第14章(3) アンドレア・カイトウ署長
クテシフォン宮殿は中央棟を中心に巨大な左右対称形をなしている。だが現在「西棟」と「西の塔」と呼ばれている部分だけがクレハンス十二世時代に建てられた元の宮殿で、「中央棟」と「東棟」、「東の塔」は後の時代にベルジブ十一世が増築したものだ。ぼくが今足を踏み込んだ西棟は古い時代の建物で、これまで見慣れた中央棟のくどいほどの豪華さに比べると、やや地味な印象だった。高価な絨毯の敷きつめられたまっすぐな廊下はシャンデリアで照らされているが、中央棟と比べると小ぶりなシャンデリアばかりなので廊下全体がなんとなく薄暗く見える。壁に貼られた絹も落ち着いた臙脂色で、金の刺繍などはなされていない。代わりに歴代の王族の肖像画がずらりと壁に並んでこちらを見下ろしている。
廊下は無人だった。
長い廊下を歩いていくにつれて、あちこちの扉から音もなく姿を現わした侍女や従僕たちと何度かすれ違った。だれもぼくには注意を払わなかった。
しかし、ぼくは緊張をゆるめなかった。
王家の人間には基本的にプライバシーはない。彼らは正規の謁見の間だけでなく、食堂、書斎、居間、寝室でさえも訪問者を迎える――国王の起床や就寝の儀式に連なることが大変な名誉とされ、連日大勢の貴族が寝室に列をなした時代もあったのだ。だから王宮内には常に外部の人間がうろうろしている。正門および正面玄関でのチェックがしっかりしているという安心感から、王宮内をうろつく人間をだれも警戒しない。
だが現国王クレハンス十三世陛下は、高齢と病弱を理由に、数年前から謁見を減らすようになった。かつて正面階段を昇ってすぐの所にあった寝室を、奥まった西の塔へ移した。西の塔は完全な陛下のプライベートエリアであり、よほどの親しい間柄でなければ入ることを許されない。それに伴い西棟への訪問者の立ち入りも、好ましからざることとみなされるようになったと聞いている。
つまり、こうしてこの西棟を歩いていると、だれかに不審の目を向けられる可能性があるわけだ。従僕か――あるいは、衛兵から。
ぼくは西棟へ入ると同時に、街のティーンエージャーが好んで使う整髪剤で髪の色を一瞬でアッシュブロンドに染め、髪型を突飛なものに変えている。顔をじっくり眺められない限り正体を見破られることはないだろう。
長い廊下を二回ほど曲がったつき当たりに、西の塔へと通じる扉があった。古いが巨大で豪華絢爛な金色の扉だ。黄金の天使がざっと数えても十人以上、扉の表面で思い思いのポーズをとっている。閉ざされた扉の前には衛兵が二人立って警備にあたっていた。衛兵は真紅の房飾りのついた長槍を携えており、見たところ銃は携帯していなかった。
事前の情報通りだ――ぼくは数か月前、いつかなにかに役立つだろうと思って、宮廷内部の警備情報を入手するのに成功していたのだ――塔を守る衛兵は銃を持たされていない。塔の内部には隠しカメラも警報装置も、もちろん遠隔攻撃システムも設置されていない。由緒ある西の塔に無粋な近代兵器を持ち込むことを宮内庁が許そうとしないためだ。
昔ながらの長槍だけで国王陛下の身辺を守ろうとは、ずいぶん無謀なやり方じゃないか?
ぼくは完全に平静な態度を崩さずに衛兵たちに近づいた。
衛兵たちはぼくの姿を認めて、長槍を交差させて扉への道を遮ったが、まだそれほど警戒している様子ではなかった。
「申し訳ありませんが、ここから先は陛下のご寝所。陛下はお休みになっておられますので、お引き取り下さい」
ぼくは頭の軽い貴族子弟に似合いのはすっぱな動作で肩をすくめてやった。
「通してくれよ。ぼくはエヴァンジェリン様に頼まれたんだ、陛下のご容体が気になるから様子を見て来てくれって。……陛下を起こしたりはしないさ」
「エヴァンジェリン様でしたら、つい先ほどいらっしゃったばかりですよ。いつも通り陛下におやすみのご挨拶をしに。それなのに、またですか?」
「そんなこと知るもんか。姫様がそうおっしゃったんだから」
衛兵たちは互いに顔を見合わせた。二人とも、まだ若い。世間の辛酸など嘗めたことのなさそうな棘のない顔立ちをしていた。おそらく田舎貴族の嫡男といったところだろう。
扉の傍らにある優美なデザインの黒大理石の小卓の上で、インターフォンが金属質の輝きを放っている。衛兵はそのインターフォンに手を伸ばした。
