第26章
第26章 リース・ティントレット医学博士
車内にたちこめた金属質の臭いを不審に思ったらしいタクシーの運転手は、車内灯をつけて振り返り、私がコートまで濡れるほど出血していることに気がついた。
――トラブルは困るんですよ、お客さん。救急車でも呼びましょうか?
私は中央区のすぐ手前でタクシーから降ろされた。けぶるような霧雨の降る深夜のビル街で、私は遠ざかっていくタクシーのテールランプをなすすべもなく見送った。
左脇腹の銃創はさほど深くない。しかし出血がひどい。ササイズ街の私の診療所に戻れば必要な薬と道具があるから、自分で手当てもできるのだが、たぶん診療所へはエイブの仲間が捜索に来る。発見され、とどめを刺される危険を冒すわけにはいかなかった。だから私は撃たれた後すぐにタクシーに乗って中央区へ向かった。行先は市警本部ビルだ。
アンドレアに会わなくてはならない。早急に。
舗道は雨に濡れて黒く光っている。周囲には人っ子一人見えない。私は街の灯を映して鈍い光をはらんだ夜空を見上げた。黒々とそびえ立つ巨大なビル群が私を哀れむように睥睨していた。ビルとビルの間に、まばゆいオレンジ色にライトアップされた凱旋門がちらりと見てとれた。
市警本部ビルは凱旋門通りに面している。ここからなら歩いて行けない距離ではない。私は足を引きずって歩き始めた。
歩みを進めるたびに鈍い苦痛と耐えがたいほどのだるさが私を襲った。少し進んだだけで、息が上がり始めている。失血のせいで体力が落ちてきているようだ。しかし足を止めるわけにはいかない。何としても市警本部ビルまでたどり着かなくては。アンドレアに伝えなくては――。
エイブ・ガーランドが私を煙たがっていることは、かなり前から承知していた。我々の意見は一度も交わったことがなかったからだ。エイブははっきりした男だから、私への反感を大っぴらに口にすることもしばしばだった。
「……あんたは組織の金食い虫だな、リース。おれがいくら稼いできたって、とてもおっつかないよ。大病院に負けない医療を提供できる無料診療所なんて……はっきり言って、あんた個人の趣味じゃないか。その金でどれだけの武器が買えると思う? おれたちに必要なのはきれいごとじゃなくて、力さ。腐りきった今のクテシフォン市政を打破して、この街を正しい方向へ導くための力だよ……」
だが今夜まではそれも、尖った言葉のぶつけ合いに過ぎなかったのだ。いくら口論しても、本気で敵対しているわけではない。多少の意見の違いはありつつも、我々は『独立』という壮大な理想を共に信奉し、同じ方を向いて闘っている。そう信じていた。
私がコンラッド・テイスペスに呼び出されて、西外区の無人倉庫街でも特にさびれた一画の、今にも崩れそうな建物に入っていくと、天井まで届くほど高く積み上がった木箱を前に議論を交わしていたエイブとコンラッドが揃ってこちらを振り返った。
天井のLEは調子が悪いらしく、ちらちらと点滅を繰り返している。薄暗い倉庫の中は、外見から想像した通り狭くて荒れ果てている。片隅に押しやられた正体不明のごみ。埃っぽい空気。狭いフロアの半分以上を占めているのが、積み上げられた木箱の山だ。
木箱はどれも規格が統一されているので、ずれずにきっちり積み上げられている。木の肌は真新しく見える。箱の手前側には不自然なほどくっきりとした「グリーンライ商事会社」の文字。それしか書かれていない。
「こんな場所を確保してたのか……知らなかったよ」
私はぼんやりとつぶやいた。
「どうしてリースなんか呼んだんだ、先生」
エイブが顔をしかめてコンラッドに食ってかかった。コンラッドはなだめるように片手を上げてみせた。
「彼の意見を聞きたかったんだ。……内緒にしておくわけにはいかないだろう? どちらにせよ、この件は幹部会議にかけなきゃならない」
「わざわざリースを呼んだってことは、あんたはまだ、腹が決まってないんだな。だれかに反対してほしいってわけだ。そうなんだろう?」
「そうじゃないさ。私だって、この大きな飛躍のチャンスを歓迎している。ただ、興奮に任せて突き進むのではなく、慎重な検討が必要じゃないかと……」
「けっ! 腰抜けばかりだな、この組織は。あんたらに任せておいたら、何十年経ったって改革なんか実現できやしない。何もせずに、ただ座って理屈をこね回してる方が楽しいのか?」
