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第18章(2) アンドレア・カイトウ署長

 公爵の机の上には緑色に発光する立方体が鎮座している。小型の三次元チェスボードだ。すでに閉庁時刻を過ぎた夜の時間帯なので、公爵も気晴らしに興じていたんだろう。

「三手で詰み、ですか」

「おや。フェアリーチェスがおわかりになる?」

 メフィレシア公爵は突然ぼくをまっすぐに見返し、親しみがこもっているとさえ言える笑みを浮かべた。

「この盤面は……見かけほど簡単ではありませんよ。こう見えても私は……そのぉ、仲間内では名手で通っているのですがね。内務大臣のリュシアン君とはいつも勝負が拮抗するのです」

 メフィレシア公爵は眼鏡をかけ直して腕組みをし、チェスボードを睨みつけた。それきり口をつぐみ、じっと動かず、チェスの次の手を懸命に考えるポーズを保っている。

 相手ののらりくらりとしたペースに乗せられるつもりはない。間延びした、いらいらするほどゆっくりした喋り方も、会話を自分の間合いで支配するための姑息な戦略だ。ぼくは前置きなしで本題に入ることにした。

「……これに見覚えは?」

と、チェスボードの傍らに二枚のフォトを並べた。

 一枚は、例のドーンストーンのペンダントを、普通の状態のまま黒背景の上に置いたフォト。もう一枚は、分解された状態のペンダントのフォトだ。金具、縦に二つに割れた宝石、中に入っていたカプセルなどが整然と並べられて写っている。

 公爵はちらりとフォトに視線を投げたが、またチェスボードに注意を戻してしまった。

「さあ。見たこともありませんが?」

「二ヵ月半ほど前あなたの屋敷から盗まれた宝石です。盗賊団の幹部が、あなたの屋敷から盗んだことを自白しました。……見覚えがないはずはない、そうでしょう?」

「さあ……私には、どうにもさっぱり……」

 またしても要領を得ない返答。このままでは肝心な点に行き着くまでに夜が明けてしまいそうだ。

 だが、公爵は勝算もなしにとぼけているわけではない。シュナイダー盗賊団による窃盗が行われたとき、公爵が出した被害届の中に、このペンダントは含まれていなかった。自分の所有物ではないと言い張りたければ言い張れるわけだ。

「ペンダントの宝石の中には、薬剤入りのカプセルが隠されていました。分析の結果、薬剤は銀河連邦指定の禁制物資、アズフォルデ・キノホルムと判明しました」

 そこで言葉を切って、ぼくは三枚目のフォトを公爵の前に置いた。

 数ヶ月前の宮廷園遊会のフォトだ。首からドーンストーンのペンダントを提げて、優美に微笑んでいるシスティーン王女。

 メフィレシア公爵は初めて興味を覚えたという様子で王女のフォトを手にとって眺めた。丸いレンズに拡大されて、その青い瞳が異様に大きく見えた。

「あいにくですが……どうにもわかりかねますな。あなたが何をおっしゃりたいのか。……このようなペンダントなど、そのぉ、どこにでもある物ではありませんか。特殊なデザインでもなければ、稀少な宝石でもない……」

 公爵はおずおずと顔を上げ、いかにも善人然とした微笑を浮かべてみせた。

 ぼくは微笑み返した。善人のふりなら、ぼくだって得意だ。

「ええ。ドーンストーンはこの国では珍しい宝石じゃない。でもキノホルムの方は、どこにでも転がっている毒物というわけではありません。国王陛下のこの血液検査の結果と照らし合わせてみたとき――わが市の裁判所なら十中八九、あなたやシスティーン殿下の殺人未遂を認定するでしょうね」

 そう言って、検査結果レポートを公爵の机に置いた。金や宝石細工で縁取られた華美な机に、無機的なデータシートのレポートは不似合いだった。公爵は気の進まない様子でレポートを手にとったが、ちらりと見ただけで机に戻してしまった。ゆっくり上げられたその人の良さそうな顔には、心底ショックを受けたような表情が浮かんでいた。

「殺人未遂とおっしゃられましたか。……畏れ多くも姫様に向かって。なんという……恐ろしい発想だ。思いもつかないことです。なんと言ったらいいのか……そのぉ……言葉もありません。本気で信じておられるんですか、そのような途方もない話を?」

「わざわざこんな所まで冗談を言いに来るほど、ぼくは暇じゃありませんよ」

「ありえない……ありえないことです。すべての国民に敬愛されている王家の方々の心根のお美しさについては、だれ一人知らぬ者などないはずのことですのに。……なんと言いますか……驚きですな。そのような、発想が出ること自体が。王家の方々は神の寵愛を受けし選民。……崇高なる使命を果たすため神に選ばれた高貴な存在であって、その行いは本質的にすべて善、その言葉は本質的にすべて正なのです。えー、そんなことは、王国内のどんな小学校でも教えていることですから……国民ならだれでも承知しているはずですよね? ……ああ、失礼しました。そう言えば、あなたは西区出身の方でしたな」