「前例のないことですので、姫様の侍女に確認をとります。少々お待ち下さい」
馬鹿げたことを、というような顔をしてぼくは溜め息を吐く。完全に油断している衛兵たちはぼくがジャケットのポケットに手を突っ込んでも視線を向けもしなかった。
入口のセキュリティチェックをクリアした香水のスプレーボトル風の小さな瓶には、人体には無害だが即効性のある催眠ガスが封入されている。
衛兵たちの鼻先で軽くガスを噴射すると、二人はあっけないくらい簡単に、へなへなと床にくずおれた。
ぼくは重い金色の扉を押し開けて、西の塔へ足を踏み入れた。
塔の内部は青と白を基調とした上品な内装だった。鮮やかな藍色の絨毯の上に、小卓や円卓やソファがゆったりと配置されている。突き当たりに、金張りの格子扉に覆われて、エレベータがあった――あらゆる科学技術を毛嫌いする宮内庁といえども、さすがにここにエレベータをつけないわけにはいかなかったんだろう。高齢の陛下に塔の最上階まで階段で昇れというわけにはいかない。
ぼくが乗り込むと、エレベータケージはなめらかに上昇を始めた。
見上げるとケージの天井にまで宗教画が描かれ、シャンデリアが吊り下がっていた。
現代の高速エレベータに慣れた者にとっては耐えられないほどの時間が過ぎた後で、ようやくケージの扉が開いた。そこに広がっているのは最上階、陛下の寝室の控えの間とおぼしき部屋だった。左側の壁には、黒大理石の暖炉と、その上に金縁の巨大な鏡。右側の壁には、大昔の戦場の様子を描いたタペストリー。敷き詰められた絨毯も、その上に配された装飾過剰な家具も、歴史的価値だけでなく芸術的価値も十分に持ち合わせているものばかりだ。そして正面には、階下と同じく二人の衛兵に守られた金色の扉があった。
衛兵たちは誰何する前に身構えた。
悪くない反応だ。だが、ぼくの敵じゃない。
「た……たすけてくれっ! 下に、銃を持った賊が……!」
弱虫らしく声を震わせてやったら、衛兵たちは簡単にだまされた。警戒の視線をエレベータに投げかける。本当の賊は、その一瞬の隙をついて距離を詰めたぼくだというのに。
ガスで衛兵たちを眠らせてから、ぼくは扉に手をかけ、少しだけためらった。物心つく前から刷り込まれた「王家の神聖不可侵」などという埒もない迷信が急に効果を発揮しはじめ、自分の行為がとんでもない冒涜のように思えてきたのだ。しかし引き返すには遅すぎるし、引き返すわけにはいかない。思いきって扉を押し開け、国王陛下クレハンス十三世の寝室に踏み込んだ。
中は薄暗かった――しかし、これまで目にしてきた豪華な内装の数々がいっきにみすぼらしく見えてしまうぐらい、贅の限りを尽くした部屋であることは容易に感知できた。使われている金の量が尋常じゃない。寝室のいちばん奥にある寝台に敷かれた羽布団の表面は、金の刺繍で地が見えないほどだ。
入口から寝台に到達するまでの間に金色の欄干が設置されている。神聖なる陛下のご寝所を、あらゆる俗なる物から隔てるための象徴的障壁だ。そのすぐ向こう側で、欄干を守るかのように立っている体格のよい従僕が、ぼくの姿を見て顔をこわばらせた。
「く……曲者っ!」
ずいぶん大時代な言い草だな。この西の塔では、人間の頭の中身まで前世紀のままなのか?
ぼくはガスで従僕を眠らせると、欄干をまたぎ越え、陛下の寝台に歩み寄った。普通人の想像を絶する贅沢な寝台で、横たわって目を閉じているクレハンス十三世は、近くで見ると拍子抜けするほど小さくみすぼらしい老人にすぎなかった。
「陛下。……おやすみのところを申し訳ありませんが」
ぼくは国王の細い肩に手をかけて軽く揺さぶった。陛下は目を開き、ぎくりとしたように身を震わせた。
「な、な、何じゃ。そなたは……!」
「ぼくはクテシフォン市警凱旋門本署のカイトウです。宮内庁を介さずに陛下にお目にかかりたかったので、このような変則的な手段を使ったことをお許し下さい」
害意がないことを示すためにぼくは微笑んだ。しかし、この状況では効果は薄いようだった。クレハンス十三世陛下は大きく口を開いて恐怖にあえいでいる。このままではショックで心臓発作を起こすかもしれない。
「陛下の御命が狙われていると信じるに足る証拠があります。宮内庁も完全には信用できません。……陛下。どうか内密に、ぼくの捜査にご協力願えないでしょうか?」
