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第6章(3) アンドレア・カイトウ署長

 バーンウェイの新作オペラの初日は、王国最高の貴族たちが顔を揃える一大社交場だ。

 メトロポリタン劇場のロビーは着飾った紳士淑女がおりなす華やかなざわめきに満ちている。

 座席係は、何一つ見逃さないがぶしつけに感じさせない熟練の視線でぼくを頭の先から爪先まですばやく観察すると、それでいい、と言わんばかりに満悦の表情でうなずいた。

「――グラッドストン男爵は来てるかい」

「はい。二階の十三番桟敷においでになります」

 座席係が劇場に通じる重い扉を開く。黄色いシャンデリアの光に照らし出された場内は、明るいとも暗いとも言いがたい、独特の非日常的な雰囲気に包まれていた。床は緋色の絨毯に覆われているので、大勢の人間が行き来しているにも関わらず足音ひとつしない。ひそやかな会話、上品な笑い声などが宗教画の描かれた高い天井に、遠い木霊のように反響している。一階の観客席、平土間、そして周囲の壁をぐるりと取り囲むように配置された桟敷。談笑しているのはいずれもパールシー王国の支配階級と呼んでもいい連中ばかりだ。

 この初日のチケットを入手するのは容易なことではない。普通の勤め人の二ヶ月分の給料に相当する金額であるということももちろんだが、初日のチケットを販売してもらうにはある程度の身分、ステータスが必要とされる。いくら金を持っていても新興成金などはお呼びじゃないのだ。

 ぼくはクテシフォン市長ディオン・ザカリアと交渉して(「脅迫して」と言った方が正確かもしれない)、市長の持っていた招待券をぼくに譲らせた。べつにぼくがオペラ愛好家だからというわけではなく、国内の主だった貴族連中が顔を揃えるこの舞台が、どうしても必要だったからだ。

 そう。今夜、この場所でなければならない。

 案内された座席に腰をおろし、ぼくはオペラグラスで場内を見回した。

 二階の三番桟敷にメフィレシア公爵夫妻の姿があった。公爵は神経質な顔つきの小柄な男だ。宮内庁を取りしきる大物というよりは、気の小さい事務員という印象で、あまり威厳のある人物ではない。そして一階の七番桟敷にはベリアル大侯爵。こちらは貫禄の塊のような姿だった。堂々たる物腰、険しい顔つき、強固な意志を伝える大きな目。古代に存したという『獅子』という動物を彷彿とさせる。

 外見こそ対照的だがどちらも国内最高の家柄の貴族だ。首都クテシフォンに近いあたりに広大な領土を持ち、莫大な富と権力をほしいままにしている。彼らに比べれば他の貴族など有象無象にすぎない。

 やがて照明が落ち、オーケストラの前奏が始まった。重々しく幕が上がった。

 「新作」と言っても、バーンウェイのオペラは厳密な意味での新作ではない。古代の文献資料を解析して、はるか昔に失われた芸術作品を現代に蘇らせたものだ。古代オペラを復刻しようとする試みは数多くなされているが、その中でもバーンウェイのものが最も権威があり、最もオリジナルに近いと言われている。単に音楽を蘇らせるだけならスコアさえあればだれにでもできる――バーンウェイが優れているのはその演出手腕においてなのだ。古代資料を徹底的に収集・分析して、彼はありし日の舞台演出をできるだけ忠実に再現すべく心血を注いできた。その結果、彼の舞台には、素朴で壮大な、まさに古代を彷彿とさせる感動が現出している。


  ああ、惑わしにみちたこの歓び!

  おお、まやかしに捧げられたこの幸せ!


 割れるような拍手の中、第一幕が終わった。感動と興奮の余韻が残る場内で観客たちがばらばらと席を立ち始めた。

 ぼくは平土間を横切り、二階へ通じる階段をのぼった。

 十三番桟敷に、ちょうどグラッドストン男爵はひとりでいた。夫人は知己をたずねてよその桟敷へ行ってしまったらしい。男爵は五十代半ばの小太りの男だった。肉のたっぷりついた顔の中で、少し離れ気味の小さな目がきょろきょろしている。回転の鈍そうなその顔には非常に尊大な表情がへばりついていた。