 上品な笑みを浮かべて、申し訳なさそうに首をすくめてみせる。

 ぼくは怒るよりむしろ感心しそうになった。たしかに西区では小学校に通う子供などほとんどおらず、ぼくも標準初等教育は受けてない。それを引け目に感じたことは一度もないが。――メフィレシア公爵はきちんと予習をしてきたようだ。

「そんなくだらない偏見を植えつけるだけの小学校なら、ぼくは行かなくてよかったと思いますよ」

「……あなたが王家の方々を尊敬しておられないことは、よくわかりましたがね。あー……それでは……あなたは公務員ですから、パールシー王国の憲法についてはご存じでしょう。たとえ小学校を出ておられないとしても。……国王陛下と、第五十位までの王位継承権を持つ王族は、絶対的な主権を持つ至高の存在。立法、行政、司法の三権が主権に由来するものである以上、王族はそれらを超越した存在なのです。王族は法律の適用を受けません。まして……恩寵として特に許された自由都市の地方自治権などが王族に及ぶはずもありません」

 ぼくは、空虚なお題目を唱えるメフィレシア公爵をじっと見据えた。

 おどおどした笑みの下に、何者も自分に手出しできまいという強者の自信を隠し持った、虚弱で貧相な五十男を。

 この男は、豪華な調度品に囲まれたこの部屋で陰謀を企み、数多の殺人命令を出してきたのだろう。今と同じ、上品ぶった気取った様子で。まるでチェスの駒を動かすかのように。

「ナイトをf3Bへ」

 チェスボードがぼくの声に反応し、白の駒が明滅しながら自動的に動いた。驚いたらしくメフィレシア公爵はスイッチが切れたみたいに黙り込んだ。

「ぼくの考えは、こうです。――現在、国王陛下は重度のアズフォルデ中毒を患っておられる。死に至る病です。陛下にアズフォルデを投与し続けているのは二人の王女のいずれか、あるいは両方。そしてこの写真のペンダントを使って王女に毒物を供給するのが、あなたの役目というわけです。

 陰謀の証拠となるペンダントを盗まれて、あなたは《影の軍隊》と称する暴力集団を使ってそれを取り戻そうとした。盗賊団の構成員を拷問して殺させ、あるいは盗賊団のアジトに襲撃をかけさせた。実行犯は、歌手のパウエル・ディダーロをはじめとするメトロポリタン劇場の関係者だ。

 その他にもあなたは、自分の覇権を脅かすおそれのある反王党派の動きをマークしていた。グラッドストン男爵をスパイとして反王党派に送りこみ、ベリアル大侯爵の革命運動を監視していた。男爵を通じてあなたは、《影の軍隊》の一員であるクルト・フリードマンという男を、従僕としてベリアル大侯爵邸へ送りこむのに成功した。あなたの屋敷のカルロス・フリードマンという執事の、弟にあたる男です。大侯爵に禁制物資《星砂》を投与して自由意志を奪い、自殺にみせかけて殺害したのはクルト・フリードマンだ。そして、そういった陰謀を暴露しようとした《パールシー・タイムズ》紙のポーキー記者をも殺そうと企てた。その下手人もディダーロです。

 おそらく、宮内庁保安課のコトウェル男爵夫人の馬車の事故を演出したのも《影の軍隊》でしょう? ……この事件については目撃者が大勢いるので、今回逮捕したメトロポリタン劇場の関係者に面通しさせれば犯人は特定できるはずだ」

「そう来られるなら……この手はどうでしょう。アローをf6Hへ」

 メフィレシア公爵はぼくの言葉を無視し、なにごともなかったかのような穏やかな声を出した。依然としてチェスボードから視線を上げようとしない。

「バンディットをa1Hへ」

 ぼくは言い返した。公爵は恍惚に似た表情でチェスボードをみつめていた。移動する駒からの光を受けて公爵の白い顔が明滅し、悪鬼のような不自然な印象を形づくった。

「ならば、黒の次の手は、ビショップをa5C……しかありませんな、当然」

「クイーンをa2Fへ。チェックメイトです」

「……!」

 メフィレシア公爵はチェスに集中している芝居を続けていたが、ぼくはとりあわずに話を進めた。

「――こちらが要求するのは、陛下に即刻、王宮外の信頼できる医師の検査と治療を受けていただくこと。そして、陰謀の全容を明らかにするため、クテシフォン市警の署員が王宮内に立ち入って捜査を行うのを認めてもらうことです。陛下の病状は一刻を争いますから、あなたと不毛な議論をして時間を無駄にするつもりはありません」

