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第20章 クリメーヌ・ド・メフィレシア

 わたくしの目から見て、パールシー王国でも最高の貴婦人は、わたくしのお母様であるガブリエラ・ド・メフィレシア公爵夫人です。

 お母様は貴婦人の鑑です。お美しくお優しいだけではなく、教養にあふれておられます。立居振舞は優雅そのもので、どのような場面でも凛としておられます。社交界のだれからも慕われ、尊敬されているのも当然のことでしょう。

 ですから、このたび、お父様が無実の罪で警察に突然逮捕され、シャルルお兄様も姿を消すというメフィレシア家始まって以来の一大事の最中でも、お母様の振舞いは大層ご立派でした。

 お母様はふだんとまるで変わらぬ落ち着いたご様子で、家内を采配し、必要な事務を執り行われたのです。おかげでお屋敷の中では、何事もなかったかのような平穏な生活が続きました。

「いいですこと、クリメーヌ。淑女というのは、殿方に守られてばかりではいけないのです。時には殿方以上の強さを発揮して、殿方を支える。それが淑女の器量というものですわ」

 背筋をぴんと伸ばしたいつもの姿勢で、お気に入りの椅子に腰かけたお母様は、お茶を飲みながらにっこり微笑まれました。

 わたくしの方は、そうはいきませんでした。

 不安と悲しみで毎日泣き暮らしていたのです。わたくしたちの家にこのような災難が降りかかるなどとは、思いもよらないことでした。新聞を読んでみると、逮捕されたのはお父様だけではなく、宮内庁の他の立派な方々も同じ目に遭っておられるようです。あまりに恐ろしいことばかり書かれているので、わたくしはすぐに新聞を読むのを止めてしまいました。

 相談したいと思ってお友達にお手紙やお電話を差し上げても、不思議なことに、だれとも連絡がつかないのです。

 ――やがて、長い悪夢のような数週間が過ぎて、とうとうお父様がお屋敷に帰ってこられました。

 お父様は憔悴なさったご様子でした。長い間ひどい目に遭っていたのですから当然です。

 お父様がお戻りになった日から、屋敷内の雰囲気がざわざわと落ち着かなくなりました。わたくしも存じ上げている、宮内庁でお父様と同僚だった貴族の方々が、足しげく出入りするようになったのです。特によくお越しになったのは宮内庁の元副長官だったボルカン公爵で、深刻なお顔をして毎日のように訪ねていらっしゃいました。

 わたくしがお父様の書斎の前を通りかかると、ときどき扉が半開きになっていて、その中から興奮した声が廊下まで響いていることがありました。

「……指揮官がいなくなって、市警の体制は総崩れらしい。おかげでわれわれも保釈されたわけだが。カイトウ署長に何があったか、きみは知っているか、ギュスターブ?」

「……あのような恥辱は生まれて初めてだ。薄汚い犯罪者どもと同列に扱われるとは。まさか、きみは本当に何らかの犯罪に関与していたのか?」

「……王宮で何が起きている? われわれは何も聞いていないぞ」

「……きみは説明する義務があるぞ、ギュスターブ。われわれ皆に」

「……たとえ元の地位を取り戻せたとしても、われわれが受けた汚辱は、なかったことにはできないのだ……!」

 わたくしは耳をふさいで、書斎の前を駆け抜けるのが常でした。

 まるで皆がお父様を責めているかのようなのです。いつもあんなに仲睦まじかった方々の諍いなど、耳にしたくもありません。

 このような時だというのに、シャルルお兄様はいったいどこへ行ってしまわれたのでしょう。お兄様がいてくだされば、この不安も少しは耐えやすいものになったでしょうに。



 それはお父様がお屋敷へ帰って来られてから四日目のことでした。

 お昼過ぎ、お母様がわたくしの部屋へやって来て、

「旅行の準備をしなさい、クリメーヌ。急いで領地へ帰らなくてはならなくなりました」

とおっしゃったのです。

「旅行って……今からですの?」

 わたくしはあっけにとられてお母様を見上げました。

「そんな……いったい、どうして? 貴族院の会期は、まだ半分以上残っていますでしょう?」

 貴族院が開催されている期間は、全国の貴族の皆さまが王都クテシフォン・シティに集まるので、活発な社交シーズンとなります。晩餐会や舞踏会に()んだり招ばれたり、毎夜のように楽しい催しが続きます。わたくしたち貴族の子女にとって、一年のうちその期間だけが、本当に生きていると言える楽しい期間なのです。領地の地味なお屋敷に戻るのは、できるだけ少ない方がいいに決まっています。

