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第8章 アンドレア・カイトウ署長

 市警本部ビル二十階、資料課の前を通りかかったとき、ぼくはわが耳を疑った。非常に場違いで脳天気な、男の歌声が流れてきたからだ。


  これこそは ヴェールの後の美しいひとみ

  これこそは 真昼のゆらめく日の光

  これこそは なま暖かい秋空に

  青く散らばった星の輝き!


 どこかで聞き覚えのある、朗々たる深いバリトンだ。

 案の定、歌っているのはライバート・J・カイトウ名誉市長だった。両腕を大きく広げて立ち、芝居がかった感情のこめ方で歌い続けている。やつの周囲に何人かの女子署員が集まっていた。くすくす笑いながらも、あきらかに好意のこもった目つきで名誉市長を見上げていた。

 ぼくの最初の衝動は、銃を抜いてこの阿呆を撃ち殺すことだった。

 しかし腕を動かすか動かさないかのうちに、すぐ隣を歩いていたブレア警部補が熟練の早業で、ぼくの右腕をがっちり捕えた。

 こいつ――上官の行動傾向を把握しすぎているな。

 ぼくはつかまれた腕を振り払おうなどという無駄な努力はしなかった。まともに力比べをしてブレアにかなうはずはないんだ。出せるかぎり冷静で事務的な声で、

「その手を離せ、ブレア。今日こそ、あのふざけた男を射殺する」

と言った。

「だめですよ! いったい何を言い出すんですかぁ、署長ったら」

「心配しなくていい。やつを合法的に署内で射殺するための方便だったら、もう七通りは考えてあるんだ」

「いや。心配しますって。無茶苦茶だわ」

「ぼくの腕は知ってるだろう? 周囲の署員や機器を傷つけることはない。確実にあの男だけを仕留めてやる。だから、その手を離せ」

「そぉいう問題じゃないんですってばぁ! 名誉市長はね、クテシフォン市の名士であり、わが国の英雄でもあるんですよ。戦争の危機からわが国を救った英雄をいきなり撃ち殺すのはまずいと思いますけど。そんなの市民が許しませんよ」

 押し問答しているうちに、名誉市長がぼくたちの存在に気がついた。やつは歌うのをやめ、上機嫌が服を着て歩いてるみたいな、あふれんばかりに快活な笑顔を浮かべて歩み寄ってきた。

「やあ、アンドレア。それに、ブレア警部補。あいかわらず仲がいいな、腕を組んで歩いてるなんて」

 ぼくは目を閉じた。やつの姿が視界に入ると、怒りが暴発して我を忘れそうだったからだ。食いしばった歯の間から、ささやくように言うのが精一杯だった。

「今すぐ腕を離せ、ブレア。これは命令だ。さもないと、きみを先に射殺する」

「……こんな所で、なにをなさってるんですかぁ? リサイタルの準備?」

 少し怯えた気配を見せつつも、さらに力を込めてぼくの腕を抱え込み、ブレアは如才なく名誉市長に尋ねた。

「いや。ちょっと調べたいことがあったもんでね。市警のデータベースで検索してもらいに来たんだよ。……今わたしが歌っていたのはオレイユ星系に古くから伝わるスペルソングさ。人間の内に秘められた魅力と『愛される力』を高め、恋愛を成就させる魔力があると言われている。本来なら外部の者には伝授してもらえないんだがね、色々あって、わたしだけ特別にオレイユ一の歌い手から教えてもらうことができたんだ。どうだろう、お嬢さん達? 少しでも効果を感じられたかな?」

 女子署員たちのくすくす笑いが高まる。が、次の瞬間、それは悲鳴に変わった。ぼくがブレアの前脛骨筋を蹴りつけ、やつの力がゆるんだ隙に腕を振りほどき、銃を抜いて名誉市長に突きつけたからだ。すべての動作を完了するのに一秒とかかっていない。

「何回言えばわかる? 勝手に署の施設を利用するなと、いつも言ってるだろう。あんたは市長じゃない。法的には何の権限も持たない、ただの私人にすぎないんだからな」

 ぼくは名誉市長の茶色の瞳をまっすぐのぞき込んだ。

 こにくらしいほど落ち着き払った態度で、やつは首を振った。

「いつもながら頭の固いやつだなぁ。……見ろよ、アンドレア。わたしのやってることだって、そう馬鹿にしたものでもないぞ。これは、最近世間を騒がせている連続殺人事件と重大な関わりがあると思われる男たちの合成顔写真だ」

 名誉市長は傍らにあるデスクトップを指し示した。大写しになった男の顔が二つ、画面に並んでいた。

 ぼくは銃をホルスターに収めた。

「シュナイダー盗賊団の件か」

「さすがだな。市内で起きている事件はたいてい把握してるってわけか。……そう、その通り。今日はこの男たちの身元を調べさせてもらいに来たんだよ」

 鼻高々といった様子で名誉市長が言った。

 ぼくはデスクトップに近寄ってのぞき込んだ。男たちの顔写真の下にそれぞれ、市警の犯罪者データベース及び要注意人物データベースの照合結果が表示されている。いずれも合致件数〇件。

