第21章(1)
第21章(1) ライバート・ジェシー・カイトウ名誉市長
わたしは激しく震える手で息子の髪を撫でた。おそらく十四、五年ぶりに。そして頬に触れた。
掌に伝わってくるのはぞっとするほど冷えた感触だった。
とうてい生命が残っているとは思えないほど大量の血が広がる。
何の反応も示さない体を抱きしめ、喉も裂けんばかりに咆哮しながら、わたしは、自分の中で何かが壊れる音をたしかに聞いた。
はじめ、その男がそこに立っていることに気づかなかった。
肌も服も黒ずくめで、闇と完全に同化していたからだ。
「――息子さんの容体はいかがですか」
不意打ちのように声をかけられ、わたしはぎくりとしたのを懸命に隠さなければならなかった。
聖アスバーナブル病院のロビーは、立体映像の滝と立体映像ではない自然木や水のせせらぎとの組み合わせで、山奥の自然の風景を見事に再現しており、実際の広さがつかみにくい。王都クテシフォンでも最も地価の高い港北区にあるのに、とんでもなく贅沢に空間を使った施設だ。
その広大なロビーの、生い茂った枝のせいで照明も届かない一角に、その男は気配を完全に絶って屹立していた。
かなり長身の男だ。体格も良い。年齢は、よくわからない。
わたしが黙っていると、男は白い歯を見せて微笑んだ。
「これは失礼。自己紹介が遅れました。私はクテシフォン防衛軍の広報官のセリム・トーゲイ中佐です。息子さんとはいつも親しくさせていただいてるんですよ♪」
「……」
わたしは相手の顔を見返し、嘘だな、と直感した。この男はたぶんアンドレアの敵だ。まあアンドレアの場合、敵ではない相手を探す方が難しいのかもしれないが。
わたしは快活を装って答えた。
「だったらご承知でしょうが、わたしは息子には嫌われてましてね。あまり連絡を取り合ってはいないんですよ。息子がどこか、体でも壊したんですか? 最後に会った時は元気そうだったが……」
トーゲイ中佐と名乗った男は、まったく信じていない様子を隠そうともせずに何度かうなずいた。
「さすがですね~、カイトウさん。よりにもよってこの、聖アスバーナブル病院を選んだってところが実に心憎い。ここのセキュリティの厳重さときたらニハーヴェント・シティの幕僚本部も真っ青なレベルだ。市内で我々が浸透できない施設はここの他に、ほんの一、二か所しかありませんよ。目ン玉飛び出るほどの治療費をふんだくるだけのことはあるってもんです」
わたしの返事も待たずに、ぺらぺらとしゃべり続ける。話の内容からして、この男はただの広報官ではない。初めから真剣に広報官のふりをするつもりもないようだ。
「貴族やVIPでさえ何ヶ月も前から予約しないと入院できないこの病院で……緊急手術ですか。あなたの力には、まったく恐れ入りますよ、カイトウさん。そこまでして、いったいだれに手術を受けさせているのか。我々が注目するのも当然でしょ?」
「あなたは何か誤解しておられるようですね。わたしがここにいるのは、たぶんあなたが思っておられるような理由ではありませんよ。緊急手術? 何のことです?」
わたしはとぼけ続けた。顔も口調も完全に平静だ。長年舌先三寸で世渡りしてきたのは伊達ではない。しかし、おそらく相手をだますことはできないだろうという確信もあった。
案の定、相手はわたしの言葉を完全に聞き流した。
「我々が知りたいのは……あなたの息子さんが職務に復帰できる状態かどうか、ということです。それによってずいぶん色々なことが変わってきますんでね。あの人、人気者ですから」
「アンドレアの近況を知りたいなら、わたしに尋ねるのはお門違いだ。市警に問い合わせてみてはどうですか?」
冷静さを取り繕うのも限界にさしかかっていた。わたしはトーゲイ中佐に背を向けてセキュリティゲートへ向かって歩き始めた。
しばらくの間、刺すような視線を背中に感じていた。
わたしは混乱している。世界はまるで、いかさまをしていない時のダイスの出目のようにランダムででたらめだ。今ここにいたと思えば、次の瞬間にはまったく見知らぬ場所にいる。なぜ自分がうろうろと歩き回っているのか――なぜ病院の外へ出たのかさえ思い出せない。セキュリティゲートの外へ出なければ、あんな妙な軍人にも会わずに済んだのに。
外面だけ冷静にふるまっていても、突然時と場所の感覚を失い、混濁に呑み込まれる。
真っ白な病院の廊下を歩いていると、どうしても「今わたしはエレノアの出産が終わるのを待っているのだ」という錯覚をぬぐい去ることができない。
清潔だが取りつく島もない殺風景な廊下を、焦燥感に駆られてうろうろ歩き回りながら待ち続けた数時間。
心を苛む不安と緊張。
ああ、その焦燥さえ、今思えばどれだけ甘美で幸福だったことか。
あれから十八年。
わたしは今ここで、いったいなにを待っているのか?
