第6章(1) アンドレア・カイトウ署長
パールシー王国は三つの可住惑星と四つの非可住惑星を擁する中堅の星系国家だ。
首都クテシフォン・シティは第四惑星ガリアに置かれている。首都には国王クレハンス十三世陛下の宮殿があり、国王の下に、クテシフォン執行部と呼ばれるパールシー王国政府が存する。王国議会は一院制で、選挙ではなく世襲により地位を獲得した終身議員から成る貴族院だ。その貴族院で選出された有力貴族によって執行部が構成されている。この構図は過去数世紀にわたって変わらない。世襲性の王家と貴族たちによる支配――まあ、銀河連邦加盟国家としては珍しくない形態だ。
パールシー王国の特異な点は、王国政府の権限が著しく弱いということだ。
三つの惑星に散らばった約三百の自由都市は、それぞれ独立国に等しい強大な自治権を認められている。立法、行政、司法を都市内で自律的に行っている。軍隊さえ所持しているのだ――他の自由都市による侵略から自都市を守るための防衛軍。
そのほかに、各惑星には貴族の所領が点在している。その数およそ二百五十。所領内にはたいてい法律らしきものは存在せず、領主である貴族の専制がまかり通っているのが現実だ。
伝統的に、境界線をめぐって自由都市や貴族領の間で武力紛争が絶えず、王国内の秩序は混沌としていた。
そういった国内の諸勢力の利害関係を調整し、調和のとれた国の発展をめざすのが、クテシフォン執行部の使命である。またパールシー王国としての外交と国防も、クテシフォン執行部が行っている。
しかしここ数十年――クレハンス十三世の治世になってから特に、国内におけるクテシフォン執行部の影響力は急速に低下している。逆に言うと、自由都市や貴族たちが力をつけてきているということだ。クテシフォン執行部が諸勢力の調整機能を失っているので、その結果として、王国内では戦争が多発している。強力な地上軍を備えた自由都市や貴族領同士の全面戦争だ。
戦乱がパールシー王国の経済に悪影響を与え、先の見えない不安感や閉塞感が広がるにつれて、「クテシフォン執行部など何のために必要なのか」という声が、一般民衆の中でますます高まっている。それぞれの都市は完全に独立した小国家として機能しているのだから、何も王国などというものを戴く必要はない、というわけだ。
過去にいくつかの自由都市がパールシー王国からの分離独立を企て、『内乱』を起こしてきている。王国政府軍(貴族たちの連合軍)によっていずれも鎮圧されたが。
そして近年、ここクテシフォン・シティでも不穏な動きが起こり始めている――首都である当市は、クテシフォン執行部を維持するために必要な費用の大半を予算から支出しているのだ。宮内費、貴族院議員や執行部官僚への歳費や諸手当、などである。市民の間には不満がふくれ上がり始めている。なぜ我々の税金が、役にも立たない王国政府のために使われているのか? という不満だ。
「クテシフォン・シティを王国から独立させよ」と主張する分離独立派の活動が最近にわかに活発になり始めている。王国のくびきから逃れ独立国となった方が、より効率的な市政運営が可能であるという主張で、低所得者層の多い西区を中心に多くの市民の支持を集めている。
西区は当市の火薬庫と言ってもいい。西区の住民の平均所得は、市内全体平均と比べて約三分の一。成人識字率は十五パーセント。教育を受けていないため、高い収入が得られる仕事に就くチャンスもなく、いたずらに貧困への不満と憎悪をくすぶらせる住民。新聞も読めず、家庭用TV受像機を購入する資力も持たないので、世の中で起こっている出来事を何一つ知るすべのない大勢の人間が、分離独立派の扇動に反応しやすい状態にあるのだ。経済学者や政治家どもが低層七区と呼ぶ、西区を中心とする貧困地域は、犯罪発生率が高いだけでなく、政治的にも危険な存在になりつつあった。