身分が高かろうと低かろうと、病気の老人をなだめる方法にさほど変わりはない――ぼくが背中をさすりながら、できるだけ優しい声で語り続けると、国王陛下の気分も落ち着いてきたようだった。陛下はぼくに協力することに同意した。病のため、あるいは高齢のため意識レベルがかなり低下している様子だったので、どこまでこちらの話を理解できているのかはわからないが。
ぼくは陛下の了承を得て、その腕から採血した。
それから寝台横の小卓から、典侍医が用意した薬と、侍女が運んできた水差しの水、グラスの底に溜まっている水の残りなどをサンプルとして持ち帰った。
寝室の控えの間の衛兵たちは、ぼくが出て行くときにもまだ眠りこけたままだった。
のろいエレベータで一階まで降りる。西の塔から宮殿の西棟に戻るため大きな金色の扉を押し開けようとすると、ぼくの手が触れる前に扉が向こうから開かれた。
扉の向こうには二十人近くの衛兵がいた。
今度の衛兵たちは長槍ではなくパラライザーで武装している。周囲に山ほどあふれている高価な家具や美術品を傷つけずに敵を戦闘不能に陥れるには効果的な武器だ。
ぼくが先ほどノックアウトした衛兵の一人が、仲間の肩を借りながらよろよろと立ち上がるところだった。催眠ガスの効きが甘かったようだ。
その男はぼくをまっすぐ指さして叫んだ。
「こ……こいつです! こいつが侵入者です!」
とたんに二十のパラライザーの銃口が、いっせいにぼくに向けられた。
いくら何でも、これだけの数の銃と素手で渡り合うのは分が悪すぎる――だがぼくはあわてなかった。この程度の状況は予測済みだったし、初対面の相手にはたいてい効く戦法を持っていたからだ。つまり、無害な子供のふりをすることである。
塔から西棟側へ引きずり出されると、ぼくはわざと怯えたような表情を作って、「撃たないでくれっ! これは誤解なんだ。ちゃんと話を聞いてくれればわかるから……!」と叫んだ。緊張に顔を引きつらせていた衛兵たちが、少し肩の力を抜いた様子が伝わってきた。御しやすい相手だと思ったのだろう。もっともぼくがさっき眠らせた衛兵だけは、油断ならぬというように唇を引きしめていたが。
「何が狙いだったんだ? 西の塔から美術品でも盗もうとしたのか」
ぼくを取り囲んだ衛兵の一人があざけるように言った。ぼくは激しく首を横に振った。
「ち、違うっ! ぼくは泥棒なんかじゃない!」
「ああ、わかったわかった。とりあえず後で話だけは聞いてやるよ。それにしても馬鹿なことをしたものだな、お坊っちゃん。西の塔への不法侵入は重罪だぞ」
「もしかして……ぼくは死刑にされるのか?」
ぼくはうなだれ、泣き出す風を装って片手で両目を覆った。それからもう片手でタイピン型閃光弾をひねってスイッチを入れ、床に叩きつけると同時に自分も床に身を投げ出した。
いっせいに起こった衛兵たちの叫び声からすると――閃光弾から発せられた強烈な光が彼らの目をくらませ、視力を奪ったことは間違いないようだ。閃光弾の影響を受けないように両目を押さえていたぼくには見てとれなかったが。パラライザーの発射音と悲鳴、「撃つんじゃない! 同士討ちになるぞ!」という叫びが頭上で交差した。閃光弾の発光は三秒で消える。きっかり三秒後、目を開いたぼくはすばやく床を這って足元から衛兵の囲みを抜け、体を起こすと、全速力で中央棟の方角へ向かって走り出した。
一時的な盲目に陥った衛兵たちの中に、ぼくの後を追って来られる者はいない。
もくろみ通り完璧に逃げ切った、はずだった。
「小僧! 止まれ! 止まらぬと、撃つぞ!!」
不意に背後から大音声が響き、それと同時にぼくのすぐ傍らで、巨大な花瓶が銃撃に砕かれて水と花をまき散らした。
ぼくは足を止めざるを得なかった。慎重に、後ろを振り返った。
衛兵の制服に身を包んだ、巨漢、と表現するしかないような男がかなり離れた所から駆けてくるところだった。さっき遭遇した衛兵たちの中にこの男はいなかった。どこから湧いて出たんだろう。人間離れした盛り上がりを見せている肩や胸の筋肉、それにこの距離からでも見てとれる色とりどりの記章が、この大男が特別な存在であることを示していた。宮廷警備隊の大半を占めている生っちょろい貴族の子弟連中とは違う。本物の戦闘要員だ。