わたしには涙を流す資格さえない。
自分の勝手で見捨てたのだから。狂ったように夢を追い、一度も振り返らなかったのだから。ささやかな暮らしを。信頼に満ちてこちらへ伸ばされていた、小さな手を。
「大丈夫よ、ジェス。きっと大丈夫」
チェリーがわたしの指先をぎゅっと握り、励ましてくれる。
「アンドレアが負けるわけない。強いんだもの」
優しくて善良な子だ。その濃い紫色の瞳には一点の濁りもない。
わたしの指を握るその手のあたたかさが、力を与えてくれる。
しかし……そもそも……どうしてチェリーがここにいるんだ?
チェリーはまだ狙われる身かもしれない。警官とシュナイダー盗賊団の仲間たちに守られたアジトにいるのが最も安全なはずだ。
そんな彼女を、なんだってわたしはこんな所まで引っ張り出してしまったのか。
彼女には何の関わりもない、わたし個人の問題のために。
記憶が混乱している。思い出すには、熱にうかされたように空回りする脳を叱咤して、意識を集中させなくてはならない……
母さんを頼む。そう言われた日から、わたしはアンドレアの動向を監視しようと決めた。
今アンドレアが追っているのは、ただの犯罪者とはわけが違う。身内へ危害が及ぶ可能性を考慮しなければならないほど強力な相手だ。おそらく王家か宮内庁が関係している。銃の腕前だけでは太刀打ちできないだろう。
力になりたかった。守ってやりたかった。父親として。
エレノアには完璧な偽の身分を用意して、わたしの最も信頼できる友人と一緒にべリアル大侯爵領へ行かせた。
大侯爵家の数ある別宅のうち、気候の良い海辺の別荘で、女中として雇ってもらえるように話をつけた。
妻を狙っている連中が何者であれ、まさかそんな所で、しかも女中をしているとは想像もしないだろう。
先代の大侯爵が不慮の死を遂げた後、大侯爵家はまだ相続問題で揺れているので、だれものんびり海辺の別荘へくつろぎに来たりはしないだろうというのがわたしの読みだった。主がいない間は女中の仕事もそれほど忙しくはない。エレノアに同行してくれている友人は最強の戦闘員であるだけでなく看護師の資格も持っている。エレノアは安全に快適に暮らせるはずだ。
ひとまずエレノアの隠れ家を確保できたところで、わたしはまず、アンドレアを尾行してみることにした。
しかし、息子を甘く見てはいけないことを思い知っただけで終わった。尾行の試みは五回とも失敗した。毎回あっさり撒かれた。あの子が大勢のギャングを敵に回して今まで生き延びているのは、それなりに用心しているからなのだ。五回目の尾行のとき、姿を見失って街角で呆然と立ち呆けていると、いきなり後頭部に銃口を突きつけられた。
「自分の幸運をいつまでもあてにしない方がいいぜ? ぼくを尾けてくるようなやつは、誰何せずに頭を吹っ飛ばすことがあるからな」
とても法と秩序を守る警察署長とは思えないセリフを後ろから囁かれ、わたしは尾行をあきらめた。
方法なら、いくらでもあるのだ。
わたしは次に、凱旋門本署の署員を口説いて味方につけることにした。
ふだんから仲良くしている署員は、けっこう大勢いる。
署長の動きをチェックできそうな署員を選んで、わたしが無鉄砲な息子をどれほど案じているかを涙ながらに語って聞かせた。このままではまちがいなく命を落とす、そんなことになったらわたしも生きていられない、心配でたまらないから息子の動向を把握しておきたいのだ、と熱弁した。みんな同情して耳を傾けてくれた。たぶんわたしと同じぐらい、署員たちもアンドレアの身を案じているんだろう。
いちばん見込みがありそうだったアンドレアの秘書のモーリーンは、「ああ、わかります、わかりますわ。さぞかしご心配でしょう」と心をこめて相槌を打ってくれたが、さすがにベテラン秘書だけあってガードが固く、上官の行動を漏らすことには同意してくれなかった。
総務課の受付担当の若い署員が三人、「署長を訪ねてあやしい客が受付に来たら、すぐに連絡します」と約束してくれた。警備課の職員からも同じような約束をとりつけた。
