第9章 クリメーヌ・ド・メフィレシア
わたくしがこの世で二番目に大好きな殿方。
それはギュスターブ・ド・メフィレシア公爵。つまりわたくしのお父様です。
ある日のお昼すぎ。わたくしが二階の食堂へ入って行くと、バルコニーへ向かって開いたフランス窓の前に立っていたお父様が、
「おはよう、クリメーヌ。今日もすばらしい美しさだね」
と、優しくにっこりされました。
お父様はタキシードのそれはよくお似合いになる、非の打ちどころのない紳士です。品よく整えられた銀髪の下の面長の顔には、知性と育ちの良さが満ちあふれています。たしかにちょっと猫背ですけれど――たしかに恰幅がいいとは言えませんけど――物腰にはパールシー王国最高の貴族にふさわしい優雅さがあると思います。
わたくしは愛情で胸がいっぱいになり、お父様に微笑み返しました。
「あらお父様。こんな時間に家にいらっしゃるなんてお珍しい。今日お仕事はどうなさいましたの?」
「休みをとったんだよ。午後からボルカン君と鴨撃ちに行く約束があるのでね」
お父様は長テーブルのいちばん端の席におつきになりました。フランス窓が正面に見渡せる眺めの良い席です。メイドが銀のお盆にのせて、一時間おきに配信される《パールシー・タイムズ》紙の最新更新分のプリントアウトを、お父様に運んできました。お父様はそれを取り上げて困ったような顔になり、
「おや。私の眼鏡はどこだろう。探してきてくれないか」
とおっしゃいました。
「旦那様の額の上にございますわ」
いつものことなので慣れているのでしょう、メイドはまじめくさった顔で答えましたが、わたくしの方はくすくす笑いが止まりません。お父様はきっと何かの拍子に眼鏡をぐいと額へ押し上げ、そのままそのことを忘れてしまわれたのに違いありません。お父様はあわてて眼鏡を定位置へかけ直し、「ありがとう、ジュリア」と小声でおっしゃいました。
今日もいいお天気です。食堂は二階にありますので、開け放ったフランス窓からは王宮の美しい姿をはっきり見てとることができます。――ふだんの家族だけの食事のときには、一階の大食堂ではなく、二階にあるこのお部屋を使っているのです。とはいってもテーブルは左右に十人ずつぐらいの人が腰かけられるだけの長さがありますし、狭苦しいのはいやですから、テーブルの周囲にもたっぷり余裕の空間があります。それほど小さな食堂ではないのですよ。
メイドが開いた重厚な一枚板の扉から、お母様が入っていらっしゃいました。豊かな髪を高く結い上げた、相変わらず美しいお姿です。
「おはよう、ガブリエラ」
お父様は立ち上がってお出迎えになり、身をかがめて、お母様の手をとってくちづけなさいました。
その動作の拍子に、お父様のお尻がそばにあった椅子に当たりました。椅子はぐらりと傾き、けたたましい音と共に床に倒れました。
音に驚き、はじかれたように振り返るお父様。
そのとたんお父様の手が、そばの飾り棚に置いてあったハドリー製のお皿に当たってしまいました。今は亡きお妃様からいただいた大切なお皿です。あわててお皿が落ちないように支えようとして、今度は、別の飾り棚に乗っていた陶器のお人形をはたき落としてしまいました。
「あー、しまった」
お父様はご自分の額をぴしゃりとお叩きになりました。
そうやって注意がそれた間に、ハドリー製のお皿は縁に沿ってぐるりと回り、そのまま飾り棚から落ちていきました。
お皿と人形の破片が散乱した床を、お父様は悲しげに見下ろされました。
片づけてくれ、と命令する必要さえありません。我が家のメイドはみんなよく躾ができています。急いで二人の女が駆け寄ってきて破片を掃除し始めました。
わたくしはお母様と笑みを含んだ目を見交わしました。
騒ぎが収まり、みんな席につき直したところで、お父様は今までのことなどすっかり忘れたみたいに快活に、お仕事の話を始めました。
「いつも姫様のドレスを頼んでいる仕立て屋が、交通事故で腕を折ってしまったんだ。急いで代わりの仕立て屋を探さなくちゃならない。なんといっても、まもなくエフタルの皇太子殿下のご来訪だ。殿下のレセプション・パーティまでには間に合わせなくてはいけないからね……」
お父様。愛すべき方。
