第19章 ヘレナ・ヘジナ・ホルムズド
年はとりたくないものじゃ、まったく。
わしは姫様にお会いするため、馬車に乗ってハルルト湖畔のフラーテス宮へ向かった。王宮の外へ出るのはほぼ二年ぶりだった。馬車に乗ったのはおそらく十年ぶりぐらいじゃろう。馬車というのはこんなにも揺れるものだったか。わしの記憶にあるより、はるかにひどい。何時間にもわたって揺られ続け、わしは気分が悪くなった。御者に頼んで、途中で何度も馬車を止めてもらわねばならなかった。
そのため、本来なら朝に出発してその日の夕方に着く予定だったのに、けっきょくフラーテス宮に到着したのは次の日の昼過ぎだった。丸一日遅れてしまったわけじゃ。
湖畔に建つ白塗りの宮殿。フラーテス宮は、先々代の国王ベルジブ十一世が戴冠間もない頃に建造した避暑用の別荘だ。専用の船着き場と小劇場を備えており、ボート遊びや観劇を楽しむことができる。庭園では色とりどりの花が揺れていた。王家の宮殿はどこでもそうだが、このフラーテス宮の庭園も季節ごとにすべての植物を植え替え、常に花盛りとなるよう維持されている。したがって、寒い今の季節は、第六惑星メッシモから取り寄せた花が中心だ。
長旅でがくがく震える足を踏みしめ、馬車から庭に降り立った瞬間――わしは、自分が遅すぎたことを悟った。
凄惨な血の臭いが空気を満たしている。
惨劇の気配は、べったりこびりついた血のりと同じぐらい明々白々だった。殺意と断末魔の無念が辺りに漂っていた。
あまりにむごたらしい《気》。周囲で咲き誇る花々が、たちまちにして色を失って見える。
わしは地面に膝をついた。こみ上げる吐き気を懸命にこらえた。
発せられずに終わった犠牲者の悲鳴が上空で渦を巻き、わしの耳から入り込んで背骨を震わせる。
おお、何ということじゃ。何という恐ろしいことじゃ。
目の前が暗くなり、わしは意識を失う。
気がつくと、やわらかい寝台に横たえられていた。
エヴァンジェリン姫様の美しい顔が、心配そうにわしを見下ろしていた。
「大丈夫、おばば?」
ひさしぶりにお会いする姫様は、顔色が良くなかった。この建物で起きた惨劇が何であれ、姫様はそれに深く関わっておられたのだろう。
天井には精密な宗教画が描かれ、古いデザインのシャンデリアが吊り下がっている。来客用の寝室らしい。薄暗く感じられる室内には、姫様とわしの二人だけだった。
――あれからかなり時間が過ぎたのだろう。窓から夕陽が差し込んでくる。さっき濃密に空気を満たしていた《死》の気配が薄らいでいるので、わしはようやく、安心して呼吸することができた。
苦労して寝台に体を起こし、卓上に置かれていた杯の水を飲んだ。それでようやく言葉を発するだけの元気を取り戻した。
「……姫様の北の空の凶星があまりに大きく、強くなってきましたので、警告しようとここまで参ったのですが……遅すぎたようですな」
わしのつぶやきに対し、姫様は一瞬顔をこわばらせたが、すぐに端正な表情に戻った。
「あたくしがこの別荘にいると、よくわかりましたわね。だれにも知らせていなかったのに。さすがは、おばばだわ」
姫様は話をそらそうとしている。まるで世間話でもするみたいな、ふだんと変わりのない口調で。エヴァンジェリン姫様がすばらしい女優であることを、わしも十分知っていた。この数か月間、姫様の《演技》をそばで見続けてきたのだから。
「凶星が消えれば……待っているのは破滅です。姫様と、姫様のそばにいるすべての者の。逃れる方法は一つしかありませぬ」
わしは声を絞り出した。こらえきれず、わしの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「申し訳ございませぬ。わしの力不足で、姫様を守って差し上げることができませなんだ。恐ろしい運命から。そして、姫様ご自身から」
姫様がはっと息をのむ気配が伝わってきた。
しばらく沈黙が続いた。
閉ざされた扉の向こうから、下品な感じの男の笑い声がかすかに聞こえてきた。こんな所で大笑いするような愚か者は、いったい何者じゃろう。使用人のはずはないが――。
エヴァンジェリン姫様は椅子を引いて、わしの横たわる寝台に近づけた。そして近い距離から、真剣な表情でわしの顔をのぞき込んだ。
「それでは、知っていたのね、おばば」
「はい。すべてを」
「そうよね。おばばが気づかないはずありませんものね。……いつから?」
姫様の細い指が、わしの涙の筋をなぞる。
その指は血にまみれているとは思えぬほど美しく、その感触は殺人者のものとは思えぬほど優しかった。わしが幼少の頃から慈しみ、お守りしてきた愛しい姫君。
七年前からでございます、とわしは答えた。
