第11章 アンドレア・カイトウ署長
グラッドストン家の執事ロシュフォルに対する、重罪院の公判が開始された。
自白は明瞭で、物的証拠も揃っている。禁制物質所持罪及び行使罪で有罪となるのはおそらく間違いのないところだ――しかし、グラッドストン男爵という「主役」を欠いたこの裁判は、もはやあまり意義を持たないものだった。ロシュフォルは手先にすぎない。ハニールウをあのような姿にした張本人を法の手で裁くことはできなくなったのだし、男爵を利用して反王党派の存在をあかるみに出してやろうというぼくの企ても潰えた。マスコミもこの裁判にはほとんど注目していなかった。
護送車に爆弾を仕掛けた者の目的は、いちおう果たされたわけだ。
男爵はもう何もしゃべることができなくなり、反王党派の実体は再び闇の中へ沈んだ。
だがぼくはこのままで済ませるつもりはなかった。市警本部のすぐ近くで護送車ごと被告人を爆殺するのは、当市の司法に対する真っ向からの挑戦だ。反王党派の連中に思い知らせてやる。秘密めかした陰謀ごっこが許されるのも法に触れない範囲でのことだ。これ以上、連中の好き勝手にはさせない――。
古代地球に生息していた本来の「馬」というのは、細い脚とたてがみを持つ哺乳類だったそうだ。ぼくは幼い頃その事実を本で知ってひどく驚いた覚えがある。
ここパールシー王国で馬と呼ばれている生き物は、美しい銀の鱗を持つ爬虫類だ。昂然と掲げられた頭、短い尾。太い後肢で二足歩行をし、その気になれば荷物を引いていたとしても時速三十マイルは出せる。現代でも馬車が貴族の乗り物として根強い人気を誇っている所以である。
チグリス川の河口に近い辺りにある海浜公園。
闇を飲み込んだみたいに黒々とうねる水のすぐ手前に停まっているケレンスキー公爵の馬車は、かなり離れた所からでも見てとれた。月光を浴びて馬たちがゆったりと鱗づくろいをしている。ぼくは馬車に歩み寄った。
馬車の乗降口の前に立っていた監視の警官たちは、ぼくの姿を見ると敬礼し、無言で立ち去った。
「私は、クテシフォン執行部の逓信大臣だ」
それがケレンスキー公爵の第一声だった。
馬車から降りようとはせず、絹張りの座席に身を預けたまま、堅い表情で窓越しにこちらを睨みつけている。
ぼくはうなずいた。
「ええ。知ってますよ」
「こんな無法な扱いを受けるべき人間ではない。令状も何もなしに、いきなり警官によって拉致され、長時間にわたってこのような辺鄙な場所で拘束されるとは。クテシフォン市警に対して正式に抗議しようと思っていたのだが、きみが出てきてくれたので話が早くなった。釈明を聞かせてもらおうか。いったい何の理由があって、仮にも王国の国務大臣に対して、こんな無礼な真似をするのだ。『手違いでした』では済まないぞ。私は謝罪を要求する。そして、この許しがたい不法行為に携わったすべての者の辞職もな。……その中には、ことによっては、きみも含まれることとなるだろう、カイトウ署長」
激しい怒りに公爵の声がかすかに震えていた。
公爵が怒るのも無理はないのだ。清明日の夕方、検問を敷いていた警官に捕えられたおかげで、ベリアル大侯爵邸で行われる恒例の『ブリッジを楽しむ集い』に出席できなくなってしまったのだから。
今、時刻は深夜近い。そうでなくても訪れる人の少ない海浜公園はおそろしいほどの静寂と闇に包まれている。今年に入ってからだけで、この辺りで変死体が三つ発見されている――ここは、そういう場所だ。不意に吹いた生ぬるい風に、手入れされていない潅木が無気味な音をたてて揺れる。
だだっ広い芝生の上で、ぼくは馬車の中のケレンスキー公爵をみつめた。警官たちが公爵の御者と従者だけを先に帰らせたので、その場にはぼくたち二人きりだった。