 たしかに、お父様が警察に逮捕されていた間は、さすがにそのような催しに出席する機会はありませんでしたけど。お父様が戻って来られたのですから、また元通り、にぎやかな毎日が始まるはずです。

 お父様のお仕事の都合です、とお母様はきっぱりおっしゃいました。

「お父様は、王家にとって重要な任務を仰せつかり、これからとてもお忙しくなります。わたくしたち家族がそばにいたのでは、お邪魔になるのです。すぐに支度なさい、クリメーヌ。明日の朝には出発しますよ」

 明日ですって。それは大変です。

 わたくしは手の空いているメイドを総動員して荷造りに取りかかりました。メイドたちは奮闘してくれましたが、翌日の出発の時間までに、持って行きたい物の半分ぐらいしか荷造りできませんでした。召使たちがスーツケースを運び出すのを眺めながら、わたくしは落胆のため息をつきました。仕方ありません。お父様のためですもの。

 それにしても、なんて急な出発なのでしょう。きっとよほど大切なお仕事なのですね。このごろのお父様の身辺のご様子は、普通ではありませんでしたから。

 お母様とわたくしは、書斎のお父様にご挨拶をしてから、お屋敷を出て馬車に乗り込みました。

 領地までは馬車で一週間の旅です。車やエアクラフトを使えば一日で着く距離ではありますが、貴族たるもの、よほどやむを得ない事情がない限り、そのような下賤な庶民の乗り物を利用するわけにはいきませんものね。

 市の郊外のハルルト湖に程近い所にある水遊び用の別邸に到着したのは、その日の夕方のことでした。今夜はこの別邸に泊まって、明日の早朝にあらためて出発するのです。使用人たちがわたくしたちを出迎えるために玄関に並んでいました。

 わたくしは、車寄せに、見たことのない馬車が停まっていることに気づきました。

 立派な馬車です。持ち主の立派な家柄がしのばれます。いったいどなたの馬車でしょう?

 玄関を入ると、奥から奇妙な声が聞こえてきました。

「――赤ちゃんの揺りかごは シバの木の上

 風が吹いたら 揺りかごはゆらゆら

 枝が折れて すっとーん

 みんな落ちるよ、枝も、揺りかごも、赤ちゃんも」

 歌声、と呼んでもいいのでしょうか。でも歌だとすれば、とんでもなく調子外れです。メロディにも何にもなっていません。

 しかもどうやら、子どもではなく、大人の男性の声のようなのです。

 わたくしが呆然として、足を止めてそちらの方向を眺めていますと、開いたままの客間の扉から声の持ち主が姿を表しました。

「枝が折れて、すっとーん。あひゃひゃひゃひゃ」

 けたたましい笑い声をあげているのは、ひょろりとした長い手足を持つ金髪の若い男性。驚いたことに、素っ裸です。

 わたくしは悲鳴をあげて、両手で目を覆いました。わたくしの後ろでお母様も声をあげるのが聞こえました。

 大騒ぎになりました。使用人たちが辺りを駆け回りました。

「大変失礼致しました。申し訳ございません。もう目を開けていただいても大丈夫でございます、お嬢様」

 執事長に促されて、わたくしが目を覆っていた手をどけた時には、奇怪な若い男性の姿は消えていました。歌声も、もう聞こえませんでした。

 わたくしは夕食後、いつも使っている二階の寝室へ移動しましたが、何かがおかしい、何か異常なことが起こっている、という感覚は弱まることがありませんでした。不安におびえるわたくしは、床に就いても、なかなか寝つくことができずにいました。

