第24章
第24章 チェリー・ブライトン
ジェスが帰ってくるまで、ジェスの代わりにアンドレアを守るのがあたしの役目だ。
あたしはそう決意を固め、できるだけ病室を離れないことにした。
内緒だけど。ポケットの中には小さな果物ナイフを忍ばせている。控室で見つけたものだ。
――だれかが襲ってくる可能性があるとジェスが言っていた。アンドレアが動けない状態だとわかったら、恨みを持っているだれかが、とどめを刺しにくるかもしれないと(ものすごーく敵が多そうだもんね!)。
あたしはかよわい乙女で、力も強くないけど、スラム育ちは伊達じゃない。こう見えても今までいろいろな場面をくぐり抜けてきた。身の守り方ぐらい、ちゃんと知ってるんだ。
だれかが襲ってきても、あたしが撃退してみせる。
もし撃退が無理でも。警備員が駆けつけるまでの時間稼ぎぐらいならきっとできる。
それはアンドレアの意識が戻った次の日の夕方のことだった。ソファに座って絵本をぼんやり眺めていたあたしは、名前を呼ばれたような気がして、はっと顔を上げた。そしたら、じっとこちらを睨んでいるアンドレアと視線が合った。
「チェリー・ブライトン。頼みがある」
耳をすまさないと聞き取れないような囁き声だ。
あたしはすぐに立ち上がり、ベッドに歩み寄った。
「えーっと……『警察に連絡してくれ』というのは、なしよ。看護師さんに止められてるから」
「大事な問題だ。国家の存亡にかかわる」
アンドレアの言葉は難しすぎて、ときどき意味がわからない。『ソンボウ』っていったい何?
「南区の聖ルグゼリア教会へ行って、キリンド司教に会ってくれ。ぼくの代理だと言って」
「ルグゼリア……教会。キリンド司教……?」
「頼む。急ぐんだ。今すぐに……」
しゃべるだけでも疲れるみたいだ。アンドレアの瞳が次第に閉じていく。
そんな状態でも言わなくちゃならないぐらい大切だってこと?
あたしは迷った。あたしがまだ狙われる可能性があると言っていたのはアンドレアだ。それなのにお使いを頼むなんて。もうすぐ夜になるこんな時刻に、行ったことがない場所へでかけていくのは気が進まない。
「わかった。行くわ。……その代わりと言っちゃ何だけど、あたしもお願いがあるの。ジェスが戻ってきたら『ありがとう』って言ってあげてくれる? あんたを助けたのはジェスなんだから、ちゃんとお礼を言ってあげてよ。それを約束してくれるんだったら……」
アンドレアはもう完全に目を閉じていて、眠りの中に戻ってしまったみたいだった。
でも、かすかに、本当にかすかに、うなずいたように見えた。
あたしは病室を飛び出した。無理やり約束を取りつけるなんて、弱みにつけ込んだようで良心がうずいたけど――命の恩人に対してお礼を言うのは人間として当たり前のことだもんね。あたし、そんなにひどいことしたわけじゃないよね。
その代わり、引き受けた用事は、しっかり果たすわ。
あたしたちのために用意された付添人用の控室には、病院の事務所に直接つながる電話がある。「困ったことがあったら、この電話を使ってください」と言われてる。あたしはその電話で「聖ルグゼリア教会っていう所へ行きたいんだけど、どうやって行けばいいの?」と尋ねてみた――南区にはあまり詳しくない。何がどこにあるのか、さっぱりわからない。
簡単な地図か何かをもらえればいいと思って電話したんだけど。電話の向こうの女の人はにっこり笑って、
「お車を手配しますので、少々お待ちくださいませ」
と答えた。
車の手配って何のこと? あたしが呆然としていると、五分も経たないうちにスーツ姿の女の人が迎えに来て、病院の玄関まで案内してくれた。玄関にはぴかぴかの、すごく豪華なリムジンが停まっていた。女の人がドアを開けてくれたので、あたしはそのリムジンに乗り込むしかなかった。
こんな高級車に乗るの、生まれて初めてだ。
シートはふかふか。毛皮が敷かれていて、触ってみるととても気持ちいい。
行きたい場所へリムジンで連れて行ってくれるなんて。これがお金持ち向けのサービスってやつなのね。圧倒されてしまう。
車が目的地に着くまでそれほど時間はかからなかった。あまりにも止まり方がスムースだったので、制服姿の運転手が外からドアを開けてくれるまで、あたしは車が止まっていることに気づかなかった。車を降りたとたんに、冷たい空気があたしを包んだ。どこかの駐車場みたいな所だった。たくさんの高級車や馬車が規則正しくずらりと並んで停まっている。道路の向こうに王宮の屋根が見える。