「……お話に……なりませんな。あなたがおっしゃっておられることは……すべて空想に過ぎませんし……警官が王宮に立ち入るなど、けっしてあり得ないことです。天地がひっくり返ったとしても。……もうお引き取りください。そのような……埒のないことばかりおっしゃるのでしたら。まったく、本当に、これっぽっちもお話になりません。そのぉ……あなたのチェスの打ち方はお見事でしたが。まさかトラバースプロモーションを使うとは。実に……独創的だ。独創的にすぎると言ってもいい……」

「あなたが協力を拒否することは、わかっていましたよ、公爵。しかし問題ありません。あなたには逮捕状が出ています。銀河連邦指定の禁制物資《星砂》の入手をグラッドストン男爵に命じ、さらに、何も知らない若い女たちを実験台に使って、《星砂》の効果のデータを集めた……あなたのその行為を証明する証言と物証が揃っているんですよ。未必の故意があったとみなし、キム・エーベルマンとアニス・リタ・ハシマーの殺人の教唆。死体遺棄の教唆。さらに、ハニールウ・トラビス、ケイト・ブラウン、サーシャ・カブリア、ベニタ・シアン、ルイーズ・シュハルトに対する傷害の教唆。それがあなたの罪状です。外で警官隊が待機していますので、あなたが宮内庁の敷地を一歩でも出たとたんに逮捕します。……陛下を外部の医師に診せる件については、あなたの後任者と交渉します」

 メフィレシア公爵は「身に覚えのない非難を受けて呆然とする善人」のポーズを見事にきめた。目を剥き、口をぱくぱくと開け閉めする表情も、わざとらしさにあふれていて余裕があった。内心本当に動揺しているのだとしても、おくびにも出していない。――ようやく、陰謀の黒幕らしい貫禄が見えてきたというわけだ。

「だれ……だれなのです、そのご婦人方は? ……聞いたこともありませんよ、そんな人たちのことは。……知りもしない人を傷つけた罪で……私を……逮捕しようというのですか? そんな……めちゃくちゃだ。まさか本気でおっしゃっているのではないでしょうな?」

「彼女たちはグラッドストン男爵の屋敷の使用人です。自分のことを知りもしない糞野郎の命令で、突然人生を奪われた、気の毒な被害者たちですよ」

 そのとき、卓上の電話が鳴り始めた。公爵は「ショックを受けた善人」の芝居をぴたりと止め、事務的な態度で淡々と電話に応対した。会話は長く続いた。公爵の眉間にしだいに、芝居ではない暗雲が寄り始めるのを、ぼくは眺めていた。

 公爵が通話を終えて受話器を置くと、間髪入れず次の通話が入った。今度の通話はすぐに終わった。受話器が置かれるが早いか、また電話が鳴り始める。公爵はけっきょく、立て続けに四人と通話したが、それでも電話のベルは鳴りやまなかった。けたたましく鳴りつづける電話を、公爵は放心の表情で眺めた。もう受話器に手を伸ばそうとはしない。

「リュシアン君とバッカス君とラニジカーン君が逮捕されたそうですが。……いったい、なにが起きているのですか? ……彼らはクテシフォン執行部の高官で、高貴な血筋の……立派な紳士ばかりです。罪を犯すような人たちではない。……まさか、彼らについても、架空の罪をでっち上げて?」

「組織犯罪取締法第三十三条の規定に基づいて、重罪犯であるあなたとの関与が疑われる貴族たちを一斉検挙しました。具体的な犯罪行為の証拠がなくてもいいんです。あなたと交流があるというだけで逮捕理由にできるんですよ。今夜逮捕を予定しているのは九十六名。あなたと特につながりの深い貴族たちです。リストを挙げなくても、あなたにはだれのことだか十分おわかりでしょう。……明日から、宮内庁の要職がだいぶ空席になりそうですね」

 ぼくは、ぎらぎらしたまなざしでこちらを睨んでいるメフィレシア公爵に微笑みかけた。

「王党派の結束がどれぐらい固いものか、とくと見せていただきましょうか。逮捕された貴族連中には、逮捕の理由があなたであることを教えてある。粗暴犯や単純犯と同じ扱いで何日も拘留されているうちに、彼らのあなたに対する感情がどう変化するか見物(みもの)ですね。……そもそも、《影の軍隊》を失ったのもあなたの失策だ。もともと王家を守るために暗躍する実行部隊だったのに、あなたは我が身を守るためにやつらを濫用し、クテシフォン市内で派手な動きをさせ過ぎた。その結果、今やつらの大半は拘置されているわけだ。仲間うちでのあなたの評価は、もうすでに揺らぎ始めてるんじゃありませんか?」

