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第16章(1) アンドレア・カイトウ署長

 クテシフォン市警本部内ネットワークは市内でも最高のセキュリティの堅固さを誇っているが、それでも外部からの侵入の危険性は完全には否定できない。機密保持を要する用件には通信を使わずに、直接会って話をするのが常道だ。ぼくは署内の部下に重要な用件があるときは、なるべく自分で出向くことに決めていた。相手を署長室へ呼び出せば話は早いのだが、署内各所の様子や署員の働きぶりを自分の目でたしかめる機会を持ちたいので、こちらから出て行くことにしているんだ。署長室におさまり返っていたのでは人心を掌握することはできない、というのがぼくの信条だ。

 そうやって署内の様子を把握しているぼくの目から見ても――市警本部ビル内でいちばん散らかったオフィスは、特務課の課長室であることは間違いなかった。

 このオフィスがきちんと整頓されているところを見たことがない。デスクの上では未処理のデータシートが天井まで届かんばかりに積み上がり、ごみの散らかった床には、訳のわからない古いコンテナがいくつも置かれて清掃ロボットの入る余地さえない。こんな汚いオフィスでバーンズは普段どうやって仕事をしているのか、ぼくは不思議に思っていた。

「もう退院して来たんですか、署長!? 肋骨骨折で右肺を損傷したって聞きましたけど」

 デスクの向こうに腰かけたバーンズ副署長が、書類のバリケードの陰からぼくの姿を認めて驚いたような声をあげた。

「組織修復と造骨促進の処置は終わったから、あとは安静にしていればいいと言われた。安静にするだけだったら病院にいても外にいても同じことだからな」

「うーん……本当にわかっておられるんでしょうな、『安静』って言葉の意味が?」

 バーンズはあいかわらず下肢の不自由さをまったく感じさせない動作で立ち上がった。なにか言いたいことがあるらしい、腕組みをして挑戦的な表情を浮かべた。

「宮殿の西の塔に不法侵入したあげく、あの『アリー・ザ・デストロイヤー』とファイトしたんですって? 署長の年齢じゃご存知ないかも知れませんがね、アリー・シュタイナーといえば古いボクシングファンの間では神話的存在なんです。伝説のチャンピオンなんですよ。サインでももらってくればよかったのに」

「そんな有名人とは知らなかったんだ。ペンも持ってなかったし」

「ブレアが泣いてましたよ。もう署長の無茶にはついていけない、と言って」

 その言葉は少しだけぼくを揺さぶった。自分の行動は完全に正当だったと確信しているが、ブレアに対してだけは、悪いことをしてしまったという気があったからだ。

「その件に関係して、ラムゼイ本部長に執行会議を招集してもらった。今夜一九三○時からだ。バーンズ、きみにも出席してもらいたい」

 ぼくは、椅子の上から書類を除けて腰をおろすと、相手の黒い丸い瞳をまっすぐのぞき込んだ。

「その議題について、あらかじめきみの意見を聞いておきたいと思って来たんだ」

 陛下の寝室で採取したサンプルの分析結果が今朝科研から上がってきた。

 結果は予想通り、と言ってもよかった。

 寝室のテーブルにあった飲み残しのコップの水からアズフォルデ・キノホルムが、そして陛下の血液からアズフォルデの代謝物が、それぞれ検出された。水差しの水にも典侍医が処方した薬にも異常はなかった。つまり何者かが、陛下の寝室内で、コップの水にアズフォルデを入れたと推測される。

 陛下の毒殺をたくらむ者がいるというティントレット博士の推理は正しかったのだ。おそらく今陛下に精密検査をすればアズフォルデ中毒であることが判明するだろう。

 そして寝室にまで入り込んで、毒入りの水を怪しまれずに陛下に飲ませることのできる人物となると、かなり限られてくる。

 アズフォルデが隠されていたドーンストーンのペンダントのことを考えると、犯人はエヴァンジェリン姫、あるいは二人の姫君の共謀であると判断せざるを得なかった。

 「王者の手には神が宿る」という伝統により、手にバッグなどを持つわけにはいかない姫君のために、毒薬を運搬する手段として中身をくり抜いた宝石が用意された。毒殺の手段として、より即効性のある毒薬ではなくアズフォルデを選んだのは、おそらく自然死に見せかけるのに適していたからだ。数ヶ月にわたって徐々に身体が衰弱して死に至る。もともと病弱な陛下のそんな死に方を疑う者はいないだろう。

 《常夜会》の夜に陛下のコップに毒を入れたのは、十中八九、エヴァンジェリン姫だ。姫がおやすみの挨拶のために陛下の寝室へ上がって行ったことを西の塔の衛兵も証言している。

 だが、夜会でドーンストーンのペンダントを身につけていたのはシスティーン姫だった。昨年から今年にかけての膨大なニュース映像を検索したところ、いくつかの王家の行事で、問題のペンダントを身につけているシスティーン姫の映像があった。二人の王女が共謀している可能性も捨てられない。

 ――バーンズは賞賛に値する冷静さでぼくの説明を最後まで聞いていた。ひとことも、口をはさまなかった。だが話が終わったとたん、激しい動作で頭を抱え込んで椅子に座り込んだ。その衝撃でデスクの上の書類の山がなだれとなって崩れ落ち、やつの上半身を完全に埋め尽くしてしまった。

「いい加減に机を整理したらどうだ。仕事の能率が上がるぞ?」

 ぼくは指摘せざるを得なかった。バーンズは積もり重なった書類をがばっとはねのけて頭を上げた。

「私の机なんかどうだっていいです。どうするつもりなんですか、署長!? こんな話をいきなり聞かされたら、本部のお偉方はみんなショックでぶっ倒れますよ」

 ぼくは肩をすくめた。

「執行会議で提案しようと思っている行動プランは三つだ。とりあえず、単なる議論上の可能性としてだが。

 一つ目は、強制的にクレハンス十三世陛下の身柄を確保して医師の手当てを受けさせることだ。宮内庁の協力が得られるとは考えにくいから、千人、あるいは千五百人の警官隊と特殊戦略攻撃部隊(SSAT)とで王宮に突入して陛下の身柄を奪取する。陛下の御命を救うには、これが最も確実な方法だな」

「だめです! 何を言ってるんです署長、正気ですか? そんなことをしたら王国軍とわがクテシフォン市の全面戦争になっちまいますよ」

 バーンズが間髪入れず反論してきた。

「だから、議論上の可能性だと言ってるだろう。二つ目は、やや確実性には劣るが、《中央》の行政監督官に事件の調査を依頼することだ。《中央》は地方の星系政府に干渉する機会を常に狙ってるから、この程度の状況証拠でも、すぐに食いついてくるだろう」

「……冗談で言ってるんですよね」

「まじめな話だ。本来なら行政監督官への請願は、星系国家の元首と立法・行政・司法機関の長にしか認められていないが、ぼくは連邦上級公務員の資格を持っているので、その資格をもって調査開始を依頼することができる。あまり使いたくはない手なんだが……」

「『あまり』どころの話じゃないでしょう?」

 上目使いにぼくを睨むバーンズのこめかみに太い血管が浮き上がり、ぴくぴく震えているのが見えた。爆発寸前、という感じだ。

「行政監督官なんか動かしたら、どうなると思うんです。《中央》の武装調査隊が乗り込んできて、わが国をめちゃくちゃに引っかき回しますよ。下手すると国家解体とか憲法改正とか命じられるかもしれない。パールシー王国がなくなっちまってもいいんですか!?」