公爵は優雅な物腰の初老の男だった。ケレンスキー家といえば建国時にまで系譜をさかのぼることのできる由緒正しい貴族の家柄だ。三流貴族のグラッドストン男爵などとはだいぶ違って、堂々たる威厳のある態度を保っている。顔立ちにも気品があり、きちんと撫でつけた金髪にも一本の乱れもない。
「ちょうどいい機会だ。きみが一体なにを考えて愚行を続けているのか、聞かせてもらおうか。先日はグラッドストン男爵を微罪で逮捕勾留したうえ、貴族院の釈放要求を拒否。そして今日は令状もなしに私を不法に拉致した。なぜ王国貴族に対してこれほどまでに不遜な態度をとるのだ。西区の貧民どもや、分離独立派と呼ばれる輩に対してきみが同情的だという噂があるが、それも根拠のない話ではないようだな。われわれ貴族に対する、ささやかな意趣返しというやつなのか? いずれにしても、きみが当市の治安維持の最高責任者としては不適格であることが、これで明らかになった。法律を無視した蛮行はまかり通らないぞ」
「法律を無視した蛮行、ね。まさかあなたの口からそんな言葉を聞くとは思いませんでしたよ」
ぼくは皮肉な気分を思いきり乗せて公爵に微笑みかけた。
「自分の権勢欲のために他人を傷つけ、現体制を打破して権力を握ろうとしている人の口から。……今夜もベリアル大侯爵の館で革命の相談をするつもりだったんでしょう? 陛下の崩御後どうやって二人の姫を脅迫して王位を放棄させるか……あるいは、どんな手でメフィレシア公爵を亡き者にするか。どうせ話題はそんなところでしょう。あなた方は当市の法制度そのものを踏みにじろうとしている。それなのに、法にのっとった手続を求めるなんて、矛盾してやしませんか」
思いもかけぬ一撃を受けて動揺する公爵に立ち直る暇を与えず、ぼくはゆっくりと銃を抜いて狙いをつけた。馬車からのライトを受けてほのかに光るブローニング・ハイパワー。貴族の馬車はARFを標準装備しているからレイガンでは効き目が薄い。
「あなたには法の保護を求める権利はない。これは戦争だ――クテシフォン司法と、あなた方反王党派との。そして、この戦争を始めたのは、あなた方ですからね」
銃口をみつめているため、公爵の青い目が妙な具合で真ん中に寄っていた。怯えたその顔がすさまじく歪んだ。今にも悲鳴をあげそうな形で口が開いたが、声は出てこなかった。真の恐怖に打ちのめされたときには悲鳴なんてあげられないものだ。
ぼくはハンドガンの引金をしぼった。
チグリス川の向こう岸まで聞こえるほどの轟音が、夜の静寂にこだました。
ハンドガンから発射された鉛の弾丸は、馬車の窓ガラスを砕き、ケレンスキー公爵の豊かな髪の数条をかすめて、絹張りの座席の背に食い込んだ。
公爵は恐怖に愕然とした表情のまま凍りついた。
顔色は蒼白だった。
ぼくは、最悪の犯罪者にとどめを刺す際のためにとってある、とびきり慈悲深い笑顔を公爵に向けた。
「遊びはもう終わりです。クーデターを起こして新王朝を立ち上げるなどという戯言を、あなたがどこまで本気で信じてるのかは知りませんが――クテシフォン市警はあらゆる手段を講じて市民の安全と秩序を防衛する。そのことだけは覚えておいてもらいましょう。あなたを殺すのなんて、簡単なんですよ。警察を敵に回すというのはそういうことです」
ケレンスキー公爵は口を開けたり閉じたりした。なにか言いかけるが、どうしても言葉が出ないらしかった。「訴えてやる」とでも叫びたかったのだろう。だがぼくの行為を表沙汰にすることなど、できるわけもない。そんな真似をすれば反王党派の存在も一緒に表沙汰になる。それは公爵も十分わかっているはずだ。
