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第18章(1) アンドレア・カイトウ署長

 母に危害を加えられるものなら加えてみろ、とベーリンガム将軍には大見得を切ってみせた。弱みを見せるわけにはいかなかったからだ。実際は、口で言うほど自信があるわけではなかった。二十六時間体制で母に警官の護衛をつけることはできる。だが防衛軍の情報部は、プロの裏をかくよう特に訓練されている連中だ。たやすく警官の警備網を突破するだろう。市内最高の警備会社のセキュリティシステムをいともあっさり突破してみせたのと同様に。

 銀の十字架について母に尋ねてみた。「あら、どこでそれを見つけたの、アンドレア? ずっと探していたのよ」と母は朗らかに笑った。ルティマ助祭からもらったその十字架を、母は肌身離さず身につけていて、寝るときだけ外してベッドサイド・テーブルに置くのが習慣だった。ところがある朝目覚めると、置いたはずの場所から消えていたという。防衛軍の職員が夜中こっそり寝室に侵入してきて十字架を奪ったのだと知ったら、母はどれほどショックを受けるだろう。ぼくの自宅のセキュリティシステムは、王立美術館の警護も担当している警備会社と相談して構築した最高のものだが――それでも情報部にかかれば浸透可能だということだ。

 組織というものはたしかに有用だが、それなりの限界を持っている。だれかを本気で守ろうと思えば、数十人のプロよりも、たった一人の狡猾な素人の方が効果的なこともある。

 ぼくが名誉市長にコンタクトをとることに決めたのは、それが理由だった。

 クテシフォン市の名士ライバート・J・カイトウ名誉市長閣下は、とんでもないことに住所不定無職の身で、現在はシュナイダー盗賊団のアジトに潜伏中だ。「面を貸せ」という趣旨をできるだけ事務的に書いた手紙を、アジトの警護を担当する警官にことづけ、ぼくは指定の日時にやつを待った。返事をもらったわけじゃないが、あの男は必ず現れるだろうという確信があった。



 かすかな金属音と共に、頭上を流れていく第九十七ミドルウェイの絶え間ない車の列。

 冴えわたった青空は、まぎれもない真冬の色をしている。

 ぼくが待ち合わせ場所として指定した中央区の小さな公園にも、弱々しい冬の陽光が降り注いでいた。保健上および消防上の理由から、市内の各ブロックの地表、二十階、四十階、六十階の位置に一カ所ずつ公園を設けることが条例で定められているが、そこはゼロ・グラウンドすなわち地表にある公園だった。白っぽい無菌砂に覆われた楕円形の敷地を生垣が囲み、そのさらに外側を遊歩道が一周している。楕円形の焦点にあたる箇所に一本ずつ、枝ぶりの良い常緑樹が植えられ、昔ながらの単純な遊具がぱらぱらと周りに配置されている。

 ぼくは一本の木を背にして立ち、少し離れた所でボール遊びに興じる母子を眺めるともなしに眺めていた。

 薄汚れた赤いボールが公園を横切って転がっていった。子供が母親の投げるボールをとてつもなく真剣な表情で追いかけていた。五、六歳ぐらいの男の子だ。寒さで真っ赤になった顔の中で瞳だけがきらきらと光っている。母親の方は二十代半ばだろう。くすんだ短髪をスカーフで包み、野暮ったいロングコートにくるまっている。ときおり笑い声をあげながら、愛情に満ちたおだやかな表情で我が子の動きを見守っている。なんの変哲もない、平和で幸福な光景だった。

 その光景を眺めているうち、突然記憶の蓋が開いた。

 十三年前。西区第三十九ブロックのゼロ・グラウンド公園。叩き壊されて落書きだらけの遊具、散乱するごみ屑、雑草が伸び放題の敷地。荒れ果てた風景の中、同じように転がっていくボールが見える。ボールの動きを遮るものは、なにひとつ存在していないように思われた。にやにや笑っている四人の男に取り囲まれるまでは。バッグをよこせ。男たちの手中で刃物がぎらつく……!