 行政監督官とは、銀河連邦政府が連邦加盟国の内情を探るために常駐させているスパイのようなものだ。隠密裏に送り込まれ、各星系政府の中枢部に身分を隠して潜り込み、情報を収集する。《中央》の定めた法と制度が適切に運営されているか、絶えず監視するのがその役目だ。そして違反行為の存在を感知すると、《中央》から武装調査隊を呼びつけて、星系国家の内政調査を開始する。

 内政調査に至る頻度はそれほど高くない。行政監督官が動くのは銀河連邦全体で見てもせいぜい十年に一度というところだ。ただしいったん監督官による内政調査が始まると、たいていの場合国家の運営に是正しがたい欠陥があると判断され、国家解体、憲法改正、政治体制の再構成などの命令が下ることになる。既存の制度は解体され、《中央》主導のもと新たな国づくりが始まる。内政調査のもたらす結果は常に深刻で重大だ。

「そうだな、たぶん国家解体という話になるだろうな、もし武装調査隊が乗り込んできたら」

 ぼくは、相手にショックを与えすぎないよう気を配りながら、なるべく軽い口調で答えた。

「内政のどうしようもない分裂と混乱。社会制度の不整備。もちろん、王位継承者が父王を殺害しようと企んでいるという事実だけで、国政破綻と判断されるには十分なんだが。……しかし、姫君を裁くには、他に方法がないんだ。姫はクテシフォン市の刑法の適用を受けない。王家の人間に届く法は、このパールシー王国には存在しない。それなら外部の権力を引き込むしかないだろう」

「『もうあなたの無茶にはついていけない』と、私も言いたくなってきましたよ……できるもんならね。立場上言えないから困ってるんですが」

 バーンズが床から拾い上げた書類をデスクの上に置くと、その衝撃で今度は積み上げられていた別の書類が床へなだれ落ちた。バーンズは重い溜め息を吐いた。

「だめ、だめです。いくら陛下をお助けするためとは言え、話がでかくなり過ぎです。もうちょっと現実的な手段はないんですか?」

「三つ目の案は、宮内庁の保安課に、我々が陛下暗殺計画についての情報を持っていることを知らせることだ」

 ぼくはゆっくり言葉を選びながら話した。バーンズは拾い上げた書類を、他の書類を崩さないよう慎重にデスクに載せているところだった。

「宮内庁と姫君たちとの関係が、どうもつかみ切れない。宮内庁はずっと、陛下の体調不良はナプレスナ・ウィルスによるものだと発表し続けている……しかし、典侍医がよほどのヤブでない限り、ナプレスナ・ウィルスの病状でないことはとっくにわかっているはずなんだ。未確認だが、宮内庁の大物が毒薬の調達にからんでいるという情報もある。宮内庁全体が姫君たちに加担しているのか、それとも一部の人間だけの企みなのか。どうも見えてこない。

 もし姫君に協力しているのが宮内庁の一部の者だった場合。陛下暗殺計画について知れば宮内庁保安課が即座に動くだろう。計画を阻止し、陛下を守るための手を打つはずだ。姫君はメッシモの僻地の修道院に一生幽閉、その他の関係者は国外追放。……そのあたりが宮内庁の伝統的な解決方法じゃないか?

 そうではなく、宮内庁全体が陛下を亡き者とする企てに荷担している場合。市警に情報を握られていると知れば、計画を断念するかもしれない。いくら王宮内が治外法権とはいえ、王宮はクテシフォン市内にあるんだ。やつらも我々を正面きって敵に回したくはないだろう」

 デスクの上から書類が派手になだれ落ちた。

 バーンズは再び溜め息をつき、腕を大きく横に振って、デスクに載っているすべての物をはたき落とした。

「その三つ目がいちばん現実的ですな」

「現実的だが、実効性が薄すぎる。陛下を助けられる保証はないんだ。宮内庁全体がグルだった場合、姫君たちが暗殺計画を強行すれば我々には止める手だてがないんだからな。執行会議でもう少し実効性のある案が出るんじゃないかと期待しているんだが」

「実効性なんて、あり得るんですかね、こういう場合!?」

 バーンズは障害物がなくなってきれいになったデスクに突っ伏した。しばらくその姿勢のままでじっとしていたが、やがて顔を上げてぼくを睨んだ。それまでとはまるで違う、咎めるような表情だった。

「……とうとう、ここまで来ましたね。いつかこんなことになるんじゃないかと思ってましたが」

「なんのことだ」

 バーンズはひどく鋭い視線でぼくを見据えて言葉を続けた。

「昔からうすうす、あなたが死にたがってるんじゃないかと思ってました。今や、もう、確信です。このごろのあなたはまるで死に急いでいるみたいだ。その辺の犯罪者じゃ手ごたえがないもんで、とうとう、ばっちり殺してくれそうな大物を掘り当ててきたってわけです。……違いますか」

 ぼくは話題の急変に戸惑った。一笑に伏すことは簡単だったが、バーンズの真剣な表情を見ていると、この挑戦を受けて立たないわけにはいかないと感じた。

「本当に死にたいんだったら、そんな面倒な真似はしやしないさ。銃を口にくわえて引金をひくのが一番てっとり早い、そうだろ?」

「他人に殺されたい、というタイプの自殺願望もあるそうですよ。生きていることに対する罪の意識が強くて、他者に処罰されたいと願うんだそうです。……あなたはいつも、至近距離で銃を向けてる犯人の前に、平気で飛び出していく。普通の神経じゃないです。ARFによる無効化が完全でないことはわかりきってるんですからね。それに……」

「素人精神分析がきみの趣味だとは知らなかったよ。ぼくが犯人に真正面から向かっていくのは、相手の意表を突く行動に出た方が勝算が大きくなるからだ。銃を構えてる犯人は、まさかこちらが回避もせずに真正面から反撃してくるとは思ってもいない。それが犯人自身の隙だというわけさ。……心配しなくても、ぼくには自殺願望はない。王位継承者といえばたしかに大物だが、だからどうだっていうんだ? 必ず連中の計画を阻止してみせる」

 バーンズはもどかしげな仕草をして、首を何度か横に振った。ぬいぐるみの熊のような愛敬のある顔に浮かんでいるのは、心底ぼくの身を案じている悲しげな表情だ。

「……私はただ、署長に、もっと命を大切にしてもらいたいだけですよ。クテシフォン市警にはあなたが必要なんです。こういう状況だからなおさらです」

 相手の表情を見て、つかの間ぼくの心は痛んだ。

 たぶんバーンズはこういう仕事をするには人が好すぎるんだろう。



 その夜の執行会議で議題を説明するのはバーンズに任せた。バーンズの説明が終わらないうちに、「胃が痛い」と医務室に走った幹部が三人もいた。気の小さいやつらだな。

 会議の結果はバーンズの予想通りのものだった。

 まずは宮内庁保安課にボールを投げかけてみるべきだ、と幹部たちは声を揃えた。



「あなたのお話、とても興味深くうかがいましたわ、カイトウ署長」

 コトウェル男爵夫人は、年齢の割には驚くほど皺の少ないぽっちゃりした手で、ぼくに家伝の紅茶を勧めながらそう言った。

「肝心の点がいくつか省略されてはいるようですけどね」

 王家の森の外れに建つ、白いドーム状の屋根が印象的な小宮殿。それが現在の宮内庁だ。もともとはベルジブ十一世が愛人のメイレーア姫のために建てた宮殿である。白亜の建物と周囲の森の緑との対比が美しい。

 その宮殿のテラスで、白いドレスに身を包んだふくよかな老婦人がゆったりとパラソルの下に腰かけている様子は、まるで絵本から抜け出して来たような牧歌的な光景だった。おだやかな微笑み、上品な物腰。頭の上に丸く結い上げられた銀髪には一本の乱れもない。