姫様がエウフレン山荘で母君であるグウェナヴァー王妃を崖から突き落とすことを、わしはその数日前に水晶玉から読み取っていた。悲劇の予兆はその前からあった。芸術家気質の王妃様は、ご自分の気まぐれな性格をむしろ誇りに思っているところがあった。「だって、あの子、いつも陰気臭い顔をしているのですもの」という理由にもならない理由でエヴァンジェリン姫様につらく当たられ、そんな“常識にとらわれない自由で気ままな”ご自分を楽しんでおられた。わしは何度もご忠告したが、聞き入れていただけなかった。
「ああ……思い出しましたわ。あの頃たしか、おばばはあたくしに国外留学を勧めてくれたわね。『素敵なレディになるために、いろいろ見聞を広められるとよいと思います』と言って。……おばばの言う通りにしておけばよかった。そうすれば、あたくしも、あそこまでお母様を憎まずに済んだでしょうに」
エヴァンジェリン姫様がしんみりした調子でつぶやき、かすかに微笑んだ。
わしは苦しみながら言葉を継いだ。
「そして、今年の初め。姫様がゾフィー皇太子殿下に毒を盛ったことも知っております。あのメフィレシアめの力を借りて」
「お兄様は……戦争へ行ってから、変わられたわ。思いやりがなくなってしまった。『ぼくが王位を継いだら、きみに外交を補佐してもらいたいな』と、システィーンだけにおっしゃるんですのよ。システィーンだけに。あたくしの立場がどうなるのか、ちっとも考えてくださらなかった」
――わしはゾフィー殿下に何度も申し上げた。孤独に苦しんでいるエヴァンジェリン様に温かい言葉をかけてくださるようお願いした。ゾフィー殿下は快諾してくださったが、そもそも殿下は陽気で活動的な青年で、細かい気配りがあまり得意な方ではなかった。殿下の目は常に外へ向いており、同じく活発な気性を持つシスティーン様とよく気が合った。いつもシスティーン様ばかりに声をかけておられたのは、悪気があってのことではなかったのだが。
「だれも、あたくしを、愛してくれなかったのです。あたくしの家族は。だれも皆、システィーン、システィーンって」
エヴァンジェリン姫様はきっぱりと言い切った。
「妹は恐ろしい子です。あの子はあたくしからすべての幸せを奪ったわ。あたくしは何年も何年も、あの子の影として、虐げられて生きてきました。だから、あたくしは、システィーンからすべてを奪い返したのです。あたくしはシスティーンになりました。あの子の人気も、あの子が周りから受けていた愛情も、すべて代わりにあたくしが手に入れました。驚きましたわ……あの子には、こんな素晴らしい世界が見えていたのかと」
わしの涙は止まらなかった。
姫様がいとおしく、気の毒でたまらなかった――愛されることばかりを求め、自ら愛することを知らない不幸な姫様が。
他人に“求める”ばかりではなく。自ら“与える”ことを知れば心の平安が訪れると、ずっとご忠告申し上げてきたのだが。
エヴァンジェリン様も、まぎれもなく、パールシー王家の血を引く一人だった。ひたすら己の欲望を追求し、そのためなら手段を選ばない――己の権勢欲のため数々の惨劇と戦乱を引き起こしてきた、呪われた王家の血筋。
ああ、しかし、わしは姫様をだれよりも大事に思ってきた。その過ちをさえ愛しいと感じた。
だからわしは、悲劇を防ぐため手を尽くしてきたが――王族の方々の心のすれ違いを正し、少しでも円満な関係を築いていただこうと努力したが――「このままでは、あなた様はエヴァンジェリン様に殺されてしまいます」とはっきり警告することだけはしなかった。グウェナヴァー王妃にもゾフィー皇太子にもクレハンス陛下にも。そんなことをすればエヴァンジェリン様が罪人として放逐されてしまうかもしれない。それを恐れた。
わしのその弱さが、今日の悲劇を生んだのじゃ。疑いなく。
陛下は毒で弱り、第一王位後継者は殺人犯となり、第二王位後継者は廃人となった。そしてパールシー王国の崩壊は目前に迫っている。
それにわしの弱さはけっきょく、エヴァンジェリン様を救う結果にもならなかった。
「あたくしのことを本当に思ってくれたのは、おばばだけ。『あなたはあなた。それでよいのです』と、よく言ってくれたわね。おばばは、いつも、元気をくれました。子供の頃からずっと」
姫様はわしの手を取り、うつむいた。その動きに合わせて、輝くように美しい金髪がさらりと流れた。白い華奢な手がわしの皺だらけの手を優しく包んでいる。
「……でも、あたくし、肝心なところでおばばの言葉に背いてばかり。北の新星に近づいてはいけないと、あれほど言われていたのに。――今朝あの人が来たとき、会うのを断ればよかったのですわ。そうすればあんなことにはならなかったでしょう。でも、つい……市警の動きを知りたかったので……」
「お願いでございます、姫様……わしからの最後のお願いです。どうか神に帰依なさいませ。破滅を逃れる道はそれしかございませぬ」