 はっと我に返った。赤いボールの方向が大きくそれて、ぼくの足元に転がって来るところだった。男の子がそれを追って、息を弾ませながら駆けて来た。こちらを見上げる曇りのない丸い瞳。

 ぼくはボールを拾い上げ、子供に向かってそっと投げてやった。

「ありがとうございます」

 母親が目礼する。若々しい声が青空に吸い上げられていく。

 ――今は十三年前とは違う。市内のどのブロックでも昼間の公園に強盗など出ない。無邪気な遊びに興じる母子。公園の外側の遊歩道をゆっくりした足どりで散歩していく老夫婦。十三年前にはこんな光景は想像すらできなかった。治安が悪くて、子供を戸外で遊ばせるなど考えられない時代だった。散歩する老人なんて、三ブロックと歩かないうちに身ぐるみ剥がれていただろう。

 犯罪を撲滅し、治安を回復し、市民が安心して公園で楽しめる世の中を作るのに、ぼくが貢献したのはたしかだ。今ののどかなこの光景を、ぼくは自分の功績として誇りを持って眺めることができる。しかし……。

 そのとき、色あせた風景を切り裂くようにして、あの男が現れた。

 舗道に乗りつけたタクシーを降りる瞬間から、その存在感は輝かんばかりに際立っていた。とほうもなく派手な服装だったからだ。金糸で複雑な模様を縫いとった純白のスーツはあきらかにエンペラー・ノワールの仕立てと知れる。小粋に傾けてかぶった、スーツと同じ柄のソフト帽。胸に飾った原色の大きな花。金色のステッキ。いつもながら一分の隙もない洒落男ぶりだ。夜の高級ナイトクラブにでも繰り出すんなら、ふさわしい格好といえるだろう。平日の昼間のオフィス街の公園では、悪目立ち以外のなにものでもなかった。

「珍しいな。おまえの方から、わたしに会いたいなんて。どうしたんだ?」

 ステッキを振り振り、名誉市長が歩み寄ってきた。

 条件反射ともいえる反感が胸に湧き、ぼくは言葉を絞り出すのに苦労した。ふだんはさんざん悪態をついているくせに都合のいい時だけ頼みごとか、と相手に嘲笑されるのが目に見えているのでよけいに苦々しさが募る。

 だが目的の正当性のためなら手段の快・不快を問わないのが、ぼくの主義だ。多少いまいましかろうと、この際プライドだの好き嫌いだのは克服しなくてはならない。

「あんたにひとつ頼みがある」

 相手のどんな反応も見逃さないよう、その顔にじっと視線を当てながら言った。

「しばらく母さんを引き取って面倒を見てほしい。期間はたぶん一月か、二月ぐらい……ぼくが迎えに行けるようになるまでの間だ。どうだ?」

 名誉市長の反応は、ぼくが予想していたものとはまるで違っていた。

 ぱさり、というかすかな音が足元で響いた。

 名誉市長が手にしていたステッキを取り落としたのだ。

 驚いたことに、やつは目をうるませてぼくをみつめていた。

「わたしにエレノアを返してくれるのか、アンドレア。……わたしを、許してくれるのか」

「冗談じゃない。勝手に話を飛躍させるな」

 ぼくは考える前に言い返していた。

「ぼくがしばらく忙しくなるから、一時的にあんたに頼むだけだ。……前に、手の届く範囲のものは守りたいと言っていたな。あれは本気か。命を懸ける覚悟はあるか」

「……もちろん、あるとも」

「妙な連中が母さんを狙ってくる可能性がある。ちんぴらじゃない。本物のプロで、きわめて危険な連中だ。そんなやつらから母さんを守り切れる自信があるか? ……なければないで、そう言ってくれ。あんたを責めやしない。他のあてを探すだけのことさ」

「エレノアは、必ずわたしが守り切る」

 思いがけないほど力強い口調で、名誉市長が断言した。

「任せておいてくれ。どんな危険な連中が相手でも、だしぬいてみせるさ。安全で快適な隠れ家をエレノアのために用意しよう」

「そうか。……助かるよ」

 ぼくは名誉市長の顔から目をそらし、ボール遊びをする母子を再び眺めた。意外なほど簡単に用件が片づいたので、軽い驚きと同時にとてつもない安堵を覚えていた。ぼくは自分で思う以上に、やつの拒絶を恐れていたらしい。