貧富の差の激しい当市では、社会不安は悪化する一方だった。『スラム街』という蔑称を奉られ、貧困と生活苦にあえぐ低層七区。豪奢で広大な貴族の官邸が建ち並ぶ王宮周辺地。そして『新貴族』を名乗り豊かな生活を享受する、国際企業勤務のエリートや高級官僚の暮らす港区、港南区。(一時、市内の治安が悪化したためよそへ居住地を移していた高額所得者が、最近にわかに当市へ舞い戻ってくるようになったのだ。そういった連中が市の南部を中心に高級住宅街を形成している。もちろん、高額納税者が増えることは市にとって悪いことではない――しかし彼らの存在が社会的緊張を高める要因となっていることも事実だ)
パールシー王国の経済・金融の中心地として繁栄をむさぼる首都、クテシフォン・シティ。
だがその華やかな外見の下にひそむ闇は、果てしなく深く暗い。
薄暮の中――不意に銃を構えた人影が現れる。そこだけが強力なライトで照らし出されているので、相手の白っぽい服が背景に歪んだ残像を残す。歯をむき出して凶悪に微笑む顔には見覚えがある。イーリック・ベネフォア。パールシー王国全土で暗躍する犯罪組織セメストの幹部だ。
ぼくはハンドガンを抜き、二発撃った。
ヘッドギアをつけていてさえ、重い銃声が耳を打った。普通の光線銃を撃つ時とは比べものにならない衝撃が前腕部に走り、反動で銃口が跳ね上がる。
心臓と眉間を撃ち抜かれたベネフォアの姿はたちまち闇の中へ消えた。次に、意外と近くに、別の敵が出現した。ショットガンを構えたアンジロー・ビエル。セメストお抱えの殺し屋だ。ぼくは一発でやつを仕留めた。
最後に現れたのはクテシフォン市長、ディオン・ザカリアの肥満体だった。ためらわずに引金をひいた。ザカリア市長の心臓に残りの全弾を撃ち込んだ。
ふと、背後に気配を感じた。
銃を構えたまま振り返る。市警本部ビル五十三階、射撃訓練場。ぼくの占めているブースのすぐ外に科研のニコライ博士が立っていた。相変わらず、手にしたパックから絶えず菓子を口に運んでいる。
「急所命中率九十五・五パーセント、か……人間わざじゃないねー」
首を伸ばしてコンソールパネルの着弾記録をのぞき込み、博士はのんびりとつぶやいた。
「さすがは署長。もうブローニング・ハイパワーも自在に使いこなせるようになったってわけか」
ぼくはヘッドギアを外して所定の位置に戻した。普通の光線銃なら急所命中率は九十八パーセントを下回ったことはない。反動が強いぶん、どうしても精密さが落ちるというわけだが――。
「数字にとらわれるのは科学者の悪い癖だな。こんな訓練場で、おもちゃの的をどれだけ正確に撃てたところで、実戦にはあまり関係ない」
「じゃあ実戦で勝敗を分けるのはいったい何なんだい。悪運の強さか?」
不意に興味を持った様子で、ニコライ博士はにきびだらけの童顔の中の小さな目を輝かせた。ぼくは肩をすくめた。
「冷静な判断、それだけさ。たいていの人間は危険に直面すると、意識するとしないとに関わらず、死への恐怖でわずかに判断力や反応が鈍る――そのわずかな逡巡がけっきょくは勝敗を左右するんだ。いかに恐怖を克服して、平時と変わらない冷静な対応ができるか、だな」
「ふーん。じゃあ、あんたはさぞや長生きするだろうね~。変温動物もびっくりの冷血ときてるからね♪」
ぼくはコンソールパネルのクリアボタンを押して訓練ブースを『空き』の状態に戻すと、薄暗い通路へ歩み出た。通路に沿って同じような訓練ブースが二十基並び、そのうちのいくつかでは熱心な警官たちが射撃練習に余念がない。離れて見ると標的は、急所を中心に同心円が描かれた、ただの人型の板にすぎなかった。その上にコンピュータがランダムに選択する大物犯罪者の立体映像が投影されるというわけだ。ザカリア市長の映像がその中に含まれているのは――だれかの悪い冗談だろう。ぼくじゃない。
