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第12章 リース・ティントレット医学博士

「もう大丈夫だよ、明日からお外で遊んでもいい。肺の影もすっかりなくなったからね」

 そう言って私は患者に向かってにっこり微笑みかけた。

 患者はアグネスという名の八歳の少女。二週間前の夜中に、血相を変えた両親によって運び込まれてきたときは、高熱と脱水症状を呈し脳炎まで起こしかけていた。原因はナプレスナ・ウイルス――この星で最もポピュラーなウイルスのひとつだが、対処を誤れば命にかかわる。適切な投薬と点滴によって少女はすっかり健康を回復した。

 患者ははにかんだように私に微笑み返した。

 彼女が診察室を出て行ってすぐに、「あら、まあ、お馬鹿さんね。先生にこれを渡さなかったの?」という母親の高い声が響いた。すぐ外の中待合室で待っていた母親が、アグネスの手を引いて早足で診察室に入ってきた。ひと目で風俗関係の職種と知れる、派手な服装の豊満な女性だ。

 彼女は娘を促した。

 しばらくもじもじしていたが、少女はポケットから何か小さな物を取り出し、「はい、先生」と私の手に握らせた。

 それは縫いぐるみの人形だった。三つ編みにした黒髪から、アグネス自身をモデルにしたものとわかる。あきらかにあり合わせの端切れを使ったものだし、縫い目もデザインも稚拙だが、この幼い少女が一生懸命に作ったものであることは伝わってきた。

 人形は小さなプレートを持っていた。

 そのプレートには下手な字でこう書かれていた。『ありがとう、ドクター』

「……これを、僕に? 感激だな。こちらこそ、ありがとう、アグネス」

 私は、思わずこみ上げてくる涙を懸命にこらえながら、クールな医師の顔をとりつくろった。

 私がこの無料診療所を開いている西区・ササイズ街では、学校へ通っている子供などほとんどいない。大人でも字を書ける者は数えるほどだ。無知と貧困が支配するこの地域で、アグネスと母親はだれか字を知っている人間を努力して探し出したのに違いなかった。私に対する感謝の言葉をつづるために。

 これ以上の報酬があるだろうか。一クレジットの診察料ももらわなくても、私は持てる限りの知識を発揮してこの地域の人々に奉仕しようという決意を新たにした。

 どうやらアグネスが今夜最後の患者だったようだ。私は中待合室に出てみたが、診察を待っている患者の姿は一人もなかった。

 私はそのまま待合室に出た。

 私の診療所の待合室は、患者が待つための場所ではない。地域の人々のために開放してあるのだ。世の中の動きについて何も知らない人々を啓蒙するために、待合室には大型のTV受像機を置いて、自由に見られるようにしてある。TVは大人気だった。中流以上の市民のための贅沢品であり、この地区に住む低所得者層にとっては縁遠いものだったからである。いつもファストフードやスナックを手にした大勢の人々が集まり、待合室は油や香料の濃い匂いで満たされているのが常だった。

 そんな雑然たる待合室の中央に――天使が立っていた。

 その天使は、鋼色の髪の房を数筋、秀でた額にはらりと垂らして、聡明そうな茶色の瞳で私をみつめていた。

 周囲に溶け込もうとする配慮からか、この界隈の多くの若者と同じ、体に合っていない古着を身につけていたが、彼の周りの空気だけが澄み切り、光の屈曲率さえ変わってしまっているように見えた。まさに天使だ、まちがいない。無垢と繊細。けがれに満ちたこの世を嘆いているような、かすかな憂愁。昔の宗教画に描かれた天使はたいてい肥満し過ぎていて不健康で、真善美を豊かさと結びつけようとするそのブルジョア的思想を私はどうも好きになれないのだが――そんな連中より彼はずっと本物の天使らしい。

