第6章(2) アンドレア・カイトウ署長
並外れた長身の男だ。はるか高い所にあるその頭には毛髪は一本もない。ゴムのように柔軟に伸縮する漆黒の肌。白眼部分のほとんどない、切れ長の真っ黒な瞳。それらがこの男の顔に、ひどく作りものめいた印象を与えている。年齢は三十代前半から五十代後半までの何歳にでも見える。
「正式の抗議に来るって時刻じゃないな。ちゃんと秘書にアポイントメントをとって、明日以降にでも出直してくれ」
「そ~んな、冷たいこと言わないでよ~。あんたとまともにアポイントメントをとろうと思ったら半月先になっちまう。アポをとっても、すっぽかされるのなんて日常茶飯事。そうだろ?」
中佐の口調は急に崩れた。
この男は表向き広報担当将校ということになっているが、じつは防衛軍情報部の幹部クラスだ。飄々たる外見の下に危険で冷酷な本性が潜んでいる。ふだんはめったに表立った動きをしない男だが、それがわざわざこうやって市警本部まで出向いてきたということは、なにか魂胆があるんだろう。ぼくは用心したまま相手を見返した。
トーゲイ中佐は、こちらが勧めもしないのに勝手にソファに腰をおろすと、
「私の部下たちを釈放してくれ」
と繰り返した。
「ひどいじゃないか~。一週間も拘束して、弁護人の謁見も認めないなんて」
「著しく捜査に支障をきたす可能性があると警察署長が認めるときは、被疑者に対し弁護人との謁見を許可しないことができる。刑事手続法第千百十二条だ。不服があるなら行政裁判でも起こすんだな」
「うわっ、まさしく警察の横暴だな~。だけど、弁護人がどうのこうのって言いたいわけじゃないんだ。うちの連中、法に触れることは何もやっていない。それなのに、そもそも、なぜ拘束するのよ?」
「法に触れる行為をやってないかどうかは警察が判断する。わかってないようだな……奴らはポーキー記者殺人未遂事件の重要参考人なんだぞ? 早い話が容疑者ってことだ。事件直後に現場から逃走するところを目撃されている」
「やったのは、うちの連中じゃない」
「じゃあ、だれだ?」
トーゲイ中佐は不意に口をつぐんで真っ黒な瞳でぼくをみつめた。その目はビーズ玉のようにきらきら光っていて、思想も感情も映していない。ロボットに凝視されているような気がした。
「……確認できなかった。確認してる暇がなかったんだ。銃を持った刑事が血相変えて駆け寄ってきたもんで、うちの連中はとりあえず急いで逃げるしかなかった。――私の部下はグラッドストン男爵監視の命令しか受けてない。ポーキーなんて、はじめっから全然関係ないんだ。殺そうとする理由がないじゃないの」
「信用できないな。その程度の説明じゃ」
「……わかった。全部話そう。部下のためだ。本当は極秘事項なんだが、まあ、あんたと私の仲だから」
もったいぶるなよ、とぼくは言ってやった。中佐のことだから、部下の釈放を買うためにどこまで情報を漏洩するか、あらかじめ十分計算してからここへ来たはずだ。セリム・トーゲイ中佐は情報の価値というものを正確に判断できる人間なのだ。
中佐は長い脚を派手な動作で組み直して、のんびりと話し始めた。
「私たちが今興味を持っているのは、この街の貴族連中の動きなのよ。いちおう、『貴族』と名のつく連中はみんな王国貴族院に議席を与えられている。そして貴族院開会中は当クテシフォン市にある公邸で暮らしながら、パーティだの狩りだの、贅沢で非生産的な活動に明けくれてるわけだが……中に若干、見過ごせない動きをしている輩がいる。《王党派》《反王党派》と名乗る集まりのことは、聞いたことがあるだろう?」
ぼくはうなずいた。
「まあ、噂だけは、な」