並んで歩きながら、博士は間のびした口調のまま続けた。
「実はさ~、新しい弾丸を作ってみたから、試してほしいと思って持って来たんだ。ひとつは麻酔弾」
そう言って、金色に輝く弾丸が六十発直立している箱をぼくに手渡し、
「これ一発で、体重五百ポンド程度の大型動物でも昏睡させられる。一般のパラライザーよりずっと強力だよ。しかもパラライザーより射程距離も長いしね、このハンドガンは……。あと、こっちは爆裂弾。ターゲットに着弾したと同時にその衝撃で弾丸が破裂して四方に飛び散る仕組みさ。火薬量も多めだから、あんまり人間に使うのはお勧めしない。肉片がばらばらに飛び散っちまうからね~、汚いだろ? うひひひひ……」
博士はよれよれの白衣のポケットから、次々と箱を取り出してぼくに手渡した。これは火炎弾、これは硝酸弾、とうれしそうに列挙していく。ぼくは話題を変えることにした。ニコライ博士に尋ねてみたいことがあったのだ。
「《星砂》の件だが……具体的な効能について、どの程度知ってる?」
「ん~? ぼくが《中央》に留学してるとき、連邦政府直属の生化学研究所のコンピュータにハッキングして入手したデータがあるから、よかったら後でそれを送るよ。何が知りたいんだい」
「《星砂》三オンスで、どれぐらいのことができるのか、さ」
「三オンス。う~ん、まあ、ちょっとしたハーレムぐらいなら作れちゃうかな~。一般的に《星砂》〇・二オンス程度の投与で人間を完全に廃人にできると言われてる。それよりちょっと量を減らせば、自発的な意思活動をすべて停止させ、周囲の命令に従ってのみ行動する受動的なロボットを作り出すこともできる。上手に投与量を調節してやれば、いろいろな状態を作り出すことが可能さ。日常生活には支障ない程度の意思は保持しているが極度に暗示にかかりやすい状態とか、非常に沈み込んだ不活発な状態とか……でも、なにぶん〇・〇一オンス単位の話だからね~。《中央》のサンプルデータを参考にすればうまく使いこなせるだろうとは思うけど、そうじゃなきゃ、やたらと廃人を作り出すだけで終わっちゃうんじゃないかな」
そうか、とぼくはつぶやいた。
《星砂》三オンス。それが、グラッドストン男爵が西区へ出向いて直接買いつけた薬物の分量だった。
ポーキー記者の話に出た西区の《胃憩室》というクラブならぼくも知っている。サルベージャーが集まる店だ――小惑星帯に漂着した難破船から金目の物を引き上げ、転売して小金を稼いでいる連中。あまりほめられた商売ではないが、ただちに非合法とも言えない。そこにたむろするサルベージャーの一人が、男爵家の執事ロシュフォルに頼まれて《星砂》を売ったことを認めたのだ。
《星砂》は一級の禁制品だ。それを売買するにはかなりの危険が伴う。サルベージャーは代理人との取引を拒否し、ボスの顔を直接見ながら取引がしたいと要求した。そこで仕方なく、グラッドストン男爵本人が 《胃憩室》へ出向いて買いつけを行ったのだ。約四ヶ月前のことだった。
必要とあればそのサルベージャーの証言だけで、男爵と執事を禁制物質売買罪で逮捕することができる。
しかし、もっと重罪である禁制物質行使罪で立件するには足りない。ハニールウへの《星砂》投与については、まだ状況証拠しかないのだ。
ぼくらはエレベータホールにたどり着いた。ニコライ博士が辺りを見回し、周囲に他の人間がいないか確認する仕草を見せたので、まだ何か言い残したことがあるらしいとわかった。
「……《星砂》三オンスで、だれを廃人にするつもりだい。署長ならハーレムを作るのにクスリなんか要らないだろ? 天は二物を与えずって言うけど、世の中なんて実際には不公平にできてるよね~。ぼくだって署長ぐらい顔が良ければ女に不自由しないのに」