 もっとも彼は自分が天使にたとえられていると知ったら気分を害するだろう。実年齢より若く見えるのを気に病んでいるらしいから。

 ――アンドレア。

 思わず口まで出かかったその呼びかけを私は苦労して押し殺した。できる限り冷淡な表情を作って、そっけなく言った。

「何の用事だ、カイトウ署長? ここは健康保険に入れない人たちのための無料診療所だ。きみのような高級官僚はお呼びじゃない」

 彼は品の良い笑みを浮かべて、診察に来たわけじゃない、やぶ医者なら間に合ってる、と答えた。

 もちろんそんなことは私だって承知している。凱旋門本署署長にしてクテシフォン市警の実質上の最高責任者であるアンドレア・カイトウが私の診療所を訪ねてくるとき、用件はたいてい同じだからだ。我々に対する威嚇である。私は溜め息をついて彼を診察室に通した。

 その善良そうな外見にかかわらず、この天使の実体はむしろ悪魔に近い。「墓場署長」などと呼ばれているのは伊達ではないのだ。数日前もソルグズ街でたまたま強盗に遭遇し、至近距離から大出力レイガンをぶっ放したので、強盗の半身は粉々に吹き飛び周囲に血と肉の雨を降らせた。その強烈な光景を目撃した数名の通行人が気を失って倒れ、病院へ運ばれたそうだ。他にもっと穏当な手段があったのではないかとインタビューの記者に問われた彼は「出力の低い銃だったらよかったのか? とんだ人道主義だな」と言い放ち、マスコミから轟々たる非難を浴びている。

 だが彼の顔が私に思い出させるのはずっと昔に見たもうひとつの顔だ。十三年前、聖アルカイヤ教会でボランティアとしてルティマ助祭の孤児院運営を手伝っていた私の前に、ある日突然、空から降ってきたように現れた天使――唯一の身寄りである母親を強盗に刺され、保護者を失って連れて来られた五歳の子供。当時のアンドレアは母親が刺される現場を目撃したショックで深刻な不眠と食欲不振に悩まされていた。それらすべての症状が突如消えたのと同時に――彼の知能は驚異的な発達を遂げ始めた。市の福祉課から派遣された心理カウンセラーが、彼の変身ぶりについて驚いたようにルティマ助祭に語っていたことを思い出す。

 事件のショックがきっかけで彼の内に眠っていた天才が発現したのだ。他に考えようがない。

 そのころの私は医学生だった。暇をみてはアンドレアの勉強を見てやっていたので、彼のめざましい進歩ぶりは記憶に刻み込まれている。

 そうだ、あの当時のことは今でもよく思い出す。忘れることができるだろうか。青くさい理想に燃える若造だった私が見た、社会の歪み。西区で出会った大勢の人々。――そして、目に焼きついて離れない光景。聖アルカイヤ教会の庭先で風に当たる、車椅子のエレノア・カイトウ夫人の姿。全身麻痺で小指一本さえ動かすことができず、顔色が悪く、少しやつれていたが、それでも彼女が私の知る中でもっとも美しい女性であることには変わりはなかった。日を受けて輝く金髪。憂いを帯びた容貌。その姿に若かった私は魂の根底まで揺さぶられた。

 カイトウ夫人が犯罪の犠牲者となり身体の自由を失ったのは、たしかに不幸なことだ――しかしそれがなかったなら、アンドレアはその天才を発現させることもなく、平凡な若者として暮らしていたことだろう。市警トップとして辣腕をふるうこともなく、そしてクテシフォン市はいまだ数年前と変わらぬ最悪の犯罪都市のままだっただろう。そしてもし彼女を知らなかったら、私は貧しい人たちのための無料診療所を開こうなどとは思わなかっただろう。

 あらゆる物事には裏と表の二面がある。不幸も見方によっては別の顔を見せる。この街に住む多くの人々にとっては、彼女の災難がむしろ良い結果をもたらしたということになる。そうではないか?