 だが、このいかにもメルヘン調な外見にだまされてはいけない。フロレンティーナ・コトウェル男爵夫人は宮内庁保安課課長、すなわち王室関係のセキュリティの最高責任者なのだ。保安課は王家の人々の安全を保障するだけでなく、数知れないスキャンダルや汚らしい事件を隠密裏に処理して闇に葬ることを任務としている部署である。その責任者を長年務めているのだからただ者ではない。

 濃い緑の芝生に向かって広がるテラスにいるのは、ぼくたち二人だけだった。高い青空の下、心地よい風が一陣、走り抜けていく。冬にしては暖かい、さわやかな陽気だったが、わざわざ戸外に出て茶を飲むような季節ではない。だが寒冷の地・第六惑星メッシモの出身である男爵夫人は、そうは感じていないらしかった。

「王宮内の秩序は完璧に保たれており何も異変などない、という私たちの立場に変わりはございません。宮廷警備隊のシュタイナー副隊長は、たしかにあまり気のきく方ではありませんが、よくやっていると思います」

 おだやかな口調で男爵夫人は続けた。ぼくは肩をすくめた。

「警備体制は穴だらけですよ。天下泰平が続きすぎて、気がゆるんでるんじゃないですか?」

「それをたしかめるために、先日あんな騒ぎをお起こしになったの?」

 あくまで優しい声は、その言葉に潜む棘を感じさせない。

 ぼくは内心で舌打ちする。そうでなくても手ごわい相手なのに、初めから守勢に立たされているのではやりにくいことこの上ない。これも名誉市長の余計なおしゃべりのせいだ。

 コトウェル男爵夫人とは以前に仕事で何度か顔を合わせたことがあるので、彼女の力量は承知している。おっとりした微笑みの下に(やいば)の頭脳が潜んでいるんだ。彼女から望む反応を引き出すためには、慎重に話を進めなければならない。

 ひとまず陛下の血液検査の結果だけを示して、彼女の出方をうかがっているところだった。

「ぼくは王制の熱烈な支持者というわけじゃないが、クテシフォン市内で進行している暗殺計画を見過ごすつもりはありません。宮内庁が静観を決め込むなら、捜査は市警でやります。宮殿内に捜査員が立ち入る許可を与えて頂きたいのですが?」

「いいえ、いけません。調査は私どもで致します」

 彼女はすばやくぼくの言葉を遮った。そして、思わず指で突つきたくなるほど柔らかそうな白い頬にえくぼを刻んでにっこりした。

「ご存じでしょうけれど、自由都市に対する王家の優越は絶対です。王家あってこそのクテシフォン市政であり、市の警察権なのですよ。陛下の住居たる宮殿に自由都市の警察権が及ぶことなど、絶対に許されません」

 ぼくは反論しなかった。パールシー王国憲法の建前なら彼女に講義してもらわなくたって十分承知している。しばらく沈黙を守り、彼女が勝利を信じたであろう頃合いを見計らってから、第二の爆弾を落とした。

「今回の件に、二人の殿下のいずれか、あるいは両方が関係していると信じるに足る証拠があります。もし宮内庁の調査でこちらの納得の行く結果が出なかった場合、その情報を公開して市民の審判を仰ぐつもりです。あなたなら当市の現状はご存じでしょう? 今の不穏な社会情勢において、そのような情報を公開すればどんな騒ぎになるかは、容易にご想像できると思います。『腐り切った王家を打倒せよ』という分離独立派の扇動で市民の暴動が起こるか、あるいは王家に見切りをつけたクテシフォン防衛軍が動き出すか……クテシフォン・シティだけじゃない、おそらく他の自由都市でも反発がまき起こるでしょうね」

「まあ。なんという畏れ多いことをおっしゃるのかしら」

 仰天したのかもしれないが、男爵夫人は少し声を高める以外の反応を見せなかった。

「世が世なら、姫様に対するそのような物言いは、不敬罪ものですわよ、カイトウ署長」

「ぼくは本気ですよ。相手がだれであれ……陛下が殺されるのをむざむざ見過ごすつもりはない、それだけです」

「……」

 さすがの男爵夫人も唇を尖らせて黙り込んだ。

 ぼくらはしばらく無言で紅茶を味わい、広々とした芝生の上を雲の影が横切っていくのを眺めていた。

 やがて男爵夫人が再び口を開いた。その声は再び、歌うような豊かな抑揚を取り戻していた。

「ところであなた、コーネリアス・グラフをご存じないかしら。グラフ公爵の末娘で、私の孫なんですけどね。ちょうどあなた位の年頃で、とってもいい娘。器量良しだし、それだけじゃなくて、王立法学院で法律の勉強をしている才媛なんですよ……」

 夫人はいかに孫がすばらしい令嬢であるか熱心に説き続け、ぼくはあまり興味を持っていると思われないように気をつけながら相槌を打った。このいかにも世話好きな社交界婦人らしい脱線は、こちらを油断させてタイミングを外すための戦略に違いない、と思って適当に返事をしていたら、以前ほんとうに貴族令嬢を紹介されてしまったことがある。あらゆる意味で、食えない婆さんなのだ。

「……今だに家柄同士の釣合いがどうのとおっしゃる方もいますけどね。私は、そんなのは時代遅れだと思うんですよ。若い人たちがお互い好き合っていれば、貴族も平民も関係ないんじゃないかしら」

 さんざん長広舌をふるった後で、コトウェル男爵夫人はそれまでとまったく口調を変えずにつけ加えた。

「ともかく、情報提供に感謝しますわ、カイトウ署長。陛下の御安全をお守りするのは私ども宮内庁のつとめ……。あとは私どもが処理致します。あなたが今おっしゃったことは全てただの憶測で、陛下の御身に害など及ぶはずはないということが、まもなく明らかになるはずです」



 コトウェル男爵夫人の反応からは、腐敗が宮内庁のどのレベルまで及んでいるのかをつかむことはできない。しかしぼくのメッセージは確実に宮内庁保安課に伝わったはずだった。王国全土でのクーデター騒動を回避したければ、宮内庁が何らかの動きを見せなければならない、ということだ。

 今後のぼくの行動は全て、宮内庁の監視下に置かれることは間違いない。

 今まで監視されていなかったとしても、だが。



 幹部たちが何と言おうと、ぼくは《中央》の行政監督官のところへ内政調査の依頼に行くことに決めていた。

 クテシフォン市の司法は――そして市警は、姫君の犯罪に対して完全に無力だからだ。逮捕や起訴どころか、捜査さえもできない。「治外法権」という分厚い壁がぼくらの前に立ちふさがる。王家はクテシフォン市の自治権を超越した地位にあり、わが市の刑法や司法権などまったく及ばないのだ。

 王家の人間を裁くには、《中央》の法秩序を直接持ち込むしかない。

 《中央》による内政調査が行われれば、姫君は連邦法によって裁かれ処罰されるだろう。

 だがそれは、おそらく、パールシー王国そのものの解体という大きな代償を伴うことになる。できることなら使いたくはない手段だ。

 ぼくは、行政監督官への内政調査依頼を、最終手段としてとっておこうと考えていた――本当の最終手段、たとえば陛下暗殺を食い止めるためのあらゆる方法が失敗し、ぼく自身敵の手にかかって命を落としてしまったような場合の、奥の手だ。

 クテシフォン市の行政職務分限法によると、警察署長に事故があった場合、後任者は事故当時に署長の有していた権限を継承する。その権限の中に行政監督官への請願権は含まれないが、「行政監督官へ請願中である」という地位は含まれる、というのが同種の事例に対する連邦中央高等裁判所の判例だ。