「あれが聖ルグゼリア教会です」
運転手の指さす方向を見ると、はっと息を呑むぐらいきれいな建物が、夜空を背景にそびえ立っていた。
まるで光の粒を集めて作ったみたいだ。複雑な形の尖った屋根。内側からの灯りに照らし出された縦長の窓のステンドグラス。建物だけじゃなく建物を取り囲む木々の一本一本までがライトアップされていて、とても現実とは思えないほどきらびやかだ。世の中にはこんなにも素敵な場所があるんだね。
背の高い正面の扉が大きく開かれていて、温かみのある光があふれ出してきている。その扉に、大勢の人が吸い込まれていくところだった。
見たところ、一人残らず、お金持ちだ。ドレスや、高級な仕立てのスーツや、毛皮のコートや、いかにも高価そうなバッグや、じゃらじゃらした大粒の宝石。
天国そのものみたいに華やかできれいな教会。寄り集まる大勢のお金持ち連中。
同じクテシフォン市内なのに、あたしがよく知っているのとはまるで違う世界がここには展開していた。
あたしは、自分がものすごく場違いであることを自覚した。服は安物の古着だし。すっぴんだし。髪の毛だって手入れしていない。
だけど、そんなことぐらいで、ひるんでいられないのだ。
あたしは覚悟を決めて、教会の中へ駆け込んだ。
天井のとても高い空間だった。正面の扉からいちばん奥の祭壇まで、ひたすらまっすぐな通路が一本すっと伸びていて、その左右にたくさんの椅子が並べられていた。壁に沿って、数えきれないほどの燭台が置かれていて、蝋燭の火がちらちらと揺れ、不思議な雰囲気をかもし出していた。
教会の中も人でいっぱいだった。一人だけみすぼらしい恰好をしているあたしを、周りの人たちが不審そうに振り返った。あたしはこの視線を知ってる。お金持ちが貧乏人を見るときの目だ――軽蔑まじりの、つめたい目。
祭壇のすぐ前に立って、信者らしい人と笑いながら話している、背の高い銀髪の男の人。
きっとあれがキリンド司教だ、とあたしは見当をつけた。というのは服装からしても貫禄からしても、その人がいちばん偉い人らしかったからだ。
あたしは急ぎ足でそちらへ向かって歩き始めた。
「皆様、ご着席ください。もうすぐ夜のミサの開始時刻です」
マイクの放送が響きわたる。それまで教会の隅の方で立ち話をしていた人たちが、椅子へ向かって移動し始める。あたしは焦った。ミサが始まっちゃったら司教と話ができなくなる。
なんて広い教会なの。祭壇までの距離がけっこう長い。司教は信者と話すのを止めて、祭壇へ上るための階段へ向かって歩き始める。あたしは歩くペースを上げたけど、このままだと、あたしが祭壇へたどり着くまでにミサが始まってしまいそうだ。
もう、やけくそだ。
「待って! キリンド司教!」
あたしは出せる限りの大声を出した。それまでざわついていた教会なのに、あたしの声はびっくりするほど響きわたり、みんなぎょっとしたようにあたしを見た。辺りが一瞬で静まりかえった。
ここまで目立ってしまったら、もう何も怖いものはない。あたしは祭壇までどたどたと駆け寄った。
司教は足を止めて、走ってくるあたしをじっと眺めていた。
キリンド司祭は六十代ぐらいだ。ふさふさした銀色の髪。クリームチーズみたいに白く柔らかそうな顔の皮膚。空色の目は意外なほど優しげだった。
「何かご用ですかな、お嬢さん」
深い響きの声。
「あっ、あたし! アンドレアに言われて……!」
そこまで言いかけて、あたしは急に、教会内のすべての人がこちらに注目していることを意識した。こんな所でアンドレアの名前を出すのは、まずいかもしれない。あの子が入院してることは、だれにも内緒にしておかなくちゃならないとジェスに注意されていたのだ。
もじもじしているあたしを、司祭は気遣ってくれた。「こちらへどうぞ」と、祭壇のすぐそばの控室みたいな部屋へ案内してくれた。お香の良い匂いが立ちこめている、狭い部屋だった。
「アンドレアに……あの、いや、墓場署長に、あなたに会いに行けって言われたの。べつに伝言とかは預かってないんだけど……」