「エイブラハム・ガーランドはあんたの同志だったな」

 部屋のドアが完全に閉まってから、アンドレアは口を切った。

「やつに伝えておいてくれ。……『パールシー王国打倒』とかいうビラを街頭で配布するのは見逃してやるが、誘拐事件の教唆犯となると、そうはいかないと。政治運動なら刑法に触れないようにやれ、ということさ」

 私は表情を変えないように注意しながら彼を見返した。

「誘拐? なんのことだ」

「無料診療所。学校へ行くだけの資力がない人々に読み書きを教える私設教室。それに法律相談や行政相談。……あんたらの活動が、市政の行き届かないところを補完し西区の福祉に役立っていることを、否定するつもりはない。ここらの住民にとって、あんたらは救世主みたいなものだ。だがそういう活動には資金が要る。……その資金をどこから調達しているのか、ということさ」

「妙な言いがかりをつけないでくれ。我々の活動は寄付によって成り立っている。我々の主張に賛同してくれている人たちは、きみが想像するよりずっと多いんだよ」

 彼は軽やかな仕草で肩をすくめた。

「市内で過去半年に発生したいくつかの強盗事件について、ガーランドとの関わりを立証するに足る証拠が上がっている。まだ立証はできないが、二、三か月前にインターギャラクシー・コマース社のパールシー支社長の娘を身代金目的で誘拐した男も、ガーランドとのつながりが疑われている。……ただの悪党なら警告などしないでさっさと検挙してるさ。こうやって警告に来たのは、やつがあんたの同志だからだ」

 私は黙っていた。本当は舌打ちしたい気分だった。

 エイブ・ガーランドは我々の組織の厄介者なのだ。武力によるパールシー王国からの独立を主張し続ける急進派。物事を単純化していきいきと説明できる弁舌の才に恵まれているので、西区の低所得者層に大きな支持を受けている。動きも派手だ。組織の活動資金を得るために「金持ちから盗む」ことはけっして罪ではないと、公言してはばからない。エイブを利用すればアンドレアは合法的に我々を叩きつぶせるだろう。

 だがエイブが組織の資金繰りに大きく貢献していることは否定できない。彼が違法行為に手を染めていることを、私も勘づきながら黙認してきたのだ。

 理想は美しい。しかしそれを実現するまでの過程は暗く薄汚いものだ。私はいつしか謀略と二重思考の世界に首まではまり込んでしまっていた。《分離独立派》と呼ばれる集団に所属して長く活動しているうちに。



「開拓段階を終え、国家が成立した星系における文明退行の度合いは、その星系の銀河連邦中央政府からの距離の二乗にほぼ比例する……クーレンフーコの法則だったかな」

 私が話を変えるとアンドレアの目に興味の色が現れた。教養のある人間の性分としてこういう話題を見逃すことはできないのだ。

「星系に含まれる可住惑星数や産業構造など、他にも色々と変数があるが、まあ簡略化して言えばそういうことになるな。高等社会学にも詳しいとは知らなかったよ、ドクター」

「その法則通り、パールシー王国は国家成立後の百年で、文明レベルが銀河標準指標M3クラスまで落ち込んだ。前期封建制――三世代で科学は完全に忘れ去られ、宗教と迷信が権威をふるう社会になった。初期の為政者たちが、よくある話だが、国民の知識を制限することによって支配を確保しようとしたからなおさらだ。外国との交流の制限、教育レベルの抑制。それですっかり原始的な社会ができあがってしまった。ところが、今から一世紀ほど前にこの星で稀金属が発見されてからはどうだ……外国との人的・物的交流が否応なく盛んになり、パールシー王国は急激な発展を遂げて《中央》近隣の有力国家と肩を並べたんだ。つまり中世から現代へ一足飛びに進歩したみたいなものだ。そのような、通常の進歩曲線を逸脱した発展が、社会にひずみをもたらさないはずがない……」

 私は診察用の椅子の背もたれに体重を預け、長々と足を伸ばした。話しているうちに自分の方も熱がこもってきたのだ。ちょうど患者の波もとぎれたようだし、話し込むには良い時間だ。