 ぼくは名誉市長を振り返った。

「いい年して、的外れな探偵ごっこはやめとけよ。この男は犯罪者じゃない」

「知ってるのか……こいつらを?」

「若い方の男は、な。パウエル・ディダーロ。メトロポリタン劇場所属のテノール歌手だ。いま公演中のオペラで主役のトリスタンを演じている。若いが実力のある歌い手だよ」

「オペラ……歌手だって?」

 名誉市長は腕組みをして考え込んでしまった。

 用が済んだんならさっさと帰れ、とぼくはやつに告げた。ぼくの態度がいつの間にか非常に穏やかになっていることに、やつが気づいたかどうか。――盲目的な怒りは去り、実務を処理するときの冷静さがぼくを支配していた。



 それというのも、もうひとつの顔の方にもぼくは見覚えがあったからだ。

 クリス・ポーキー記者襲撃事件を特務課に捜査させているうちに、襲撃直後に現場から立ち去った不審な人物の存在が浮かび上がってきた。数少ない目撃情報をもとに、あやふやではあるが人相書きも作成できていた。

 その風貌は防衛軍職員のだれとも一致していない。したがって真犯人である可能性が高いと考えられる。

 その不審人物の顔が、名誉市長が持ってきたもうひとつの顔写真と非常に似通っていたのだ。

 これは果たして偶然なのか?



 グラッドストン男爵を検挙して数日とたたないうちに、反王党派の連中が動き出した。

 貴族院では、議長たるベリアル大侯爵自らの発議により、グラッドストン男爵の即時釈放を求める決議が可決された。いわく「議会開会中は、議員の不逮捕特権がパールシー王国憲法により保障されている。貴族院の事前の許可がなければ、男爵の身柄を拘束することはできないはずである」という理由だ。

 反王党派の大臣連中も、男爵を釈放するようクテシフォン市政府に圧力をかけてきていた。ぼくに対して直接の要請が来るわけではない。貴族が何か言ってくるたびに、ザカリア市長がホットラインでぼくに電話をかけてきて、なにかと泣き言を並べたがるのだ。

「いい加減にしてくれたまえ、カイトウ君。王国政府とのトラブルはまっぴらなんだよ。最近では毎日のように内務大臣や逓信大臣から私のもとへ抗議の電話がかかってくる――由緒ある家柄の貴族を犯罪者同様に処遇するとは何事だ、というんだ。警察の暴走を抑えられないのなら、私の市長としての適格性を問う、とまで言われた……困るんだよまったく……私の立場ってものが……」

 汗をしきりとぬぐいながら愚痴を並べる市長を、ぼくは思いっきりせせら笑った。

「だらしない。あんたはれっきとした自由都市の首長なんですよ。もっとプライドを持って、堂々としてたらどうなんです。……貴族が何か言ってきても、地方自治権に対する侵害だと言って、突っぱねたらいいんですよ」

「せめて在宅で起訴するという処置はとれなかったのか。仮にも貴族を、重犯罪者用の特別留置場に放り込むなんて……!」

「証拠を隠滅する可能性があるからですよ。当然の処置です」

「しかし、どうするのかね、貴族院の釈放要求の決議は……!? 貴族院を敵に回すわけにはいかないぞ」

「あんな決議、法的には無意味ですよ。議員の不逮捕特権というのは王国の行政権に対する立法権の独立を保障するために認められている権利であって、自由都市との関係では、地方自治権が優先するんです。あんただって知らないわけじゃないでしょう?」

「法的に無意味でも政治的には大きな意味があるんだ。無視するつもりか、貴族院の決議を? たいへんな問題になるぞ」

 ザカリア市長の延々と続く泣き言につき合うのにはうんざりしてきた。ぼくは忙しいんだ。溜め息をついて、こう言ってやった。

「わかりました。じゃあぼくが直接、内務大臣や逓信大臣と話をしましょうか。あるいはベリアル貴族院議長とでも。自由都市のもつ地方自治権の優越についてたっぷり説明してさしあげますよ。それで構わないでしょう」

「それは困る」

 意外なほどの速さで市長は即答した。ぼくが立派な貴族の方々にどんな失礼な態度をとるか、容易に想像がついたのに違いなかった。

「……大臣は私のほうで何とかする。だから、きみもちょっとは……控えてくれ。むやみに王国政府を刺激するのはやめてくれたまえ。そもそも本当に必要だったのか、男爵を逮捕することが……?」

 ぼくは市長の言葉の途中で通信を切った。

 反王党派の連中が男爵の釈放を求める理由は、一つしか考えられない。「同志を助けてやりたい」などという温かい気持ちからではないことは明白だ。連中が求めているのは、男爵の口を封じることだ。市警の特別留置場に入っていたのでは男爵に手を触れることはできないからだ。