 ふと、強い視線を感じた。ぼくの片頬を焦がす熱線のように。

「おまえがわたしにそんなことを頼むとは、よほどの事情があってのことだろうな」

 ひどく真剣な声だった。いつも道化めいたこの男にはふさわしくないほど。ぼくは肩をすくめた。

「こっちの事情を詮索してもらう必要はない。あんたには関係のないことだ」

「……死ぬつもりか?」

 そうつぶやいた相手の声はごく小さかったが、はっきりと届いた。

 その短い言葉だけでなぜか、やつが本気でぼくの身を案じている気持ちが、鮮烈に伝わってきた。瞬間ぼくは打ちのめされ立ちすくんだ。

「あんたはロマンチストだな」

 つとめてそっけなく答え、内心の動揺を悟られないよう努めた。

「そんなんじゃない。忙しくなる、ただそれだけのことさ」

 ――十三年前、西区のあの公園で、母が目の前で強盗に背中を刺された瞬間を忘れることはできない。ぼくはあの日からずっと疾走してきた。自分でも行き着く先を知らないまま。猛勉強して最難関といわれる連邦上級公務員試験に上位合格したのも、この街の警察権力の頂点に一刻も早くたどり着きたかったからだ。力が欲しかった。もう二度と、罪のない弱い人が、犯罪の犠牲になるのを見ずに済むための力が。そしてその力を手に入れた。パールシー王国最年少で警察署長に就任し、何百人もの犯罪者を地獄に送りこんだ。凶悪犯罪者に対していっさい容赦はしなかった。

 また、ぼくはずっと名誉市長に反発してきた。母が適切な治療を受けられずに体の自由を失ったのは、この男がぼくたちを遺棄し、仕送り一つよこさなかったせいだと思い込み、かたくなに心を閉ざし、母と会うことすら許さなかった。

 だが本当は、恐ろしい真実から懸命に目をそむけていただけではないのか。母が全身麻痺という不幸に見舞われた直接的な原因は、このぼくにあるという真実。十三年前のあの日――母は物騒な屋外で子供を遊ばせるのを嫌がっていた。それをどうしても外に出たいと言い張って、あの公園へ母を連れ出したのは、ぼくだ。

 ぼくがあの日「外で遊びたい」とさえ言い出さなければ、母が事件に巻き込まれることはなかった。身体の自由を一生失うことはなかった。

 そのことを考えるといつも、足元から真っ黒な闇のような絶望感にのみ込まれていくのを感じる。けっして埋め合わせのできない過ち。どれだけ多くの人を犯罪から守ったとしても。

 起きてしまった結果は変えられない。後悔も懺悔も、過去には届かないのだ。

 ぼくは転がる赤いボールの行方をみつめていた。まるでその動きに全世界の命運がかかっているかのように、どうしても目を離すことができなかった。

 ややあって名誉市長はしみじみした口調で語り始めた。

「……おまえのことをいつも心配しているんだ。母さんも、わたしも。彼女と電話で話すと、たいていいつも、おまえの話だよ、アンドレア」

「電話?」

 この男からの通話はけっして母に取り次がないように、ソーホーン夫人に指示してあったはずなのだが?

 メイドとしての適格性に重大な問題がありそうだ。母の十字架の件もあるし、夫人の背景や性格を洗い直した方がいいかもしれない。ぼくがそんなことを考えているうち、名誉市長は言葉を続けた。

「おまえが何もかも一人で背負い込み過ぎてるんじゃないかと、母さんは心配している。わたしもそう思うことがあるよ。うまく言えないんだが……もう少し楽に生きてもいいんじゃないのか。自分を責め、駆り立てていく必要は何もない。過去に囚われず、もう少し、自分自身のために生きるべきだよ。母さんは……おまえには何も言わないだろうが……いつも気にしているんだ。自分の存在がおまえを苦しめているんじゃないかと。自分の不自由な体のせいで、いつまでもおまえにあの事件のことを思い出させているんじゃないかと。だが……!」

 これ以上この男の話を聞いていると冷静さを失ってしまいそうな気がしたので、ぼくは踵を返して歩き始めた。

「それじゃ、母さんを引き取りに来る前には連絡をくれ。うちのセキュリティシステムの設定を変更して、あんたが接近しても熱線で攻撃しないようにしておく。……ぼくは会議があるからもう署へ戻るよ」

「そんなにも、わたしのことを嫌っているのか、アンドレア……わたしに、息子が死のうとしているのを黙って傍観させるほど? 親らしいことを何一つさせてくれないほど!?」

 ひどく年老いたような、しわがれた叫び声が響いた。はげしい口調ではなかったが、激情で語尾がかすかに震えていた。

 ぼくは足を止めて振り返った。

 名誉市長は元の場所に動かず立ったまま、こちらをみつめていた。

 この男とこうやって会って話すのももう最後かもしれない。だったら、これだけは伝えておいてやるのがフェアというものだろう。ぼくは大きく息を吸い、ゆっくりと口を開いた。