「王党派はいわば現状維持派といってもいい。たとえ今の王家がどんなに腐り切っていようと……国王がいかに脆弱で無能であろうと……現状の秩序を維持するために王家をしっかり支えていこうと決意してる、宮内庁を中心とする集まりだ。トップは宮内庁長官のメフィレシア公爵。その周りに毛並みのいい有力貴族たちが寄り集まっている。なかなかよく頑張ってるよ、彼らは。宮内庁は優秀な組織だ。国王の足りない部分は自分たちで補っていこう、とでも思ってるんだろうね~」
中佐は席を立ち、室内を歩き回った。そして不意に足を止め、窓の外の夜景にひどく興味を持ったふりを始めた。
南の方に、紫色に輝く王宮が見える。黒々とした森に囲まれた国王クレハンス十三世の居城。その周囲には貴族たちの官邸がひっそりと眠りについている。
「対する反王党派の方は、なかなか刺激的な連中さ。今の王家はパールシー王国そのものをだめにしてしまう、と主張し、それに代わる新体制をいろいろ研究している。いずれも現王制の打倒が前提になっている。ま、ようするに革命よね。リーダーはなんとあの超大物、ベリアル大侯爵様だ。すごいだろう? わが国を代表する二大貴族が、こうして真っ向から衝突する勢力を率いているというわけなんだ」
中佐は夜景を眺めるのをやめて振り返り、気味の悪い笑い声をたてた。
「まったく、おめでたい連中じゃないか? 彼らはもともと自分のものではない椅子を奪い合ってるんだからな、しかもそれと気づかずに。王国を統治するのはだれか、というのが彼らの最重要の関心事なんだ。――王国など邪魔な飾り物にすぎないと考えている人間が、このクテシフォン市には大勢いる。そういった人間が爆発して、当市を王国から独立させたら、アホな貴族どもの椅子取りゲームなんてとたんに無意味なものになっちまうんだが……彼らにはそれがわかってないんだ。王国政府の統治は永続的であるなんて無邪気に信じこんでる」
「王国は飾り物にすぎないと考えている人間とは……具体的に言うと、防衛軍幹部という意味か?」
「いやっ。いやいやっ。違うよ。誤解しないでくれ。防衛軍はつねに中立だ」
中佐はあわてて手を振ってぼくの言葉を否定し、また説明に戻った。
「ここ一年ほどなのよ。その反王党派の活動がにわかに活発化し始めたのは。どうやら大侯爵様が本格的に革命を準備するつもりになったらしい。まあ、あの方も老い先短いからね。自分が権力を握るために残されている時間はあまりない、ということが急に実感できたんじゃないの~。定期的に会合を持ち、なにやら相談を進めている」
そこで急に、まじめな表情でぼくを見据えた。
「こんな勝手な動きを、私たちが捨て置けないってことは、わかるだろう? 警察とはまた違った意味で、クテシフォン市の秩序を守り主権を防衛するのがわれわれ軍の仕事だ。革命の企ては、当市の秩序に対する重大な脅威だ。――あまり詳しくは言えないんだが、グラッドストン男爵は王党派・反王党派の対立において重要な役目を果たしている。それで、うちとしては、男爵にずっと監視をつけていたわけなのよ」
ぼくは中佐のポーカーフェイスの陰に隠されたものを読み取ろうと、しばらく無駄な努力をした。
中佐の言葉はおおかたのところ真実だろう。この男はぼくに偽情報をつかませるほどの馬鹿じゃない。しかし重要なのは語られた内容よりもむしろ語られなかった事柄の方だった。
防衛軍の情報部が貴族の動向を探っているのは、おそらく、もっとも自分たちに有利になりそうな勢力を見極めるためだろう。昔から防衛軍がクーデターを起こして当市の権力を握りたがっているのは周知の事実だ。連中には節操という概念は存在しない。自分たちの「影響力」を拡大するために役立つものなら、何にでも飛びつく。王党派・反王党派のどちらに荷担するのが有利か、こっそり探っているのに違いない。