あたしの言葉は尻すぼみになってしまった。目の前の司教は、優しそうだけどとんでもなく貫禄があって、こうやって向き合っていると圧倒されてしまう。体が大きいせいだけじゃない。内側からにじみ出してくる迫力だ。
「カイトウ署長はお元気ですかな?」
キリンド司教は笑顔で尋ねた。
「うーん……あんまり元気とは言えないかも」
あたしは迷ったけど、「今、入院中なの。どこの病院かは言っちゃいけないことになってるんだけど」とつけ加えた。アンドレアがこの人に会いに行けって言ったんだから、きっと信用できる人なんだろう。司教はゆっくりとうなずいた。
「そうですか。ご無事で良かったとお伝えください。最近の王宮内の状況を漏れ聞く限り、おそらく以前と事情は変わっているのでしょうが……正式な取り下げがない限り、私への請願は有効です。もう少しで停止条件が充足されたと判断するところでした」
「え? 今の全部、伝言? あのぉ、言葉が難しすぎて、覚えきれそうにないわ。もうちょっと簡単な伝言にしてもらえると助かるんだけど……」
しどろもどろなあたしにも、司教は腹を立てた様子がなかった。優しい、にこやかな顔のまま、
「それではこうお伝えください。『安心してゆっくりお休みください』と」
あたしは大きくうなずいた。それぐらいの伝言なら覚えられそうだ。
ミサに参加して行かないかと司教に勧められたけど、断った。「何この子?」みたいな目で見られながら、大勢のお金持ち連中に混ざって座っているなんて、まっぴらだ。親切そうな司教には申し訳ないけど、一秒でも早くこの居心地の悪い空間から逃げ出したい。
キリンド司教はあたしに一枚のカードをくれた。
この教会のフォトだった。さっき見た、夜空を背景に光り輝いている建物の様子が、そのまま再現されていた。
「迷い子のため、教会の扉は常に開かれています。いつでもお気軽に来てください」
司教はそう言って、微笑んだ。
ジェスが姿を消してから、あっという間に四日間が過ぎた。
「お父様がどこへ行かれたのか、知りませんか? 連絡を取る方法はありませんか?」
病院の人に何度も訊かれた。
お父様っていうのはジェスのことだ。病院の人は「あなたたちのお父様」という言い方をした。どうやら、あたしをジェスの娘だと思い込んでいるらしかった。
知らない、わからない、と答えながら、あたしは複雑な気分だった。
そうよね。そりゃあ親子に見えるわよね。あたしはジェスの「女友達」のつもりなんだけど。
シュナイダー盗賊団のアジトにも電話して聞いてみたけど、ジェスは一度も戻ってきていないという返事だった。
あたしはただ病院で待っているしかなかった。
――ジェスは、悲しみのあまり混乱して、ちょっとどこかへ行ってしまっただけだ。きっとすぐに帰ってくる。そしたら何もかもうまくいく。
不安を必死で抑えて、自分に言い聞かせた。
アンドレアはまだ動けないし、長い時間眠っている。だけど看護師さんの顔を見るたびに「署に連絡して、だれかよこしてもらってくれ」と繰り返していた。毎回きっぱり断られてるけど。看護師さんの言葉によれば「身内以外は面会謝絶」なんだそうだ(あたしは身内だと思われているので、追い出されずに病室にいられる)。
そんな状態なのに、この子は昨日、廊下にある公衆電話まで行こうとして無理に立ち上がった。ベッドから降りて数歩進んだところで力尽き、「そんな無茶をしてたら治るものも治りませんよ」と看護師さんに大変な勢いで叱られていた。
銃を持ってないアンドレアは、それほどこわくない。こうやって毎日眺めてると、フリントやロニーと同じような普通の男の子に思える。
疲れさせちゃいけないから長話はできないけど、あたしたちには共通の話題が意外とたくさんあった。十歳まで西区で暮らしていたアンドレアは、あたしが住んでいた辺りのこともよく知っていたし、共通の知り合いも何人かいた。千人殺しの墓場署長とこんなに普通に世間話ができるなんて、すごく不思議な気分だ。
アンドレアはテレビはニュース番組しか見なかった。あたしもそれにつき合ってニュースをなんとなく眺めるようになっていた。自分に関係ない世間の出来事なんて興味なかったけど、それでもニュースを見ているうちに自然といろいろ頭に入ってくる。
ニュースに出てくる難しい言葉は、アンドレアが意味を教えてくれた。
「逝去」や「追悼」という言葉も、そのおかげで覚えたのだ。