「……あんたを憎まざるを得なかったのは、ぼくが弱かったからだ。だれかを憎まないと、自分を支えられなかったんだ。ずっと……」

 遠い昔に封印したはずのなにか強くて大きな物が、ぼくの中で再びあふれ出そうとしているのを感じた。

 しかしぼくは理性を総動員してそれにしっかり蓋をし直した。今は感傷に溺れるべき時ではない。決戦は目前に迫っている。最大限の冷静さが必要とされる時期なのだ。

「――こんなことを言うと、まるで遺言みたいに聞こえるな」

 ぼくは、名誉市長に向かって、余裕の笑顔をみせてやった。

「そんな顔をするなよ。柄にもない。……知ってるとは思うが、ぼくは銃を持ってる限り無敵といってもいい。それにぼくの命令ひとつで即座に四万人の武装警官が動くんだ。どんな相手が来ても、やられやしない。心配するな。なにもかも終わったら、必ず母さんを連れ戻しに行くよ」



 チェリー・ブライトンを誘拐しようとした二人組は、前科もなく、堅気の職業に就いている人間だった。しかし少し詳しく調べてみると、一人はメトロポリタン劇場の大道具係の息子で、もう一人は劇場所属の楽団員の兄であることが判明した。

 また、やつらの乗っていた車は自動操縦モードに設定されていたが、その行先の住所を調べてみると、メトロポリタン劇場の支配人の実家であることもわかった。

 トーゲイ中佐の教えてくれた「メトロポリタン劇場」というキーワードを元に事象を眺めてみると、『影の軍団』の痕跡はあまりにもあからさまだった。

 ぼくは、メトロポリタン劇場の全出演者・従業員の、判明している限りの親類縁者をリストアップさせた。

 そしてその連中の顔写真を、市内における過去の未解決事件のデータと照合してみた。

 驚くほど多くの数の容疑者と合致した。こいつらは表向き完全に堅気の人間で、「要注意人物」リストにも載っていないため、事件当時のデータ照合では名前が浮かんで来なかったのだ。

 市内で数々の犯罪行為を働きながら、身元を特定されずに逃げのびてきた連中――この中におそらく、相当数の《影の軍隊》メンバーが含まれている。

 ぼくは組織犯罪取締法第三十三条の規定に基づいて、メトロポリタン劇場の関係者全員と、その親類縁者のうち過去の未解決事件に関与していると思われる者の検挙を命じた。

 組織犯罪取締法というのは、組織的かつ継続的に犯罪行為を行っている一定規模以上の集団を取り締まるための特別法で、そのような集団の存在を疑う合理的な理由がある場合には、十分な物的証拠がなくても構成員とおぼしき人間を逮捕勾留できると定めている。そうでなくても緩やかな刑事手続法をさらに無力化する規定だ。

 その結果、メトロポリタン劇場の公演は休止に追い込まれた。「四百年以上の歴史を持つメトロポリタン劇場の公演休止は、計り知れない文化的損失であり、わが国の芸術文化に対する重大な冒涜だ」と、文化人やマスコミから激しい抗議が寄せられたが、ぼくは放っておいた。マスコミの連中が騒ぐのはいつものことだ。目新しい話じゃない。

 そして宮内庁に連絡を入れ、メフィレシア公爵とのアポイントメントを取りつけた。



 宮内庁は、王家そのものと同じぐらい、謎の多い組織だ――宮内庁が実際に何をやっているのか詳しく知る者は少ない。

 王家の莫大な財産の管理と、宮中行事の手配。王家の人間の身辺管理と警護。

 そして国王がお飾りの君主ではなく、実際の政治的権能をもつ主権者である以上、宮内庁は国王のブレーンとして情報を収集し政策を立案する役割も担う。宮内庁はパールシー王国全土に網の目のように情報網を張り巡らせているという。いわゆる《王の耳》だ。その情報網は昨日や今日築かれたものではなく、おそらく《影の軍隊》のように、代々世襲でその役目を受け継いで存続しているおそろしく古い組織。そして、その巨大な網の一端を握りしめてすべての情報を管理し、何を国王の耳に入れて何を入れないかを判断しているのが、宮内庁だというわけだ。