 行政監督官への請願権は、《中央》の公務員としての身分を保持するぼくに固有の権利である。しかしぼくが今のうちに行政監督官と話をしておけば、その後ぼくの身に何かあっても、バーンズか後任の署長が後を引き継いで行政監督官と折衝できるというわけだ。



 貴族の豪奢な屋敷が建ち並ぶ、とびきり気取った地区の一角に建つ聖ルグゼリア教会は、真に神を求める場所というよりはむしろ暇を持て余した上流階級の連中の溜まり場といった方がふさわしいだろう。不信心なぼくには批評の資格がないのかもしれないが。わずか十数年前の建築であるにもかかわらずわざと何世紀も古びているように造られた煉瓦の建物、あきらかに古代地球文明の原始宗教の教会を模したとわかる古めかしい内装。だが細長い窓を飾るステンドグラスはどれも、金にあかせて当節の最も人気のあるデザイナーに作らせたものだ。「神を求める敬虔な信仰者」であることが最近の上流階級の流行なので、暇人たちはこぞってこの上品ぶったファッショナブルな教会に集いたがった。

 ぼくは参拝者が最も少なそうな平日の早朝を選んでそこを訪れた。黒檀の重い扉を押し開けると、案の定、明るい教会内にはだれもいなかった。塵ひとつなく磨き上げられた寄木細工の床に、ステンドガラス越しに差し込む朝日が複雑な色彩を投げかけている。祭壇や両側の壁に重々しく飾られた黄金の蝋燭立てが、早朝の空気の中でぴかぴかに光っている。見上げる天井ははるかに高く、曖昧な薄闇の中に隠れてしまっている。しずかな室内に、ぼくの足音がやけに大きくこだました。

 入ってすぐ左側に、凝った彫刻を施した背の高い木製の直方体が立っていた。中は壁で完全に二つに仕切られていて、それぞれがようやく椅子ひとつ置けるぐらいの広さの小部屋になっている。告解室と呼ばれるものらしい。一方の小部屋に司教、もう一方の小部屋に信者が腰かけ、信者は自分の犯した罪をそこで告白して神の許しを求める。小部屋を仕切る壁には格子窓が開いているが、ごく小さなものなのでお互いに相手の顔を確認するには至らない。また告解室は機械的にも電子的にも完全にシールドされている。信者は正体を明かさず、また盗聴されるおそれなしに、安心しておのれの汚らしい秘密を告白できるという仕組みだ。

 ぼくはその告解室に足を踏み入れ、小さなスツールに腰かけた。背後で扉を閉めると中は真っ暗になった。ただし眼前の窓越しの気配から、壁の向こう側の小部屋にだれかが待機していることは感じられた。

「懺悔なさい、我が子よ。あなたはどのような罪を犯されたのか?」

 厳かな低音が響いてきた。

 ぼくはつい、自分がこれまで犯してきたと思われる数々の罪をリストアップしてやりたい衝動に駆られたが、思い直して穏やかに答えた。

「懺悔をしに来たわけじゃないんです、キリンド司教。パールシー王国に対する銀河連邦政府の内政調査権発動の請願に来ました」

 しばらく沈黙が続いた。やがて再び響いてきたキリンド司教の低音は、厳かな調子をまったく失っていなかった。

「そういう事情であれば、決まりには反しますが、あなたの素性を確認させて頂かねばなりますまいな。あなたは、いったい、どなたです?」

「ぼくはクテシフォン市警凱旋門本署のアンドレア・カイトウ署長です。これが連邦上級公務員コードです」

 ぼくは左腕の皮下に埋め込まれているチップを特殊な方法で押し、ID情報を含んだタニムマコードを皮膚表面に表示させた。腕をひねってそのコードを相手に示すと、即座に、

「あなたのIDを確認しました」

という答えが返ってきた。まるで機械を思わせる単調な発声だった。

「あなたには調査開始依頼権があります。それで、どのような調査ですかな」

 ――《中央》から派遣される行政監督官の任期は半世紀以上にわたるため、ほとんどの監督官は派遣先の星系で別の職業を持っている。身分を隠して地方の内情を探るには、職業を持つことが良い隠れ蓑になるわけだ。このホールトン・キリンド司教は過去十数年にわたって、パールシー王国の貴族連中のあいだで最も人気の高い聖職者であり続けているが、その正体が《中央》の行政監督官であることを知る者はほとんどいない。知らされているのはおそらく国王陛下と、王国政府のほんのひと握りの高官のみだろう。ぼくだって昔連邦中央保安局にいた頃、偶然知ったにすぎないのだ。

 行政監督官としては理想的なポジションに就いたものだ――告解、相談、身の上話。そういった形で貴族や富豪、パールシー王国の支配階級とも呼べる連中が、自分の方から秘密を打ち明けに来てくれる。注意深く耳を傾けていれば国政の動向をかなりの程度までつかむことができるだろう。

 ぼくは感覚を研ぎ澄まして相手の気配をつかもうと努めた。真っ暗闇で、向こうの顔が見えないので、話がしにくい。しかしキリンド司教は完全に気配を絶っていた。

「具体的な調査依頼の前にひとつだけ確認しておきたいのですが……停止条件つき請願というのは、認められますか?」

「……これは妙なことをおっしゃいますな」

「条件成就と同時に、今日のこの日付にまで溯って請願の効力が発生する。条件成就までは請願の効力は発生しない。そういう形式での請願を行いたいのですが」

「ご承知のこととは思うが、条件などという概念は権利関係を不安定にするので行政手続とは本来相容れないものです。前例もありませぬしな」

「本来であれば、ね。しかし内政調査権発動は、あなたの一存によって決定されることだ。それはつまり、あなたさえ納得してくれれば、どんな形式であっても構わないということになりませんか」

 ぼくは司教の顔があると思われる辺りを睨んだ。

 暗闇の中では、司教が答えるまでの間がやけに長く感じられた。

「私を納得させる自信がおありのようですな、カイトウ署長」

「……調査依頼項目は、パールシー王国君主であるクレハンス十三世陛下が、娘のエヴァンジェリン殿下に暗殺されようとしているという疑惑。そして停止条件は、ぼくの死亡または十日以上の消息不明です」

 再び訪れた耳に重い沈黙の中で、ごくかすかではあったが、キリンド司教が大きく息をつく気配が伝わってきた。

「もっと詳しく説明して頂けますかな?」


 ぼくは真っ暗な告解室でキリンド司教に一部始終を話した。実際にはさほど時間は過ぎていないのだろうが、ずいぶん長い間話し込んだような気がした。

 請願に停止条件をつけることを、司教はなかなか承知しようとしなかった。

 ぼくの請願の内容はきわめて重大で緊急性の高いものであるから、即刻《中央》の内政調査を行うべきである、というのだ。

「銀河連邦加盟国家の主権をできる限り尊重するというのが、連邦憲章の主旨ではありませんか?」

 ぼくは反論した。そんな主旨は建前でしかなく、銀河連邦は絶えず加盟国家に干渉しその主権を骨抜きにする機会を狙っている、ということは周知の事実だったが。

「いかなる紛争も、できるだけ個々の星系国家の自律的解決に任せ、《中央》が直接介入することは避ける。それが、銀河連邦のスポークスマンがいつも言っていることでしょう? クテシフォン市警は必ず陛下暗殺を未然に防ぎ、首都の秩序を守ってみせます。どんな手段を講じても。……万一それに失敗し、ぼくが命を落とした場合にのみ、やむなく《中央》の介入によって正義を実現する。今回の請願はそういう意味です。ぼくらにチャンスを与えてもらえませんか」