 助けを求める貴族たちからの電話がひっきりなしに鳴り響く室内で、いまや憎悪を隠さないメフィレシア公爵とぼくとは睨み合った。やがて公爵は、無理やり、という感じでぼくから視線を剥がし、卓上のチェスボードをのぞき込んだ。そして盤面を見返すチェス愛好家のふりを始めた。けわしい表情も、関節の色が変わるぐらい強く机の端を握りしめている両手も、チェスで詰まされた悔しさのせいだと言わんばかりに。

「……あなたの打ち手はお見事だが……非正統的だ。トラバースプロモーションとは」

 三分近く無言を通してから、ようやく発せられたメフィレシア公爵の声は平静さを取り戻していた。

盗賊(バンディット)を盤面に含めている時点で、すでに正統とはいえないでしょう。あなたは物事の正統性なんて気にしない人だと思ってましたよ、公爵」

「あなたのやり方は、なにもかも、非正統的だ。犯罪行為の証拠もないのに検挙とは。……この法治国家でそのようなやり方が許されるとでも? ……長い訴訟を覚悟されることですな、カイトウ署長。私の同僚たちは……不当な暴挙を前に、黙って引き下がったりはしません」

「非正統的かもしれませんが、有効です。組織犯罪取締法もトラバースプロモーションもね。お好きなだけ弁護士に相談すればいい。勝ち目がないことがわかるはずです」

「……現実社会はチェスボードとは違います。……なにもかも、あなたの思うようになるなんて期待しない方がいい……」

「言っておきますが、防衛軍はあなたを助けてくれませんよ。より魅力的な選択肢を提示されたので、王党派には見切りをつけたはずです。やつらは、この街でいちばん節操のない勢力ですから。あなたももう感じてるんじゃないですか、防衛軍の態度の変化を?」

 メフィレシア公爵は、思いがけない激しい動作でチェスボードから顔を上げ、ぼくをまともにみつめた。眼鏡の奥の青い瞳は憎悪と、明白な戦いの意思を映していた。

「私は……この建物から一歩も外へ出ません。あなたが悪だくみを諦めるまで、ずっと。何か月でも何年でも、何十年でも。私はここで宮内庁の指揮を執り続け、王家の皆様を守ります。……ここは王家の直領地。法律は適用されない。私がこの中にいる限り、クテシフォン市警は、私に指一本触れられないはずだ……どうです?」

 周到に仕掛けておいた罠に、相手がまっすぐ踏み込んでくるのを見るような気分だった。

 高揚と、波打つ黒い情動とが同時にぼくを襲った。

 この男は、自分が今の言葉でどれだけ死に近づいたか自覚していない。こういうことに関しては、ぼくの自制心なんて、綿くずほどの強度しかないというのに。

「だったらここで、法律なんか気にせず、あなたを撃ち殺すだけのことです。その方がぼくとしてはありがたい。面倒な手続きを踏まなくて済むので」

 ぼくは銃を抜かなかった。銃に触れたが最後、何の我慢もできず即座に相手の眉間を撃ち抜いてしまうことがわかっていた。威嚇などという段階はもうとっくに越えているのだ。身動きひとつせず、息をつめてぼくを見返すメフィレシア公爵。ぼくの目は公爵を映していたが、心には別の情景がよぎっていた。ふっくらした白い頬にえくぼを刻んで微笑むコトウェル男爵夫人。病室で蒼白な顔をして横たわるクリス・ポーキー記者。留置場から出たくないと言って泣きわめいていたグラッドストン男爵。殺された仲間の無念を晴らすために公爵を殴りたいと言っていたチェリー・ブライトン。

 そしてハニールウ。神と善意と正義を心から信じていた、いきいきした子どもの頃のハニールウ。そして、自発意思を奪われ人形のようになった大人のハニールウ。

「あなたは……初めから、私を殺すつもりだったんですな。法律の届かないこの場所で。……本当に逮捕するつもりなら、今夜私が勤めを終えて帰宅するのを待って、屋敷に警官隊を送り込めば済んだはずです。それをせず、わざわざアポイントを取ってここまで来たのは……治外法権の王領地なら、法の手続を踏まず、私を撃ち殺せるから……!?」

 頭上で空虚に輝く巨大シャンデリア。金の刺繍を施した萌黄色の絹張りの壁。純白の羽目板。壁に掲げられたクレハンス十三世陛下の肖像画。こぼれんばかりに花を盛り上げた花瓶。貴婦人の談話室のように瀟洒な内装が、急速に現実感を失い遠のいていく。