公爵の目の端に涙がにじんでいた。割れた馬車の窓から立ちのぼってくる臭気から察するに、恐怖で失禁したらしい。
ぼくはおだやかに言葉を継いだ。
「『血の団結』でしたっけ、あなた方のスローガンは……? その血が自分の血かもしれないなんて、きっとあなたは考えたこともなかったんでしょう。今ならまだ間に合う。命のやり取りをする度胸がないんなら、さっさと身をひいて、普通の生活に戻ることですね――舞踏会やハンティングにうつつを抜かす、道楽貴族らしい生活に」
翌週の清明日の「ブリッジを楽しむ集い」をケレンスキー公爵は欠席した。すべての窓にカーテンを下ろして屋敷に閉じこもっていた。このようにして反王党派の集会へ出なくなったメンバーは公爵で四人目だった。その数は今後も増えていくはずだ。
ぼくは合法・非合法を問わずあらゆる手段を講じて反王党派のメンバーに圧力をかけた。ベリアル大侯爵邸の周辺に検問を敷き、メンバーの何人かを口実にもならない口実を設けて署へ連行させた。メンバーの屋敷をわざと目立つように警官に監視させ、頻繁に家宅捜索も行った。銀行口座を一時凍結し、信書を押収した。事情聴取の名目で使用人を全員署へ連行し、数日間勾留したこともある。
あまり知られていない事実だが、パールシー王国では警察の専横に対して国民の権利はほとんど保障されていない。条文数が千九百を超えるパールシー刑事手続法は、前半の約三百条で適正手続の保障について定め、残りの千六百条でそれらに対する例外を列挙している。つまり、保障規定は数多くの例外によって事実上骨抜きにされているのだ。さすがに警官が銃をぶっ放して「殺す」と脅すのは違法だが、合法の範囲内でもかなり思いきった弾圧を加えることができる。
まっとうに暮らしている市民なら自分の権利の脆さなど一生知らずに生きていくことができるのだが――反王党派の連中は自らの手で、開けてはならない扉を開けてしまったというわけだ。暗黒へ通じる扉を。
ぼくが市警本部ビルの裏口につけられた公用車に乗り込むと、車内に非常に場違いな、強い香水のかおりが立ちこめていた。
「どこへ行くんですかぁ? 行き先をおっしゃってください」
運転席から振り返ったのは、いつもの運転手ではなく、特務課のジョー・ブレア警部補だった。
至近距離で見ると、濃いメイクを施したブレアの顔は圧倒的な迫力だった。
ぼくは溜め息を押し殺すのに苦労した。
「こんな所で何をやってる。仕事はどうした」
「こ・れ・が、私の仕事でーす。署長の動きから目を離さないようにって、バーンズ課長に言われたんでーす。最近いろいろ妙な動きをなさってるでしょ。毎週清明日になると王宮周辺地に検問を敷いたり、貴族に監視をつけたり。おおごとになるといけないので、署長がいったい何をしようとしてるのか確かめて来いって言われましたぁ」
ブレアはコケティッシュとさえ言える微笑みを浮かべて小首をかしげ、
「あなたのことが心配なんですよ、バーンズ課長は」
とつけ加えた。
ぼくは憮然とした。
「いい加減に、上司を子供扱いするのはやめろよな。ぼくがこの仕事に就いてもう何年になると思ってる?」
「約二年半でーす。その二年半のあいだに、ずいぶんいろんなことをしでかしてくださったわ。凱旋門は吹っ飛ばしかけるし、内周ハイウェイを封鎖して市内を大混乱に陥れるし……。こないだの《ベスケット》号の一件では、あやうく当市とニハーヴェント市とのあいだで全面戦争になるところだったでしょ。それなのに、後になってしまうまでだれも何も知らされていなくて……」
「戦争にはならないよう、ちゃんと手は打ってあった。危なく見えただけだ」