「ジュリア・リーバッハのイゾルデは素晴らしいですね。王国最高のソプラノと言われているのもうなずける」

 挨拶もなく桟敷に入ると、ぼくは男爵に愛想よく話しかけた。

 ぼくを見返したグラッドストン男爵の顔に軽い困惑の表情が浮かんだ。警戒の表情ではない――今夜この劇場にいるということは「しかるべき人々」の一員、上流階級のメンバーであるはずだ、という信頼がやつを安心させているらしかった。だからたとえ見知らぬ相手であっても、ただちに警戒する必要はないというわけだ。ぼくがきちんとした紳士の服装をしていることも、男爵を安心させるのに役立っただろう。

「ああ、思い出したぞ!」

 不意に男爵の眉間の暗雲が解けて、はればれした笑顔が広がった。

「きみはこないだ会った、フォルクマン侯爵夫人の従兄弟の孫か何かだな。えーと、なんとか君という名前の。すまないな、私は重要な立場にある人間で、毎日たくさんの人と会うものでね。いちいち名前と顔を完全に覚えてはいられないのだよ。で、用件は何だったかな。たしか王室近衛兵団に推薦してもらいたいとか何かじゃなかったか……?」

「お会いするのは初めてだったと思いますが。ぼくはクテシフォン市警凱旋門本署のカイトウ署長です」

 ぼくは相手の鼻先で身分証をひらめかせた。男爵の上機嫌な笑顔が曇った。

「クテシフォン市警だと。で、その署長様がいったい何の用かね」

「あなたの屋敷で働いていたハニールウ・トラビスの件でお話ししたいことがあるんです」

 グラッドストン男爵はどうやら、感情の変化がただちに顔に表れる、単純で粗野な人間のようだった。首都クテシフォンに身を置いていても社交界のデリカシーをまだ習得できていない。本質的には第五惑星クールドの僻地に領土を持つ、百姓上がりの田舎者のままなのだ。ハニールウの名前を聞いて、男爵の顔が不快感に歪んだ。怒りで顔が真っ赤になった。

「また、あの女の話か!」

 唾を飛ばさんばかりの勢いで、吐き捨てるように叫んだ。

「ここしばらく、あの小間使いの件で、やたらと警察がうちの使用人たちに探りを入れているようだが。はっきり言って迷惑だ。あんなスラム出身の下等民が、いったいどうだっていうんだ――生きている値打ちもない、ゴミ同然の連中じゃないか。そんなゴミがどうかなったからと言って、地位も身分もある立派な市民をわずらわせてもいいと思ってるのかね、きみ~!? 不愉快だよ。せっかくの初日が、台無しだ」

 ぼくは答えなかった。男爵は嵩にかかって、さらに激昂して続けた。

「帰ってくれたまえ。これ以上うるさくつきまとうと、内務省を通してクテシフォン市長に圧力をかけ、きみを首にすることだってできるんだぞ。私は王国政府の有力な方々とも親しくさせていただいている。一流の市民だ。軽く扱われていい人間ではない」

「あなたは市民じゃない。貴族院議員だというそれだけの名目で、ろくに仕事もしないのに市内に豪華な官邸を与えられているただの居候だ――そしてその価値もないのに、クテシフォン市民の血税で豪奢な生活を維持している、ただのごくつぶしだ」

「なっっ……いま何と言った!?」

 ぼくは男爵に微笑みかけた。

 作り笑いじゃない。心底うれしかったのだ――この男がいやな人間で、破滅させるのに何の遠慮も要らない相手であることがわかって。

 男爵の大声は劇場内にかなりはっきりと響き渡り、多くの人々の注意を引きつつあった。いくつかの桟敷で、オペラグラスがこちらに向けられるのが見てとれた。好都合だ。

 ぼくは男爵の目をしっかりとらえて、一歩進み出た。

「そしてあなたは、ただの犯罪者だ。西区の《胃憩室》という店で《中央》指定の禁制物質である《星砂》をあなたと執事のロシュフォルが購入したのを、法廷で完全に立証することができる。禁制物質売買罪――一年以上五年以下の懲役、あるいは三万クレジット以下の罰金だ」