また、グラッドストン男爵が王党派・反王党派のいずれに属しているのか、中佐が明言を避けたことにもぼくは気づいた。
「それだけでは、あんたの部下がポーキー記者を殺そうとしなかったことの証明にはならないぜ? やつが軍にとってまずい情報をつかんで記事にしようとしたもので、口封じを図った、とも考えられる。そうだろう? たとえば防衛軍と反王党派が手を結んでクーデターを計画しているとか……」
「やだな~、もう。そんなはずないじゃないの。この際だから打ち明けるよ、パールシー・タイムズ紙の編集部長はうちの息のかかった人間だ。だから都合の悪い記事を握りつぶすのにわざわざ記者を殺す必要なんてないんだよ」
夜空を背にして立つトーゲイ中佐は、そのまま背景に溶け込んで消えてしまいそうに見えた。防衛軍の軍服は黒なので、なおさらだった。闇に溶け込む容貌。情報部員にはうってつけだ。
中佐がにやりと笑うと不意に真っ白な歯がのぞいた。漆黒の肌に歯の白さが際立っていた。
「言っとくけど、王党派だってそれほどおとなしい連中じゃないよ。《影の軍隊》って聞いたことない? 歴史の暗部に見え隠れする伝説の暗殺部隊。王家に害を及ぼす人間、国王にとって目ざわりな人間をひそかに抹殺してきた戦闘員どもだ。ただの伝説だと思われてるけど、実在してるんだよ。王党派はそういう暗殺者を使って、これまで王家を守ってきたんだ。その《影の軍隊》ってのはどうやら世襲制らしくてね。何百年にもわたって、王党派の手先として、汚い仕事を一手に引き受けてきた一族らしい。よくやるよね~、そんな陰気臭いこと」
「このクテシフォン市でそんなプロの犯罪集団が野放しになってるっていうのか?」
「うわっ、こわい顔するなよ。私たちの把握しているかぎり、ここ数年《影の軍隊》が首都で活動した形跡はない。彼らなりに、陛下のお膝元を血で汚しちゃいけないっていう遠慮があるんじゃないかな――活動はもっぱら地方だ。議会の会期が終わって所領へ帰った貴族を暗殺したり、ね」
トーゲイ中佐は愛想のいい表情になって、ひょいと片眉を上げてみせた。
これでどうだい?と言わんばかりだった。
「ようするに、あの記者を狙う動機のある人間は大勢いるってこと。グラッドストン男爵の周辺をかぎ回ってるうちに、彼、だれか大物の尻尾を踏んづけちゃったんじゃない? 王党派か反王党派かはわからないけどさ。防衛軍はこの件に関しては傍観者であって、関係ないから」
「……」
しばらく考えた後ぼくはデスクトップで担当者を呼び出し、拘留中の二人の兵士の釈放手続をとるよう指示した。
中佐はゆっくりとぼくのデスクに歩み寄ってきた。足音を完全に消し、空気さえほとんど動かさない影のような移動ぶりが、この男の血なまぐさい日常を物語っている。
そして身をかがめて、じっとぼくの顔をのぞき込んだ。
「考えごとをしてるときのあんたの目、とっても素敵だ。……何を考えてる?」
「今夜のあんたはやけにおしゃべりだな、と考えてるところだ、中佐」
「機嫌がいいのよ。給料日が近いもんでね」
「おしゃべりついでに、もう一つ教えてくれ。この羽根が何なのか、心当たりはないか?」
そう言ってぼくは、ポーキー記者がよこした人工の羽根を中佐に示した。
とぼけようとしたらしいが、中佐は視線の揺れを一瞬隠しそこねた。見覚えがあるんだろう、と突っ込んでやると、困ったような顔をした。
「それを訊くのか? う~ん、まいったな。そこから先は内緒にしとくつもりだったんだが……」