「お仲間がずいぶん熱心に、あんたの釈放を求めていますよ」

 独房の扉に開いている、鉄格子のはまった小さな窓越しにそう告げてやると、房内でグラッドストン男爵は灰色の頬を恐怖に震わせた。男爵は留置場に入れられてから少し痩せたようだった。顎の下でたるんでいた肉が減って、すっきりした顔つきになっている。

「頼むから、私をここに置いてくれ。あの人たちの手に渡さないでくれ。……私は十分協力的だろう? 自白だってちゃんとしている。だから……!」

「心配無用ですよ。あんたにはまだ利用価値があるんでね。むざむざ連中にくれてやったりはしません」

 ぼくは男爵に微笑みかけた。我ながら酷薄な笑みだっただろうと思う。

 たしかにグラッドストン男爵は取調室ですらすらと自供した。どのように執事ロシュフォルに指示して《星砂》の買いつけに行かせたか。なぜハニールウ・トラビスを獲物として選んだか。ハニールウにどうやって《星砂》を投与し、その後彼女に何をしたか。男爵の供述はロシュフォルのそれと完全に合致したし、つじつまの合わないところはどこにもなかった。

 ただ一点を除いては。

 捜索の結果、男爵邸の地下室から《星砂》が発見された。男爵が供述したとおりの場所に隠されていた。ただ問題はそれがわずか一オンスしかなかったことだ。男爵が西区で買いつけた《星砂》は三オンスだ。ハニールウに対して二オンス近くも投与したとは考えられない。(そんなにも投与されたら死んでしまうだろう、とニコライ博士が確言した) 残りの《星砂》はどこへ行ったのか? 邸内をくまなく捜索したが発見することはできなかった。

 書斎で作業をしているときに、窓から吹き込んだ風で飛ばされてしまったのだ、と男爵は言い張った。――《星砂》はその名のとおり非常に軽い粉末だ。たしかに、ほんのそよ風でも飛ばされてしまうだろう。

 だがぼくは、男爵が何者かの命令を受けて《星砂》を入手し、その効果をハニールウを使って実験したのではないかという疑いを抱いていた。そして、残りの《星砂》はその者の手に渡ったのではないかと。根拠は、メトロポリタン劇場で男爵が苦しみの中で漏らした言葉だ。

 ――《星砂》投与後どういう反応が起こるか、あとで報告しなければならなかったから……。

 男爵に命令できる者。それはかなり地位の高い人間であるはずだ。

 しかし男爵はその点に関しては頑として口を割ろうとしなかった。訊問のうまさにかけては右に出る者のいないバーンズ副署長が自ら乗り出して男爵を責め立てたが、結果は同じだった。

「やっこさんが口を割らないのは、たぶん、死ぬほど怯えてるからですよ……話題がそのことになると脂汗かいて震え出しますからね。特別留置場にいても、まだまだ安心できないってわけでしょ。相当な怯えぶりですよ、ありゃあ」

というのがバーンズの報告だった。



 その夜、ぼくは普段より早い時刻に帰宅した。

 予定されていた公安委員長とのロングミーティングが急にキャンセルになったためだ。

 ぼくが住んでいるのは港南区でも特に閑静な界隈にある一軒家だ――以前は港区にある官舎に住んでいたのだが、《右目のカール》という脱獄囚につけ狙われていたころ何度か玄関先で銃撃戦を引き起こしたため、管理組合から退去を命じられてしまったのだ。

 今の家なら玄関先で撃ち合っても近所迷惑になることはない。隣家とは十分に距離がある。

 また、家の者に危害が及ばないよう、最高の防犯警備システムも完備してある。

 ぼくが重い扉を押して玄関に入ると――メイドのソーホーン夫人はもう帰ってしまったらしく――母が自分で出てきてぼくを出迎えた。

「おかえりなさい。アンドレア」

 ぼくは日付が変わる前に家へ着くことはめったにないので、こうして母に出迎えられるのはずいぶんひさしぶりのことだった。無意識のうちに母と顔を合わせるのを避けようとしているのではないか、と自分で思うこともある。

 今の母の姿に、痛々しいところはまるでない。――きれいにくしげずられた長い金髪はつややかに光っているし、ふくよかな頬にも健康的な赤みがさしている。優しくこちらをみつめる海のように青い目。年齢の割には驚くほどの美貌を保っていると言ってもいいだろう。

 母は十三年前、脊髄に受けた損傷のため四肢の自由を失った。だから今こうやって歩き回れるのは着用タイプの補装具のおかげだ。首から下をすっぽり覆いつくす特殊な胴着が脳からの信号を全身の筋肉細胞に直接伝えている。

 上から服を着てしまえば補装具の存在など見てとれない。だが動作のなんともいえないぎこちなさは、どうしようもない。補装具が脳からの信号を伝達する速度はやはり運動神経に劣る。それに母は、ぼくが補装具を購入するだけの資力を得るまでの七年間はずっと寝たきりだった。その間に関節はすっかり固くなり、動かなくなってしまっていた。こうやってまた動けるようにするためには何度かの手術とつらいリハビリが必要だったのだ。