「このパールシー王国は歪んだ基盤の上に成り立っているんだ。社会構造が追いつかないうちに急激に進歩してしまったので、あちこちで矛盾と非効率が幅をきかせている。特にこのクテシフォン市はひどい。きみも少しは政治に関心を持つべきだよ。『公務員は政治的に無色たるべき』なんて澄ましてないで。いくら警察力で押さえつけても犯罪を根絶することはできない。そりゃあきみが署長になってから、治安は相当良くなったが……貧困、失業、不満。そういった犯罪を生み出す社会的土壌を改善しない限り、抜本的な解決にはならないんだ」

 アンドレアは賛成も反対もせずに黙って私の言葉を聞いていた。テレビでなにか面白いことを言っているらしい、待合室の方からどっと大きな笑い声が響いてきた。私は話を続けた。

「この辺りじゃ、健康な若者が昼間から通りでぶらぶらしている。働きたくても仕事がないんだよ。ろくな教育を受けていないので、まともな職には就けないんだ。ロボットでもできるような単純な作業か、あるいはロボットを監督する仕事……それも長くは続かない。すぐに打ち切られて、また無職に逆戻りだ。そんな若者たちが金欲しさに、あるいはうっぷん晴らしに、犯罪に走る。街は荒れ始め、少しでも懐に余裕のある連中はよそへ逃げ出して行き、ここには行き場のない人たちだけが残って、街はさらに荒れる。それが今のこの辺りの現状だ。きみだって知っているだろう?

 義務教育制とまでは言わないが、せめて貧しい人でも最低限の教育を受けられるような公立学校の整備。生活保護の充実。低所得者のための良質の住宅の供給。そういった政策が実現すれば……人々の暮らしがもっと良くなれば、犯罪そのものも減るだろう」

「悪くない考えだが……それだけの政策を実施するには相当の予算がいるぜ」

「ああ。我々は試算してみた。固定資産税の税率を全体で〇・八八%上げたうえで、現在クテシフォン市が王国政府維持のために支出している金額をすべて福祉政策に回すことにすれば、ちょうど賄えるという計算になった」

 私はそこで言葉を切った。

 ときには沈黙も雄弁だ。口をつぐんで、『間』にすべてを語らせた方が効果的な場合もあるのだ。

 ややあって答えたアンドレアの声は非常に沈んでいた。

「それで、『パールシー王国からの独立を』、か……」

 私のデスクの後の壁には何枚かのフォトと手紙が固定表示されている――そんな真似をしているもので、私はセンチメンタル過ぎて革命家に向いてないとエイブに嘲笑されるのだが。そのフォトの一枚に、アンドレアがちらりと視線を投げかけたのに気づいた。それは聖アルカイヤ教会の食堂で開かれた建国記念祭パーティのフォトだった。おそらく十年ぐらい前のものだろう。質素だが精一杯のごちそうが並べられた丸テーブルを囲んで、ルティマ助祭とシスターたち、そして孤児院の子供たちが笑っている。どうしようもなく貧しいのにだれもがとても幸福そうだ。隅の方にアンドレアが映っている。そして、間の抜けた笑みを浮かべた若き日の私も。

 ――あのころ私にとって世界はとても単純だった。目の前で困っている人たちを一人ずつ助けていけばいい、それで十分なのだと無邪気にも信じ込んでいた。

 この社会を根底から変えない限り不幸に終わりはないのだと、悟ったのは一体いつのことだったか。

 分離独立派の運動に身を投じ、あっという間に幹部にまで駆け上がった。経験を積んだ分、純粋な熱意を失った。そしていつしかアンドレアとの距離は果てしなく遠くなり、子供の頃から弟のように可愛がっていた彼をもはやファーストネームで呼ぶことさえできなくなってしまった。