コンラッドに向かってそう捨てせりふを投げつけると、エイブは私に向き直り、手招きをした。知らない人が見れば、エイブの第一印象は「スポーツマン」だろう。短く刈り込んだ銀髪。裏表のないさっぱりした気性を表す顔立ち。長身。鍛え抜かれた体躯。しかしアイスグレーの双眸にはときおり、底知れぬ狂気の光が宿る。
「ここはおれの親父が借りてる倉庫さ。電気系統の調子が悪いもんで、最近はあまり使ってないが。……見ろよ。これが、おれたちが手に入れた力だ。これを見りゃあ、さすがの弱腰ドクターも、ちったぁ度胸が据わるだろ」
エイブの足元には、木箱の一つが置かれている。その箱はすでに開梱されていて、蓋がゆるく箱の上に乗っているだけの状態だ。エイブが身をかがめて蓋を取ると、箱の中身が照明の下にさらされた。黄土色の梱包材に半ば埋もれているのは鈍い光沢を放つ火器だった。マシンガンだ。それは、計算し尽くされた形状と精密な機構を併せ持つ高度な機器に特有のしずかな美をたたえて、箱に収まっていた。
その危険な美しさは、周囲の薄汚れた環境と、まるで合っていなかった。
「ゴライアス・メカニクス製だぜ? マシンガンだけじゃなく、エアライフルもある。防衛軍でも使ってる最新式だ」
エイブは無造作とも言える動作で銃を箱から取り出し、構えてみせた。ちらちら揺らぐLEの光の中で、テンシル鋼の銃身が不吉に輝いた。
私は銃から目が離せなかった。足元から深い穴に落ちて行くような恐怖を覚えていた。
「いったいどうしたんだ、そんなもの」
「いつも組織の資金集めのためにまじめに働いているおれに、神様からのささやかなプレゼント、ってやつかな」
「ふざけるのはやめろ。こんな時に」
私の声は喉にからまり、完全に恐怖を露呈した。
エイブの言葉、そして、あきらかに銃を扱い慣れている手つき。それらが私に、普段なるべく考えないよう努めている事実を否応なく突きつけた。――我々《分離独立派》の活動資金を稼ぐために、エイブが窃盗や強盗などの違法行為を繰り返しており、今や職業的犯罪者と呼んでもよいレベルにまで達しているという事実。
彼はもう、ただの気さくな勤労青年ではなくなっているのだ。
「友達の友達から情報を聞いたんだよ。港南区の、信じられないほど警備のゆるい倉庫に、最新式の武器が山ほど保管されてるって。それで今朝、仲間を何人か連れて、頂きに行ってきたのさ。信じられないだろう? こんな最新式の武器が、ろくな警備もない所に放ったらかしなんだぜ? まるで『どうぞ盗んでください』と言ってるみたいだ」
「……怪しくないか。警察の罠、ってことはないか? きみはもう市警に目をつけられているんだぞ、エイブ」
「大丈夫だろ? もし罠なら、今ごろもうとっくに、おれたちは逮捕されてるはずだ」
エイブは熱のこもらない感じで肩をすくめた。罠の可能性などまったく心配しなかったのだろう。
「銃の方は試射してみた。性能に問題はなかった。ちゃんとした銃だったよ」
この事態はどう考えても異常だ。最新式の銃がこんなにも大量に、警備のない倉庫に放置されているなど、普通ならあり得ない。「グリーンライ商事会社」というのも聞いたことのない会社だ。ゴライアス・メカニクス製の銃器は、大手商社しか取り扱っていないはずだ。エイブはこの状況の異常さに気づいていないのか。
「おれたちはついに革命のための武器を手に入れたんだ。おれが訓練した精鋭部隊はもう、いつでも戦える準備ができてる。最新式の銃がこれだけあれば市長官邸と市議会は簡単に制圧できるだろう。ことによっちゃ、王宮だって襲撃できるかもしれない。早いうちから『独立宣言』の草案だけは用意しておいてよかったよなあ、コンラッド先生? とうとうそれが役に立つぞ」
「革命……だって?」
つぶやいた私の声はほとんど音にならなかった。
エイブは狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「今やらなきゃ、いつやるんだ。市民の不満が頂点に達している今がチャンスだ。今おれたちが蜂起すれば、貧民層だけじゃない。おそらく中産階級の連中もおれたちを支持するぞ。みんな貴族どもには嫌気がさしてるんだ。……なにがクテシフォン執行部だ。なにが貴族院だ。あいつら、お互いに足の引っぱり合いばかりしやがって、まるでガキの喧嘩じゃねえか。国のことなんて、ちっとも考えてねえ。そんな貴族院を維持するために、なんでおれたちクテシフォン市民の金を使わなくちゃならないんだ」