 今、母は入浴を除く身のまわりのことはほぼ独力でできる。通いの看護師とメイドも頼んである。日常生活に不自由はないはずだ。

「あなたにお客様が来ているわよ」

 楽器のように音楽的な声で、意外なことを母は言い出した。

「客? だれだい」

「聞いてもお名前をおっしゃらないの。貴族院からの紹介状を持ってらしたわ」

 母がゆっくりした動作で差し出す書状をぼくは受け取った。「本状を携行する者はパールシー王国貴族院の許可もしくは承認を得て行動していることを証する」と書かれた、金の縁どりのある書面だった。下に貴族院議長の読みにくいサインが書きなぐられている。

 ぼくは不審に思った。名乗らないのももちろん妙なのだが――その客はなぜ、ぼくが今夜にかぎって早く帰宅することを知っていたのか。

 いずれにせよ、今の時期には「貴族院」というだけですでに警戒信号だ。ぼくは気を引き締めて客間へ向かった。

 客間は、おそらく客を通すとき母が照明をつけたはずだが、ぼくが入った時には装飾用のランプ一つを残してすべての灯りが消されていた。薄暗い中に二人の人物が見えた。一人は着席しており、もう一人はその傍らに立っている。揺らめくランプの灯に照らし出された彼らの影が巨大化して壁に映り、まるで亡霊を思わせた。

 身なりからして、だれか身分の高い人間とその従者、というところだ。

 その身分の高い人間の方は目深に外套をかぶっており、顔がよく見えなかった。

 ただちに攻撃してくる気配は感じられない。しかしぼくはいつでも銃を抜けるよう用心しながら、来客にゆっくり声をかけた。

「どなたです? いくら貴族院の用事だといっても、名乗りもせずに人の家に上がり込むのは失礼でしょう」

「――非礼は詫びる」

 重々しい声で、椅子に座った外套の男は答えた。渋く底光りする、どこかで聞いたような声だった。

「しかしどうしても身分を隠さねばならない理由があるのだ。きみにも理解してもらえると思うのだが」

 男はゆるりと外套を外し、素顔を表した。

 ベリアル大侯爵その人だった。

 そのときぼくが感じた驚愕は、とても言葉には尽くせない。『心臓が止まりそうな驚き』とは、まさにこのことだ。客間の中が薄暗くなっていて助かった。そうでなければ動揺を相手に読み取られていたに違いないからだ。

 ベリアル大侯爵の訪問を受けるなどという栄誉ある体験をしたことがある者は、この王国内にもそれほど多くはないだろう。大侯爵ほどの人物になると、用事があっても人を訪ねて行ったりなどしない。相手に、訪ねて来させるのだ。それが格の違いというやつだ。

 またこれほどの人物が、従者をたった一人しか連れずに外出するというのも希有なことだ。大侯爵ほど身分が高い人間になると、エレベータの階数ボタンさえ自分では押さない。身のまわりのことはすべて、彗星のごとくつき従う召使たちが代行するのだ。大侯爵がいつも連れて歩いている従者の群れは十人を下らないはずだ。

 一般大衆がお目にかかる機会などめったにない雲の上の大人物。謎と伝説に包まれた王国で最も有力な貴族。そんな人物が、こんな夜中に、ぼくの家の客間に座っているというのは、めくるめくほど非現実的な光景だった。

 それにしても、何という威圧感だろう。ベリアル大侯爵は全身から、空気がびりびり震えるほどの迫力を発散させていた。岩を削って作られた彫刻のような粗削りな顔の中の、強い光を放つ双眸。その視線にまともにとらえられると、体が麻痺したみたいに動かなくなる。

 ――血筋の高貴さなんて、ただのまやかしだ。現在この国で貴族としてまかり通っている連中は、数世紀前にこの星を最初に開拓した初期移民団の末裔であるに過ぎないし、最高の貴族であるベリアル大侯爵だって、単に移民団の副団長の血筋であるというだけのことだ。つまるところは、船乗りの子孫だ。それを畏れ敬うよう条件づけているのは、教育による刷り込みでしかない。

 ぼくは自分にそう言い聞かせることによって、平静さを取り戻そうと努力した。敵に圧倒されてはならない。大侯爵は戦いのために乗り込んできたのだ。冷静を失うのは、敗北することだ。

「驚きましたね。いったい、何のご用です?」

 ポーカーフェイスを保てるという自信が十分戻ってから、口を開いた。

 ベリアル大侯爵が身じろぎすると、その顔は暗闇に沈んでまったく見えなくなった。

「内密に話さねばならぬことがあって来た。きみが逮捕したグラッドストン君のことだ」

 ぼくは来客たちに見えない角度で、銃のセイフティを戻して発射態勢を解除した。今夜のは銃でどうこうできる相手ではない。

「また、貴族院議員の不逮捕特権がどうとかいう話ですか? 釈放要求は拒否します。それ以上の話は、明日以降にでも署の方でお願いしたいですね。ぼくは仕事とプライベートは峻別する主義なんです」