「いつでも取り消せるんだぜ、あんたの部下の釈放手続。どうするんだ?」
「ひどいなー、情報ならもう十分提供したじゃないか」
中佐は不意に手を伸ばし、指先でぼくの顎を軽く持ち上げた。顔を寄せてきたかと思うと、湿った囁き声で、
「――今晩つき合ってくれたら、羽根のこと教えてやるよ。それから他のいろいろなことも。どうだい、悪くない取引だろう?」
ぼくは中佐の手首をつかみ、肘関節が外れるぎりぎりのところまで逆方向へねじり上げた。中佐は悲鳴をあげた。
「うそ、うそ、うそ。冗談だってば。悪かった。許して」
「未成年者強制猥褻未遂罪の現行犯で逮捕されたいのか。部下と入れ替わりに、今度はあんたが拘置場行きってわけだな」
「ずるいよ、こんなときだけ未成年面するの……!」
ぼくは中佐の手を離してやった。中佐は痛む手首をさすりながら話し始めた。
「毎週清明日の夕方、ベリアル大侯爵邸の書斎でブリッジを楽しむ会が開かれている。内密な集まりということになっているので、出席者はみんな仮面で顔を隠して、紋章のついてない馬車に乗って現れる。この羽根は、その仮面の両端についている飾りさ。もちろんブリッジなんて表向きで、本当は反王党派の連中の政治集会だ。書斎の入口には屈強な体格をした従僕が二人立っていて、正規のメンバーしか中に入れないよう警護してる。なかなか用心深いよ」
「反王党派の集会、か……」
するとグラッドストン男爵は反王党派の一員、ということだろうか。
ぼくはトーゲイ中佐が脅しに屈して口を割ったなんて信じていない。中佐はタフでしたたかな情報部のベテランだ。今夜ここへ来てしゃべった事実は、すべて防衛軍情報部が――あるいは中佐個人が、ぼくに知らせておいた方が好都合だと判断した内容であるに違いなかった。(中佐は、ぼくに情報を提供することによって間接的にではあるが市警の動きをコントロールできるという事実さえ、軍内のパワーゲームで自分の立場を有利にするための切り札として使っているような人間なのだ。くえない男だ)
何が狙いなのか?
王党派と反王党派の対立に警察の目を向けさせて、いったい何のメリットがある?
ベリアル大侯爵邸の書斎に盗聴機を仕掛けてほしい。
ぼくがそう告げると、バーンズ副署長の丸い目が飛び出しそうに大きくなった。
「毎週その書斎で貴族たちの密会が行われているらしいので、会合の内容を知りたいんだ。市のエネルギー管理局に手を回して、大侯爵邸への送電を一時止めさせる。そうすれば停電の修理に来た電気工のような顔で邸内へ入れるだろう。週末まで大侯爵は所領へ戻っていて留守らしいから、その間がチャンスだ」
バーンズはまだ目を丸くしたまま、二の句がつげない様子だ。ベリアル大侯爵の名前がよほどショックだったんだろう。ぼくは構わず言葉を続けた。
「だれか特務課の人間にやらせてくれ――言うまでもなくこの命令は非合法だから、念のためこの命令書を渡しておく。上官であるぼくに強制されてやむを得ず行ったことを証明する書類だ。これがあれば、万が一大侯爵邸への不法侵入が発覚して問題になっても、きみたちは法的責任を問われずに済むはずだ」
バーンズはまだ黙っていた。ぼくは相手の目をまっすぐ見て、しめくくった。
「もちろん、きみには断る権利がある。どうする?」
市警本部ビル二十五階にある特務課のオフィスがガラス越しに一望できる課長室は、ブラインドから差し込んでくる斜めの日光であたたかく照らし出されていた。
バーンズは五十代前半の大男だ。縮れ毛に縁取られたその四角い顔は、ぬいぐるみの熊のようにユーモラスな、愛敬のある表情を浮かべている。だが、人の良さそうな外見に騙されてこの男を甘く見た人間は高い代償を払わされる羽目になる。