それらの情報源だけでは不安だったので、わたしは、最近よくアンドレアの運転手を務めているという特務課のヘンリー・コモナス巡査部長を、口説き落とそうと努めた。
「いやー、そりゃあ、お父様のご不安もわかりますけどね? だからって署長の行先をいちいち教えるわけにはいきませんよ。公務員服務規程違反になりますし……外に情報を漏らしてるなんて知れたら署長に撃ち殺されるかも……」
と二の足を踏む巡査部長を、あの手この手で説得しているうちに――正確に言うと、わたしの知人が経営しているハールーン街のちょっと特殊な店へ彼を案内し、彼が出てくるまで店外で待機している時――警備課の協力者から情報がもたらされた。
顔を隠した、見るからにあやしげな男がアンドレアに会いに来たと。
しかもアンドレアは、だれも署員を連れずに、一人でその男について出て行ってしまったというのだ。
わたしは交通管制局に勤める友人に頼み、アンドレアが市警本部ビルの正面で乗り込んだ車を特定してもらい、その行き先を交通監視システムで追跡してもらった。
交通監視システムの有効範囲は外周ハイウェイの周内に限られる。車は南九番ランプでハイウェイを下りて《郊外》へ出たため、監視システムで追跡できなくなった。
車が向かった方向にあるのは、ハルルト湖とエウフレン山だ。
ハルルト湖周辺には貴族や大企業の別荘が散在している。また、湖のほとりには、フラーテス宮という今は使われていない小宮殿がある。
「今は使われていない」というのは表向きで、実際は姫君たちがお忍びで訪れて羽を伸ばす隠れ別邸であることを、わたしは聞き知っていた。
予感がした。アンドレアの行き先は十中八九、フラーテス宮だろうと。
胸騒ぎが止まらなかった。無謀にもほどがある、たった一人で乗り込むなんて……! 王族や貴族と言っても、けっしてお上品なだけの連中でないことぐらい、アンドレアだって承知していてもよさそうなものだ。
わたしは、パールシー王国全域で手広く商売をしている某食品加工会社の本社ビルへ走った。ひょんなことから、この本社ビルはちょっとあり得ないほど警備や管理体制がずさんだということを知っていた。早朝であることも手伝って、建物はほとんど無人だ。警報装置を作動させずに、屋上のヘリポートに待機しているエアクラフトを拝借することに成功した。
(すみません。ちょいとお借りしますよ。必ず無傷でお返ししますからお許しを)
と内心でその会社に詫びながら、わたしは北へ向かって飛んだ。
外周ハイウェイを出ると目に見えて建物がまばらになり、やがて視界に広がるのは山と未開の平原のみになる。ハルルト湖周辺は、良く言えば風光明媚、悪く言えば辺鄙な土地だ。人工物がほとんど見当たらない。
だから、その車は、すぐに目についた。
いくら何もない平原の真ん中だからといって、自殺覚悟でなければ出せないような高速で、猛然と湖を離れて行く中型トラック。
トラックの後部コンテナの屋根に、盾をあしらった凝ったデザインの社章がでかでかと描かれている。宮内庁御用達のケータリング業者だ。
姫君が別荘に滞在しているのなら、ケータリング業者が出入りしても不思議ではない。しかし、わたしには、ぴんとくるものがあった。エアクラフトの高度を下げ、爆走するトラックに接近した。エアクラフトの貨物室に「ケーキミックス」と書かれた大袋がいくつか積まれているのを、出発前に確認してあった。わたしはクラフトの操縦をオートに切り替えて操縦席を離れ、貨物室へ移動し、袋をカーゴドアからトラックめがけて次々と投げ落とした。十分高度を下げてから落としたので狙いを外すはずもなく、ケーキミックスの袋はすべてトラックを直撃した。衝撃で袋が破れ、粉が白い霧となって広がった。
トラックは急停止した。運転手がよろめきながら降りてきて、両手を高く上げて降伏の意思を示した。
車の屋根に響く重い衝撃。視界を遮る白い霧。運転手もまさか、自分が製菓材料の爆撃を受けているとは思わなかったのだろう。
わたしはエアクラフトをトラックのすぐそばに着陸させた。