「しかしこの場合、あなた方に何かできることがあるとは思えませんな。パールシー王国における王は至高の主権者にして、あらゆる権威の源となる存在……。国の立法も司法も、王より特に許しを受け、王の名のもとにその権限を代理行使しているに過ぎません。王を縛り得る法律は、このパールシー王国には存在しない。王は立法権を超越した絶対的主権者なのですから。そして、その点は王位継承者であるエヴァンジェリン殿下についても同様です。

 つまり、王国の刑法で殿下を裁くことはできない。王国の刑事手続法で殿下を逮捕することはできない。殿下の悪行を止めたければ、より高次の法、すなわち銀河連邦政府の法規を直接持ち込むほかないのですよ。その意味で、あなたがこうして《中央》への請願を選んだのは、非常に妥当で適切な選択だと言えましょう」

「……」

 司教がこういう態度を示すことは、ある程度予想がついていた。停止条件など前例がない、ということをさしおいても、《中央》の行政監督官としてはすぐにでも内政調査権を発動したいだろう。たいていの行政監督官の仕事は地味で退屈なものだ――何十年にもわたって、身分を隠して、駐在する星系政府の内情をこつこつと探り続ける仕事。ほとんどの場合、そのまま何事もなく任期を終える。地方星系政府に対する内政調査権の発動など非常にまれな出来事だからだ。

 ずっと保有していながら一度も発動する機会のなかった「内政調査」という強大な権力を、思うままにふるってみたい――そう願わない行政監督官はいないはずだ。

「殿下を止めるのに法を使うつもりはありません。こういう街では、他にいくらでも手段はあるんですよ。ぼくが勝算もないのにわざわざここまで来たと思うんですか?」

 ぼくは昂然と顔を上げて、闇の中にいる相手を睨みつけた。

「アルテア独立戦争が終わってもう三年以上だが、まだ戦いの傷が完全に癒えたとは言えない……《中央》のやり方に、恨みを根深くくすぶらせている星系国家も多いはずだ。そんな状況で、《中央》が内政調査権発動に積極的であるという印象を、あまり加盟国に対して与えない方がいいんじゃないですか? アルテアが銀河連邦に反旗を翻したのは、内政調査権発動が直接のきっかけだったんですからね。もし今回パールシー王国が《中央》の介入によって解体されたら……先の戦争で中立を守った国々だって、いろいろ思うところが出てくるはずです」

「……」

 司教は何も答えなかった。ぼくは言葉を続けた。

「《中央》の内政調査権発動は、抑制的であるべきですよ。そういう節度ある姿勢を加盟国は賞賛するでしょう」

「それなら、どうしてそもそも私の元へ請願になど来られたのですか。あなたは《中央》がこの国に介入することを望んではいないのでしょう?」

 ぼくの挑発に気分を害したのだとしても、司教のおだやかな声にはまったくそのことは表れていなかった。

 ぼくは肩をすくめた。

「保険……のようなものですかね。基本的に市警だけの力で陛下暗殺を食い止めるつもりですが、万が一、ということがありますから」

「あなたが生きておられる限り、絶対に陛下をお守りできると?」

 闇の中で、司教の声は、まるで神の審判そのもののように荘厳に響き渡った。

 ぼくはうなずき、もはや断じて失敗の許されない領域に我が身を置いた。

「ええ。ぼくが生きている限り、絶対に」

 再び沈黙。

 ややあって、驚いたことに、司教は朗らかに笑い始めた。狭い告解室の中でその笑い声は爆音のように響いた。

「なるほど、なるほど。これは面白い。生命保険代わりに《中央》の内政調査権発動の請願をなさるとは、なんという大それた真似を。世間があなたについて噂していることは本当らしいですな。……よろしい、停止条件つき請願を認めましょう。そこまでおっしゃるのなら。お手並みをじっくり拝見させて頂きますぞ」

 ひとしきり笑った後で、司教は意外なほど軽やかな口調でそう言った。

「ありがとうございます、司教」

 世間がどんな噂をしているのか、ぼくは尋ねなかった。

「もしあなたがエヴァンジェリン殿下の企てを阻止し、国王陛下をお守りすることができたなら、今日の話はそのままなかったことになる。だが万が一、不幸にして、あなたの魂が神の御許に召された場合、今日にさかのぼって請願の効力が発生し、あなたの後任が請願者としての立場を継承し、そして《中央》はただちにパールシー王国への内政調査を開始する。……そういうことでよろしいかな」

「ええ。お願いします」

「あなたの請願内容は、その条件も含めて、正式に受諾され記録されました」

 司教はまたしても、まるで機械のような平坦な声を出した。

「ひとつ心配なのは……殿下とその取り巻きはこの国で強大な力を持っており、保身のためならどんなことでもしでかしかねない、という点です。我が身を守るためなら、《中央》の行政監督官であるあなたすら消そうとするかもしれない。よろしければ護衛の警官をつけたいのですが?」

「ご親切なお申し出ですが、必要ありません」

「しかし……」

「ちょっと外へ出て、私をご覧頂けますかな」

 壁の向こうで扉が開く音がした。司教が告解室を出て行ったらしい。

 ぼくも立ち上って小部屋を出た。暗さに目が慣れた後では、早朝の光に満ちた教会内部はまばゆいほどの明るさだった。数秒後、ようやく明順応を終えたぼくの目に写ったのは、そのまま公式の晩餐会にでも着て行けそうなほど仕立ての良い教服に身を包んだ初老の男の姿だった。

 見上げるほどの長身。だがその豊かな銀髪、血色の良いつるりとした四角い顔、微笑みをたたえた青い瞳などはぼくの目線よりはるかに下の位置にある。というのは、相手が自分の首から上を取り外して、ボールか何かのように小脇に抱えているためだ。血は一滴も出ていない。

 ぼくは、小脇に抱えられたままこちらを見上げて微笑んでいる顔を、まじまじとみつめた。

 仰天したという表現さえ、まだ生やさしすぎるぐらいだ。

「……どういうトリックを使ってるんですか?」

 ぼくの質問に、頭部はあいかわらず厳かな声で答えた。

「トリックではありませんよ。私はサイボーグなのです。行政監督官の任期は八十八年ですからね、生身の体ではとてももたないのですよ。あなたのご指摘通り、危険も多い立場ですし」

 ぼくは司教からしばらく視線をそらすことができなかった。サイボーグをはじめとする人体改造技術は《中央》が特に厳重に隠匿しているレムナントテクノロジーのひとつだ。機械部分と有機部分を融合させて頑健な半・生命体を生み出す技術だけでなく、遺伝子を操作して、求める特質を持った生命体を自在に生み出すことさえ可能であると言われている。

 噂には聞いていたが、実物のサイボーグにお目にかかるのは初めてのことだった。

「エヴァンジェリン殿下の意を受けた者が、私の口を封じたいと願うならば、頭部に埋め込まれたコンピュータと、ボディの中心に格納されている私の『人間』としての脳の両方を破壊せねばなりますまい。ところがこのボディは特殊加工のテンシル鋼でできておりましてね、至近距離で対戦車ミサイル砲の直撃を受けてもびくともしない代物なのです」

 司教の顔は慈愛に満ちた笑みを浮かべてぼくを見上げた。

「条件成就の暁には、あなたの請願内容はいかなる妨害があろうとも実行されるでしょう」

 見てはいけない物を見てしまったような気がした。

 ようやく頭部を元の位置にはめ込んだキリンド司教は、ぼくを教会の外まで見送ってくれた。戸外は冬の太陽に弱々しく照らし出されていた。街路樹の上に、クテシフォン王宮の巨大な屋根が、驚くほど近く見えた。