こんなそそっかしい方に、どうして宮内庁長官などという要職がつとまるのかしら。お父様には悪いけど、わたくしいつも、お母様とそうお話ししているのです。
何をやらせても不器用なお父様。得意なのはチェスとハンティングだけ。
申し訳ないけど、家柄の良さだけで宮内庁長官に任命されたことは間違いないと思います。宮内庁の上の方には、立派な貴族の方々が揃っています。そういった方々を束ねていくにはメフィレシア家の威光が必要だということなのでしょう。
お父様は実務には向いていません。お仕事という点でいえば――きっとコトウェル男爵夫人の方がずっとよくお出来になると思います。コトウェル男爵夫人は女性の身でありながら宮内庁保安課の課長をつとめておられるお方。ふつうの上流婦人は、朝十時ごろに目覚めて朝のお茶、それが済んだら身づくろいをして、お昼すぎにたっぷりとした昼食をとり、午後はサロンに顔を出して、夜は観劇や舞踏会、という生活を送るのが通り相場ですのに――コトウェル夫人は毎日早朝から宮内庁に出勤して夜遅くまで働く、というまるで平民のような暮らしをなさっているのです。
「わたくし、あの方はちょっと変わり者だと思いますことよ」
二人きりのときに、お母様はコトウェル夫人のことをそんな風にわたくしにおっしゃったことがありました。
――扉の開く気配で、わたくしは振り返りました。
わたくしがこの世でいちばん大好きな殿方、シャルルお兄様が、颯爽たる足どりで食堂へ入ってこられるところでした。
なんてお美しいのでしょう。わたくしはお兄様にいつもうっとり見とれてしまいます。シャルルお兄様は、わたくしが知る中でいちばんの美男子です。秀でた額、すっきり通った鼻梁、形のいい口元。そして何よりも印象的なその瞳。表情豊かで、よく動いて、それでいてどこか夢見るような翳りのある青い瞳。
当然のことですけれど、お兄様は女性にとっても人気があります。毎日のように恋文が届きます。お兄様という人は、その恋文に、まめにきちんとお返事を出すのです。「気をもたせるような真似は感心しませんわ」とわたくしはいつも眉をひそめるのですが、お兄様はどんな女性からの恋文でもそのまま放っておくことはありません。だからこそ、よけいに人気が高まるのでしょうね。
お兄様が席につきますと、執事のフリードマンが銀のお盆に乗せて、今朝届いた手紙を運んできました。
フリードマンはテーブルの周りをてきぱきと移動して、まずお父様、次にお母様、次いでお兄様、最後にわたくし、という順に手際よく手紙を配っていきました。相変わらずお兄様の前にはたくさんのお手紙。可愛らしい封筒が目につきますから、きっと女性からでしょう。
執事がそばを通り過ぎるとき、わたくしはいつものように、かすかな不快感を覚えました。
どこがどう、とは言えないのですけれど、わたくしはこのフリードマンがどうしても好きになれないのです。肩幅の広い力の強そうな大男でありながら、全然物音をたてずに動き回るし、どこにいても存在感がありません。物陰にフリードマンが立っているのに気がつかなくて、「あら、そんな所にいたの」と驚かされたことが何度もあります。
まあ、執事としては申し分のない働きをしている男なのですけれどね。
「――フリードマン。ぼくの書斎の机の上に手紙が置いてあるから、封筒に入れて投函しておいてくれないかな。宛先はシスティーン様、フォスター公爵令嬢、ベルリオーズ男爵令嬢、それにグリンカ子爵夫人だ。絶対に取り違えないでくれよ、大変なことになるから。宛先はデータシートのラベルに書いてあるからね……」
お兄様の声を遠く聞きながら、わたくしは最初の封筒を開けました。
あら大変。システィーン様からのお茶のお誘いですわ。
わたくしは溜め息を押し殺すのにとても苦労しました。
姫様にご招待を受けるということは、本来なら名誉あることで、喜ばなくてはいけないのです。でもわたくしは正直な話、システィーン姫様が苦手でした。同じ双子なのにどうしてあれほどエヴァンジェリン姫様とお人柄が違うのでしょう。
悪口は、あまり言いたくないのですけど。
システィーン様は、良くも悪くも、感情の激しいお方です。音楽や絵画などの芸術分野にすばらしい才能を発揮しておられます。狩猟家としても一流です。頭の回転もよく、機知にあふれ、サロンではいつも話題の中心におられます。