 私は叫んだ。

「西区に育ったきみならわかるはずだ。この不自然でいびつな政治システムのせいで、貧しい人たちがどれだけ虐げられているか、苦しんでいるか。超高層建物オーバー・ハンドレッドのてっぺんにおさまり返って下界を見下ろしてるお偉方にはわからないだろうが、社会のひずみは広がっていく一方だし、その解決方法は明々白々なんだ。我々にパールシー王国なんて必要ない。あんなものを戴くのは金の無駄遣いだ。 市民の収めた税金を市民のためだけに使うようにすれば……もっともっと良い世の中を築くことができる。いま無知と貧困に打ちのめされて社会の底辺であえいでいる人たちも、誇りをもって人間らしい生活を営むことができるだろう。全市に繁栄と安定が満ちあふれるだろう。クテシフォン市にはそれだけのポテンシャリティがあるはずなんだ」

「……そのために、革命を起こすのか? 現クテシフォン市政を打倒して政権を握り、パールシー王国からの独立を宣言するのか? 戦争になるぞ。大勢の市民の血が流れるだろう……」

 私は唇をかたく結んだまま固い笑顔を作り、首を横に振った。

「そんな無謀なことはしない。僕らは選挙による合法的改革をめざしているのさ」

「……驚いたな。ずいぶん方針を転換したものじゃないか?」

「武力革命を掲げても、ついてきてくれるのは自暴自棄になってる貧民層だけだ。政治システムを変えるにはもっと広い層からの支持が必要だ。議会を通じた斬新的な改革……それなら、中流階層にも受け入れられやすい。市民が抱いている王国への不満を広く掘り起こすことができるってわけだ。

 じつを言うと、もう準備を始めているんだよ。我々の代表者を市議会へ送り込むための。選挙資金の援助をしてもいいという人がすでに何人か現れている。そして三年後の市長選挙にも出馬するつもりだ。コンラッドか、あるいは僕か。いずれかがね」

 コンラッド・テイスペスは我々の組織のリーダーだ。クテシフォン市立大学の現役の准教授で、革命理論を語らせたら右に出る者はいない。大学の外の世界を知らないので、実務に向いていないし、少し気が弱いという欠点はあるが。彼を慕って組織に入った者も数多い。

 あんたが市長選に出馬するなら一票入れるよ、とアンドレアはまじめな顔で言った。

「ザカリアの阿呆よりはずっとましだからな」

「ありがとう、カイトウ署長。……きみにわかってもらいたかったんだ」

 いけない。またセンチメンタルになりかけている。

 私は自省して懸命に感傷を振り払った。

 ふと思い出したことがあって、デスクの一番下の引き出しからデータシートを取り出し、デスクトップと同期させた。画面に表示されていたカルテが消えて、映像に変わった。数週間前のTVニュースの録画映像だ。

「今の王家がどれだけ不安定なものか示すための証拠として使うつもりだったんだが……きみも興味を持つかもしれない。これは数週間前に行われたヴァンダル国王夫妻のレセプション・パーティでの映像だ。われらが国王陛下、クレハンス十三世の衰えぶりを見てくれ。これは陛下を写した最後の映像なんだ。陛下は最近めったに公の場に姿を現さないから」

 カメラにちょうど収まるように、横一列に並べられた椅子に、クレハンス十三世とヴァンダル王国の国王夫妻が座って談笑している。陛下の様子はあきらかに異常だ。四肢がときおりひくひくと引きつり、自分の意志でコントロールできずにいるのが見てとれる。従者がグラスを差し出してもまったく見えている様子がない。無関係な方向へ手を差し出して、つかもうとする動作をむなしく続けている。不意に陛下の顔がぐしゃりと歪んだ。何か強い力で引かれでもしたように、大きな口を開けて頭を後ろへのけぞらせた。