 ――大人のハニールウが、涙をたたえた寂しげな笑顔でこちらを向き、ゆっくり、だがきっぱり、首を横に振るのが見えた。

 幻影だ。ただの幻影だ。

 ぼくは拳を握り、現実と状況と自分の立場を取り戻した。

「あなたも少しは死の恐怖ってやつを味わうといい。そう思っただけですよ。あなたの被害者たちが痛切に味わったのと同じように。……もちろん、あなたがこの敷地を出ないと言い張るなら、本当に射殺しますが」

「……私がこの電話で……宮廷警備隊のシュタイナーを呼んだら……どうなると思いますかな?」

 公爵の声はかすれていて、ほとんど聞き取れないほどだった。

「やつを撃ってから、あなたを殺す。それだけです。……悪あがきは止めたらどうです? あなたはもう、とっくに詰んでるんだ」



 メフィレシア公爵は、控室の秘書の電話を使って、まず自宅に連絡した。「しばらく帰れなくなるから」と前置きして、執事長らしい電話の相手にこまごまとした雑務の指示を出した。続いて、クテシフォン市内で最大手の弁護士事務所に連絡し、弁護を依頼した。

 戸外は夜に包まれていた。宮内庁はフェルギス通りという古い街路に面しており、ぼくらがその通りに足を踏み出したとき、周囲に通行人の姿は一人も見えなかった。一方を王家の森、他方を貴族の屋敷街に挟まれたこの通りは、昼間でも通行量の多い道路じゃない。ライトアップされた宮内庁の建物は、黒いキャンパスに黄金色の絵具で描かれたようにくっきり際立っていた。

 メフィレシア公爵は無表情のまま、待機していたパトカーの一台に乗り込んだ。大勢の人を巻き込んだ陰謀の黒幕の逮捕劇にしては、拍子抜けするほど淡々と物事が運んだ。ぼくは街路に立って、連なって走り去る四台のパトカーを見送った。本来なら、署に着く前に公爵を奪回しようとする連中の襲撃を心配しなければならないところだが――《影の軍隊》はほとんど留置所の中だし、防衛軍も今さら市警を敵に回してまで公爵に肩入れしようとはしないだろう。メフィレシア公爵はもはやこの盤上では死に駒なのだ。

 ふと、少し離れた街路樹の陰で、さりげなさを装って停車している馬車の存在がぼくの注意を引いた。

 馬が退屈そうに鱗づくろいをしている。その馬車の扉に輝く紋章に、見覚えがあった。

 ぼくは大股に近づいた。

「きっとご自分で見に来るだろうと思ってましたよ、ケレンスキー公爵。……なかなか良い趣味ですね」

 馬車の窓ガラス越しに、クテシフォン執行部の逓信大臣にして、かつて反王党派の主力メンバーであったケレンスキー公爵が、険悪な表情でこちらを見返してきた。

「あまり……そばに寄らないでくれ。きみは自覚していないようだが。私の同志の中にはトラウマのあまり、きみの名前を聞くだけで錯乱して泣き出す者さえいるのだ。私だって今夜は、安定剤を飲んで来ている。そうでなければ、きみと顔を合わせるのに耐えられない」

 ぼくは肩をすくめた。

「そんなやわな神経で、よく革命計画など立てられたものですね」

「感無量だ。あのメフィレシアが逮捕され、権力の座から滑り落ちるところをこの目で見られるとは。きみは本当にやり遂げたのだな。メフィレシアの逮捕に、メフィレシアの取り巻きどもの拘留。それも、約束通り、貴族院の本会議の前日に」

「メフィレシア公爵をはじめとする貴族院議員を九十七名拘束しました。彼らが明日の本会議に出席できなくなるので……明日の貴族院では、あなた方『反王党派』が多数派となる。メフィレシア一党の不在の間に、あなた方は自由にどんな決議でもできるわけだ。宮内庁上層部の人事異動も含めて」

 ケレンスキー公爵は重々しくうなずいた。

「我々は約束は守る。私が宮内庁長官となり、私の同志が宮内庁の要職を固めた暁には、すぐに宮廷に外部の医師団を受け入れ、陛下の治療を委ねよう。また、市警の職員が宮廷内に立ち入って証拠の採取や聞き込みを行うことを許可しよう。……そして、その捜査の結果、きみの示唆するような恐ろしい事実が本当に存在していると明らかになれば……我々は伝統に従って対処する。王家は法律の適用を受けないが……許しがたい悪行への対処は、常にそれなりに厳正に行われてきたのだ」