また、恋多き女でもあるという噂です。本当かどうかは存じませんけれど。でもあれだけお綺麗な方に、燃えるような情熱を前面に出して迫られたら、どんな殿方でも抵抗できないことでしょう。
そして同時に――とても恐ろしい面もお持ちです。システィーン様がリブロ子爵に熱を上げておられた頃、ある家柄のいいお嬢様が皆の前で子爵に対しなれなれしく振る舞ったことがありました。その翌日から、彼女はシスティーン様のサロンへの立ち入りを禁じられました。
貴族令嬢にとって、姫様から交際を拒絶されるというのは大変な恥辱です。家柄が高ければ高いほど。
そのお嬢様は必死でシスティーン様に許しを乞いましたが無駄でした。彼女は不名誉のあまり家に閉じこもってしまうようになりました。彼女のお父上は悩み、苦しみ、ついには自殺まで図ろうとしたのです。
「あなたもお気をつけなさいませ、クリメーヌ様」
と、お友達に冗談めかして言われたことがあります。
「シャルル様ったらあなたをことのほか可愛がっておられますもの。『あの方』に嫉妬されてしまうかもしれませんことよ……『あの方』がシャルル様をどれだけお慕いしているかは、ご存知でしょ?」
昼食の後。わたくしは三階へ通じる広い階段でシャルルお兄様に追いつきました。
緋色の絨毯が敷きつめられた階段は、ゆるやかに弧を描きながら上へ続いています。その中段に立ち、手すりに片手を置いてこちらを振り返ったお兄様の姿は、まるで一個の彫像のような美しさでした。
「どうしたんだい、クリメーヌ」
春風のようにあたたかく優しい声で、お兄様はおっしゃいました。
「あまりさしでがましいことは言いたくないんですけど。……わたくし、お兄様は、エヴァンジェリン様のことをお好きなんだと思ってましたわ。エヴァンジェリン様には、いつもご自分の方からお手紙を差し上げてましたもの」
お兄様は軽く首を傾けただけで、お答えになりませんでした。
わたくしは口ごもりながら続けました。
「システィーン様のことは、『何でも自分の思うようになると信じてる、強引な女は好きじゃない』とまでおっしゃってたのに……なぜ今は、システィーン様とばかり仲良くなさってるんですの? おとといの宮廷舞踏会でも、エヴァンジェリン様には見向きもしないでシスティーン様にべったりで……!」
こんなことを言わずにいられなかったのは、わたくしもなんとなく、控えめで素直なエヴァンジェリン様に好意を持っていたからなのです。ご自分の高い身分にとまどっておられるかのような、おどおどした態度。それでいて、サロンなどではみんなが楽しい気分になれるように細かく気を配っておられます。使用人に対してもとてもお優しいと聞きました。
シャルルお兄様はわたくしをご覧になりましたが、その青い目はわたくしを通り抜けて、どこか遠い所をみつめているかのようでした。
「システィーン様はね、太陽なのさ――わかるかな、クリメーヌ」
「太陽……?」
「常にすさまじい量の熱と光を内部から発散させている――その身が燃え尽きるまで。まぶし過ぎて直視できない。うっかり近づけば身を焦がす。でも人は太陽に惹きつけられずにいられないのさ。あの方は、光そのもの。他の人間はあの方の前では、地面に長く伸びた影以上のものではありえない。存在しているだけで、周囲の賞賛と崇拝を呼び起こさずにはおかない人というのが、この世にはいるんだよ」
わたくしは息苦しくなってきました。そんな言葉は聞きたくありませんでした。
「じゃあお兄様は……システィーン様を愛していらっしゃるんですの」
たまりかねて叫んだわたくしを、お兄様はしばらくみつめておられました。
その澄んだ青い瞳に、いろいろな表情が浮かんでは消えました。わたくしはそのすべてを読み取ることはできませんでした。寂しさ? 憐憫? 後悔? いとしさ? あるいは、まったく違うもののような――。
「ぼくの心の中にいる女性は一人だけだ。今までも、そしてこれからも。……もちろん、わが愛しき妹よ、きみは別だけどね、クリメーヌ」
そうおっしゃって、お兄様はわたくしの額にすばやくキスをなさいました。
階段を昇っていくお兄様の背の高い後ろ姿をわたくしはずっと見送っていました。
お兄様がわたくしの質問にお答えにならなかったと気づいたのは、しばらくたってからのことでした。