 男爵の目がやたらきょろきょろ動くので、その視線をしっかり捕え続けるのは難しかった。感情の動揺に従ってその目の動きはだんだん激しくなっていくようだった。

「そして、《星砂》を使って廃人同様の状態にしたハニールウ・トラビスを、東区の売春クラブに売り飛ばしに行った。売春クラブの主人の証言によると、彼女を連れてきた男の人相風体はロシュフォルにほぼ一致する。傷害罪、および禁制物質行使罪だ――七年以上三十年以下の懲役。たとえ初犯でも執行猶予はつきませんよ」

 男爵の目はいまや完全にばらばらになっていた。こんなにせわしなく動いたのでは何も見えていないのではないだろうか。

「ぼくが今夜あなたに訊きに来たのは、犯行の動機です。なぜ危険を犯してまで《星砂》を手に入れようとしたのか。そして、なぜ彼女に《星砂》を使ったのか。単に若い娘をおもちゃにしたかったとか、そういう理由じゃないでしょう。動機は何です?」

「……!」

 しばらく沈黙した後、急に男爵は立ち上がり、ぼくを見下ろした。そして、もはやきょろきょろしてはいない非常に定まった視線でぼくを睨みつけた。

「私があの小娘をどうこうしたという証拠があるのかね。私自身が、《星砂》とかいう禁制物資を使ったという証拠は。――証拠なんて、ないんだろう? あるわけなどない、私は何もやってないんだからな。あの女から《星砂》が検出されでもしたのか? きみは推測で物を言ってるだけだ」

 興奮の限界を越えて、開き直りの境地に達したようだった。そしてたしかに男爵の指摘は的を得ている。つまり投与した《星砂》を検出することはできず、犯罪行為を立証する手段はないということだ。

 ポイントを稼いだことを自覚した男爵は、急に自信を取り戻した不敵な表情でにやりとした。

「学校のお勉強はよくできたのかもしれないが、実社会ってものをまだまだよくわかってないようだな、坊や。そんなつまらない言いがかりじゃ、だれも逮捕することなんてできないよ。さ、わかったら、いい子だからおとなしく帰ってくれ。これ以上大人をわずらわせるんじゃない」

「……わかりましたよ、男爵」

 ぼくはしおらしい態度を装って目を伏せた。そしてゆっくりした動作で、タキシードの内ポケットから虹色の羽根を取り出してみせた。

 グラッドストン男爵の尊大な顔から急速に血の気がひいていく有様は、それだけでもけっこう見物みものだった。

 先ほどまでとは口調を変えて、ぼくは非常におとなしく続けた。

「じゃあ話題を変えましょうか……ベリアル大侯爵の屋敷の書斎で行われている馬鹿げた集会について、なんてのはどうです?」

 ぼくはビロード張りの手すりに肘をついて、劇場内の広大な空間を見渡した。ぐるりと連なった桟敷とその中にいる人々。そして眼下の一階観客席と平土間。桟敷とはそれ自体が舞台のようなもので、場内のあらゆる位置からこの桟敷の様子も見てとれる。

 今夜ここには王党派、反王党派双方の主要なメンバーが顔を揃えているはずだ。

 彼らの視線を引く狙いで、ぼくはわざと目立つように羽根をもてあそんだ。

「今夜も大勢来てますね、あなたのお仲間が。ハートニー男爵、ケレンスキー公爵、それにもちろんベリアル貴族院議長閣下だ。リストはまだまだ続きますが。彼らはなんと思うでしょうね、あなたがこの羽根を持った警察の人間と桟敷で密会しているのを見て。『情報を漏らしている』というのがいちばん自然な解釈でしょう」

 何人の人間が今ぼくを見ているだろう。見まわした限りでは、こちらの桟敷にあからさまな興味を示している者はいなかった。しかし殺気――とまではいかないものの、非常に強い関心をもって何者かに注視されていることが伝わってきて、皮膚がチリチリした。

 羽根はシャンデリアの光を受けて複雑な色彩で輝いた。

「きっ……貴様っ……それを一体どこで……!?」

 男爵が首を絞められているような声をしぼり出した。

 ぼくは男爵を一顧だにしなかった。

「人間、金があって暇だと、本当にろくなことを考えないものだ……ベリアル朝創始、でしたっけ? 陳腐な革命計画だ。独創性のかけらもない。王党派の連中があなた方の計画を知れば、阻止するために全力をあげてくるでしょう」