大男が構えているのはパラライザーではなく大出力レーザーガン。こんな、どちらを向いても高価な贅沢品であふれ返っているような場所で発砲できる代物ではない。
「あんたが今壊した花瓶にどれぐらいの値打ちがあるのかわかっているのか? クレハンス十二世時代のハドリー陶器といえば、大変な貴重品だ。あんたの五年分の給料をはたいてもたぶん弁償できないぞ」
駆けてくる大男に向かって、ぼくは指摘せずにはいられなかった。
「一発狙いを外すごとに、あんたの五年分、十年分の給料が吹き飛ぶぜ。それでもまだ撃つつもりか? 少しは頭を使ったらどうだ」
相手は白い歯をむき出した。
「構わぬ。私の給料など。……王家の平安を乱す者を捕えるためなら、いかなる犠牲も惜しまぬわ!」
そう叫んで再び発砲してきた。ぼくのすぐ足元で、高価な絨毯に黒焦げの穴が開いた。
ぼくはその場に静止した。やつが銃を擬して近づいてくるのを、立ち尽くしたまま眺めているしかなかった。
近くで見ると、つくづく巨大な男だ――背丈はぼくより頭二つ分ぐらい高い。短く刈り込んだ髪、熱烈な使命感に燃える小さな瞳。顎はいかにも打たれ強そうにがっしりしている。
体格的に優位に立っていることから、大男の心に油断が生まれたのかもしれない。やつはレーザーガンをホルスターにしまい、ぼくの腕をつかもうと手を伸ばしてきた。
ぼくは相手の腕の内側、ちょうど神経の走っている辺りを狙って鋭くパンチを入れ、その手を弾き飛ばした。ほぼ同時に相手の懐に踏み込んでホルスターから銃を引き抜いた。大男の顎の下に銃口をぴたりと押しつける。
驚いたことに、相手は少しもひるまなかった。そのまま大きな両掌でつかみかかってきた。
ぼくは素早く数歩下がって、その手をかわした。
どういうことだ、この無頓着さは? 「王家の平安を乱す者をとらえるためなら命も惜しくない」なんて言い出すんじゃないだろうな。
ぼくは男の手の届かない距離から、その眉間に銃の狙いをつけた。
「動くな。無益な殺生はしたくないが……必要とあれば撃つ」
巨漢のごつい顔に、いやな感じの笑みが浮かんだ。
「愚か者め。我々がむざむざ敵に武器を渡してやるとでも思っているのか。衛兵の所持している銃のトリガーにはセンサーロックがついていて、正当な所持者の生体パターンを感知しなければ発砲できない仕組みになっておるのだ」
ぼくは念のため、巨漢の頭からほんの少しだけ銃口をそらして、トリガーを引いてみた。かちっという乾いた音がするだけで射線は出ない。どうやら相手の言葉はハッタリではないらしい。
再度つかみかかってくる巨漢の顔面をめがけて、レーザーガンを投げつけた。
至近距離だったにもかかわらず、相手は意外なほどの敏捷性を発揮してそれをかわした。
その瞬間、ほんのわずかだったが、隙が生まれた。ぼくは一歩踏み出し、大男の膝のすぐ下を蹴りつけた。腓骨のその辺りに一本の溝があり、そこに的確な打撃を加えれば下肢を麻痺させることができるのだ――狙いは外れなかった。大男は丸太のように倒れた。ぼくは倒れた大男の脇腹めがけて容赦なく蹴りを入れた。
相手は呻いたが――ふつうなら体を二つに折って苦悶するぐらいのダメージを与えたはずなのに――ゆらり、という感じで早くも立ち上がってきた。紫色に染まったその顔に浮かんでいるのは苦痛の色ではなく激しい憤怒だ。燃えるような瞳でぼくを睨みつける。
「貴様……よくもやりおったな。小癪な。最早いっさい容赦はせぬ!」
そして激しく攻撃してきた。
巨大な体躯からは想像もつかないほど敏捷な動き。予想を越える速さでパンチが飛んできて、回避が間に合わない。
ぼくは相手の拳を腕でブロックして顔面への直撃を防いだが、ずしっと重い衝撃が来て腕がしびれた。
巨漢は矢継ぎ早に攻撃を繰り出してきた。軽いフットワーク。変幻自在な攻撃のコンビネーション。さっきまでとは別人のような鮮やかな動作だ。ぼくは防戦一方に追い込まれた。相手の攻撃の軌道を予測して受け止めるだけで精一杯で、こちらから攻撃を仕掛けるタイミングがつかめない。このままではあまり長くは持ちこたえられないだろう。やつのパンチが重いため、それをブロックするぼくの腕にもダメージが蓄積してきているからだ。何とか相手に隙を作らせて、反撃に転じなくては……!