「エイブの言うことには一理ある」
驚いたことに、コンラッドが冷静な口調でエイブの支持に回った。
「蜂起するなら今以上の好機はない。貧民層は爆発寸前だし……エイブの言う通り、中流層の市民も、革命を起こせば支持してくれる可能性が高い。積極的に武力蜂起に加担しないとしても」
「血の気の多い連中をたきつけて暴動を起こさせ……警察や治安維持部隊が暴動に気をとられてるうちに、おれたちが市議会と市長官邸を制圧する。そして、コンラッド先生を首魁とする新政府の樹立を宣言する。完璧だ。ついに、おれたちの長年の夢がかなうんだ」
二人の興奮と熱狂は、私にはひどく遠いもののように感じられた。
私の目には、血を流して倒れる人々の姿が浮かんでいた。貧しい中でも、毎日ささやかな暮らしを懸命に営んできた人々が、圧倒的な武力にねじ伏せられる姿が。悲鳴と泣き声さえ聞こえてくるようだ。
「武力蜂起なんて……本気で言ってるのか? 大勢の血が流れるぞ。傷つくのはいちばん弱い人たちだ。市民に暴動を起こさせて、そちらに治安維持部隊の目を引きつけようだなんて、そんな非道な話があるものか。……以前、幹部会議でも決定したはずだ。武力による革命は失うものばかり多くて益が少ないから、選挙を通じた漸進的な改革をめざそうと。市政を合法的に動かして、パールシー王国からの独立を宣言させようと。コンラッド、あんたもそれでいこうと言ったじゃないか」
エイブの無遠慮な笑い声が私の抗議をさえぎった。
「あんたは腰抜けだな。おまけに、夢想家だ……! おれたち分離独立派が立候補すれば、市民がみんな喜んで投票してくれるとでも思ってるのか。現実はそんなに甘くない。おれたちが市政を動かせるだけの議席数を市議会で獲得できるのはたぶん何年も何年も先の話だ……ひょっとすると、そんな時は永遠に来ないかも知れねえ。それが現実だ。現実から目をそむけるなよ。実力行使、それしかないんだ」
――何年もかかったって、いいじゃないか。市民の血を流すよりはましだ。
――正義は必ず通る。市民が我々の主張の正しさを知って、我々を支持してくれる日がきっと来る。分離独立派の議員が市議会で多数を占める日が、きっと……!
唇に浮かびかけたそれらの言葉を私は飲み込んだ。山詰みにされた武器の箱が、私の理想をいかにも弱々しいロマンティシズムに見せていたからだ。目の前にあるのは苦い現実だった。暴力と破壊。そして、そういうものによってしか動かせないほど歪んでしまった社会。
エイブの声は平手打ちのように響いた。
「おとぎ話じゃないぞ、リース。何もせずじっとしていたって、夢はかなわない。願ってるだけじゃ届かないんだ。あんたはいつも、その辺が理解できてないようだが……」
「前向きに考えてみないか。この先何年待っても、今以上に完璧な機会はめぐってこないだろう。革命を促すような社会情勢。そこへ持ってきて、これだけの武器だ。私は信心深い人間ではないが、これは神が我々に『立て』と言っているのだと……これは神の思召しなのだと考えざるを得ない」
コンラッドまでもが私を説得しようとし始めた。演説の名手だけのことはあって、熱を帯びて語るときの彼の声は、まっすぐ人の心に入り込んでくる。
「リース。人々の血を流したくないという、きみの感情もよく理解できる。しかし、よく言われることだが、卵を割らなければオムレツはできない。何か物事を変えるためには必ず犠牲が必要なのだ。まして、我々が変えようとしているのは、この社会そのものだ。……きみだって最初からわかっていたはずだ。戦いは不可避だと。さあ、勇気をもって戦おうじゃないか。この腐った世の中を根底から変えるための戦いだ」
私は顔を歪め、首を横に振った。
「コンラッド。あんたは、重傷を負っている人間を実際に見たことがあるか。手の施しようがないほど肉体を破損された人が、苦しみながら死んでいくありさまを見たことがあるのか。……あんたは『血』や『犠牲』を語るが、それは机上の空論だ。あんたは頭の中で想像した概念をこねくり回しているにすぎない。私たちが蜂起すれば……実際に血を流し苦しんでいる人たちが街にあふれるんだぞ? 何十人、何百人と?」
「――おれには、ずっとわかってたよ。リース、あんたは、組織の金食い虫であるだけじゃなく……害虫だ。革命を台無しにしようとする、おれたちの敵だよ」
ぞっとするほど冷たいエイブの声。
いつの間にかこちらへ向けられているマシンガンの銃口。