 ぼくのぶしつけな物言いに、従者の方がむっとした様子を見せた。

 暗闇の中から大侯爵の低い、威厳のある声が続いた。

「我々はグラッドストン君の身柄に重要な関心を抱いている。『我々』というのは貴族院という意味ではない。わかるだろう。我々がどういう志を抱いた集まりであるかについて、すでにきみはかなりの情報を得ているはずだ」

 ぼくは黙っていた。相手がどこまで踏み込んでくるか見届けるつもりだった。

 ベリアル大侯爵はもって回った言い方などしなかった。非常に直截的に、要点に切り込んできた。

「私の身辺に監視の手が伸びているのではないかという疑いを抱くようになったのは、グラッドストン君が逮捕されてからのことだ。それで邸内を調べてみた。私の留守中に停電があって、電気工事の人間がやって来たことがわかった。男女の二人組だ。玄関の監視カメラにその顔が写っている――クテシフォン市警の署員データベースと照合してみてもいいのだが」

 ぼくは思いきり投げやりな仕草で肩をすくめてやった。

「まあ、どこにでもよく似た人間というのはいますから。――身分が高いというのもなかなか大変ですね、大侯爵。疑心暗鬼が嵩じて、被害妄想ですか? あなたぐらいの立場になってしまうと、だれもがあなたの秘密を求めて陰謀をめぐらせているように見えるんでしょうね」

 大侯爵が何か合図を送ったようだ。従者が懐から取り出した金属製の物体を、テーブルの上にごとりと投げ出した。それは、ぼくがブレアたちに仕掛けさせた盗聴機だった。

 ぼくは、何のことだかわからないという態度を崩さなかった。長い沈黙の後で、

「わかりました。お互い忙しい身だから、時間を無駄にするのはやめましょうか。……ぼくはあなた方反王党派の活動や計画についてある程度の情報をつかんでいる、それだけは認めましょう。で、ご用は何です?」

「きみの――そして、クテシフォン市警の立場を知りたい。グラッドストン君を訊問して得られた情報をどうするつもりなのか。宮内庁に提供して我々の革命を未然に防ぐのか、それとも我々が現体制を打倒するのを黙認するのか。ようするに、メフィレシアにつくのか、我々につくのか、ということだな」

 大侯爵の言葉が終わると、ぞっとするほど重苦しい余韻が残った。

 簡単だが、おそろしく多くのものを含んだ質問だ。ぼくは緊張で心臓が沈み込むような気持ちがした。どんな凶悪犯と対峙しても恐怖など感じたことはない。――しかしこの老貴族がかもし出しているのは、まぎれもない、恐怖の雰囲気だった。眼前でいきなり暗黒が口を開けたみたいだった。

「どちらかにつかなければならないんですか? ぼくは政治には興味がないんですが。警察の仕事は市民の生命と財産を守ること、ただそれだけだ」

「当市にあって、ある程度以上の地位を有する者には、非政治的であり続けるなどという贅沢は許されないのだ。きみが凱旋門本署にとどまらず、クテシフォン市警全体を市警本部長に代わって動かせる立場にあることは、周知の事実だ。――皮肉なことだが、政治に興味がないと言いながら、市警を当市の権力バランスにおいて無視できない存在に仕立てあげたのはきみ自身だ。数年前の無能な市警なら相手にする価値などなかった。しかしきみは、いくつかの大胆な改革を行い、市警を優秀で統制のとれた組織体に作り変えた。よく訓練され士気の高い四万人の武装集団……これを放っておけると思うか? きみがどちらにつくかによって、当市の政治絵図が大きく変わってくるのだよ」

 暗くてよくは見えなかったが、大侯爵がちらりと笑みを浮かべた気配がした。

「現体制を維持する利点などあるのか? いかにきみが有能でも出世の途など限られているではないか。反王党派に力を貸してくれれば、きたるべき我々の新王国で、それなりのポストを用意しよう。きみのような人材なら大歓迎だ。積極的に革命に荷担しないまでも……我々の動きを容認する、という約束だけでもいい。それだけで我々にとって十分な援護なのだ。我々とてクテシフォン市警を敵に回したくはない」

 ここでひとつ対応を間違えば、市内が血で血を洗う大騒乱に突入することになりかねない、という緊張感はあった。王位がどうなろうとベリアル朝が創始されようと知ったことじゃないが、一般市民が戦乱に巻き込まれて死傷することだけは防がなければならない。

 しかしいつの間にか大侯爵の威厳に対する気おくれは消え、代わってつめたい怒りがぼくを支配していた。生まれてこのかた洋服の着脱さえ自分でやったこともないくせに、何千人、何万人もの人命を簡単に左右しようとしている、この傲慢な無能者はいったい何様なのだ? 欲ばかりふくれ上がった、この醜い小さな老人は。