 ケレンスキー公爵は決断力のある人間だった。先週ぼくがアポイントなしにいきなり屋敷を訪ねたときは、蒼白になって卒倒しかかっていたが――ペンダントの写真と陛下の血液検査の結果を見せると、公爵はただちに事態を呑み込んだ。そして、陛下の暗殺計画の阻止に協力すると即座に同意したのだ。

「『今の王家は腐りきっている』という亡きべリアル閣下のお考えが正しかったことがわかり、溜飲が下がる思いだ。天国の閣下も、きみと手を組む我々を許してくださるだろう。俗な言い方だが『敵の敵は味方』ということだ」

「約束さえ守っていただければ、あなた方が一時的に手に入れたこの権限を他にどう使おうと、ぼくは構いませんよ。宮内庁の人事異動以外にも、あなた方の得になる法案をいくらでも可決すればいい。……ただし、また『ケレンスキー朝の創設』みたいな話を持ち出さなければ、ですが」

 公爵ははっきりと首を横に振った。

「恥ずかしい話だが……今の我々には以前ほどの求心力はない。メフィレシア憎しの一念だけで、かろうじて寄り集まっているに過ぎないのだ。べリアル閣下の存在がいかに大きかったか、ということだな。あの方は本当に偉大な人物だった。……もろいものだよ。強力なたった一人に依存している集団というのは」

 その言葉はまるで墓碑銘のように響いた。べリアル大侯爵だけでなく、他の大勢の。

 必要な確認を終えたので、ぼくは立ち去ろうと方向転換しかけた。そのとき、ケレンスキー公爵の意外なほど強い声がぼくを引きとめた。

「すべては、きみの、手の内ということか。王国最高の貴族たちでさえ駒のように操るとは。きみはなんという恐ろしい人間だ。その若さで」

 安定剤の力を借りた公爵の鋭い視線がぼくの横顔に突き刺さっていた。風が吹き、王家の森の針葉樹たちが一斉に音をたててそよいだ。闇に浮かび上がる巨大な黒いシルエットが規則性を持たずにさわさわと蠢いた。

「――きみはあきらかに法の執行者としての警察官の領域を逸脱している。そのことは、もちろん、自覚しているのだろうな?」

「罪のない人が殺されようとしている。それを止めるのに、手段は選びませんよ。国王陛下はクテシフォン市民じゃありませんが、同じことです」

 ぼくはもう歩き始めていたので、「そうだな。手段を選ばないとは、こういうことだな」という公爵の声はぼくの背中に届いた。馬車から離れながらぼくは、今言ったことは自分の本音なのだと自身に言い聞かせていた。薄暗いフェルギス通りは曲がりくねりながら伸びていた。車を拾える場所へ着くまでかなり長く歩かなければならないだろう。

 西区の外れに建つ、昔とまったく変わらない聖アルカイヤ教会。ルティマ助祭やボランティアのスタッフに守られながら夢のない眠りを眠っているはずのハニールウに、決着がついたことを報告するつもりだった。たとえその言葉が彼女の心に届かなくても。今の彼女がぼくの顔さえ判別できないとしても。



 翌朝のマスコミ各社は「どこまで続く!? 市警の横暴」という論調で、百名近い有力貴族の一斉拘留を報じた。メフィレシア公爵や他の貴族たちが拘束された理由についてマスコミ各社は憶測をめぐらせていたが、どれ一つとして、真相に近い推理はなかった。

 その日の貴族院の本会議で宮内庁の人事を刷新する案が可決され、ケレンスキー公爵がメフィレシア公爵に代わって宮内庁長官となった。宮内庁のトップはほとんど入れ替わった。新人事は即日発効した。

 ケレンスキー公爵の同志が、宮内庁の人事案以外にも、王党派の貴族たちの官位剥奪を求める私怨丸出しの議案を次々と提出したため、貴族院の本会議は大混乱に陥った。怒号や罵声が飛び交い、警備員が乱闘寸前の議員たちを何度も止めなければならなかった。貴族たちのおとなげない争いをマスコミ各社は面白おかしく報道した。おかげで本当に大事な問題はほとんど注目を浴びずに済んだ。

 ぼくは、ケレンスキー宮内庁長官から発行された白紙許可証(カルト・ブランシュ)に基づき、宮殿内へ入って国王陛下を診察、治療することをクテシフォン市立大学の大学病院の医師たちに依頼した。

 そして三十名の捜査員を宮殿内へ派遣し、捜査および陛下の警護にあたらせた。

 大学病院の医師団からの報告は速やかに届いた。「陛下に精密検査を行い、その結果を最優先で分析したところ、アズフォルデ・キノホルム中毒であることが判明した。しかし幸いなことに、すぐに治療を開始すれば十分に回復が見込める状態である」という内容だった。