「食品衛生管理局だ。クテシフォン市衛生管理規則第三三〇条ノ十四の規定に基づく臨時検査権を発動する。協力した方が身のためだぞ。雇い主を大スキャンダルに巻き込みたくはないだろう?」
口からでまかせを並べ立てながら、トラックに歩み寄った。中年の運転手はもはや逆らう気はないようだった。近くでよく観察してみると――ケータリング会社の従業員ではなさそうだ。お仕着せの礼服を着ているところを見ると、フラーテス宮の使用人か。
「私は……メフィレシア様に命令されて車を運転していただけです。何も……何も知らないんです。本当です」
震える声。ひきつった表情。ただごとでない怯えようだ。
食品衛生管理局をそこまで恐れる理由があるとは思えない。この男の恐怖の原因は何なのか。
「積荷は何だ。どこへ行こうとしていた?」
急にこみ上げてきた吐き気と戦いながら、わたしは必死で冷静な役人を演じ続けた。
「知りません。私は何も知りません。関係ありません。ただメフィレシア様のお言いつけで……!」
泣き出さんばかりに顔を歪める運転手を急き立てて、わたしはトラックの後部コンテナの扉を開けさせた。
ケーキミックスの甘ったるい香りに満たされていた空気に、たちまち、血の匂いが混じった。
そこから先の記憶は断片的で曖昧だ。まるで出来損ないのストップモーションのように。
わたしは背中に槍が刺さった状態のアンドレアをエアクラフトに乗せ、聖アスバーナブル病院へ直行して、緊急手術を依頼した。
クテシフォン市内で最高の病院といえば聖アスバーナブルだったし、また、理事長には戦争中に一つ貸しがあったからだ。多少無理な頼みでも聞いてもらえる。いや、聞かせる。
最先端の設備。最優秀の外科医チーム。
それらをもってしても不可能に限りなく近い、「奇跡」とでも呼ぶべき結果を、わたしは願い祈り続けていた。
刃物で胴体を貫かれ、普通ならとっくに死んでいてもおかしくない量の血液を失いながら、ごく細い生命の糸をつないでいるわたしの息子を。
どうか生き永らえさせてほしいと。
ああ、それがもしかなうなら、わたしの命など喜んで代わりに捧げるのに。
――そうだ。そう言えば、なぜチェリーが病院にいるのかも思い出した。
適切な人工臓器の手配のため、市役所の住民課に登録してあるアンドレアの系統データが必要だと、手術前に言われたのだ。落ち着いているときならそんな情報など、電話一本でどこからでも引き出せただろうが、わたしは完全に泡を食っていて、まともに思考できる状態ではなかった。シュナイダー盗賊団のアジトのわたしの部屋に置いたままになっているリマインダーチップのことしか思い浮かばなかった。アンドレアの出生届を出しに行った時に市役所で受け取り、それ以来十八年間、どんな場所へも持ち歩いてきたチップだ。そこに、市役所で必要な情報を交付してもらうために必要なコードが記されている。
わたしは大急ぎでアジトへチップを取りに走った。
運命に引き寄せられるように、廊下でチェリーとばったり顔を合わせた。
食事のとき以外ほとんど会わない日だってあるというのに、こんなときに限って。
チェリーはわたしの様子がおかしいことをすぐに見抜いた。
銀河連邦内の様々な星で、修羅場やピンチやイカサマ賭場をはったりとポーカーフェイスで切り抜けてきたベテラン嘘つきのわたしなのに、渾身のはったりを、女の子一人に簡単に見通されてしまった。わたしは自分で思っているほど上手い嘘つきではないのかもしれない。
「嘘。何でもないなんて嘘よ。大丈夫って顔してないもん。何があったのか話して、ジェス。仲間でしょ!?」
まっすぐ瞳の底をのぞき込まれて問いつめられ、わたしの化けの皮はあっけなく剥がれてしまった。
事情を知ったチェリーは、わたしのことが心配だから一緒に行く、と言い張った。
そうして今わたしたちは、こうして一緒にいる。聖アスバーナブル病院の手術フロアの付添人待機室。貴族の屋敷の客間にひけをとらないほど豪華な調度品を揃えた快適すぎる部屋で、二人きり、手をとり合いながら、運命の時を待っている。
手術は成功しました、と若い医師はあっさりわたしたちに告げた。