そう考えているうち、ブロックが一瞬遅れて、ボディに強烈な打撃を食らってしまった。
ぼくは自分の足が一瞬床から浮くのを感じた。
肺の中にあったすべての空気を絞り出され、体が二つに折れる。次の瞬間、左こめかみに衝撃が来て、目の前が真っ暗になった。
気がつくと高価な絨毯の敷かれた床に這いつくばっていた。急いで起き上がろうとしたが、体が思うように動かなかった。肋骨が軋み、呼吸が苦しい。頭の中で巨大な苦痛が脈打っている。たかが一、二発殴られただけだが、やはりウェイトの差は大きい。まるで車か何かと衝突したみたいなダメージだ。
苦痛をこらえて顔を上げると、完全に余裕の表情でこちらを見下ろしている大男と視線が合った。やつの表情から察するに「勝負はあった」とでも思ってるんだろう。ぼくにとどめを刺そうとしないのが、その証拠だ。
あまり頭のいい男ではなさそうだな。そういう余裕は、実戦では高くつく。
ぼくはわざと苦しげな咳をしてみせた。もう自分の体を支える余力もない、という様子を装って床に横倒しに転がった。その動作によって、廊下の壁際に立つ燭台が、ちょうどぼくの手に届く位置に来た。金箔の張られた装飾過剰の燭台だ。蝋燭を置くための皿を、花で縛られた数人の奴隷が掲げている、というデザインの彫刻が施されている。デザインは優美だが、おそらく金箔の下はテンシル鋼だろう。重くしっかりした手応えが伝わってくる。
ぼくは両手で燭台の柄を握り――さっき殴られた胸部は苦痛で悲鳴をあげていたが――渾身の力をこめて振り回した。
相手の回避行動を計算に入れてあったので、燭台は狙いたがわず、大男の両膝の後ろ側にヒットした。膝ががくりと折れ、男は仰向けに倒れかかった。重心の高い大男が派手に引っくり返る有様というのは、ちょっとした見物だった。ぼくは相手の体が床に着くより早くはね起きていた。そして相手のみぞおちに燭台の先端を叩きこむ態勢に入った。
しかし、攻撃には至らなかった。
発射準備の整ったレーザーガンの青白い銃口がこちらを睨みつけていたからだ。
やつがすばやく落ちていた銃を拾い上げたのだ。腕が長いというのは、こういうときにも役立つというわけだ。
ぼくは燭台を床に捨てざるを得なかった。床に横たわったまま、まっすぐぼくに銃を向けている大男の顔は怒りに歪み、その目にはまぎれもない本気の殺意があった。ほんのちょっとしたきっかけがあれば、ためらわずに撃つだろう。そういう顔つきをしていた。
銃口を一瞬たりともぼくから逸らさずに、大男は慎重な動作で起き上がった。
「貴様……その身のこなし、ただの鼠ではないな。何者だ!? 陛下の寝所で何をしていた!?」
「尋問なら、もっと頭のいいやつに替わってもらえよ。脳味噌を使うのはあんたの専門じゃないんだろう。ぼくは下っ端とは話をしたくない」
大男は分厚い唇を歪めて、にやり、と笑った。どう控え目に表現しても、けっして笑いの似合う顔とはいえなかった。その不気味な笑顔を崩さないまま、男は銃を持っていない方の手の甲で、ぼくの頬を思いきり殴りつけた。頬骨にひびが入ったのではないかと思えるほどの衝撃が弾けた。ぼくは吹っ飛んで壁に叩きつけられ、一瞬で口の中に血の味が広がった。
膝が崩れそうになったが、気力で持ちこたえた。
「私は宮廷警備隊副隊長のアレイン・シュタイナーだ。隊長はゴラトール子爵様だが、現場を取り仕切っているのはこの私だ」
大男は誇らしげに胸を張った。
目をしょぼつかせながら、パラライザーを構えた数人の衛兵が合流してきた。ぼくがさっき閃光弾で目をくらませた連中だ。そろそろ視力を回復してもおかしくはない。
「西の塔内の兵士は皆やられておりましたが……陛下はご無事だとのことです!」
部下の報告をうなずきながら受けつつも、シュタイナーはまったく揺るぎなくこちらに銃口を向けたままだった。衛兵たちが次々と集まってきた。
ぼくは壁によりかかって立ち、なるべく追いつめられた様子を見せないよう努力していた。状況はかなり不利だ。「かなり」では済まないかもしれない。相手は、素手ですら化け物じみた強さを誇っているのにそのうえレーザーガンで武装しているゴリラ、プラス、パラライザーを構えた九人の衛兵。それに対するこちらは丸腰で、首から上の痛みは無視するとしても、どうやら肋骨が折れているようだ。
しかしどうにかしてこの場を切り抜けなくてはならない。ぼくが陛下の部屋で何をしていたのかを、宮内庁に知られるわけにはいかないのだ。隙をついて例の催眠ガスをうまく使えば、突破口を開ける可能性もある。
ぼくはシュタイナーの長身を見上げた。
「……つまり、子爵はお飾りで、あんたが実質上の警備責任者だってことか。だったらここの警備体制のお粗末さは全面的にあんたの責任だな。本気で陛下の命を守るつもりがあるのか――ぼくがその気になれば、簡単に陛下に危害を加えることができたんだぞ。