 それほど多岐にわたる複雑な業務をこなしながら――いまだに宮内庁が王家の森の外れにある小宮殿ひとつにおさまっているのは、奇跡と言っていい。あらゆる行政機構は膨張の傾向をもつ。クテシフォン市庁など、その全機能を収めるのに五十を超える超高層建物(オーバーハンドレッド)を必要とし、市の中心部に『庁舎街』と呼ばれるひとつの町を形成しているほどだ。クテシフォン市警本部だって、どれだけ合理化とスリムアップを図っても、ビルの地下階を含む九十フロアをフルに使っているし、それでも手狭だと文句が出ている。どうやって宮内庁はこんな三階建ての宮殿ひとつで機能しているんだろう。よほど合理化の徹底した組織なのか、それとも――世間の口の悪い連中が噂しているように、宮内庁の貴族どもの大半は給料をもらって遊び歩いてるだけで、ほとんど仕事をしていないのか?

 非常に有能な組織なのか、逆にとてつもなく無能な組織なのか。

 メフィレシア公爵の秘書を見ているかぎり、その疑問に答えは出なかった。

 公爵は来客中ですのでそこの椅子に腰かけてお待ちください、と彼女は愛想のかけらもない口調で言い捨てた。ぼくは勧められた椅子に座って室内を見回した。宮内庁長官室の控えの間というよりは、年季の入った図書室といった方が通りのよさそうな部屋だ。廊下に通じる扉と長官室につながる扉、その二つの扉以外の壁はほとんどすべて書棚に埋め尽くされている。実際に昔は図書室として使われていたのかもしれない。書棚に並んでいる本は見たところどれも紙資料で、しかもおそろしく古い。床には分厚い煉瓦色の絨毯が敷きつめられている。

 磨きこまれたアンティーク調の書き物机の向こうで、公爵の秘書はまっすぐ背筋を伸ばして座っている。黒い背広を着た三十代後半のやせた女だ。眉間に皺を寄せているが、机の上の書類を読んでいるのかどうかは謎だ。

 不意に扉が開いて、長官室の中から、見覚えのある男が出てきた。宮廷警備隊の派手な制服に身を包んだ、とんでもなく体格のいい男だった。

「それでは失礼致しますっ、長官閣下!」

 王家の森の反対側まで聞こえそうなぐらいの大声で叫び、力強く敬礼する。

 警備隊副隊長アレイン・シュタイナーだ。

 長官室の中から、まるで女のように細い声が、

「ああ、ご苦労だった」

と応じた。まるで歌でもうたっているような、旋律的な声だった。

「控えの間にクテシフォン市警のカイトウ署長がおられるから、失礼のないようにするんだぞ、シュタイナー」

 余分な一言とは、こういう言葉のことをいうんだろう。声がそんなことを言わなければ、おそらくシュタイナーはぼくに気づかなかっただろうからだ――あまり周囲に気を配る男ではないらしく、やつの視線は常にまっすぐ前方だけを見据えている。

 だがもう遅かった。扉が閉まり、シュタイナーは敵意に燃えるまなざしでこちらを睨みつけた。

「……こんな所で何をやっておるのだ、貴様ー!!」

 それがやつの第一声だった。

 『失礼のないように』という指示を、この男はどう解釈したんだろう。

 ぼくはため息を押し殺した。

「口のきき方には気をつけろ。ここはあんたのホームグラウンドじゃないぜ」

「陛下の私室に不法侵入したかと思えば、今度は長官閣下の身辺を嗅ぎ回ろうというのか。貴様、どうあっても、王家とことを構えたいようだな。何が狙いだ!?」

「前にも言ったと思うが、ぼくは下っ端とは話はしない。こんな所で無駄吠えしてないで、さっさと自分の職務に戻ったらどうだ?」

 シュタイナーは分厚い唇をひき歪めて笑った。おのれの優位を自覚した顔つきだった。

「ここは王家の所有地だ。クテシフォン市の法律はここには及ばぬ。貴様がクテシフォン市でいかなる地位を持っていようとも、この建物では何の権限もないのだ。そのことを覚えておいた方がいいぞ。……貴様の狙いが何かは知らぬが、王家の方々に害をなす行為は、この私が許さん」