 場内でいくつかのオペラグラスが照明を反射して鋭く光った。

「だからこそ秘密の保持が重要となる。『沈黙の掟を破る者には死の制裁を』……そうでしたね、男爵」

 ぼくは羽根をポケットにしまって振り返り、にっこりした。

「あなたはもうおしまいだ。ぼくが逮捕する必要さえない。あとは、あなたのお仲間がけりをつけてくれるでしょう……ずいぶん血に飢えた方々のようだから」

 異常なほどの激しい動きで男爵の瞳が左右に揺れていた。その動きが、不意に止まった。男爵は追いつめられた獣の切ない視線でぼくを見据えた。かと思うと、喉の奥で低いうなり声を発して、飛びかかってきた。

 なんの訓練も受けていない鈍重な動作だ。そんな攻撃をかわすのは簡単なことだったが、ぼくはあえて男爵に一発殴らせた。

 さほどこたえた様子もなくぼくが立っているのを見て、怯えた表情になった男爵に向かって、

「公務執行中の警察官に対する暴行、か――落ちるところまで落ちましたね、グラッドストン男爵」

 そして、相手の太った腹を殴りつけた。無防備に近い胴体に、気持ちいいぐらい深々とパンチが決まった。男爵の体が二つに折れたところで、その後頭部に肘を叩き込む。男爵は床に倒れた。

 ぼくは何度か男爵の腹を蹴った――慎重に狙いをつけて、いちばん苦しい所を。やつは身をかばうように手を上げて、哀れっぽいうめき声をあげ続けているが、ぼくは容赦しなかった。急所に蹴りがきまるたび、ぐうっという声とともに男爵は泡を吹いた。

 ぼくはやつが気絶する寸前のところでやめた。

 意識を失ってしまえば楽になれる。この男にそんな楽をさせてやるつもりはない。

 貴族院議員グラッドストン男爵は苦しみのあまり高価な絨毯の上に嘔吐した。刺すような酸っぱい匂いが桟敷内に立ちこめた。身を起こそうとして失敗し、反吐(へど)の上に倒れ込んだ。

 ぼくは非常にひややかな気分でやつを見下ろした。

 自分の吐いた反吐の中で転がりまわる。それこそが男爵の実体にふさわしい有様だと思えた。

「今のはもしかして、パフォーマンスのつもりだったんですか? 自分は警察の内通者ではない、とお仲間にわかってもらうための……」

 ぼくは男爵に問いかけたが、答えを期待していたわけではなかった。すぐに答えられる状態ではないはずだ。

「無駄ですね。羽根の出所がどこであれ――連中にとって、あなたはもはや、切り捨てなければならない厄介者だ。重大な陰謀に荷担していると警察に把握された人間。もう役には立たないし、それどころか、このまま生かしておけば反王党派にとって不利になる情報をぺらぺら喋りかねない時限爆弾だ。さっそく口封じに来るでしょう。『われらの秘密はいかなる手段を講じても守られなければならない』……」

 桟敷の入り口で不意に悲鳴があがった。

 装飾品の重さに押しつぶされそうに見える、やせっぽちの中年女が立っていた。戻ってきた男爵夫人らしい。

 ぼくは夫人に身分証を示した。

「警察です。少しのあいだ、席を外していてもらえますか。ご主人と大切な話がありますので」

 男爵夫人は唇を震わせて、しばらく夫とぼくとを見比べていたが、やがて上流婦人にあるまじき勢いで通路を走り去って行った。

「た……助けてくれ……」

 床に転がったまま、男爵がか細い声をあげた。高価なタキシードが吐瀉物の粒で汚れていた。

「きみの言う通りだ……このままでは私は殺される……保護してくれ、警察の手で……」

「お断りします」

 きっぱりと、ぼくは答えた。

「さっきも言ったとおり、あなたはクテシフォン市民じゃない。それどころか、権力目当てにこそこそ陰謀を企み、当市の治安を乱そうとしている犯罪者だ。そんな人間が仲間割れで命を狙われているからと言って、なぜ警察が動く必要があります? 自業自得じゃないですか。……金ならあるんでしょう。勝手にボディガードでも何でも雇えばいい」