あんたが仕事を進める上でさまざまな制約を受けていることは認める。宮内庁の許しが出ないもので西の塔に監視カメラやその他の警備システムを設置することができないんだろう。それに宮廷警備隊の人選といえば資質より家柄だというもっぱらの評判だ。でも、ひ弱でわがままな貴族のお坊ちゃん連中でも使いようだ。あんな頼りない連中しかいないのなら、陛下の寝室の控えの間にすくなくとも六人、寝室内に四人は配置すべきだ。能力の低さを数でカバーするんだ。それから、控えの間の衛兵が警報を出してから十秒前後で、援軍が陛下の寝室に駆けつけられるようなシステムにしておかなくちゃだめだ……あんたら、駆けつけてくるまでにたっぷり五分以上かかってるじゃないか。警備員失格だぜ? あのエレベータの遅さも問題だろう……」
大男の顔色が変わったので、ぼくはもう一発殴られる覚悟を決めた。しかし口を開いたときのシュタイナーの声には、呆然としたような、畏怖に似た感情があらわれていた。
「小僧……貴様は、いったい、何者なのだ!? 宮廷警備隊は貴様が言うほど無能揃いではない。候補者の中から厳しい訓練と試験を経て選抜された若者ばかりだ。それをあんなにもやすやすと……!」
狙い通り、同時に二つ以上のことを考えるのが苦手そうな大男を話に引き込みかけたときのことだった。突然、聞き覚えのある陽気な男の声が降ってきたのは。
「アンドレアじゃないか。こんな所で何をやってるんだ。みんな探していたんだぞ」
「……カイトウ市長閣下……!」
シュタイナーがあいまいに顔を歪めた。歓迎の笑みを浮かべてよいものかどうか、迷っているような表情だった。
あの男だった。まぎれもなく。どうしていきなりこんな所に現れたのかはわからないが。派手な純白と銀色のタキシードを着て、両手にそれぞれグラスとオードブルの小皿を持ち、全身から宴会気分を発散させながらゆったりと歩いて来る。陽に焼けた顔でにこやかに微笑む名誉市長は、たしかに市の名士にふさわしい威厳と風格を漂わせていた。
しかも背後に、あきらかにかなり酔いが回っているらしい数人の淑女連中を引き連れているのだ。女たちは名誉市長の背中にしなだれかかったり、ふらついたりしながら、時おりけたたましい笑い声をたてていた。豪華なドレスはすでにかなり乱れているし、薄絹しか身にまとっていない者もいる。その中にぼくはケイスウェイン公爵夫人とバンカー男爵夫人の顔を見てとることができた。王侯貴族の風俗の乱れここにきわまれり、というやつだ。
濃い香水の匂いが急に空気を満たした。場の雰囲気は一変してしまった。
「やあ、アリー。ひさしぶりだな」
名誉市長は親しげにシュタイナーに声をかけながら、巧みにレーザーガンの銃口とぼくとの間に割り込んできた。
「そんな物騒なものはしまえよ。ご婦人方がこわがるじゃないか」
「し、しかし閣下。この小僧が……!」
抗議の声をあげながらもシュタイナーはいちおう銃をホルスターに戻し、それに倣うよう部下たちにも命じた。
「ああ、うちの息子が、きみになにか迷惑をかけたのか。すまないな、アリー。なにぶん血の気の多い息子なものでね。わたしに免じて許してやってはくれないか? アンドレアはわたし達とちょっとはぐれてしまっただけなんだよ。わたし達はこれからちょっとしたゲームをしようと思っていてね……どんなゲームかは説明の必要はないだろう、え? ……だれにも邪魔されない部屋を探してこの『西棟』まで来たんだ。もう『東棟』の部屋はどこも先客でいっぱいなのさ、みんなお盛んなことだよ、まったく」
シュタイナーは胡乱げなまなざしをぼくに投げた。
「市長閣下の息子さん!? ということは……ひょっとしてクテシフォン市警の……!」
「ああ、そうさ」
なんのためらいもなく、大きくうなずく名誉市長。ぼくは舌打ちしたいのを懸命にこらえた。
シュタイナーは名誉市長の弁明に納得した様子ではなかった。知恵の足りなさそうな顔に、はっきりとした不服の表情を浮かべた。しかしやつの部下の衛兵たちはすでに浮き足立ち、任務を遂行できるような状態ではなくなりつつあった。厚化粧の淑女たちが、舐めるような吟味の視線で、衛兵の一人一人の全身を眺め回し始めたからだ。
「この男、まあまあよろしいんじゃありません? 顔立ちも悪くないし」
「あら、あたくしはこの男の方が好みですわ。やはり男は筋肉質でなくてはね。それにこの腰の線……」
「ま。イザベル様もお好きですわね」
品の良い含み笑い。純朴そうな衛兵たちは耳まで赤くなってうなだれた。
やがて淑女たちはシュタイナーに目をつけた。粘っこい視線をからみつかせ、しどけない格好のままやつを取り囲んだ。
「まあ。この衛兵、大きくて……とても強そうですわよ」
「本当。ご覧になって、この胸板? たくましくて素敵ですわ」