わしは泣きながら懇願した。
わしの手を握る姫様の指がこわばった。
「神など存在しない。そんなことは、だれだって知っていますわ。今みんなが教会へ通ったりお祈りを覚えたりしているのは、ただのファッションです。そうでしょう?」
「それはそうかもしれませぬが、でも……」
自分を無条件で愛し、受け入れてくれる神という名の全能者。そのようなものの存在を真剣に信じることができれば、ひょっとすれば、姫様の心も救われるかもしれぬ。“愛される”ことに何よりもこだわる姫様であれば。
姫様は叫んだ。
「ああ。宮内庁に身を委ねろと……そう言っているのね。罪を犯した王族は、メッシモの極地の離れ小島にあるポルテン修道院に死ぬまで幽閉されるのが伝統。そこへ入ることに同意すれば……少なくとも、命は助けてもらえますわね」
「どうか姫様……無茶なことはお考えにならないでください……修道院とてそれほど悪い所ではございますまい……」
「何を言うの、おばば。ポルテン修道院なんて牢獄も同然ですわ。あたくし、そんな運命には、とても耐えられそうにありません」
扉の外で再び、男の野卑な笑い声が響いた。何かを打ち鳴らすような音も聞こえてくる。王家の宮殿にはふさわしくない狼藉だ。何者じゃろう。
そのとき、エヴァンジェリン姫は、握っていたわしの手をそっと離した。
そして、微笑んだ。儚く寂しい微笑み。
「ごめんなさい。おばばが反対することはわかっているのですけど……もう決めたことなのです」
「何を……何をなさろうというのじゃ、姫様。まさか……」
「あたくしはシャルルと一緒に行きます。シャルルのお父様、メフィレシアさんの領地へ。どこまで逃げられるか、やってみるつもりです」
「シャルル・ド・メフィレシアですと。あのような青瓢箪に頼られるとおっしゃるのか。あの者は……」
「わかっています。……あたくしたちはこれまで、お互いを利用し合っていただけでした。シャルルは王配になりたい一心であたくしの機嫌をとっていたのですし、あたくしは毒薬を手に入れるのに、だれかの助けが必要でした。昨年シャルルが、どんな禁制品でも手に入れる伝手があると話していたので……彼を共犯者に選んだのですわ。
でも、シャルルは今日、あたくしのために一線を越えてくれました。あたくしを愛していると。そう言ってくれました。
あたくしは、たぶん、彼を別に愛してはいないと思うのですが……けれども、初めてあたくしを、システィーンではなくあたくしを愛してくれた彼と運命を共にするのも、悪くないと思っています」
わしは姫様をみつめた。
完璧な卵型の顔、ミルクを練り上げて作ったかのような白く滑らかな肌、気高さを表すまっすぐな鼻梁、優美なカーブを描いた眉、宝石のような菫色の瞳、淡く色づく唇を、じっとみつめた。今後何十年経っても忘れないよう、眼に焼きつけるために。
「……さらばでございます。姫様。わしはあなた様を心から大切に思っておりました。どうかそれをお忘れにならないでください」
「ありがとう、おばば。あたくしも、あなたが大好きだったわ」
「どうか、旅のお供に、これをお持ちください」
わしは懐から小瓶を取り出して姫様に差し出した。王宮を出るときには、これを渡さなければならないような事態を、何があっても避けなければならないと決意していたのじゃが。事がここに至っては、もはや仕方がない。
姫様は素直に瓶を受け取った。
「何ですの、これは。キラキラしていて、とてもきれい……」
「魔女のお菓子です。わしが若い頃魔女の修業をしていたことは、何度かお話ししましたでしょう?」
姫様はこくりとうなずいた。わしは声が震えないよう懸命に努力しながら、
「甘くておいしい魔女のキャンディです。一粒食べれば、たちどころに眠りに誘われ……楽しい夢を見ます。最高に楽しくて幸せな夢を。あまりに幸せなので……このキャンディを食べた者はだれもが願うのです。二度と、夢から覚めたくないと」
姫様は眉ひとつ動かさなかった。美しい顔は平静そのものだった。しかし、小瓶を握る手に力がこもり、関節が白くなっているのがわかった。
わしはそれ以上の言葉を発することができなかった。号泣をこらえるだけで精一杯だった。
「さようなら、おばば。今までありがとう……」
姫様の声は地底から響いてくるかのように遠かった。
再び馬車に乗れるほど気力が回復するのを待って、わしはフラーテス宮を後にした。
涙に暮れるのは王宮に帰ってから――自分の庵で一人きりになってからにしようと心に決めていた。
百九十年も宮廷占い師を務めてきても、人に死期を告げるうまい方法など、けっして身にはつかぬのじゃ。
わしはもう年老いた。いとおしい人たちの最期を見続けなければならないこのお役から、そろそろ解放されたいものじゃ。