「たのむ……そんな生やさしい人たちではないんだ。そこらへんのボディガードで防ぎ切れるような相手ではない。助けてくれ、頼むから。私はまだ死にたくないんだ……」

 ぼくは生ぬるい不思議な戦慄が全身を包むのを感じながら、反吐まみれの男爵を見下ろしていた。

「市警本部でもっとも警戒堅固な場所を教えましょうか? 地下六階の重犯罪者専用特別留置場だ。あなたのお仲間がどんな腕の立つ刺客を抱えていようと、さすがにそこまでは手が出せないでしょう。そこに、入りたくはないですか? 命が惜しいんでしょう?」

 男爵は急に電撃に打たれたように激しい動作で顔を上げた。

「まっ、まさか、きみはっ……初めからっ……! 信じられん……そんなことのために? あんな下層民の小娘ひとりのために? 貴族院議員であり農業政策委員会副委員長であるこの私を? ……そ、それが警察のすることか!?」

「自白しなさい、男爵。ハニールウ・トラビスにいったい何をしたのか」

 とっておきの優しい声でぼくは促した。

「そうすれば禁制物資売買罪および行使罪で緊急逮捕して、特別留置場に入れてあげますよ……大勢の警官に守られた安全圏にね。ああ、あと、さっきぼくを殴ったので公務執行妨害罪も追加されますが。どうします?」

 場内の照明が落ちて、第二幕が始まった。オーケストラに乗ってジュリア・リーバッハ嬢のうっとりするようなソプラノが場内を満たす。

 グラッドストン男爵はしばらく四つんばいになった態勢のまま首を垂れていた。

 ぼくは黙って男爵のみじめな姿を見下ろしていた。

 ――そもそも西区は貴族が足を踏み入れるような所じゃありません。いくら三流の貴族でもね……。

 ――あんなスラム出身の下等民が、いったいどうだっていうんだ。生きている値打ちもない、ゴミ同然の連中じゃないか……。

『一生懸命、まじめに生きていれば、絶対にいいことがあるわよ。神様が必ず見ていらっしゃるわ』

 そう言ってにっこり微笑むハニールウの顔が不意にぼくの眼前を横切った。涙が出るほどまぶしく。おかしな話だ、そんな情景はここ数年思い出したこともなかったのに。

「西区で不法に購入した《星砂》を彼女に投与しましたね?」

 ぼくは尋ねた。男爵は涙と反吐に汚れた顔でうなずいた。

「あなたがじかに手を下したんですか? それとも執事のロシュフォルにやらせたんですか?」

「ロシュフォルに指示してやらせた。私はその場に立ち会っていた。《星砂》投与後どういう反応が起こるか、あとで報告しなければならなかったから……」

「報告? だれにです」

 男爵は答えなかった。ぼくたちの声が耳触りなのか、場内のあちこちでしっしっという抗議の声があがった。

「……たしかに私は《星砂》をあの小娘に投与した。残った《星砂》は私の屋敷の地下室に保管してある。その隠し場所も白状する。これでいいだろう? 逮捕してくれ」

「動機は何です。なぜ彼女にそんなことを?」

 男爵が答えるまでに非常に長い間があった。

「…………私はあの小娘を抱いた。処女だったが、薬の影響で、まるでみだらな娼婦のようになんでも言うことをきいた。面白いように。これでいいだろう? これが動機だ。それ以外に何もない」

 男爵の眼球は激しく動き続けていた。

 なにか隠していることは間違いない。しかし今はこれ以上の自白を引き出すことはできないだろう。

 ぼくは四つんばいになった男爵の顎を下から蹴り上げた。

 歯が折れた感触があった。男爵はきりきり舞いして床に再び倒れた。

 舞台では相変わらず壮大な架空のドラマが進行中だった。イゾルデの美しい歌声が響いた。


  夜の静寂のなかで

  私に笑いかけるのは泉だけ


 ぼくは瞼の裏のハニールウの面影に向かってつぶやいた。

 神様なんて、あてにはならないさ。現世の罪には現世でけりをつける。この世の犯罪を裁くのは神ではなく人間だ。

 暗い劇場の中で、舞台の上だけがくっきりと色彩を帯びて明るかった。イゾルデと侍女のやり取りはまだ続いていた。しかし恋に盲目となった姫の激情よりも、第一幕の終りの彼女の叫びの方がより深くぼくの心に突き刺さっていた。


 ――私は生きなければならないの?


 生きなければならないのか、このぼくは……?

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