「――ポスト、ですか。あなた方は、だれでも地位や権力で動くと思ってるんでしょう」

「権力を軽視してはならない。高い地位に伴う権力というのは、ちょうど暖かい毛布のようなものだ……若いうちには寒さなど感じないだろうが、やがて、しっかり毛布にくるまれている心地良さがわかるようになってくる。勢いだけで乗り切れる時期はそれほど長くはないのだ。血気にはやって長期的な判断を誤るほど、きみは愚かではないと信じているよ」

 ぼくは大侯爵に向かって微笑みかけた。

 血気にはやって無謀な行動をとることにかけては、ぼくは署内でも有名なのだ。

「率直に言って、気に入りませんね、なにもかも。あなた方のやり口には反吐(へど)が出そうだ。……いきなりこうしてうちに訪ねて来たのだって、そうだ。ぼくが色よい返事をしなかった場合、ぼくの身内に手を出すことは簡単なんだという示威のつもりなんでしょう? あなたほどの大物が直接お出ましになれば、こっちが縮み上がって平伏するとでも期待していたんでしょうが、そうはいきませんよ」

 闇に沈んでいるのでベリアルの表情は読みとれない。しかし従者の顔がひきつったのは見てとれた。ぼくは続けた。

「こうは考えなかったんですか、ぼくには他の選択肢もあると。……たとえば市内の分離独立派か防衛軍と組んでクーデターを起こし、パールシー王国からの独立を宣言するのもそのひとつだ。ポストが欲しいんだったら、その方法で十分なわけですよ。役立たずの貴族を街から叩き出し、純然たる市民による市民のための政権を作り上げた方が、よほど気分がいいでしょうね」

 空気が不意におそろしく冷たくなった。ベリアル大侯爵を取り巻く闇がいっそう濃くなったように見えた。

「……我々を、敵に回すというのか」

 その声は地獄の底から聞こえてくるかのようだった。

 ぼくは肩をすくめた。そして、うんざりした声を作って答えた。

「そういう選択肢もある、ということですよ。さっきも言ったように、ぼくは政治には興味はない。市警を政治抗争に巻き込むつもりもない。市民を守ること、それだけが警察の役割だ。……ですから、あなた方だろうが王党派だろうが、もし当市の刑法に触れる行為をしたら、我々はそれを阻止します。暗殺だとか脅迫だとか、そういう行為ですよ。貴族の権威なんて当市の司法には通用しない。たとえあなたであっても、市内で犯罪行為を行ったら投獄します」

 しばらく石のように重い沈黙が続いた。

 やがてベリアル大侯爵はソファから立ち上がった。ランプの薄明かりの中に浮かび上がった、陰影を帯びたその顔は、まるで古代遺跡のレリーフのようだった。高く秀でた額。落ちくぼんだ瞳。未知なる遠い来世を指し示す宗教的シンボルだ。

「今夜話を持ちかけて、すぐに最終的な返答がもらえるとは思っていない。また出直してくるとしよう。昼間の現実的な光の中で見れば、きみもあらゆる選択肢をもっと冷静な視点から検討することができるだろう。ただし、ひとつ警告しておく。もし我々の計画について、ひとことでもメフィレシアやその一党に漏らしたら……きみの命はない」

 非常にひややかな殺意をこめて、ぼくは言い返した。

「ぼくにその手の脅しをかけて、その後半年以上長生きした人間はいません。せっかくそのお年まで生き永らえたんだから、もう少し命を大切にしたらどうです?」

 たいていのやくざ者なら、ぼくの恫喝で震え上がるところなんだが。ベリアル大侯爵の反応は意外なものだった。笑い出したのだ。本当に愉快でたまらないといった、快活な笑いだった。

「これは、いい。このパールシー王国で、私を脅迫するなどという人間にお目にかかれるとは。この、私を。ははははは、この年齢になっても、まだまだ驚くことが残っているのだな」

 笑いながら、老貴族はゆったりした足どりでドアへ向かって歩き始めた。

 その小さな背中に、ぼくは声をかけた。

「こんなことを訊くのは、うぬぼれ過ぎかも知れませんが……あなたが公安委員長に圧力をかけて、今夜のミーティングを中止させたんですか?」

「きみの想像に任せるよ」

 大侯爵は振り返りもしなかった。従者にドアを開けさせてベリアルが退出していく間、ぼくは息を詰めて身動きひとつせずに立っていた。

「……どうしたの、アンドレア。こんなに暗くして。あら、お客様は?」

 客間に入ってきた母の声でぼくは我に返った。母は補装具の許すかぎり優美な仕草で、香り高い茶と手作りのクッキーを乗せた銀の盆を運んでくるところだった。

 母は客間の灯りをつけた。

 ぼくは顔をそむけた。

 凄惨な殺意をぬぐいきれない顔を、母に見られるわけにはいかなかったからだ。

「目が悪い人でね、強い光は目にこたえるそうだ。もう、帰ったよ」

「どなただったの」

「内務省関連の人さ。……そのクッキー、ひとつもらってもいい?」

 LEに照らし出されて見慣れた客間の風景が戻ってきた。大侯爵の訪問が、まるで悪い夢のようだった。

 銀の花瓶、レースのテーブルクロス、暖色のカーテンなど、隅々にまで女性らしい気配りの行き届いた品のいい部屋だ。ぼくみたいに殺伐とした人間の住処には似つかわしくない。