冗談めかしてべらべら喋りながら、博士はぼくとの距離を詰めてきた。そして、
「王国政府を乗っ取っちゃう? クテシフォン執行部の主要閣僚を署長の奴隷にするのに十分な量だよ、三オンスというのは」
と囁いた。口調も表情もふざけていたが、目だけが笑っていなかった。
ぼくは肩をすくめた。
ニコライ博士の場合、本音と冗談の区別がつきにくい。博士自身の頭の中でも区別はなされていないんじゃないかと思えることもある。
「第一に、《星砂》を持っているのはぼくじゃない。第二に、ぼくは政治に興味はない。この国では政治的中立が公務員の原則だ」
「……ぼくにまで建前を言わなくてもいいよ。こう見えたって、ぼくは署長の忠実な部下なんだから。そして、署長がいつものノリでこの国をめちゃくちゃにひっかき回すところを見てみたいと思ってるのも、署内でぼく一人じゃないはずさ」
下りのエレベータが先に到着した。博士は、体を動かすことに慣れていない人間の重い動作でケージに乗り込み、
「じゃあデータ送るから~♪」
と、顔の横でひらひら手を振りながら笑った。
パールシー・タイムズ紙のクリス・ポーキー記者が襲撃を受けたという報告を聞いたのは、深夜ぼくが国家公安委員長との会合を終えて署へ戻ったときのことだった。
七時間ほど前、グラッドストン男爵邸のすぐ外に停めた車の後部座席で携帯用端末に向かって原稿を書いているところを、窓の外から撃たれたらしい。ポーキーを監視していた特務課の刑事がすぐさま駆けつけたため、襲撃者たちはとどめを刺すことができなかった。
「事件直後に現場から逃走した車は確認できています。ここ数日、男爵邸の近くで不審な動きをしていたので、うちの連中がずっとマークしていた車です。所有者は凱旋門通りに本社のあるグリーンライ商事会社。車に乗っていた男たちの写真も撮れています。今回の襲撃犯もそいつらと見て間違いないでしょう」
きびきびした口調で特務課のブレア警部補が言った。
「ただしひとつ問題があるんです。そのグリーンライ商事会社って、実体のない幽霊会社なんですよね。事務所もなく完全に登記簿上だけの存在のようです。会社役員に名を連ねてるのも、代表者を除いてはみんなもうとっくに死んでる人間ですし……どぉしましょう。代表者を締め上げて、事件とのつながりを聞き出しましょうかぁ?」
ぼくは皮肉な微笑を禁じ得なかった。
「グリーンライ商事会社、か……。ちっとも進歩のない連中だな」
「? なんのことです、署長?」
「説明はあとだ。それでポーキーは死んだのか」
「いいえ、どうにか一命をとりとめましたわ。警察病院に入院中です」
ぼくはデスクから立ち上がった。
「車を出してくれ。これからやつに話を聞きに行く」
警察病院で、徹夜の疲れを漂わせつつぼくたちを出迎えた担当医師は、ポーキーの容体を詳細に説明した。ポーキーがどこから何発撃たれ、内臓がどのような損傷を受けたか。それに対してどのような処置が行われたか、等々。若くて使命感に燃える医師のようだった。
「ここへ運び込まれるのがもう少し遅かったら、最後の一発が致命傷になっていたでしょう。危篤状態は脱しましたが――まだ重体です。近親者以外は面会謝絶ですよ」
「意識はあるのか」
「ええ。しかし取調べに耐えられる状態じゃありません。ちょ、ちょっと待ってください! だめですったら! 面会謝絶だと言ってるじゃありませんか……!」
「ん・もぉ、ドクターったら。堅いこと言いっこなしにし・ま・しょ。大丈夫ですよ、署長だってちゃんとわきまえてますって。あんまり無茶なことはしませんから。たぶん……」
背後でブレアが妖艶な物腰と有無を言わさぬ怪力で医師を押さえているあいだ、ぼくはポーキーの病室のドアをノックし返事を待たずに開けた。