 さっき見た素っ裸の青年。わたくしのよく存じ上げている人に似ていたように思うのですけれど。

 いいえ、まさか。そんなはずありません。あり得ないことです。

 シャルルお兄様はクテシフォン社交界随一の美男子です。おしゃれで素敵な、皆の人気者です。そんなお兄様と、あのような奇怪な者が一瞬でも似ていると感じたなんて……! 旅の興奮で、わたくしの神経がどうかしていたのでしょう、きっと。

 ――不安のため感覚が過敏になっていなければ、気づかないところでした。庭で響いた「うひゃひゃひゃ」というかん高い笑い声に。戸外の寒さを防ぐため、窓は分厚いカーテンで覆われているのです。

 わたくしはすぐに立ち上がり、カーテンを大きく開きました。

 寝室の窓のすぐ下が車寄せになっていますので、例の見事な馬車と、その傍らに立つ三人の人影を、まるで舞台でも眺めるようにはっきりと見下ろすことができました。一人はさっきの金髪の青年でした。今は服を着ていました。シャツの裾がだらしなくパンツからはみ出してはいますが。

 もう一人は、執事のフリードマンでした。フリードマンはお父様と一緒に本屋敷に残っていたと思ったのですが。いつの間にわたくしたちに同行していたのでしょう?

 残る一人は、こちらに背中を向けているので、どのような方なのかわかりませんでした。けれども、照明の光を浴びて美しく輝く、長い黄金色の髪が印象的でした。きっとかなり身分の高いお嬢様に違いありません。あの立派な馬車は、このお嬢様の持ち物だったのですね。

「――ぱん、ぽん、ぷりん

 風船だー

 そこのけそこのけ 姫様のお通り

 尻尾を踏まれて 犬わんわん」

 ガラス越しに、青年の異様な歌声がこちらまで届きます。まるで興奮している幼児(おさなご)のように踊り回っています。

「――どうかレディ お手を拝借

 いざ進まん ぬかるみの道を

 ギロチンひらめき 首が飛ぶ」

 青年はけたたましく笑い始めました。「うひゃひゃひゃ! 首が飛ぶ。首ころころ。うひゃひゃひゃひゃひゃ!!」と、頭を思いきり後ろへのけぞらせて笑いました。

 その拍子に、完全に上を向いたその顔を、今度こそわたくしははっきり見ることができました。

 青年とお嬢様は馬車に乗り込み、扉が閉じました。フリードマンが御者席に付きました。こんな時刻だというのに馬車はあわただしく出発していきました。馬車がどちらへ向かったのか、わたくしは確認することができませんでした――不意に浮かんできた涙で視界がぼやけてしまったからです。

 わたくしは部屋を飛び出しました。お母様の寝室の扉を、激しくノックしました。作法に反していることはわかっていましたが、どうしても我慢できなかったのです。

 扉はすぐに開かれました。化粧を落とした素顔のお母様がわたくしを見下ろしていました。

 お母様も床に就いておられなかったようです。髪形にもほとんど乱れはありませんでした。

 寝室に招き入れられ、ソファに腰を下ろした頃には、わたくしはもはやはばかることなくぼろぼろと涙を落としていました。

「お母様。……シャ、シャルルお兄様が……!」

 お母様はソファのわたくしの隣に座り、わたくしの手を握ってくださいました。

「クリメーヌ。淑女たる者、けっして取り乱してはいけませんことよ。どんなことがあろうともです。常に落ち着いて、優雅に振る舞うのです。それが淑女というものです」

 白いネグリジェに包まれた柔らかい腕が、わたくしの体に回されました。

「だれも見ていない所でも、公の場と同じ気品を保たなければなりません。声を出して泣くなど、もってのほかですよ。わかりましたね、クリメーヌ」

 わたくしはうなずくのが精一杯でした。涙は止まりませんでしたが、固く唇を結んで、なるべく声を出さないようにしました。嗚咽で体が震えました。

 お母様はそれ以上なにも言わず、優しくわたくしを抱きしめてくださいました。お母様の体からも小刻みな震えが伝わってきましたが、わたくしは懸命に、気づかないふりをしました。

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