 母はアンティーク調のテーブルに盆をおろし、大きな青い瞳で黙って正面からぼくをみつめた。

 ぼくはその瞳を見返し、時間をかけて言葉を選んだ。

 母には心配をさせたくない。母がソーホーン夫人の助けを借りて丹念に築き上げたこの小さな聖域を、脅かしたくはない。しかし今夜の大侯爵の訪問は、ぼくが反王党派に逆らえば母に危害を加えるという脅迫も同然であり、危険は着実に迫ってきているのだ。

 もっともらしい嘘でごまかすこともできたが、ぼくはなるべく率直に話すことにした。

「母さん。これからは、知り合い以外の人間はうかつに家の中へ入れないでほしい。たとえ貴族院の紹介状を持っていても……国王陛下の手紙を持っていたとしても、だ。仕事柄、ぼくには敵が多いんだよ」

「今の人は……あなたの敵だったの、アンドレア?」

 母の声は平静そのものだった。

 ぼくは首を横に振った。少なくとも嘘はついてない、という確信を持って。

「敵じゃない。まだ今のところは、ね」



 ぼくは警察病院にハニールウ・トラビスを見舞った。

 あたたかく晴れた昼下がり、ハニールウは中庭の芝生に腰かけていた。彼女の両脇には、ぼくにも見覚えのある、ルティマ助祭の知り合いのシスターが二人座っていて、澄んだ声で讃美歌をうたっているところだった。二人の声はよく揃っていた。青空に歌声が吸い込まれた。

 ハニールウは相変わらず身動きひとつせず、じっと虚空をみつめている――しかし気のせいだろうか。微笑みにも似たおだやかな、心地よさそうな表情が浮かんでいるように見えるのは。彼女はあきらかに讃美歌に耳を傾けている。希望的観測かもしれないが、そんな風に感じられた。

 そよ風がハニールウの繊細な金髪をそっとなぶって行った。

「どうです? 楽しそうでしょう?」

 少し離れたところから彼女を見守りながら、ルティマ助祭がぼくに同意を求めた。

「讃美歌を聞いている時のあの娘は、とてもいい顔をしてるんですよ」

 目にも鮮やかな芝生の上を、さまざまな状態の病人たちがゆっくりと往来している。介護ロボットの助けを借りて歩行訓練をしている怪我人、車椅子を止めてうっとり日差しを受けている老人、パジャマ姿で散歩をしている中年男。そんな中でハニールウとその周囲だけ時間が止まっているかのようだった。

「あの娘を――教会に連れて帰ろうかと思ってるんです」

 しずかな口調で助祭がそう切り出した。

「幼い頃に育ったなじみ深い環境の方が、あの娘にとってはいいんじゃないかと思いましてね。懐かしい人や風景に囲まれていれば、心もなごんで、回復も早まるかもしれないでしょう?」

「医者は何と言ってるんですか」

 ぼくは尋ねた。ルティマ助祭はさびしく微笑んだ。

「医学的にはもう、ハニールウに対してしてやれることは何もないそうです。衰弱していた体の方はすっかり回復しましたから、あとは心の問題だと。病院にいても仕方がないので、落ち着ける環境でゆっくり静養するのが彼女のためだろう……と言っていました」

 ぼくはハニールウをみつめた。

 意思を奪われ、ただ人形のように座ってじっと讃美歌を聞いている彼女の姿は、痛々しかった。

「――ハニールウをあんな目に遭わせた連中の起訴が決定しました。もうすぐ重罪院に移管されます。司法の手で罪の報いをきっちり受けさせられるでしょう」

 そう言いながら、自分でも何の力もない言葉のように思えた。

 犯人を有罪にしたからといって、どうなるというのか? それで彼女が治るわけでもない。

 そんな真実を口にするには、ルティマ助祭は思いやりがあり過ぎた。ゆっくりと何度もうなずいて、優しい声で答えた。

「ありがとう。あなたも、ハニールウのために、できる限りのことをしてくれたのですね」

 ファイルを携えた中年の看護師が早足で歩いてきた。足取りの重さに疲労が見てとれる。顔色もくすんでいて、あきらかに疲れている様子だ。しかしハニールウの傍らで立ち止まった看護師は、輝かんばかりの快活な笑顔をぱっと浮かべてみせた。