銃声。目もくらむような発射光。
それらが、どうしても、現実のものとは思えない。テレビの向こう側の世界のように遠く感じられる。
しかし、腹部で膨らみ始めた耐えがたい痛みは、まぎれもなく現実だった。私はよろめいた。撃たれるとはこんなにも苦しいものだったのか。そうでなくても薄暗かった室内が、いっそう暗くなったように感じられた。何も見えない。銃を構えているエイブの姿ももう見えない。
「やめろ、エイブ! 何をするんだ! 銃を向けるべき相手が違うだろう!」
悲鳴のようなコンラッドの声が暗闇の中で響く。
「逃げろ! 早くここから逃げろ! リース! ……」
――私は重い足を懸命に引きずりながら路地を歩いていた。自分の体が厄介な荷物のように負担に感じられた。感覚も失われ始めているのか、道路に転がっている空き箱に気づかなかった私は思いきりつまずいて転倒した。冷たく濡れた舗道が私の顔を打った。寒かった。本当に寒かった。小雨で濡れたコートが私から体温を奪い始めていた。
私は激しく震えながら、よろめく足でまた立ち上がった。
伝えなくては、アンドレアに。革命の企てが目前に迫っていることを。西外区の倉庫に膨大な量の武器が眠っていることを。
武装蜂起が起これば、大勢の人が傷つくことになる。
万が一――そんなことは到底ありそうもない話だが――蜂起に成功して現市政を打倒できたとしても。分離独立派が新政権を立ち上げ、クテシフォン市のパールシー王国からの独立を宣言したとしても。おそらく王国側が鎮圧軍を送り込んでくる。こんなにも熟れきった果実が自分の手を離れていくことを、王国貴族どもはけっして容認しないだろう。そして戦争になる。さらに大勢の人々の血が流れる――!
私は力をふりしぼって見上げた。
凱旋門はさっきよりも近づいたようには見えなかった。
アンドレア――!
『だから言っただろう、ドクター。つき合う相手は選んだ方がいいと』
彼のからかうような声が耳の中に響いた。ああ、よかった。力尽きる前になんとか彼のもとへ行き着くことができたのだ。安堵と満足が私の全身を包み込んだ。これでもう安心だ――
『だから言っただろう、リース兄ちゃん。あと四手で詰む、って』
同じような、からかう声。だがもっと幼い。
聖アルカイヤ教会の中庭。強い日差しを避けるため木陰に置かれた中古の事務用テーブルの向こうで、アンドレアが得意げに私に笑いかけていた。
テーブルの上には、やはり中古の三次元チェスのボード。
現役の医学部学生である私が、わずか七歳の子供に見事チェスで完敗した瞬間であった。
周りを取り囲んで勝負の行方を見守っていた子供たちが、わあっと歓声をあげた。
『えーっ、うそ。アンドレアの勝ちなの~?』
『情けねえの。それでも大学生かよ、リース兄ちゃん』
『そんなんだから試験にも落ちるんだよ~、あはははは……!』
子供たちが別の遊びへと散っていった後も、私はしばし呆然として、敗因を求めてチェスの盤を眺めていた。
まっさおな空の下、乾ききった白い地面が暴力的なまでにまぶしく日光を反射している。虫の声が絶え間なく聞こえてくる。けだるい夏の昼下がりだ。
ふと気配がした。私が顔を上げると、ルティマ助祭がすぐ近くに立っていた。そっと胸に抱いた花束のように人の心をあたためる、優しさと慈悲にあふれた笑顔。
『さすがですね、リース君。わざと上手に負けて、子供たちを喜ばせてあげるなんて』
思いっきり本気で挑んで負けたことを、助祭に打ち明けるだけの神経は私にはなかった。
――いけない。意識が拡散し始めている。
はっと我に返ると、私はいつの間にか再び冷たい石畳の舗道に倒れ込んでいた。辺りは真っ暗で、市警本部ビルはまだまだ遠かった。霧雨が絶え間なく私の体の上に降り注いでいた。そして出血は止む気配がなく、私は腰から下の感覚を完全に失ってしまっていた。
もう立てない。
ここで私は死ぬのか。超高層建物群の谷間の、深い地底のようなこの路地で。
慟哭したかったがもはやその力さえなかった。死ぬことは恐ろしくない。独立運動に身を投じたときからその覚悟はできている。ただ、ここで力尽きるのは、あまりにも無念だった。あきらかに誤った方向へ進もうとしている同志を見ながら、何の手も打てずじまいとは……!
どこで我々は間違ってしまったのだろう。どこで私は間違ってしまったのだろう。大きく目を見開き、冷たい雨に体をさらしながら、私は思い出をたぐって答えを探したがみつからなかった。