「そぉじゃないんですってば! 署長一人で暴走するのはやめてくださいって言ってるんです。今だって、あなたが何に関わっているのか、本当のところは署内でだれも知らないんですよ? 心配するなと言う方が無理でしょう」
「きみもバーンズの心配症に感染したみたいだな。気を回しすぎると、早く老けるぞ」
「もぉっ、署長ったらぁ。ごまかさないでください!」
ぼくは車を降りた。
「きみみたいに人件費の高い運転手は要らない。ぼくは地下鉄で行くよ」
言い捨てて、市警ビルの外壁に沿って歩き出した。凱旋門通りへ出れば地下鉄の駅がある。
背後で車のドアが閉まる音と、ハイヒールの乱れた靴音が響いた。小走りのブレアはすぐにぼくに追いついた。
路地を抜けて、広い表通りへ出る。昼間の凱旋門通りは、晴れやかな顔をした買物客と仕事中のビジネスマンが闊歩する、にぎやかな往来だった。
空はつめたく青く冴えわたっている。葉の大半を失って枝だけになった街路樹が、石畳の舗道に黒々とした影を落としている。駐停車可能道に数台の車が駐められていたが、いずれも、高級車ばかりだった。その中に一台だけ、妙に薄汚れた車があるのにぼくは気づいた――アレーフィンの最新モデル。国際企業勤務のエリートでも最低半年分の給料をはたかなければ買えない車だ。そんな高価な車なら入念に手入れするのが普通なのに、汚れたまま放置してあるのは妙だ。
「ねえー、教えてくださいよぉ。何を追ってるんです、署長? やっぱり、こないだのベリアル大侯爵邸でのことと関係が?」
マスカラの濃い睫毛をしばたかせながらブレアは尋ねた。ぼくは歩調を落とさなかった。
「きみはもう署へ戻れ。もっと重要な仕事がいくらでもあるはずだ。……言っとくが、ぼくについて来たって無駄だぜ? 地下鉄でまいてやる」
「もぉっ。どうして、そんなに、秘密主義なんですかぁ」
「デリケートな仕事だからな。一人でやった方がいいんだ」
「ふーん。どぉいうデリケートなんだか。今度はどこを相手に戦争をしかけるつもりですかぁ。スサ市? キンバートン公爵領? それともいっそ……」
ブレアは頬をふくらませ、なおも言いつのろうとした。しかし次の言葉は発せられずに終わった。
ぼくは背後から左肩に強烈な衝撃を受けてよろめいた。まるでだれかに思いきり殴られでもしたような衝撃だった。体勢を立て直そうとしたがなぜかうまくいかなくて、舗道に片膝をついてしまった。骨まで焼かれるような熱い痛みが爆発的にぱぁっと左半身に広がる。おなじみの感覚だ――撃たれたのだ。
ブレアがすかさず銃を抜いて辺りを見回している。
敵はARFを貫通する能力を持つ改造銃を所持しているらしい。位置は――たぶん、あそこだ。満足に手入れされていなかったあの高級車。盗難車である可能性が高い。振り返ると案の定、駐車中のアレーフィンの後部座席の窓が半分開いて、そこからレーザーライフルの細長い銃身がのぞいていた。
通行人が悲鳴をあげて逃げまどう。街路は大騒ぎになっていた。しかし銃口はまだまっすぐこちらへ向けられていた。犯人はぼくを殺すために待ち伏せていて、たとえどれだけ人目をひいたとしても目的を果たすまでは立ち去るつもりはないのだ。このような状況下でとるべき行動は一つしかない。つまり、即座の反撃である。
ブレアがぼくに飛びかかってきた。わが身を挺して盾となるつもりらしかった。見上げた自己犠牲精神だが、ぼくはやつの腕をかわし、わざと犯人にむかって真正面を向いて立った。そうして狙いやすい的を提供した。
狙撃者が、最も無防備になる瞬間。
それはターゲットをとらえたと確信した瞬間だ。獲物の生命を奪うという次の微妙なステップに全神経を注ぎ込む瞬間。そこに狙撃者自身の隙が生まれる。