「こんにちは、ハニールウ! 今日も元気そうね!」

 疲労などみじんも感じさせない、明るい声。シスターたちは看護師に微笑み返した。

 看護師はぼくたちの方に歩み寄ってきた。

「彼女、とっても順調に回復してきてるんですよ。見てくださいな、顔色もすごくいいでしょう? 前よりずいぶんたくさん食べられるようになって。きっとすぐに元気になるわ。――こんなに心配してくれる人たちに囲まれて、ハニールウはとても幸せですね」

 自分はどれだけ疲れていても、常に相手を励まし、元気づけようとする物腰。職業意識の賜物だ。

 ルティマ助祭が感謝の笑顔で応じた。

「ええ、そうですね。こちらへ入院してから、あの娘、少し太ったんじゃありませんか?」

 軽い笑い声を交わす助祭と看護師。

 いわゆる「名もない市民」だ。地位も財産もないが、毎日一生懸命におのれの本分を尽くす善良な人々。こういった人々の生命と安全を守るのが、ぼくの使命ではないか? この人たちを守るためならどんな汚いことでもしよう。たとえ権力の亡者どもの薄汚れたパワーゲームの泥沼に自分も落ち込むことになろうとも、必ずこの街の平和を守ってみせる。ぼくは改めて決意を固めた。

 いつの間にか看護師は立ち去っていた。ぼくの顔を見たルティマ助祭がはっと息をのむのが聞こえた。

「どうかしましたか、助祭?」

 あわてて笑顔をとりつくろったが――まずいな。殺気を悟られたかもしれない。

「いいえ。なんでもありません。なんでも」

と、助祭はかたくなに首を横に振った。

 空を雲が流れ、日差しがふと陰った。やがて風に一抹の冷たさがまじり始めた。

 もう病室へ帰りましょうか。シスターのひとりがそう言うと、ハニールウはすかさず立ち上がり、ロボットのように無機的な動作で病棟へ向かって歩き始めた。ぼくらもゆっくりその後を追った。

「――私があなたにしてあげられることは、本当になにもないのですか、アンドレア?」

 ふとルティマ助祭の声が響いた。

 振り返ると、助祭はひどく悲しげな目でこちらを見つめていた。

 ぼくらの間を灰色の風が吹き通った。

「私では……あなたを助けることはできないのですか?」

 助祭は繰り返した。

 色を失い始めた空の下、ぼくは助祭に微笑みかけ、しずかに答えた。

「ハニールウを、よろしくお願いします、助祭」



 予審判事の審理の結果、グラッドストン男爵と執事ロシュフォルは禁制物質売買及び行使罪で起訴されることとなった。

 公判を担当するのはレックスという切れ者の検事だ。ぼくは反王党派の革命計画について彼に情報を入れ、公判の過程で反王党派の動きが浮かび上がるように訴訟指揮することを依頼するつもりでいた。レックスは貴族と聞くだけでがぜん闘志を燃やす男だから、きっとうまくやってくれるだろう。裁判はかなりスキャンダラスなものとなるはずだ。

 重罪院への移管が決定した者は、院の直接管轄する特殊監獄に勾留される規則になっている。グラッドストン男爵も留置場から特殊監獄へ移されることになった。

 男爵は独房の寝台にしがみついて抵抗した。

「わ、わ、私はここを動かないぞ! ここを出るのはいやだ! だってこの留置場がいちばん安全なんだろう?」

 警官たちが男爵を寝台から引きはがそうと悪戦苦闘している。ぼくは独房の外から声をかけた。

「心配いりませんよ、男爵。特殊監獄の方にもここと劣らない厳重な警備をつけますから」

「本当に、大丈夫なんだろうな!?」

 傲慢な顔立ちをして、子供のように泣きべそをかいている。その姿に農業政策委員会副委員長の威厳はまったくなかった。ぼくは肩をすくめた。

「クテシフォン市警は優秀ですよ」

 男爵は市警本部ビルの裏口に目立たないようつけられた護送車に乗せられた。そんなことはめったにしないのだが、ぼくは舗道に立って、護送車が走り去っていくのを見送った。

 これでハニールウを廃人同様にした男の始末はついた。

 やつは確実に有罪になるだろう。裁判の行方についてぼくはなんの不安も持っていなかった。

 裏通りから交通量の多い凱旋門通りに出る直前、護送車は一旦停止する。その瞬間、爆鳴が轟いた。

 一瞬、護送車の内部から巨大な炎の玉がふくれ上がってくるように見えた。

 車は横転し、炎上した。黒煙が猛烈に湧き上がり、風を受けて躍り狂った。紅蓮の炎がかつては車の窓だった部分から激しく噴き出してきた。通行人の悲鳴があがった。乗員を救出しようとして駆け寄った警官たちが、炎と煙の勢いに圧されて数歩後退した。

 この火勢では、護送車の中に生存者はいないだろう。

 何者かがおそらく車の下部に爆弾を仕掛けたのだ。

 燃えさかる護送車を睨みながら、ぼくはひどく苦々しい思いに胸を焼かれていた。

「――宣戦布告、というわけか……!」

 ベリアル大侯爵の哄笑が聞こえてくるような気がした。

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