バーンズは三年ほど前まで特務課の課長だった。捜査中に撃たれて下肢の自由を失ったため、現場を退いて副署長という管理職になった。しかし特務課のくせ者連中を統率できるのはこの男しかいないので、いまだに特務課の責任者を兼務している。七十七階にいちおう副署長室を持ってはいるが、勤務時間のほとんどをこの特務課のオフィスで過ごしているほどだ。
バーンズは疲れたように溜め息をついた。
「もし私が断ったら、どうするんです?」
ぼくは肩をすくめた。
「空いている時間にでも、ぼくが自分で盗聴機を仕掛けに行くさ。今週はちょっとスケジュールが詰まってるんだが……」
「ああっ、もう。そう言い出すだろうと思ったんだ。貴族院議長の官邸に不法侵入する警察署長がどこにいるんですか!?」
バーンズは立ち上がり、ぼくの手から命令書をひったくった。
「ブレアとコモナスにやらせます」
窓越しに特務課のオフィスを見渡して、きっぱりと言った。ぼくもなんとなく相手の視線を追い、ガラスの向こうのブレア警部補と目が合った。ブレアはまるで自分が話題にのぼっているのを察知したかのように、一心にこちらをみつめていた。濃い睫毛をおかしな具合にしばたかせている。その隣でヘンリー・コモナスが、神経質そうな物腰で、デスクトップに向かって作業中だった。
ぼくは視線をバーンズに戻した。
「コモナスならおあつらえ向きだな。完璧に、電気屋に見えるよ」
「それにしても今回はずいぶん大物を相手にするもんですね? ベリアル大侯爵とは! ひとつ間違えば署長だって首が飛ぶだけじゃ済まないですよ。雲の上の巨人なんだから、あの人は……」
バーンズは再び腰を下ろした。その振動で、デスク上のデータシートの山が崩れそうになった。
「あなたはもう少し、自分を大切にすべきですよ、署長」
急にバーンズの声の調子が変わった。
ぼくは無言で相手を見返した。バーンズ副署長は、署内で(それを言うなら全クテシフォン市内でも)ぼくに説教できる数少ない人間の一人だ。
「あなたを見てると……なんて言うか、まるで自滅したがってるみたいだ」
「ぼくは保身には興味はない。相手が権力者だからって、それがどうしたと言うんだ?」
「今回の一件だけじゃありません。誘拐犯のアジトに乗り込んで行って撃ち合いをやらかしたり、スラム街で立ち回りを演じたり……メチャクチャだ。いいですか。三年前の私なら、クテシフォン市警の一員であるとプライドを持って言える日が来るなんて、想像もできなかった。賄賂や汚職がはびこって腐り切っていた市警をここまで立て直したのは、あなたの功績です。市警にはまだ、あなたが必要なんです。どこかの悪党に殺されたり、貴族の圧力で免職されたりしたら困るんですよ」
そう言ってバーンズは、命令書を破った。むしゃくしゃする感情をぶつけるかのように、データシートを入念に細かくちぎり、破片をはらはらとデスクの上にまき散らした。
「……そんなことばかりしているから、この部屋はいつまでたっても片づかないんだぞ」
ぼくはつぶやいた。相手の激しい感情の発露に内心とまどいながら。
「こんな命令書、必要ありません」
バーンズの声には諦めがこもっていた。
「うちの課の連中はバレるようなへまはやりませんから。署長の非合法な命令にも、もう慣れっこですしね」
翌週、清明日の夜遅く。特務課のオフィス。
ぼくはバーンズ副署長と共に、数時間前ベリアル大侯爵邸の盗聴機が送ってきた音声に耳を傾けていた。部屋の隅にはコモナス巡査部長もひっそりと控えている。