アレーフィンの窓ガラスの隙間に犯人の顔がはっきりのぞいた。
その刹那、ぼくは銃を抜いて発砲した。相手が引金をひくよりも早く。
犯人の頭があった場所で赤い小爆発が起こった。血と肉片と脳漿が濃い蒸気のようになって噴き出し、飛び散った。首から上を失った胴体がゆっくり後ろへ倒れるのが見えた。レーザーライフルが力なく舗道に落ち、からん、と乾いた音をたてた。
アレーフィンはふわりとその場で浮上し、発進体勢に入った。運転席にも仲間が乗っていたらしい。
ぼくは車の燃料タンクを狙って撃った。轟音と共に車は爆発炎上した。
大勢の警官が駆けつけてきた。市警本部ビルから歩いて三分とかからない距離での出来事だから対応も速い。泣き叫ぶ女たちや物見高い野次馬を整理し、手ぎわよく現場の保存を始めた。消防車と救急車のサイレンが近づいてきた。
「……さ・す・がは署長。トラブルを招き寄せる才能にかけては天下一品ですね。ちょっと街を歩くだけで、すぐに銃撃戦なんて」
尻もちをついた体勢から立ち上がりながら、ブレアが憎まれ口を叩いた。
撃たれた上司に「大丈夫ですか」と訊きもしないのが、こいつのいいところだな。
「そういうのを、言いがかりっていうんだぜ」
ぼくは銃をホルスターに戻しながら答えた。
「狙われる心当たりは?」
「ある。あり過ぎて、特定できない」
「どうして、ライフルの標的になってるのに、退避しようともしなかったんですかぁ。真正面から向かっていくなんて。無茶苦茶だわ」
ブレアの声が不意に湿った。
涙をいっぱいにためた責めるような瞳でみつめられるのは、あまり気分のいいものじゃない。ぼくは肩をすくめようとして、顔をしかめた。左肩に目まいのするような激痛が走ったためだ。
「殺すか殺されるかだ。他の選択肢なんてない。きみぐらいのベテランなら、それぐらいわかるだろう」
「私がこれまで生き延びてこられたのは、臆病だからです。死にたくないから……なんとかして逃げられないかって、いつも考えてるからですよ」
救急車が到着した。担架が下ろされ、救急隊員が決然たる足どりでこちらへ向かってきた。
救急隊員と、路上で激しく燃え続けるアレーフィンを眺めながら、ぼくが考えていたのはベリアル大侯爵のことだった。今回の件は大侯爵が陰で糸を引いている、それがはっきりと感じ取れた。ぼくたちは完全な交戦状態に入ったのだ。
車の残骸から回収された焼け焦げの死体は、残存組織分析の結果、どちらも傷害等の前科のあるごろつきであることが判明した。金で汚い仕事を請け負う連中だ。その世界では腕利きで通っていたらしい。
やつらを雇ってぼくを殺させようとした人間をつきとめて、そこからベリアル大侯爵までたどっていくのは、おそらく至難の業といってもいいだろう。あの老人は表立った動きをするような人間ではない。大侯爵が眉ひとつ上げるだけで、すかさずその意を汲んで代りに行動しようとする取り巻きが大勢いるはずだ。――雑魚には用はない。ぼくが仕留めたいのは大侯爵だけだ。
反王党派の勢力を殺ぐ計画の方は順調に進んでいた。教育審議会の会長であるプラッフィ伯爵は、ちんぴらや性犯罪者が収監されている雑居房に丸一日放り込んでおいてやったら、反王党派と手を切ることをあっさりと約束した。クラフォード子爵は、警察の圧力に耐えかねたのかノイローゼ気味になり、医者に転地を勧められて、自ら革命運動から脱落した。キンバートン公爵は、令嬢の醜聞を公表すると脅してやったら、「きみは下劣だ。下劣な人間だ」と憤りに身を震わせながら、それでも革命運動から退くことを承諾した。
その週のあいだに、ぼくの公用車に爆弾が仕掛けられているのを運転手が三回発見した。また、ぼくの自宅の警備システムは不正侵入の企てを二回記録した。敵もただでは引き下がらないつもりらしい。