「若い子って、元気なだけで、てんでつまらないのですもの。やはり男はある程度の経験を積んだのでなくてはね。あたくし、これぐらい年をとっている方が好きですわ」
何本もの白い腕にからみつかれ、シュタイナーは目を白黒させた。
「ちょっとお前。わたくし達のゲームに入れてあげるから、一緒に来なさい」
ケイスウェイン公爵夫人が有無を言わせぬ高飛車な口調で命令した。
大男は追いつめられた表情で後ずさった。頬に血が昇り過ぎて赤黒く変色している。
助け船を出そうというそぶりを強く見せながら、きわめて愛想よく名誉市長が申し出た。
「……もし息子が陛下に何かご迷惑をかけたのだったら、わたしの方から陛下に謝罪しておくよ。わたしが陛下と親しくさせて頂いていることは知ってるだろう、アリー? 後はわたしに任せておいてくれればいい」
「……!」
シュタイナーは名誉市長とぼくと淑女たちを血走った目で見比べた。躊躇したのはほんの一瞬だった。
「わ、我々は陛下の身辺警護に戻りたいと思いますので、これにて失礼致します!!」
大男は敬礼し、部下たちを引き連れてほうほうの体で走り去っていった。
ぼくらは警備隊が西の塔の方角へ消えて行くのをしばらく無言で見送った。
淑女たちはふらふらと名誉市長のまわりに戻ってきた。名誉市長が鷹揚な態度でそれを迎える様子は、まるで安キャバレーの支配人とダンサーのようだった。
「いやあ、助かった。ありがとう。あなた方のご協力には千の言葉を尽くしても感謝しきれないくらいだ」
「……あんな感じでよかったのかしら、ライバート? ちょっと手ぬる過ぎるのではないかと心配だったんですけど」
「でも少し残念ですわ。あの男に話したようなゲーム、本当にやりたくなってきましたの。……よろしければ、これからどう? あなたの息子さんも入れて」
名誉市長はくつろいだ笑顔のまま首を横に振った。
「そのような申し出をしてもらえるだけで身に余る光栄だが……今夜は賭博での負けを取り返す方法をお教えする約束だ。一刻も早く取り返さないと、まずいことになるんでしょう、ご婦人方? さあ、先に例の場所へ行って待っていて下さい。わたしは息子とちょっと話があるのでね、少ししてから合流しますよ」
しぶしぶ、という感じで淑女連中がふらつきながら歩み去ってしまうと、名誉市長はぼくに向き直り、心底うれしそうに破顔した。
「アリーに銃を抜かせるなんて、さすがだな、アンドレア。あいつはたいていの相手を素手で片づけられる男なんだよ」
その声にはまぎれもない、親としてのプライドが含まれていて――ぼくはひどく不愉快な気分になった。
「あいかわらず自堕落な生活を送ってるようだな。こんな所で何をしてるんだ?」
「市民の人気者であるわたしが、《常夜会》に呼ばれないと思ってるわけじゃないだろう? わたしは陛下と親しくおつき合いさせて頂いているのでね、王宮内はどこでもフリーパスなのさ。西棟ならたくさん空き部屋があるから秘密の会合にはもってこいだろうと思って来たんだ。あのご婦人たちに、スマートないかさま賭博のやり方を教えてほしいと頼まれてね」
こんなことは何でもないんだと言わんばかりの名誉市長の無造作な口調が、ぼくの神経に触り始めていた。こちらは重大な目的のために命を張っているというのに、こんないつも遊び半分でふらふらしている道楽者に、結果として助けられる形になったことが心外だった。しかもこの阿呆は、その口の軽さで、ぼくのもくろみを根底から危うくしてしまったのだ。
「あんたのお節介のせいで大迷惑だ。どうしてぼくの身分をあのゴリラにばらした? 防衛軍の職員だとかなんとか言って、ごまかし通すつもりだったのに……!」
名誉市長はおおげさに肩をすくめてみせた。
「べつに礼を言ってほしいとは思わないが、そういう態度はないんじゃないか。わたしが現れなかったらどうなっていたと思う? おまえも知っての通り、王宮内は法の手の届かない治外法権の区域だ。宮廷警備隊では囚人の尋問に昔ながらの野蛮な拷問道具を使っていると聞くぞ。それに、アリーはああ見えて容赦のない男だ……ボクシングスーパーヘビー級の元星区チャンピオン。十五連続ワンラウンドKO記録を持つ伝説のハードパンチャーで、その強さを買われて身分が低いのに宮廷警備隊に抜擢された男だ。猛牛とでも戦えるぞ、あの男なら」
「なるほど。脳味噌まで筋肉、ってやつか」
「市警が陛下の身辺に関心を示していると、宮内庁に知られては困る理由があるのか。……おまえは宮内庁からのクレームなど恐れるようなやつじゃないからな。そうだろ?」
名誉市長はいきなり核心を突いてきた。
ぼくは顔をそむけた。
「市警は陛下の身辺に関心なんか示しちゃいない。ぼくがここへ来たのは、完全な別件だ」
しばらく会話が途切れた。どこか離れた部屋の中から、悲鳴にも似た女の嬌声と、野太い男の笑い声が響いてきた。
「そろそろ行こうか。アリーが気を変えて戻ってこないうちに。……歩けるか?」