「あなたは、おそらく……神を信じておられないのでしょう、カイトウ署長?」

 不意にキリンド司教が尋ねた。

 ぼくは足を止めて相手を見やった。

 ルティマ助祭でさえ、ぼくに信仰心を植えつけようとする試みを何年も前に諦めてしまっているんだ。

「神は……あまり好きになれませんね。ようするに、神というのは、悪事を働いた連中に『(ばち)を当てる』存在でしょう? そんなものは必要ない。罪に対する処罰。それは司法制度の任務だ」

「――神とは『赦す』存在ですよ。神はすべてを見通し、すべてを裁き、すべてを赦されるのです。深き親心をもって」

 高くなり始めた日の光を浴びて、キリンド司教の髪が後光のようにやわらかく輝いた。

 さっきまで自在に頭を外してみせていた司教が神を語るのは、なんだか不自然に思えた。



 べリアル大侯爵の死は、自殺ではないかもしれない。

 《星砂》を使って操れば、遺書を書かせ、銃口をくわえさせてトリガーを引かせることも可能だろう。

 大侯爵の身辺を捜査していた特務課から報告が上がってきた。過去一年の間に新しく大侯爵邸に雇われた使用人は二名で、そのうち一名はグラッドストン男爵からの紹介で雇われることになったドワイトという男だった。だがそのドワイトというのは偽名で、本名はクルト・フリードマンであることが判明した。長年メフィレシア公爵邸に仕えているカルロス・フリードマンという執事の実の弟に当たる。

 グラッドストン男爵は反王党派の一員なので、王党派のトップであるメフィレシア公爵とそれほど深い関係はなかったはずだ。つまりこの二人が兄弟なのは偶然だということになる。しかし、そんな偶然などあるだろうか。しかもドワイトことクルト・フリードマンは大侯爵の身の回りの世話を仰せつかっており、大侯爵が絶命した夜も屋敷に泊まりで勤務していたのだ。

 さらに奇妙な事実がある。それは、フリードマン兄弟は、先日パウエル・ディダーロと共に逮捕されたロス・キャンベルの従兄弟に当たるということだ。キャンベルはメトロポリタン劇場の住み込み清掃員であり、《パールシー・タイムズ》紙のクリス・ポーキー記者襲撃事件や、シュナイダー盗賊団構成員の連続殺害事件との関わりが疑われる人物である。

 さまざまな事柄が不気味な様相を呈しながら一つにつながり始めた。



「例の被告人が、取引を申し出てます」

 陰鬱を絵に描いたようなアジクラー・レックスがぼそぼそと低い声でつぶやいた。

「やっこさん、ただの執事にしては、今まで驚くほどふてぶてしかったんですがね。公判も終盤に差しかかり、だれがどう見ても有罪は間違いない状況なので、さすがに焦りが出てきたようです」

 うつろな目、土気色の顔、まばらな髪の毛。それらから受けるレックスの印象は良くて「病人」、悪くて「死体」だが、この男は切れ味の良い弁論で鳴らす市内屈指の敏腕検事であり、現在は亡きグラッドストン男爵の執事だったロシュフォルの重罪院裁判を担当している。禁制品である《星砂》を不正に入手し、ハニールウ・トラビスに投与して精神疾患に陥れた容疑についての裁判だ。

「郷里で孫が生まれたそうです。一目会いたいので、なんとか終身刑は免れたいと」

「……」

 夜の署長室。ぼくはしばらく無言で電話の相手を見返した。たぶんひどい渋面になっているだろうという自覚はある。

「公判中の司法取引、か……」

「はい。あなたが司法取引など大嫌いなのはよく知ってますが。……刑を軽くしてもらえるなら、主人(あるじ)に薬物の入手を依頼した人物について証言する、物証も出せる、と言い出しまして。その内容が内容なので……一度あなたにも話を聞いていただいた方がよいと判断しました」

 レックスは血の気のない唇を歪め、微妙な表情を作った。

「なんと言っても、この一件はあなたの案件ですからね。普通でないのは初めから覚悟しています。場合によっちゃ求刑変更も検討しますよ」

 ぼくはさっそくレックスと日時を取り決め、ロシュフォルが収監されている特殊監獄で落ち合うことにした。

 特殊監獄は重罪院に移管された被告人ばかりを勾留している監獄で、その性質上当然のことながら、たちの悪い収監者が多いため、警備は厳重をきわめている。重罪院は市南部のオーベール湖に浮かぶ小島にある。小島は周囲を完全に断崖絶壁で囲まれ、空路でなければ接近できない。まさに天然の要害だ。

 小島の面積の九割近くを占めている旧ザートヴォル要塞は歴史的建造物として有名だ。一般人の小島への上陸は許可されていないので、熱心な観光客はボートでただ島の周りを巡り、船上から旧要塞の写真を撮影して悦に入っている。

 五世紀ほど前に建てられたこの旧要塞がほとんど昔のままの状態で特殊監獄として利用されていることは、一般には知られていない。

 レックス検事とぼくは特殊監獄の通路を進んだ。中世の石造りの建物は窓がなく、採光も通風も最悪だった。経費削減のためか、天井のLEは不適当なほど大きく間隔を空けて設置されており、通路は歩行に困難を感じるほど薄暗かった。空気はつめたく、澱んでいた。この劣悪な環境に比べれば、近代的な刑務所や留置場はまるで天国だ。重罪院での裁判が長引くと被告が必ず体をこわすと言われているのも、うなずける。

 看守の監視の下、面談室でぼくらを待っていたロシュフォルは、顔色が悪かった。この特別監獄での収監生活がこたえているようだ。同情してやるつもりはないが。

 ぼくらの顔を見たとたんロシュフォルの口から飛び出してきたのは、主人であったグラッドストン男爵を裏切る形になることへの言い訳だった。執事として主人の秘密は死ぬまで守り抜く所存であったが、肉親への思いは断ち切れない。外部の人間との面会が一切許されないケイヒム終身刑務所へ入れられるのだけはどうしても避けたい……。身勝手な口上がよどみなく紡ぎ出される。

「無駄なおしゃべりはやめて本題だけにしろ」

 レックスが法廷での顔を取り戻し、鞭のように鋭い口調でぴしゃりとロシュフォルを遮った。

「こちらにおいでのカイトウ署長は、あまり気が長い方ではない」

と、ぼくを指さす。

「――失敬なやつだな。ぼくも最近は、だいぶ丸くなったんだぜ」

「さっさと話せ、ロシュフォル。この前言っていたことを全部。メフィレシア公爵が屋敷に訪ねてきたところからだ」

 メフィレシア公爵。

 レックスのその言葉を耳にしても、不思議なほど驚きを感じなかった。複雑にもつれ絡まった糸が収束していく先は、あらかじめわかっていたかのような既視感を覚えさせた。

 市街地から遠く離れた湖の上、分厚い石壁に囲まれた狭い部屋の中で、執事ロシュフォルはしゃべり始めた。自己弁護をしていたときと同じぐらい饒舌にすべてを語った。

 ――亡きグラッドストン男爵はかねてからメフィレシア公爵に恩義を感じていた。メフィレシア公爵は田舎の三流貴族にすぎない男爵に目をかけ、農業政策委員会の副委員長にまで取り立ててくれた恩人だったのだ。表立っての親交はなかったが、二人はよく親書を交わしており、男爵はメフィレシア公爵からクテシフォン社交界での立居振舞いについてさまざまな助言を受けていたという。

 半年前のある夜、メフィレシア公爵が人目を忍ぶように屋敷を訪ねてきた。二人が密談を交わしている書斎の隅で、ロシュフォルは有能な執事らしく気配を消して待機しながら、有能な執事らしくすべての会話に聞き耳を立てていた。