ある朝ぼくが署長室に入ると、控えの間で秘書のミズ・グレイスバーグが銃を構えて立っていた。
何事だ、とぼくが質問するより早く、彼女は部屋の片隅にあるロッカーを指さし「中から変な物音が」と口の形だけで告げた。ぼくも銃を抜いた。ロッカーに近づき、思いきって扉を引き開けた。
狭いロッカー内にほとんどはまり込むようにして、防衛軍情報部のセリム・トーゲイ中佐が入っていた。中佐はぼくの顔を見ると「や。こんちは」と真っ白な歯を見せた。
ぼくは呆れた。
「こんな所で何をやってるんだ。あやうくロッカーの外から撃つところだったぞ」
「いや~。あんたを驚かしてやろうと思ってさ。入ったはいいんだけど、出られなくなっちゃったんだよ。ちょっと引っ張ってくれないかな?」
「知るもんか。勝手にいつまでも入ってろ」
ぼくは背を向けてさっさと執務室に入った。いつまでもロッカーに入っていられちゃ困ります、というミズ・グレイスバーグの抗議の声が響いた。彼女に腕を引いてもらって、なんとか中佐はロッカーからの脱出に成功したらしい。まもなく何事もなかったみたいなくつろいだ笑みを浮かべてぼくの部屋に入ってきた。漆黒の皮膚と黒い軍服の組み合わせは、夜なら良い隠れみのだが、昼間はかえって目立っていた。
この男は夜の世界に属する人間だ――光の支配する明るい世界は似合わない。それにしても、最近やけに表へ出てくるじゃないか? 人目につかない場所で暗躍するのが本来のスタイルだったはずなのに。
「こないだ、あんたの家に大侯爵閣下がおでましになっただろう」
ドアが閉まり、ミズ・グレイスバーグに話が聞かれないようになったのを確認すると、トーゲイ中佐はさりげない口調で質問を投げてきた。
「さしつかえなければ、どういう話をしたのか聞かせてもらえない?」
「あんたほどのお偉方が、ずいぶんつまらないことを訊きに来たんだな。防衛軍はそんなに暇なのか」
ぼくは取り合わないふりをして、デスクトップを起動し仕事を開始する準備を始めた。デスクのすぐそばまで歩み寄ってきた中佐は芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「ん~っ、あんたのそういうそっけないところが好きなんだけどさ。けっこう大事な問題なのよ。だからこそ、私が出向いてきたってわけでね」
「どっちに監視をつけてたんだ――大侯爵か、それともぼくか?」
「さあね~♪ 両方、かもしれないよ」
中佐は軽やかに答えたが、その言葉はぞっとするような余韻を残した。
ぼくは相手の白目のない瞳をまっすぐ見上げた。
「等価交換にしか応じるつもりはない。それなりの情報を提供してくれれば、引き換えにベリアル大侯爵との話の内容を教えてやるよ」
わざと質問を特定せずにおいた。ぼくが何に興味を持っていると中佐が考えているのか、というのもひとつの重要な情報と言えるからだ。
トーゲイ中佐は、得意の表情のない目で一瞬ぼくを睨んだ。が、すぐに相好を崩し、軍服の内ポケットから一枚のデータシートを取り出してぼくに手渡した。
「そう来ると思ってさ。ちゃーんと用意しといたよ、ほら。見てみて」
データシートには動画が貼ってあった。
再生を開始すると、見覚えのある光景が映った――市警本部ビルの裏口だ。角度からして、かなり離れた建物の窓から撮影したらしい。画質もそれほど良くない。