名誉市長はそう言ってぼくの腕を取った。ぼくが弱っていることは、この男にとっくに見抜かれていたらしい。
ぼくはやつの手を振り払った。
その動作で肋骨に息づまる苦痛が走り、一瞬目の前が真っ暗になったが――踏みとどまった。こんな男の肩なんか絶対に借りるつもりはない。そんな真似をするぐらいなら這って行った方がましだ。きらびやかな「蒼穹の間」だって、四つん這いになって通ってやる。
名誉市長は、柄にもなく、傷ついたような表情をした。
「わかった。じゃあ、わたしが会場に戻ってブレア警部補を呼んでくるから、おまえはここで待っているといい。……そこの角を曲がったすぐの所にある嵌め込み大理石のドアを開けると、階段があるから、そこからなら蒼穹の間を通らずに一階へ出ることができるぞ」
「それも、余計なお節介だ。……王宮の内部構造についての情報なら市警だって持っている。どこが出口への近道かなんて、あんたに教えてもらう必要はない」
ぼくはひややかに答えた。しかし内心では名誉市長の提案を歓迎していた。夜会の会場までのわずかな距離が、やけに長く感じられていたところだったからだ。
名誉市長は立ち去りかけて、足を止めた。なにか言おうとしてためらっている様子だった。いつも厚かましいこの男にしては珍しい、煮え切らない態度だ。やがて意を決したようにしゃべり始めたその声にはいつもの脳天気さが欠落していた。
「ひとつだけ、言わせてくれ。……言い訳なんて男らしくないと馬鹿にされるかもしれないが……」
ひどく苦しげな様子だ。ぼくは黙って相手の次の言葉を待った。
「……おまえがわたしを許せないという気持はわかる。許してくれと頼むことさえ、間違っているのかもしれん。わたしは長い間おまえやエレノアを顧みず、外で好き勝手なことをしてきたんだから。おまえたちが一番わたしを必要としていたときに、そばにいてやれなかった。父親としても夫としても完全に失格だ……おそらく、人間としても、な」
「こんな所で、のんびり昔話なんかしている場合じゃないだろう」
ぼくは乱暴に名誉市長をさえぎった。体調が万全ならもっと辛辣な悪態もついてやれたのだが、今はそれ以上の言葉を思いつかなかったのだ。
名誉市長は哀しげに微笑んだ。この男には、どうしても吐き出してしまわなければならない感情があり、周囲の状況がどうあれ言わずにはおかないつもりらしかった。
「この国へ帰ってきて、初めて痛切に学んだんだ。世の中には取り返しのつかないことがあるってことを。どんなに後で悔やんでも、どうにもならないことがあることを……。愚かなわたしは、おまえたちを失ってしまうまで、そのことに気がつかなかった。
もう二度と、かけがえのない物を失いたくない。二度と後悔はしたくない。
だからわたしは、自分の手の届く範囲のものは、全力で守ろうと決めた。チェリーのことだってそうだ。偽善だと笑われたって構わない。わたしはあの子を、なんとしても守るつもりだ。それに……だれよりも、何よりも、おまえのことを守りたい。アンドレア、わたしは今までおまえに親らしいことをひとつもしてやれなかった。少しでもいい、手助けをさせてくれないか。おまえが今夜の夜会に現れたのを見たときから、それとなく様子を観察していたんだ。警察署長が国王陛下のプライベートエリアに不法侵入か? ただごとじゃないのはだれが見たってわかる。とてつもなく危険なことに首を突っ込んでるんじゃないのか? ……」
今もし銃を持っていたら、このよく動く口に突っ込んでやるところだ。
ぼくは名誉市長を睨みつけた。本気でこの身勝手な阿呆を殺してやりたかった。いつもこの男はぼくをいら立たせるが、今夜のは格別だ。沸騰する怒りのあまり肋骨の痛みさえ忘れてしまうほどだった。
「笑わせるな。あんたに守ってもらう必要なんてない。このぼくをいったいだれだと思ってる? こんな状態だって、あんたを叩きのめすのに五秒とかからないぜ」
睨み合うぼくらの間にしばしの沈黙が流れた。
やがて名誉市長は寂しげな笑顔のまま後ずさった。
「ブレア君を呼んでくるよ」
そして今度はそのまま背中を向けて歩み去った。
ぼくはやつの背中が廊下の角を曲がって消えてしまうまでずっと見送っていた。急に気が抜けて床に座り込んだ。壁の羽目板に体をもたせかけて目を閉じた。瞼が視界を閉ざす直前、天井のシャンデリアの黄色がかった光がにじんで沁みた。
胸の真ん中に大きな風穴を開けられたような気分だった。
どこまで間の悪い男なんだ、あいつは。ぼくは今くだらないことに気をとられている余裕はないんだ。さっき陛下の寝室で採取したいくつかのサンプル――その分析結果によっては、このクテシフォン・シティに激震が走ることになる。
しかし名誉市長の語った言葉を心から消し去ることはできなかった。
なんの重みも持たないたわごとだ。そんなことはわかっているはずなのに。




