いにあそこにいることを連絡したとか……?」

 あたしたち三人は顔を見合わせた。

「ルームサービス、頼んだわよね。そのときにメイドに顔を見られてると思うわ」

「そうか……それだな。連中、なかなか動きが速いようだ」

「だれなの、『連中』って?」

 ジェスはあたしたちに顔を寄せるよう合図した。運転手の耳に入らないよう声をひそめて、

「きみたちのおじさんとミス・クラウディアを殺害した連中さ。どうやら奴らはきみたちのことも狙ってるらしい」

「……!」

「もう、あのホテルには戻れないな」

 相次ぐショックと恐怖で、もう口さえきけなくなってるあたしたちに向かって、ジェスはにっこり微笑みかけた。

「でも助かったよ。わたしの部屋にあった金目の物は、たぶんきみたちが持ち出してくれてるんだろ? これで、損害が多少は少なくて済んだというわけだ」

 そう言って、ぬっと手を差し出す。

 ロニーは機械みたいにぎくしゃくした動きで、ジェスの部屋から盗み出した貴重品をその手に乗せた。

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