生命維持のための機器に埋め尽くされた室内で、新聞記者は滅菌バッグにすっぽりと全身を覆われ顔だけを出した状態で横たわっていた。顔色は真っ白だった。滅菌バッグに接続された機器のたてる規則的な作動音、少しずつ落ちていく点滴の中の液体。そういったものがなければ霊安室と間違えるところだ。
ベッドのかたわらに二十代後半と見える栗色の髪の女が座っていた。たしかポーキーに家族はなかったはずだ。女はぼくを見ると、驚愕の表情で目を見開いた。化物にでも遭遇したかのような激しい反応で、がたんと椅子を倒して立ち上がり、
「カ、カイトウ署長!! どうして、あなたがここに……?」
ぼくは女を思い出した。パールシー・タイムズ紙の記者で、ときどきポーキーと一緒に記者会見などに現れることがある。たしかハッチンソンとかいう名前の女だ。
騒ぎに気づいてポーキーがうっすらと目を開けた。視線は定まっており、意識ははっきりしているようだった。弱々しいかすれ声で、
「いいんだ、ブレンダ。少し席を外してくれないか」
と女に言うと、ぼくに視線を戻した。女が退室するのを待って記者は再度口を開いた。
「私に監視をつけてたんですね?」
その口調にはかすかな非難がまじっていた。ぼくは肩をすくめた。
「当然だろう。そのおかげで命拾いしたんだから、礼を言ってもらいたいぐらいだ。うちの署員が来なかったらきみは確実に死んでたぜ?」
記者は口をつぐんだ。
しばらくの間、医療機器のたてる規則正しい音だけが室内に響いていた。
ぼくはやつの目をしっかりととらえて尋ねた。
「この前の晩、ぼくに話さなかったことがたくさんあるみたいだな。なにを追っているかは知らないが、かなり核心に迫ってるというわけだ。殺されかけるぐらいだからな。――グラッドストン男爵はいったい何に関わっているんだ? いかがわしい地域に出入りしている、単にそれだけじゃないんだろう?」
「……」
ポーキーはかたく口をつぐんだまま、答えようとしなかった。非常にかたくなな表情がその顔に浮かんでいた。殺されても口は割らない、と言いたげな頑固な表情だった。
張りつめた沈黙が数秒続く。
ぼくはふっと緊張を解いて、相手の目に向かって微笑みかけた。
「取材上の秘密は死んでも守る、というやつか。いいだろう。その方が、ずっときみらしいよ」
記者の目が驚きでかすかに大きくなったところへ、つけ加えた。
「ただし防衛軍とはあまり関わり合いにならないことだな。連中には節操ってものがまるでない。一個人が相手にできる奴らじゃないぜ」
しばらくまた沈黙が続いた。非常に長い沈黙だった。それでもぼくが病室を立ち去ろうとしなかったのは――まだポーキーには何か言いたいことがあるらしい、それが気配で伝わってきたからだ。やつは非常に強い視線でぼくを見上げ、感情を言葉に乗せるのに苦労している様子だった。雄弁なこの男にしては珍しいことだった。
「……きっとあなたは内心せせら笑っているんでしょ。いくら口で偉そうなことを言っても、けっきょく力なき信念は役に立たないと。口先だけの正義感なんて、むき出しの暴力の前じゃ叩き伏せられるしかないんだと。『ペンは剣よりも強し』なんて、ただのきれいごとだ。そうじゃありませんか、署長?」
ようやく出てきたポーキーの言葉には苦い自嘲がにじんでいた。
ぼくは視線を落とした。半透明の滅菌バッグ越しに、ポーキーの白い華奢な手がぼんやりと見てとれた。おそらくその手はこれまで人を殴ったことなどないだろう。そして、これから先も。言論の力で正義を実現する、そのために作られた手なのだ。
「市民を守るのは警察の仕事だ。たとえそれが人権かぶれのうるさい新聞記者であっても、市民であることには変わりない」
ぼくは答えた。