「ここです、ここからがすごいんですよ。もぉ、びっくりしちゃいますからぁ」
ブレア警部補がデスクトップを調節すると不意に会話が明瞭に聞こえてきた。
例の、大侯爵邸の書斎で行われている「ブリッジを楽しむ集い」の音声だ。椅子を引く音、陶磁器の触れ合う音などにまじって、ひときわはっきりと早口の会話が響きわたった。
「クレハンス十三世陛下はいずれにしても、もう長くはないだろう――そうなれば王位を継承するのはエヴァンジェリン様だ。諸君もご存じのように、エヴァンジェリン様は意思薄弱で、君主としての明晰な決断力など到底期待できないお方だ。当然、国政は妹のシスティーン様を中心に動いていくことになろう。ところがシスティーン様はあのメフィレシア公爵の息子に熱を上げている。いずれは結婚するのではないかという噂さえある。信じられるか? また何年も、何十年も続くのだ、公爵が思うがままに権力をふるう時代が……! 宮内庁をすでに私物化したあの男は、今度は息子を通じて国政に直接影響を及ぼすことになる」
「そして我々はいつまでも日陰の身。そういうわけだな?」
「許せない! メフィレシアのやつは、私の息子の任官の妨害までしたのだ。自分の甥を良い地位に就かせるために……。やつらの横暴は目に余る」
「宮内庁はこのところ王宮内部でますます影響力を強めている。このままでは我々反王党派が完全に国政から排除されるのは時間の問題だぞ。そのうち、我々は宮廷舞踏会にも招かれなくなるだろう。そんな屈辱にはとても耐えられそうにない」
貴族たちは口々に不服を並べたて、しばらく場内は騒然とした。
ぼくはちらりとバーンズに視線を投げた。バーンズは表情たっぷりに片眉を上げてみせた。
不意に、静寂が訪れた。やがて議会中継などで聞き覚えのあるベリアル大侯爵の渋い、威厳に満ちた低い声が流れてきた。
「王家の人間に、君主としての資質が欠けていることが問題なのだ。病弱、気まま、意思薄弱。君主としての自覚と責任感の不足。刹那的な享楽第一主義。国を率いるに必要な長期的ビジョンの欠如。そのような人間たちを戴いているから、小ずるい周囲の者どもが権力を伸ばし、国政を腐らせゆがめていくことになる。
今パールシー王国は崩壊の危機にある。自由都市間の紛争が絶えず、国家としての統合を失いつつある。それは君主が弱体化しているからだ。王国全土を統治するだけの権威を持ち得ないからだ。諸悪の根元はメフィレシアとその取り巻きどもではない……力と権威を失った王家そのものが問題なのだ。
今わが国に必要なのは強力な指導者。明晰な意思とビジョンを持って国家をまとめ上げ、導いていく力を持った新しい君主だ。もはや一刻の猶予もならない。かねてから話し合っていたあの計画を、実行に移す時が近いようだ」
おおっ、という歓声が響き、拍手がぱらぱらと起こった。
「国王陛下の崩御をきっかけとして、我々は始動する。まずエヴァンジェリン様とシスティーン様を説得して王位を放棄していただく――姫君たちに手荒な真似はしたくはないが、手段は選んでいられまい。同時にメフィレシアとその一党を暗殺する。そうして私が新しい国王に即位し、諸君が新王国政府の要職を固める。ベリアル朝の創始だ……我々がパールシー王国を新たなる高みへ導くのだ」
すさまじい拍手の嵐で、しばらくは大侯爵の声もかき消されるほどだった。
「陛下の崩御を待ち望んでいるのはメフィレシアだけではない、ということだ――我々にとっても、それが行動開始となるのだ」
拍手、歓声。テーブルを叩く音。
バーンズ副署長が感嘆の口笛を吹いた。
「『ベリアル朝』? こりゃあ過激だ」