裏口のすぐ外に囚人護送車が停まっていた。白っぽい作業着のようなものを着た男が歩み寄ってきて、すばやい動作で車の下に入った。数秒後、車の下から這い出てきて立ち上がったその男は、素知らぬ顔で立ち去っていった。しばらくの間、変化のない画面が続く。やがて裏口のドアが開き、数人の警官に脇をかためられたグラッドストン男爵がよろめきながら出てくるのが映った。後はぼくがこの目で実際に見た光景だ――大通りに出る直前で爆発炎上する護送車。走り回る警官たち。
画質が悪いにもかかわらず、白い作業着の男がテノール歌手パウエル・ディダーロにほかならないことを、はっきり見てとることができた。
「あ。悪いけど、このシートは法廷での証拠には使わないでね。わかってるとは思うけど」
しれっとした顔で言ってのけた中佐をぼくは睨みつけた。冷静な態度を崩さないようにするためには最大限の自制心が必要だった。
「……爆弾が仕掛けられたと知っていながら、黙って見過ごしたのか。そうして五人の人間を見殺しにしたわけだな」
「う~ん。何か手を打とうにもちょっと距離があり過ぎたしね。それに基本的に、我々は傍観者だから。そこまで市警に協力しなきゃならない義理もないだろ? 男爵を殺されたのは純粋にあんたらの失態さ」
「あんたを今すぐ絞め殺してやりたいよ」
「うちの情報部にも、機会さえあれば、あんたを八つ裂きにしてやりたいってやつが大勢いるよ。ま、その点、お互い様なんじゃないの?」
抑揚のない口調でトーゲイ中佐は答えたが、すぐに、
「私もあんたを殺してみたい――ただし違う意味でね♪」
とつけ加えるのを忘れなかった。
ぼくはくだらない冗談につき合う気分じゃなかった。軍情報部の連中にとって人命などデータシート一枚の重みもない。そんなことはこれまでの経験で承知しているが、それでも、重要な被疑者と護衛の警官が爆殺される瞬間をのんびり撮影していた人間がいるというのは許しがたいことに思えた。
「ベリアル大侯爵の用件なら、もうだいたい想像がついてるんじゃないのか? 反王党派の革命に荷担してほしいと頼みに来たんだよ」
なるべくひややかに、ぼくは言った。相手はまばたきひとつしなかった。
「で、あんたは何と答えたの?」
「もちろん断ったさ。防衛軍と組んでクーデターを起こし、役立たずの貴族を街から叩き出す方がよっぽどましだと答えておいた」
「……だめだよ、そんな冗談を言っちゃ。それじゃあまるで我々が野心を持ってるみたいに聞こえるじゃないか。市政の実権を握りたがってるみたいに」
トーゲイ中佐はへらへらした口調で言ったが――それこそ、悪い冗談というものだった。防衛軍の政治的野心については知らない者などいない。
ぼくらは本音を完璧に隠した目で睨み合った。
「……そのうち、私の上官から、あんたにラブレターが届くかもね」
中佐はちらりと微笑み、不気味な発言をした。
「軍と市警が手を組めば無敵だもんね~、ことクテシフォン市内に関しては。うちの将軍連中にはあんたのファンが多いのよ。もう千人以上殺してるんだろ? 民間人にしとくのは惜しいって、いつも噂してるんだ」
「悪いがぼくは軍隊は嫌いなんだ。理性と良識を麻痺させるシステムだからな」
「大丈夫。軍に入れって言ってるんじゃないさ。新政府に加わってくれ、って言ってるのよ♪」
ついに、その言葉が出た。非公式の場とはいえ、防衛軍の将校が「新政府」という語をはっきり口にし始めたことは、大きな意味を持っていた。これまで軍は、政治的には中立を保つという建前をけっして崩したことはなかったのだ――それがいかに見え透いた建前であったとしても、だ。しかし、どうやら事態は変わってきているらしい。
「……なんとなくだが、あんたらの狙いが読めてきたよ」
ぼくは言った。トーゲイ中佐は表情たっぷりに片眉を上げた。
「そうかい?」