「きみを襲った犯人は必ず捕える。言論の自由を暴力でもって封殺しようとする行為を、クテシフォン市警は容認しない。捜査の過程でおそらく、きみが懸命に守ろうとしている取材上の秘密は白日の下にさらされることになるだろうが、悪く思わないでくれ。真相を究明するためには仕方のないことだ」
「……署長はお嫌いだと思ってたんですがね、言論の自由」
ようやく調子が戻ってきたようだ。ポーキーが皮肉をきかせて答え、疲れた笑顔をひらめかせた。
「勘違いするなよ。言論の自由を守るのは警察の仕事じゃない。ぼくらが守るのは市民の安全と秩序、それだけだ」
ポーキーの病室を出ると、廊下ではブレアと半泣きになっている担当医、それに外科部長と数人の医師が集まって大騒ぎになっているところだった。
「行くぞ、ブレア」
ぼくはひと声かけて、エレベータホールに向かって早足で歩き始めた。背後で一斉に複数の抗議の声があがった。それを振り切るのに苦労したらしく、ブレアがぼくに追いついたのはエレベータホールに近い辺りだった。
エレベータはなかなか来なかった。深夜ということもあって、一基しか稼動していなかったからだ。
「待って……カイトウ署長! ちょっと待って!!」
女の叫び声が聞こえた。まだなにか苦情を言い足りない人間がいるのか、と思って振り返ると、ポーキーの部屋にいたブレンダ・ハッチンソン記者が息を切らせてこちらへ駆けてくるところだった。
「クリスが……あなたにこれを、って」
彼女がぼくに手渡したのは、一枚の羽根だった。
もちろん本物の鳥類の羽根でないことは手触りでわかる――見る角度によって複雑に色合いの変わる、『虹色』と形容するしかない色彩を呈した羽根だった。
「これは……?」
ぼくは説明を求めて女記者の顔を見返したが、彼女も何も知らされていないらしく、黙って首を横に振るだけだった。そしてそのまま早足で病室の方へ戻って行った。
ぼくはブレアに、ポーキー記者襲撃現場から逃走した車に乗っていた男たちの顔を、クテシフォン市防衛軍のデータベースと照合するよう命じた。
グリーンライ商事会社というのは、防衛軍の情報部が昔から好んで使う隠れみのだ。
情報部がらみで汚い事件が起こり、やつらの活動が明るみに出るとき、いつもその名前が見え隠れしている。グリーンライ商事会社の名義で賃貸契約の結ばれた事務所、グリーンライ商事会社に雇われた社員、グリーンライ商事会社が保証人になっている個人事業主、云々……。何度も同じ手を使えば見破られると考えるのが当然なのに、情報部の連中はなぜかこの隠れみのがいつまでも有効であると思い込んでいるらしい。性懲りもなく、まだ使い続けているというわけだ。
データベース検索の結果、見事該当者にヒットした。防衛軍経理会計課所属のM・ブランドン少尉とK・チャン軍曹。彼らの人相と容疑者の写真との合致率は九十九・九五パーセント、とコンピュータははじき出した。裁判所に拘留令状を出させるのに十分な合致率だ。
重要参考人としてこの二人の兵士の出頭を求め、そのまま拘留した。
二人は情報部の人間だけのことはあって、なかなかしぶとかった。厳しい訊問にも、何一つ漏らそうとしない。成果のないまま数日がむなしく過ぎた。
署長室のドアが不意に開いてその男が入ってきたとき、まるで夜の闇が形をとって現れたように思えた。
閉庁時間後は、市警本部ビルの三階より上への部外者の立ち入りは禁止されている。さらに七十階より上は、許可を得た人間しか立ち入れないようになっている完全閉鎖エリアだ。署外秘のはずのセキュリティシステムを、この男はどうやってかいくぐったのか。
「我が軍の兵士の身柄を不当に拘束していることに対して、軍を代表して正式の抗議に来た。即刻、ブランドン少尉とチャン軍曹を釈放してもらいたい」
防衛軍のセリム・トーゲイ中佐は、いかめしい表情を作ってそう宣言した。