額の広い、いかにも知性の発達していそうな二十代後半の男だ。理事長によると、国内でもトップクラスの外科医だという。
全身の力が一気に抜け、わたしは立っていられなくなった。崩れかかるわたしを、すかさずチェリーが支えてくれた。わたしたちは固く抱き合った。おかげで、こらえきれずこぼれた涙をチェリーに見られずに済んだ。
「水を差すようで申し訳ありませんが! ぬか喜びすると後でもっとつらい思いをされるでしょうから、今はっきり申し上げておきます!」
医師が大声を張り上げた。
わたしたちはぼんやりと相手を見返した。大声を出されるまで医師の存在をすっかり忘れていたのだ。
「――『助かった』と言っているわけではありません。『医学的にやれるだけのことはやった』という意味です。移植した人工臓器は今のところ正常に作動しており、拒否反応もありません。患者が当院へ搬送されて来た時の状態を考えると、ここまで持ってこられただけでも奇跡だと考えてください。
患者は重要臓器の損傷と大量失血のため衰弱し、『死』に非常に近い状態にありました。今もそうです。回復できるだけの体力は……おそらく残っていないのではないかと考えられます」
わたしは何も言えず、ただ茫然と医師の顔を眺めた。
「祈ってください。もうそれ以外にわれわれができることはありません」
広くて快適で贅沢な病室だった。アンドレアが滅菌バッグから顔だけを出した格好で横たわっていた。その表情は穏やかで、まるで普通に眠っているみたいに見える。しかしほとんど血の気のない肌は青白かった。圧迫感を感じさせないように木目調の家具の中にうまく隠してあるが、大量の機器がベッドを取り囲んでいて、そこから無数の管が滅菌バッグにつながっている。
洗練されたスーツ姿の、事務員らしい女性がやって来て「当院では本職の司祭による祈祷およびカウンセリングサービスを提供しております」と説明を始めた。患者の回復を祈るため、病院付属の礼拝堂で、教義に則った正式な神への祈祷の儀式を行ってくれるそうだ。患者の死期を前にした家族のつらい気持ちをやわらげるためのカウンセリングもある。経験豊かな司教が心の持ち方をアドバイスしてくれる。もちろん、すべて入院費とは別料金で。
途中で「あんた、いったい何の話をしてるのよ!? お金お金って……ちょっとは人の気持ちも考えなさいよ!」とチェリーが割って入り、事務員に怒鳴り始めたため、その先の説明は聞きそびれた。
悪いことばっかりじゃないさ、なあ?
こんなことでもなければ、おまえとこうやって何時間もゆっくり一緒に過ごすなんて、できなかった。
わたしがこの街へ帰って来てからの二年間。会いに行ってもおまえはいつもカリカリしているし、「さっさと帰れ」と発砲してきたことも何度もあったし、なんだかんだ言ってお互いに忙しかったし。落ち着いて顔をつき合わせて話をしたことは一度もなかった。
今ならこうやって、だれにも邪魔されずにずっと顔を眺めていられる。
幼い頃の面影と比べて、「大きくなったんだな」と成長を実感できる。
そして、そばにいられなかった十年余に思いを馳せ、後悔に溺れる。
たぶん、十数年前、この街の片隅で親子三人で暮らしていた時期は、わたしの人生で最も幸せな時間だった。
わたしは結婚を機に定職に就き、不動産の営業の仕事をしていた。営業に向いていたわたしは好成績を上げ、収入もまずまずで、生活は安定していた。
息子の三歳の誕生日に、自動チュートリアル機能付きのスケーラブル・ピアノを買ってやれるぐらいの経済的余裕はあったのだ。
居間はエレノアの焼いたケーキの甘い香りで満たされていた。アンドレアはピアノを気に入り、さっそく鍵盤を叩いていた。わたしたち夫婦はたどたどしい楽器の音色に耳を傾けながら、目に入れても痛くない宝物の順調な成長を喜び合った。
「この子は本当に、音楽が好きね。男の子なんだから、もう少し腕白でもいいんじゃないかと思うんだけど。そういう考え方って古いのかしら」
「いやいや、この子は才能があるぞ。ミドルスクールを出たら専門の学校へ行かせてやろう。きっと音楽家として大成できる」