「きみは優秀な人だ、グラッドストン君……きみにしか頼めないのですよ、こんな事は」

 そう前置きしてから、メフィレシア公爵は依頼の内容を囁いた。《星砂》と呼ばれる禁制物質をなんとかして入手してほしい。そしてそれを中肉中背の二十代前半の女に投与して、どんな効果が表れたかを報告してほしい。投与する《星砂》の量を〇・〇一オンス単位で変化させた詳細なデータが必要だ。

「いったいどういう物なのですか、その《星砂》というのは?」

 グラッドストン男爵の問いに対し、メフィレシア公爵はあいまいな笑みを浮かべて、こう答えた。

「それは……人の心を無くす薬です。それを飲むと、心の動きを失ってしまうのですよ。自ら進んで心を無くしたがる若い女もいないでしょうし、女の身内もそんな状態を喜ばないでしょうから……皆まで私が説明する必要もありませんね? ターゲットの選択や《星砂》投与の方法はきみにお任せします、グラッドストン君。世間の不都合な注目を集めないよう、慎重に振る舞ってくださいよ」

 グラッドストン男爵はメフィレシア公爵の意味することを正しく理解し、実行した。西区の汚らわしい界隈にまで足を運んで《星砂》を入手し、屋敷の使用人の中から、身寄りのない中肉中背の二十代の女を選び出した。それらの女を一人ずつ屋敷の地下に監禁し、メフィレシア公爵の指示に従って、《星砂》を投与した。完全に心を失い廃人になってしまった女はもはや実験に使えないので、市内各所の娼館に捨ててきた。実験中に死んだ女もいた。ロシュフォルは忠誠心から、主人のため次々と汚い仕事をこなした。死体の処分も含めて。

 ロシュフォルは実験台にされた七人の女の名前を挙げた。その中にはもちろんハニールウ・トラビスも含まれている。

 彼女たちが失踪した理由を、「里帰りした」「男と逃げた」「事故で入院し、そのまま退職した」などと適当にでっち上げて屋敷の他の使用人たちに告げるのもロシュフォルの役目だった。

 これらの犯罪行為は、すべてメフィレシア公爵の具体的な指示によって行われたものだということを、ロシュフォルは強調した。

「男爵様はとても物持ちの良い方でした。大切なお手紙などはけっして捨てずに保存されていたのです。メフィレシア様からの指示が書かれたお手紙も、男爵様がメフィレシア様に実験結果を報告するために送ったお手紙の写しも、すべてもれなく保管されております。警察がまだ発見できていない屋敷の中の隠し場所に。その隠し場所をお教えしましょう。それはメフィレシア様の教唆を十分立証できる証拠になるはずです」

 長い話が終わると、面談室には石のように重い沈黙が落ちた。

 ロシュフォルは期待に満ちた目でレックスとぼくを見比べた。

「さあ、私はすべてお話ししました。約束ですよ。取引していただけますね? ……私が書状の隠し場所をお教えし、今お話しした内容を法廷で証言するのと引き換えに、私の刑を軽くしていただく。いかがです?」

「いいだろう。禁制物質所持罪及び行使罪、ハニールウ・トラビスに対する傷害罪の求刑を終身刑から懲役七年に減刑する。破格の処置だ」

 そう言ってから、ぼくは隣に座るレックスに視線を投げ「構わないだろう?」と確認した。検事は厳粛にうなずき、「あなたがそうおっしゃるなら」と言葉少なに応じた。

 たちまち喜色に染まる執事の顔を見ながら、ぼくは「ただし」と言葉の刃を突き立てた。

「あんたの罪状に、さっき言った七人の女性に対する罪が追加される。傷害罪四件、傷害致死罪二件、死体遺棄罪二件だ。合計最低法定刑が四十年を超えるので、刑事手続法第二十九条の規定により、求刑は六十年を下回ることができない。……あんたの年じゃ出所まで生きながらえるのは無理だな、残念ながら」

「それじゃ……約束が違う! 私の罪状を増やすのは止めてください。刑を軽くしてくれるというから協力するんですよ? 六十年なんて……! そんなの無理だ。減刑してくれないんなら、私は証言しません。絶対に。するもんですか」

 興奮のあまり真っ赤になってまくしたてるロシュフォルは、ぼくの顔を見たとたん、急に黙りこんだ。――ぼくはいったいどんな表情をしているのだろう。

「必要ない。……これから、ここにいるレックス検事と看守が部屋を退出する。逆上しているあんたは逃亡を図るためにぼくに襲いかかり、ぼくに正当防衛で射殺される。この施設は古く、監視カメラといった近代的な設備はついていないので、あんたが本当にぼくに襲いかかったかどうかはだれにも証明できない。

 刑事手続法第千六百七十五条第三項但書の規定により、刑事被告人、証人または鑑定人のいずれかが死亡直前の一時間内に行った発言は法廷での宣誓下の証言と同等とみなされる。“死は善意を害さずモース・ノ・オープス・ボナム”の法理だ。その証言擬制が働くためには、公務員三名の立会いの下で行われた発言であることが条件だが、幸いその要件も満たしている。……ひらたく言うと、あんたが今死ねば、あんたがさっき話した内容はすべて法廷で証言したのと同じ効果を持つということだ。だから、もうあんたに協力してもらう必要はない。証言はすでに終わっている。心おきなく死んでくれ」

 ロシュフォルが絶句した。その顔から見る見るうちに血の気がひいていく。

「あー……そんな手がありましたか。すごいな」

 ぼくの隣でレックスが心底感心したようにつぶやいた。

「ロシュフォルに話を始めさせる前に、あなたが看守を部屋の外へ出さなかったから、おかしいとは思ってたんだ」

 ぼくは銃を抜いた。銃口を執事に向けたりせず、セイフティもかけたままだったが、演出上の効果のためだ。

「懲役六十年で満足したらどうだ、ロシュフォル? 六十年といってもいちおう有期刑だからケイヒム終身刑務所には送られずに済む。ケイヒム以外の一般の刑務所なら外部からの面会も許可されて、孫にも会えるだろう? このままここで死んだら孫には会えずじまいだ。よく考えろ」

 ――ロシュフォルが半泣きになりながら協力を約束し、グラッドストン男爵の書状の隠し場所を白状するまで、それほど時間はかからなかった。

 ぼくはレックスと特殊監獄の屋上で迎えのエアクラフトの到着を待っていた。光に満ちた空の下、見渡す限りオーベール湖の凪いだ水面が広がっていた。いくつかの観光ボートが碧い湖面を滑っていくのが見えた。のどかな風景だった。

「けっきょく被告人を脅迫して証拠のありかを聞き出したわけですね。まあ、あなたのことだから、司法取引には絶対に応じないだろうとは思ってましたが」

 不意に、レックスの陰気な声が背後から響いた。ぼくは輝く水面を眺めたまま、振り返らずに答えた。

「当然だ。ありえないだろう、犯罪者の刑を軽くしてやるなんて」

「あなたの動機は理解しているつもりですが。検事の前で堂々と、被告人を射殺すると脅すのは止めていただきたかった。私としてはあなたを脅迫罪で告発しないわけにはいきません、カイトウ署長」

「きみは、やらないさ、レックス検事。『できない』というのが正しい」

 ぼくは振り返り、墓からよみがえってきたばかりのゾンビみたいな外観の検事を見やった。

「ぼくのさっきの行動は正当な捜査活動の一環であり、きみは行政職務分限法第二百三条でいう『捜査補助媒体』に該当する。つまり、きみがあの面談室で目撃した事柄は証拠能力を持たず……」