 陛下の口の中がちらりと映る。その瞬間を選んで私は再生を止めた。

 視線を戻すと、アンドレアが刺すような鋭い目つきで私を睨んでいた。

「きみも知ってのとおり、僕の専門は神経病理学なんだ。直接診察したわけじゃないからたしかなことは言えないが……このニュース映像だけでも、歩行障害、両上肢の筋力低下、視力障害、などの症状が陛下に出ているらしいことは推察できる。決定的なのはこれだ……陛下の舌が、わずかだが、緑色に見えないかい?」

 私は画面の該当部分を拡大し、指さした。

「アズフォルデだよ。そう考えると、すべて符合する」

「……聞き覚えのある名前だな。アズフォルデ・キノホルム。《中央》指定の禁制物質のひとつじゃなかったか? 所持および製造は連邦法によって堅く禁じられている」

「消毒薬や下痢止めとしての効果があるので、この国でも昔は何も知らない薬師連中がよく使っていたらしいが……神経細胞に浸透し、感覚異常や異常知覚を引き起こす。多量に摂取するとまもなく昏睡に陥り死に至る。体内に多く存在している三価の鉄イオンとアズフォルデが結合すると緑がかった結晶になるんだが、それがアズフォルデ中毒を発見する手がかりになる。舌の奥の方や排泄物が緑色になるんだ」

「何者かが陛下に毒を盛っていると。あんたが言いたいのはそういうことか」

 アンドレアの声はしずかだったが、鋭利な刃物のようにひやりと冷たかった。

 私はわざと軽く肩をすくめてみせた。

「そういうことだ。陛下の状態から察するに、アズフォルデの摂取はかなり多量に及んでいるようだ。陛下が体調を崩されたという発表が初めにあったのは先月あたりだったが、おそらくそのころからアズフォルデの影響が出ていたんだろう。陛下に禁制物質を定期的に投与できる人間、といえば、かなり限られてくるんじゃないのかい? 典侍医だったにしても、宮殿の使用人だったにしても……宮内庁は監督不行届の責任を逃れられまいな。陛下の容体は、ナプレスナ・ウイルスによる一時的な体調不良なんかじゃない。そんなことは宮内庁だって十分に承知してるはずなんだ」

 デスクトップから抜き取ったデータシートを、私はアンドレアに差し出した。

「きみにやるよ。我々は、もうその映像のコピーを山ほど作ってあるから。……エイブ・ガーランドにかけられている犯罪の嫌疑をあらかじめ私に教えてくれたのは、きみの好意の証だろうから、まあささやかなお礼というところだ」

「……相変わらず感傷的だな。あんたは革命家には向いてないよ」

 エイブと同じようなことを言いながら、それでも彼はデータシートを素直に受け取った。



 もう帰る、と彼が言い出したので私は玄関先まで送っていくことにした。診察室と中待合室を出て待合室に入ると、TVのクイズ番組を見ながらびっくりするほど大勢の人が笑っていた。何人かが親しげに私に向かって手を振った。私はうなずき返した。

 扉を開け、こうこうと明るく照らし出された屋内から深い闇の広がる街路へ足を踏み出しかけたアンドレアは、ふと半身振り返って私を見た。

「死ぬなよ、ドクター」

 どうやら本当に気遣っているらしい口調で、そう言った。

 私は照れ隠しに歯をむき出し、ぎこちなく答えるのが精一杯だった。

「その言葉はそっくりそのままきみにお返しするよ」

「つき合う仲間をもっとよく選んだ方がいい。あのガーランドって男は、ただの悪党だ」

 私はうなずいた。

 アンドレアは天使の顔で無邪気に微笑んだ。

 私は感嘆せざるを得なかった。なぜ彼はこんなに罪のない顔で笑えるのだろう。彼の動機は憎悪によって支配されているはずなのに。

 そして私の動機は理想によって支配されているはずなのに――なぜ私の顔には深い苦渋が刻まれていくのだろう。なぜ幻滅と諦観が私の口元に皺を寄せるのだろう。私たちは社会正義のために戦っているのではないのか?


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