「第二ラウンドをやりたいってわけか。宮廷警備隊はよっぽど暇をもてあましてるらしいな」

 シュタイナーは大股でこちらへ歩み寄ってきた。あきらかに戦意満々だった。ぼくはすばやく銃を抜いてやつの肩章のひとつを撃ち飛ばした。大男はショックを受けたような表情で撃たれた肩を押さえ、足を止めた。

 普通の人間なら、ぼくが銃を抜く動作さえ見てとれなかったはずだ。

 見てとれたのは動体視力に優れた元プロボクサーならではだろう。

 事態を理解するのに数秒かかったらしい公爵の秘書が、しばらくしてようやく、ひっと小さな悲鳴をあげた。

 ぼくは銃口をシュタイナーに向けて威嚇するような真似はしなかった。銃をホルスターに戻し、椅子の背もたれにゆったりと体をあずけてやつを見上げた。

「その小さなおつむに叩きこんでおくことだな。治外法権というのは、あんたを守ってくれる法律も存在しないって意味だぜ。……早死にしたければ、いつでもかかってこいよ」

 王室警備隊長は憤怒に身を震わせた。やつも大出力レーザーガンを携行していたが、それを抜こうとする動きは見せなかった。当然だろう――腕前の差はたった今明らかになったのだから。代わりに大きな目を剥いてこちらを睨みつけた。

「き、貴様ーーーっ、どこまで卑怯なのだ。素手でかかってくる相手を撃つとは……!」

 ぼくは肩をすくめた。

「悪いが、仕事にフェアプレイ精神は持ち込まない主義なんだ」

 それに、ボクサーが一般人に素手の勝負を挑むのはフェアでもなんでもないと指摘してやろうとしたが、そのとき不穏な空気を打ち破るように、やけに可憐なベルの音がりりりりりん、と鳴った。公爵の秘書が卓上の電話をとった。ひとこと、ふたこと言葉を交わしてから受話器を置き、ぼくに向かって硬い声で言った。

「中へお入りください。長官がお会いになります」

 ぼくは立ち上がり、まだこちらを睨みつけているシュタイナーに背中を向けないよう注意しながら、長官室に足を踏み入れた。

 書棚に囲まれて薄暗い控えの間に比べると、中は意外なほどの明るさだった。宮内庁長官の執務室とは思えないほど豪華で巨大なシャンデリアが三つも吊り下がり、陽気な光を室内にまき散らしていたからだ。優美すぎて実用に向かなさそうな骨董品の机の向こうに、宮内庁長官ギュスターブ・ド・メフィレシア公爵が座って、こちらをみつめていた。

 丸い眼鏡のレンズで拡大された公爵のまぶたが一瞬、微妙なまたたき方をした。

 相手のその反応を見て、突然はっきりとわかった。おそらく公爵は意図的に、シュタイナーとぼくが顔を合わせるよう仕組んだのだということが。ぼくとのアポイントメントの直前にシュタイナーをここへ来させたのも、計算づくだろう。

 ずいぶん、やり方が姑息だな。わが国最高の家柄の貴族にして――国王陛下を亡き者にしようとする陰謀の首謀者にしては?

「……ぼくがまだ二本足で立ってるので、驚きましたか」

 ぼくはとりあえず挑戦的な態度に出ることにした。これが親睦を深めるための訪問でないことなど公爵もとっくに承知のはずだ。社交儀礼は時間の無駄だろう。

 メフィレシア公爵は何度もまばたきした。ぎこちなく左右に視線を泳がせ、「ああ……ええっと……」と口ごもった。小指を立てた手で胸ポケットから白いハンカチを引っぱり出し、眼鏡を外して、せわしなく磨き始める。

 眼鏡に視線を落としたまま、ぼくを見ようとせず、公爵は女のような声でもごもごとつぶやいた。

「シュタイナーが何か失礼をしましたかな。……まったく……何と言えばいいのか、そのぉ……困ったことだ。私は野蛮なことには慣れておりませんからな。どう対処すればよいのか……まったく、困ったことだ」

 公爵は五十歳前後の小柄な男で、声と同じく、ひどく女性的な容貌を持ち合わせていた。ウェーブのかかった長めの銀髪がその印象を強調している。秀でた額の下の、学者を思わせる知的なまなざし。柔和な顔の造作。ふっくらした口元。とても大それた陰謀を企みそうなタイプには見えない。

 だがもちろん、外見はその人間の真価を必ずしも語らない。ぼくは相手のおとなしそうな見かけにだまされまいと心に決めた。

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