 ――ひとまず陛下の生命の安全は確保された。あとは犯人を捕らえるだけだ。

 捜査員は宮殿内をくまなく捜索し、すべての使用人に話を聞いた。

 身分の高い人間にありがちなことだが、姫君たちは使用人を人とは思っていない。生きている『道具』というような感覚なのだろう。だから使用人たちの目や耳をまったく意識せずに行動する。周囲に隠しごとをしようとしない犯人は、あきれるほど多くの証拠を残していた。シャルル・ド・メフィレシアとペンダントの受け渡しをするシスティーン姫の姿を、多くの使用人が目撃していた。また、互いにペンダントの受け渡しをする二人の姫君の姿も。陛下の寝室で、エヴァンジェリン姫がコップの水に何かを入れてから陛下に差し出すところを見た使用人さえいた。

「ねえ、『シャルル王配殿下』って、素敵な響きじゃなくて? もうそれほど遠くない将来ですのよ。お父様は来年までもちはしないわ」

 シャルル・ド・メフィレシアと一緒に寝台に横たわりながら、上機嫌でそう呟くシスティーン姫も目撃されている。

 事件を立件するのに十分なほどの証言が集まった。シャルル・ド・メフィレシアからペンダントを介して定期的に毒薬の提供を受けていたシスティーン姫が、それを姉のエヴァンジェリン姫に渡して、陛下に飲ませていた。エヴァンジェリン姫が毎晩陛下の寝室へお休みの挨拶に行くことを習慣としているのに対し、システィーン姫はこの半年ほど、陛下の寝室に近づいたことはないらしいので、陛下に毒を盛っていたのはエヴァンジェリン姫であると考えるのが妥当だろう。

 ひとつ重大な問題があった。それは、システィーン姫が、完全に行方をくらましてしまったということだ。

 宮殿の使用人たちの話によると、メフィレシア公爵逮捕の日の夜中、突然宮殿にシャルル・ド・メフィレシアが現れてシスティーン姫を連れ出したという。あきらかに恋愛関係にある二人がお忍びで姿を消すことはこれまでにも何度かあったので、使用人たちも不審には思わなかった。

 そして二人はそれ以来、完全に消息を絶っている。

 警官隊を送り込んでメフィレシア公爵の屋敷とすべての別荘を捜索させたが、姫君とシャルルはみつからなかった。クテシフォン市内に散在している王家の施設のどこかに身を潜めている可能性があるので、宮内庁に確認を依頼したが、市内のどの施設にも姫君は来ていないとの回答だった(ケレンスキー公爵は王党派の残党との喧嘩に忙しいらしく、回答はかなり遅れた)。



 メフィレシア公爵は尋問に対して黙秘を保った。しかし、グラッドストン男爵の屋敷の隠し場所から発見された書状と、男爵の執事ロシュフォルの証言は、公爵を黙秘のまま起訴するのに十分な証拠だった。メフィレシア公爵邸の使用人の中に、屋敷でドーンストーンのペンダントを見かけたことがあると証言する者も出てきた。公爵が重罪院で有罪となるのは、もはや動かしがたい流れのように思われた。



 クテシフォン市警本部の内外では嵐が吹き荒れていた。

 拘留されている王党派の貴族たちが、あらゆる伝手(つて)を行使して、市警に圧力をかけてきたのだ。

 市議会議員に直接圧力をかける貴族もいれば、市内の大企業のトップに話をつけて、そこから圧力をかけさせる貴族もいた。不当に拘留されている立派な貴族の釈放を求める議員や企業トップからの電話が鳴りっぱなしだった。ぼくの秘書のミズ・グレイスバーグは、あまりの電話の多さに音を上げた。そこでぼくは署の通信課に指示して、署長室宛の音声通信をすべて遮断させた。

 政治家や企業からのクレームを遮断しても、次は、入れ替わり立ち替わり登場する刑事弁護士という問題があった。貴族たちは金にあかせて一流の法律事務所を雇い、市内でも有名な辣腕弁護士たちが依頼人の釈放を求めて次々と署に現れるのだ。

「相手の用件を聞いて……不当拘留だとか法令違反だとか、刑事手続法の適用についての話だったら、ぼくがまとめて相手をするから内省日の十六時に第二会議室に来るように言ってくれ。ぼくを通さない釈放請求はいっさい受け付けない。もし相手が取引を持ちかけようとしていたら……『耳寄りな情報を提供するから早期に釈放してほしい』とかそういう話なら、バーンズ副署長に回してくれ」