「ああ、もう、結構です。わかりましたよ。なんて人だ。……さっき『丸くなった』とかなんとかおっしゃってましたね。私が今まで聞いた中で最悪の冗談ですよ、まったく」

 レックスがやけを起こしたように足元の小石を蹴った。

 その動作につられて、ぼくは石造りの床を見下ろした。隙間なく組み上げられた巨石が、風雨で痛めつけられた凸凹の表面をさらしている。よく見ると風化が相当進んでおり、補修をしない限り崩壊も時間の問題だろう。この場所をエアクラフトの発着場として利用しているので、状態の悪化に拍車がかかっているというわけだ。

 ――表面だけは元の形を保っているが、だれも知らぬ間に風化が進み、崩壊寸前まで来ている物。それはおそらく、この特殊監獄の建物だけではない。

「で……どうされるつもりです?」

 レックスの質問がぼくのささやかな感傷を一瞬で吹き飛ばした。

「メフィレシア公爵ですよ。逮捕しますか?」

 ぼくは答える前に少し時間をとった。

 ――反王党派のグラッドストン男爵が、王党派の首魁であるメフィレシア公爵と親しくしていた。それは、これまでのすべての推測を覆してしまいかねない重要な情報だった。さまざまな事実が異なった意味合いを持ち始める。

 パウエル・ディダーロを操っていたのはメフィレシア公爵だと、名誉市長が言っていた。その言葉が正しいとすれば、《パールシー・タイムズ》紙のポーキー記者を襲撃し、グラッドストン男爵を護送車ごと爆殺し、シュナイダー盗賊団の盗賊を三人殺害したのも公爵の差し金だということになる。

 そしてシュナイダー盗賊団のアジトにあったドーンストーンのペンダントという問題もある。王女が、陛下を毒殺するためのアズフォルデを運搬するのに使っていたペンダントだ。

 メフィレシア公爵はなにか巨大な陰謀を企んでいる。ハニールウを巻き込んだ《星砂》の事件は、氷山の一角にすぎないのだ。

「公爵は必ず逮捕するさ。近いうちに。だが……罪状は禁制物質所持罪や傷害教唆罪ぐらいじゃ済まないだろう」

 明るく輝く湖面を眺めながら、ぼくはつぶやいた。



 それはぼくが市長官邸での会議を終えて署へ戻ろうとしている途中のことだった。

 月に一度、市の行政官庁の責任者を集めて開かれる定例の会議だ。中身は薄く、その割に必ず終了予定時刻をオーバーするんだ。こんな形式的な会合を盗聴しようなんていう物好きはいないだろうから、わざわざ集まらなくてもオンライン会議で済ませればいいと思うんだが。

 市長官邸を出る頃には日は完全に暮れていた。

 公用車のハンドルを握っているのは特務課のヘンリー・コモナス巡査部長だった。バーンズが――ぼくの動向に目を光らせておくため――どうしても特務課の捜査員をぼくの運転手として付けたいと言い張ったためだ。コモナスは、細長い顔の真ん中に両目が集まっているように見える、神経質そうな面立ちの四十近い男だ。なぜこの任務に抜擢されたのかはよくわからないが、「運転技術が優れているから」という理由でないことだけはたしかだ。やつは非常にぎこちない動きで車を発進させた。

 冬でもたっぷりとした葉を生い茂らせている街路樹が車道の上まで枝を伸ばしているため、街路はひどく暗い。その通りをしばらく走ったかと思うと、不意に車はぐらりと揺れ、急停止した。

 一瞬、コモナスの操作ミスだろうと思った。

 「側部安定板(スタビライザ)の上に異物を検知しました」という走行管理システムの警告メッセージを耳にするまでは。

 人身事故防止のため、車の側部安定板の上に一定重量以上の異物があると車は動けないシステムになっている。

「うわっ、だれかが安定板に飛び乗ってきましたよっ」

 コモナスがあわてたような声を上げる。その言葉より早く、ぼくは右側の窓の外に人影を認めていた。安定板の上に立って車体に外からしがみついている。マスコミだな。安定板に飛び乗って人の車を止めるのは、レポーターなどがよく使う手なのだ。一般道路の車の制限速度は時速一マイルだから、たいていの場合は飛び乗っても怪我などせずに済む。

 もちろん「たいてい」であって例外はある。ぼくはマスコミ関係者と話したいような気分じゃなかった。ドアロックを解除し、右側のドアを中から思いきり蹴り開けた。

 ドアが人体にぶつかる鈍い音と手応えがあった。車体にしがみついていた男は転げ落ちた。

 開いたドアの隙間から影が入り込んできたように見えた。黒ずくめの衣服を着た大柄な男が車内に上体を突っ込んでくるところだった。レポーターだと思っていたのは見当違いだったようだ。というのは、相手は革手袋をはめた手にぴんと張ったワイヤーロープを握っており、あきらかにそれで人の首を絞め上げようとする体勢だったからだ。大男が完全に車に乗り込む前に、ぼくはそのみぞおちを蹴りつけた。もう一発、今度は顎に蹴りを入れてやると、大男はのけぞって車外へ倒れた。

 何か、非常に小さな物が宙を飛んで車内に入ってきた。ぼくの眼前を通り過ぎ、運転席に落ちた。

 コモナスが悲鳴をあげて咳こみ始める。

「ひゃあっ、助けて下さいっ署長! ガス、毒ガスです!」

「泣き声をあげるな。警官のくせに……」

 ぼくは舌打ちして身を乗り出す。シューッという気体の噴出音、それに急速に白く濁りつつある視界。その発生源は、運転席のコモナスの足元に転がっている銀色の球体だった。球体の表面にいくつか穴が開いていて、そこから猛然とガスが噴き出しているのが見えた。後部座席にいるぼくの位置からは、運転席の背もたれが邪魔をして、その球体に手を伸ばすことはできない。

 球体の位置を指示してやると、コモナスはひいひい言いながらも身をかがめ、それを取り上げて投げ捨てた。ガス弾は開けっぱなしの後部座席のドアを通り抜けて車外へ出て行った。

 ドアを閉じ、コモナスは猛然と車を急上昇させた。やつがこんなに迅速な動きで車を発進させるのを初めて見た。街路樹の枝をこすりながら突き抜け、木々の上へ出ると、夜を燃やし尽くすように輝いて広がる灯火の海と、頭上を流れる第八ミドルウェイの車の列、それよりはるか上空で、うねりながら街を突き抜ける内周(インナー)ハイウェイなどが、一気に視界に飛び込んできた。

「な、何者でしょう、今の連中……?」

 脱力した声でコモナスがつぶやいた。どうにか襲撃者を振り切って安心したらしい。空調が働いてガスを車外に放出しているので、空気の白濁は見る見るうちに薄らいできた。

 ぼくは肩をすくめた。狙われる当てが多すぎて、推測するのも面倒だったのだ。

「それをたしかめるには、捕えて尋問するのが早道だな。さっきの場所に車を戻せ」

「えーっ、危険ですよ! 相手は何人いるかわからないんですよ? まずは署に連絡して応援を頼んだ方が……!」

 そのとき、ぼくの後頭部に、非常に硬い物体が押し当てられた。それは銃口の感触に似ていた。

「動くな」

 大きくはないが、やけにはっきりと聞き取れる低声。

 コモナスが不意に口をつぐんだ。後方視モニターで後部座席の様子を確認し、うわあっ、とすっとんきょうな悲鳴をあげた。

「おい、運転手。急いで北区のハイデバーグ街へ向かえ。ボスを首なし死体にしたくなけりゃ、ね」

 くつろいだ口調でコモナスに命令するその声は、まぎれもなく、クテシフォン防衛軍情報部のセリム・トーゲイ中佐のものだった。同時に、背後から黒い軍服に包まれた長い腕が伸びてきて、ぼくの両脇下のホルスターから銃を奪い取った。

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