テレビのニュースはエヴァンジェリン姫の逝去の話ばかりだった。
お姫様は五日前、夜中にエウフレン山を馬車で移動しているとき、馬車ごと崖に落ちたんだそうだ。深い森の中へ落ちたので、馬車も死体もしばらくみつからなかった。お姫様が行方不明になって大あわての宮内庁が捜索隊を出し、ようやく昨日、めちゃくちゃに壊れた馬車がみつかった。
生きていた頃のエヴァンジェリン姫は、とてもきれいだ。きらきら光る長い金髪。優しい微笑み。まるでおとぎ話の絵本から抜け出してきたみたい。二十二歳。死ぬには若すぎる。
お姫様の棺は今、コルドレイク宮殿という所に置かれていて、そこには大勢の市民が花を捧げに行くらしい。献花台に置かれた花の様子がテレビに大写しになっていた。
「そのポケットに何を入れてる? ナイフだな、たぶん」
テレビ画面に映るたくさんの花に見入っていたあたしの横顔に、アンドレアの声が飛んできた。
あたしは内心ドキッとしたのを必死で隠した。
大当たりだ。なんでバレちゃったんだろう。
「武器を持ってる人間は、見ただけでわかる」
動けもしないくせに、完全に警官の口調に戻ってる。
ああ。もしかすると、あたしが人をぱっと見ただけでどこに財布を持ってるか見当がつくのと同じなのかな。プロの勘ってやつだ。
あたしはとりあえず開き直ることにした。
「悪い? いつだれが襲ってくるかわからないでしょ。護身用よ」
「この病院のセキュリティは厳重だ。万一ここの警備をかいくぐってこの部屋まで来られるようなやつがいたとすれば、相当の腕だ。きみなんかの手には負えない。素人が下手に武装してると大怪我するぜ」
「失礼ね。素人じゃないわよ……!」
あたしはそこらへんの普通の女の子とは違うんだから。こう見えてもプロの盗賊よ。そう言いかけて、あわてて口をつぐんだ。警察の親玉に向かって何を告白しようとしてるのよ、あたしは!
ちょうどそのとき病室のドアが開いて、よく太った、他の看護師さんから「班長」と呼ばれている中年の看護師さんが病室に入ってきた。班長は特にアンドレアのことがお気に入りだ。顔を見ればわかる。今だって、眼が細くなって溶けてしまいそうなほどのとびきりの笑顔を浮かべている。
「お母様が面会に来てくださいましたよ。よかったわね」
とろけそうな甘ったるい声。
あたしは思わず固まってしまった。アンドレアのお母さん。ってことは、ジェスの奥さんだ。まずい、どうしよう。あたし、そんな心の準備できてないよ。ジェスはまだ姿を消したままだし。奥さんに「あなたはだれ?」と訊かれたりしたら、答えようがない。
班長の後について病室に入ってきたのは、四十歳ぐらいのやせた女の人だった。
ひっつめた髪。きらりと光る眼鏡。地味なスーツ。あたしは、ケインおじさんに引き取られるまで暮らしていた児童看護施設のこわい先生を思い出した。意地悪な先生ではなかったけど、とにかく規則に厳しくて、口うるさかった。目の前の女の人もそんな感じだ。薄い唇をぎゅっとへの字に結んでいるので迫力がアップしている。
この人がジェスの奥さん!? なんだか……イメージとぜんぜん違うわ。もうちょっと、ほんわかした儚げな美人を想像してたんだけど。こんなおっかなそうな人だとは思いもしなかった……!
女の人はよろめくような足取りでベッドに近づいた。班長が病室を出て行ったとたん、
「よかった、署長。無事で……!」
泣き出す寸前みたいな激しい声が彼女の口から飛び出してきた。
口をへの字にしていたのは、泣くのをこらえるためだったんだ。
「うまく話を合わせてくれて助かった、ミズ・グレイスバーグ。ここの連中ときたら『肉親以外は面会謝絶』の一点張りで……」
「みんなどれだけ心配したと思ってるんですか。バーンズ副署長の落ち込みぶりときたら、傍で見ていても気の毒なほどでしたよ」
女の人は今にもアンドレアの手をとりそうな感激ぶりだ。
そうか。この人、警察の人なのか。
せっかくの感動の再会なんだから、邪魔者はそばにいない方がいいわよね。あたしは二人を残して病室を出ることにした。
変な話だけど、彼女がジェスの奥さんじゃないと知って、ものすごくほっとしていた。
正直言って、会いたくない、ジェスの奥さんになんて。どんなにいい人だとしても。どんな顔して会えばいいのかわからないよ。