しばらく興奮した貴族たちの決意表明、計画への支持、王党派への呪詛などの声が続いた。だれもが怒鳴りたてているようだった。ブレアが再生音量を少し下げた。
ベリアル大侯爵が話し始めると、座が静まりかえった。大侯爵は貴族たちの間にあって圧倒的な指導力を誇っているらしかった。
「秘密の厳守が肝要であることは言うまでもなかろう。メフィレシアとて、むざむざ暗殺されるのを待つような腰抜けではない。我々の計画を知れば必ず妨害のための手を打ってくるだろう。諸君、慎重にふるまってくれ。我々の秘密はいかなる手段を講じても守られなければならない……」
「沈黙の掟を破る者には、死の制裁を」
貴族たちがいっせいに唱和した。
子供じみた秘密結社ごっこだ。しかし、ぼくは笑わなかった。盗聴機を通してさえ伝わってくる彼らの気違いじみた真剣さが、ぞっとするような不気味な余韻を残していた。
ブレアが録音の再生を停止すると、室内の静けさが際立った。ぼくらは四人とも口をつぐみ、事態の深刻さを咀嚼していた。
「なんだかものすごいことを言ってましたが、本気ですかね、この人たち?」
「初めの方の、メフィレシア公爵の悪口の部分は本気らしかったですね。感情こもってましたもの」
ことさらに冗談めかした口調で、バーンズとブレアがつぶやいた。
「ピンチの時ほど軽口を叩く」というのがクテシフォン市警の刑事たちの伝統だそうだ。もっとも特務課の連中がその伝統を守っているのかどうかは定かではない。この連中は、ピンチであろうとなかろうと、常に軽口ばかり叩いているからだ。
「どぉします、これから……?」
「叩きつぶす。当然だろう」
ぼくは即答した。ブレアの目に、ほっとしたような色が浮かんだ。
「ああ。やっぱり。訊くまでもありませんでしたね」
「この会合の出席者を具体的に割り出してくれ。貴族院の議会中継と声紋を照合すれば、ほぼ特定できるだろう。この録音は非合法な方法で入手したものなので、法廷での証拠としては使えない。だから連中に対してすぐに手を打つわけにはいかないが……野放しにしてはおけないからな」
何年か前から貴族の間に派閥ができていることは、承知していた。その派閥同士の反目が年々激化していることも。しかしごく最近までは、宮廷晩餐会の座席の序列をめぐる対立、といった低レベルのものでしかなかったはずだ。貴族連中が不穏な動きを見せているというトーゲイ中佐の言葉は、真実らしかった。
声紋照合の結果「ブリッジを楽しむ会」の参加者リストが確定した。反王党派の危険分子リストということだ。ベリアル大侯爵を中心として、きらびやかな肩書を誇る貴族たちの名前が並んでいる。
グラッドストン男爵もその中に含まれていた。
ほぼ同時に羽根の分析結果が科研から上がってきた。第五惑星クールドの赤道周辺に生息するアカクビワシという鳥の初列風切羽を模して作られたもので、材質はケルロンという人工素材の一種。羽板に特殊な塗料が塗られていて、一定の周波数の光を当てると、文字が浮かび上がる仕掛けになっていた。いわく、『血の団結』。
どこまでも芝居がかった連中だ。おそらくこの羽根を書斎に入るための身分証としているのだろう。
王都にうごめく革命の企て。目的達成のためなら血を流すこともいとわない、狂った野心家どもの集まり。
こうなってくると、クリス・ポーキー記者を襲ったのは反王党派の手先であるというのが最も可能性の高い推測だ。グラッドストン男爵をマークしているうちにクーデター計画の存在を察知して、反王党派に消されかけたのだと考えられる。
それはそれで捨て置けない問題だ。
しかし反王党派の連中を本格的に料理する前に、ぼくには片づけておかなければならないことがあった。