 受付課にそう指示して、来訪者のフィルタリングを行った結果、ようやく平穏が訪れた。ぼくは週に一回、会議室に集合した弁護士たちをまとめて論破し、釈放請求を一蹴した。弁護士たちは初めからあきらめ顔だった。これまでの三年近いつき合いで連中にも、刑事手続法の解釈に関する議論でぼくに勝てる見込みがないことはわかっているのだ。

 ――どうしても遮断できないのは、ディオン・ザカリア市長からの電話だった。厄介なことに市長室と署長室とはホットラインで結ばれていて、秘書を経由せず、あらゆる通信に優先して必ず回線がつながる仕組みになっているのだ。「困るんだよカイトウ君。私の立場ってものを考えてくれ。市議会でどれだけの騒ぎになっていると思う?」という市長の泣き言を聞かされるのが毎日の習慣になりつつあった。

 ある日の夕刻、ぼくが報告書に目を通していると、ホットラインからの入電を知らせるベルが鳴った。ほぼ同時に回線が開き、見慣れた市長室の画面が映し出された。

 三秒で切ってやろうと思って画面を見ると、公費で購入したにしては贅沢すぎる椅子にふんぞり返っているのはザカリア市長ではなかった。

「ねえ。びっくりしちゃったよ。あんたの上官のラムゼイ本部長が今日から休暇を取って、国外へ脱出したんだってね~。責任逃れもここまでくると、いっそすがすがしいよ。……あんたも私もお互い上司には恵まれないってことかな?」

 クテシフォン市防衛軍のセリム・トーゲイ中佐があいかわらず底の読めない顔で笑っていた。

 ぼくは通信遮断ボタンに伸ばしかけていた手を引いた。

「あの人には初めから期待してないから、別に構わないさ。市警の名目上のトップとして、内容のない形式的な会議や行事をこなすのがあの人の役目だ。ところで、なんであんたがそこにいる? 市長をどうした?」

「そういう人聞きの悪い言い方、やめてくれるかな~。あんたがなかなかつかまらないから、ここのホットラインを借りに来たのよ。市長閣下は病院へ行って留守さ。胃が痛いんだって」

「食べ過ぎだな。意地汚く食べてばかりいるから、そういうことになるんだ」

「なに言ってんのよ。ストレスによる胃痛に決まってるだろう? そしてその原因はあんただよ、どう考えても。王党派の中心人物をみんなぶち込むなんて。やる時は本当、徹底的だよねー。……おかげで我々も、迷いが吹っ切れたよ。正確に言うと、選択の余地がなくなったわけだけど。軍内の意見の対立が収まり、めでたく一枚岩になれたので、あんたにはお礼を言わなくちゃならないぐらいだ」

 一枚岩になった防衛軍、というのはいかにも不吉なものを感じさせる言葉だった。ぼくは表情を変えないように注意して中佐を見据えた。

「礼を言うために電話してきたわけじゃないだろう。用件は何だ?」

「うちの御大があんたに会いたがってる。将来について話し合いたいってさ」

 中佐は言葉少なに言った。

「御大? だれのことだ」

「御大といえば……御大さ」

「ターフメイン元帥か」

「はっきり言わないでよ。この回線のセキュリティは万全じゃない」

「今さらだな。本当に人に聞かれたくない話なら初めから電話なんか使わないだろう?」

 ぼくは、王党派の残党か反王党派の残党、あるいは他の自由都市が、署長室の電話回線をモニタリングしている可能性を考えてみた。――市警と防衛軍が手を結ぼうとしているという印象を、どの勢力に与えたとしても問題はない。たぶん防衛軍の側も同じ意見だろう。

 しかし、もともと、ぼくが防衛軍に接近してみせたのは防衛軍と王党派のつながりを断ち、メフィレシア公爵を孤立させるのが目的だった。メフィレシア公爵を逮捕し、陛下を暗殺の危険から救った今、政治ごっこ(パワーゲーム)に首を突っ込む必要はなくなったわけだ。今ぼくがターフメイン元帥に会ったりしたら、クーデターの計画が一気に現実に近づく。それは本意ではない。

 ただ、手を引くとしても、防衛軍に妙な動きをさせないよう慎重に退かなければならない。この流動的な状況で、防衛軍が反王党派側へ走ったりしたら厄介だ。

 ぼくは、つくり物みたいに不自然なトーゲイ中佐の顔に向かって、ちらりと笑ってやった。

「大元帥に伝えてくれ。せっかちなのは年寄りの悪い癖だ、と」

「本気で言ってるのか? そんなとんでもない伝言、伝えられるわけないだろう」

「今こっちは忙しいんだ。まずは王党派を完全に叩きつぶす。将来の話はその後だ」

 そして中佐が答える前に通信を切断した。

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