「貴族どもの醜い争いや革命計画にぼくの注意を引きつければ、嫌気がさしてクーデターに心が傾くんじゃないか、とでも計算したんだろうが……あいにく、ぼくはそこまで純真じゃない。貴族は嫌いだが、だからって軍と組んで現市政を打倒し、パールシー王国からの独立を図ろうとは思わない。市警は――」
「市民の安全と秩序を防衛するのが仕事、だろ? あんたも固いよね~。『早期成熟者』はみんなそうだ。まじめで、職務に忠実で、自分の利益など一切考えない。つまり、若いんだろうね」
「それ以上無駄口を叩くと、この部屋の侵入者迎撃システムを作動するぞ。システムは一度標的をロックオンすると自動追尾して千七百度の熱線を浴びせかける――この場であんたを炭素と窒素と水に分解してやろうか?」
ぼくはデスクトップのコンソールに指を置きながら恫喝した。本気だった。
トーゲイ中佐は「ひゃ~、こわいこわい」と頭を抱えながら逃げて行った。
ぼくは管理課の責任者に連絡をとり、七十階のセキュリティシステムの見直しを命じた。これほど容易に部外者の侵入を許していたのでは完全閉鎖エリアとしての意味がないからだ。トーゲイ中佐は、頻繁に訪ねて来られてうれしい相手ではない。
パウエル・ディダーロの身辺を調査させたのは正解であったことが判明した。
パールシー・タイムズ紙のクリス・ポーキー記者襲撃現場から逃げ去った謎の人物――そしてシュナイダー盗賊団構成員の連続殺害事件と重大な関わりがあると名誉市長が言い張っていた、合成顔写真の男の正体がわかったのだ。
ロス・キャンベル。四十三歳。
三十年にわたってメトロポリタン劇場の住み込み清掃員を勤めている男だ。
もちろん前科はないし、経歴にも特に目をひく点はない。父親も同じく住み込みの清掃員をしていたので、このキャンベルという男は子供の頃から劇場内で育ち、初等教育を終えるとそのまま父親の跡を継いで今の仕事を始めたのだ。人を撃ったり喉を切り裂いたりするような人種ではない。
調査の元となったモンタージュそのものの信頼性が低いので、ただちにキャンベルを勾留することはできない。監視して何か尻尾を出すのを待つしかないだろう。
「ベリアル大侯爵が……自殺した!?」
意外な報告に、ぼくはしばらく返すべき言葉を失った。
デスクトップの画面の向こうで刑事課の課長はうなずいた。
「今朝方、ディザストル街にある自宅の書斎で。護身用の小型銃の銃口をくわえて引金を引いたようです。ほぼ即死です。死亡推定時刻は午前三時ごろ。遺書も残っています……大侯爵本人の筆跡であることが確認されました」
遺書の画像が転送されてきた。ベリアル家の家紋入りの上質な便箋に、見覚えのある、非常に読みにくい癖のある文字が走っていた。
吾輩、国の行く末を憂うるあまり、取り返しのつかぬ過ちを犯してしまった。
死をもって国王陛下にお詫び奉ると共に、我が同志に対する無言の戒めとする。
ロザリンドよ、そして子供たち、孫たちよ。吾輩の勝手を許して欲しい。
そんなはずはない、という強い思いがぼくを支配していた。揺るぎない意志に満ちた大侯爵の風貌を思い出す。あの老人は、改悛して己が命を絶つような玉じゃない。しかし――人間というのは外見では判断できないものだ。意外な脆さが、大侯爵の尊大な心の中にもひそんでいたということか?
グラッドストン男爵爆殺、シュナイダー盗賊団構成員の連続殺害、パールシー・タイムズ紙のポーキー記者襲撃。それらはすべてパウエル・ディダーロという一本の糸で結ばれている。その糸の端をベリアル大侯爵に結びつける術をみつける前に、大侯爵はだれの手も届かないところへ旅立ってしまった。ぼくはだらんと垂れ下がった糸の端を握りしめて途方に暮れた。そして、さらに深みを増した眼前の闇を茫然とみつめて立ちすくんだ。