小ぎれいに整えられた狭い居間でピアノを聴いていた午後のことを、その後わたしは何度も、何度も思い返した。
アンドレアの四歳の誕生日を家族揃って祝うことはできなかった。
船員の高い給与につられたわたしが商船に乗り組み、パールシー王国を出たからだ。
頼むから、その目を開けてくれないか、アンドレア。毒舌でもいい、声を聴かせてほしい。
そろそろおまえの寝顔以外の顔を見たくなってきたんだよ。
防音が完璧に行き届いたしずかなこの部屋で、独りきりでずっと目を覚ましているのは寂しい。とてつもなく寂しいよ。
あれはたしか今年の春先、改築された聖アーミテジ教会の落成記念式のことだ。それほど大きくはないが清潔感あふれる真新しい聖堂は、多数の窓から、たっぷりした日光を受け入れていた。宗教関係者とそうでない人間とが半々ぐらいの割合を占める参加者の中で、わたしはアンドレアをみつけた。まさかこんな場所で会うとは思っていなかったので、ひどく驚いた記憶がある。
アンドレアも、仕事中ではないせいか、ふだんより態度にとげとげしさが少なかった。珍しく、自分の方からわたしに声をかけてくれたぐらいだから。
「あんたが来てるだけで、どんなまじめな宗教施設でも、とたんにインチキ臭く見えてくるから不思議だな」
わたしはその言葉を「こんにちは」と同程度の通常の挨拶とみなし、肩をすくめた。
「クレルコフ司教は昔からの友人なんだよ。……おまえこそ、信仰なんて柄じゃないだろう?」
「司教は前科者の更生に力を尽くし、再犯防止に貢献してくれている。市警にとっては大事な人物だ」
そのときクレルコフ司教が姿を見せ、参加者たちに挨拶を始めた。なごやかな談笑の声が高い天井にこだました。わたしたちはなんとなくその様子を目で追った。司教とその周囲の人々との間には、お互いに対する尊敬と信頼の空気がごく自然に漂っていた。それは光輝に満ちた遠く美しい情景だった。
「おまえも少しはまじめに考えてみたらどうなんだ。神様とかそういうものを。見たところおまえには、人一倍、神のご加護が必要だぞ。わたしには宗教のことはよくわからないし、たぶん今さら何をやっても手遅れだろうが……おまえならまだ間に合うかもしれん」
アンドレアが力のある大きな目でこちらを見たので、わたしは飛んでくる罵声に備えて身構えた。しかし返ってきたのは意外としずかな言葉だった。
「人の命を奪うからには、人に命を奪われる覚悟はできてる。それが因果応報というやつだろう? 今さら神に命乞いしようとは思わないさ」
わたしの心に突き刺さったのは、その達観した態度だった。
若者らしい無鉄砲さ、根拠のない強気だったなら、まだよかったのだが。アンドレアはまるで既定事項のように自分の死を口にした。
「心配だわ。この子は優しすぎるから。こういうご時世でしょう? 特に男の子は、強くないと色々大変だと思うの」
いとおしくてたまらないといった仕草で、息子のやわらかい鋼色の髪をくしゃくしゃにかき混ぜる、エレノアの白い指。
「法律で守られるのは、法律を守っている人間だけだ。何十人も殺している札付きの悪党の人権など、クテシフォン市警は考慮しない」
声高に非難を叫ぶ大勢のマスコミに囲まれ、揺るがない苛烈な視線でカメラを見返すアンドレア。
ギャングのアジトになっているビルをギャングごと爆破し、ニハーヴェント市の工作員が乗った航空機『べスケット』号を海に墜落させ、銃撃戦の末何十人もの武装集団を全滅させ、屍の山を築きながらひたすら前進していく。新聞社は「墓場署長」というあだ名を進呈しただけでは足りず、ついには「社会の敵」呼ばわりし始めた。
それを一顧だにしない強靭な信念。
手術から三日が過ぎた。アンドレアの容体に変化はなかった。だれも何もはっきりしたことを言わなかったが、医師や看護師の微妙な態度の変化から、わたしは事態の悪さを読み取っていた。
回復していく人間であれば、遅くともこの時期までには意識を取り戻すのが普通だ、という分岐点。アンドレアはたぶんそれを越えてしまったのだろう。
その分岐点を過ぎても昏睡を続ける人間は、回復の見込みがぐっと少なくなる。
そりゃそうだよな、とわたしは眠るアンドレアに語りかける。おまえもわたしも神様に好かれるような生き方はしてこなかったものな。こんな時だけ奇跡を願ったところで虫がよすぎるというものだ。
こうやって、ゆっくり顔を見て別れを告げる時間を得られただけ――ありがたいと思わなくてはならないのだろう。
運が悪ければ、死体さえみつからないところだった。
無残な傷口をきちんと縫合してもらい、血も拭い去られ、清潔な入院衣を着て快適な病室に横たわっている。そんな姿のまま見送ることができるのは、神からのせめてものプレゼントなのだ。もっともっとひどい状況だって、いくらでもあり得た。
わたしは足元に置かれたケースを見下ろす。病院側から返されたアンドレアの所持品だ。血は取り除かれ、きれいな状態になっている。身分証。ARFジェネレータ。そして四丁の銃とホルスター。その銃の中にはわたしが贈ったハンドガンも含まれている。
強い感傷に胸を締めつけられた。――ちゃんと使ってくれていたのか。
悲しみに耐えきれず、わたしが自分のこめかみを撃ち抜くときも、このハンドガンを使うとしよう。
うなだれていたわたしは、肩に触れる人の手の感触に、はっと顔を上げた。
チェリーだった。チェリーはわたしの顔を見て、ぎくりと身を震わせた。
「少し……横になって眠らなきゃだめよ、ジェス。ご飯も食べなくちゃ。もう三日、ろくに寝てないし、食べてないでしょ? すごい顔してるよ」
かすれたその声には、心配がにじみ出している。
わたしは彼女にほほえみかけ、「腹が減ってないんだ、大丈夫だよ」と答える。我ながら上手に取りつくろえたと思ったが、チェリーには通用しなかったようだ。真剣きわまりない表情でわたしを睨み続けている。
「このままじゃジェスの方が倒れちゃうよ。ねえ。ここはあたしに任せて。ジェスは少し寝てきて。アンドレアのことはあたしが見てるから大丈夫だよ。ね?」
チェリーは言い出したら後には引かないタイプなのだ。今までのつき合いで、わたしにもそのことがわかりかけていた。
チェリーは、病室にやって来た看護師をさっそく味方につけた。
「ねー看護師さん。この人、今にも倒れそうな顔してるでしょ? 今すぐ睡眠をとらなきゃだめよね? ね?」
わたしを指さすチェリーの言葉に、看護師は厳粛にうなずいた。わたしは二人がかりで説得され、押し切られた。ちっとも眠くはなかったが、アンドレアの病室から三部屋ほど離れた所に用意された控室で、とりあえずベッドに横たわるよう言われた。
――自覚している以上に、わたしの体は疲労困憊していたらしい。
目を閉じたことさえ意識しなかった。
やわらかな光に満たされた真っ白な空間。アンドレアが、見たこともないほど穏やかな雰囲気で微笑んだ。
そのままわたしに背中を向け、ゆっくりと歩み去っていく。
わたしはその後を追おうとしたが、足が地面に貼りついてしまったかのように動かない。名前を呼んだ。声は発せられなかった。わたしは無音のまま口をぱくつかせた。
息子の後ろ姿がどんどん遠くなっていく……。
目覚めた瞬間初めて、自分が泥のように深く眠っていたことを知った。わたしは激しくベッドの上に起き直った。鼓動が異様なほど高まって息苦しい。
だめだ。早く、早く呼び戻さなくては。あの子が行ってしまう。
わたしは飛び起きた。正確には、飛び起きようとした。しかし、思っていたより体が重くて、肩から床に転がり落ちた。四つん這いの姿勢から必死で立ち上がった。控室を駆け出した。
不吉な予感はいやと言うほど的中していた。ふだんはしずかな廊下を大勢の医師や看護師が急ぎ足で行き交っていた。皆、アンドレアの病室へ入って行く。
開いたままのドアからチェリーが転がり出してきた。わたしは、彼女が、泣いていることに気づいた。
「ジェス。アンドレアが……!!」
な に も 言わないでくれ。お願いだ。
聞きたくない。そんな言葉は、何一つ、聞きたくないのだ。
わたしは病院を飛び出していた。