影を見る目 二
桜も散ったというのにまるで真冬のように寒い。吐く息が白く、少女はその細い肩を抱きしめるようして擦った。
少女は狭く急な山道をひたすらに上り続けていた。早朝という事もあって山の中は一層冷たい空気で満ち、鳥の鳴き声すら聞こえない。こんなに寒いことがわかっていたら、麓の宿に、荷物と一緒にコートを預けてくることはしなかったのに。少女は恨めし気な視線を、少し前を歩く男の背中に投げつけた。
「先生、いつになったら着くんです?」
少女が尋ねた。少し低めの、落ち着いた声だ。目の前の男から言わせると「見た目と合わない」声らしいが、生まれつきこの声なのだからそんなことを言われても困る、と返したのはつい3カ月ほど前だ。
先生、と呼ばれた男は少女の言葉を全く無視して歩き続けている。無視されるのはいつもの事だ。少女は先ほどよりも大きな声を上げた。
「マキ先生。一体、いつになったら、例の村へ、着くんです」
業とらしく一句一句はっきり尋ねると、初めて声が聞こえたといわんばかりに男が振り向いた。濃藍の着物の上に羽織った、女物の極彩色の着物がふわりと風を含んでふくらんだ。
「……んー、あと一刻(2時間)ほどじゃねえの」
黒傘を目深にかぶっている所為で男の目は見えないが、その口が意地悪そうに歪んだのを見て、少女はその頬を殴りたい衝動に駆られた。いつもこの男は少女をからかうのだ。少女は出来るだけ殺気を込めた視線を男に向ける。と言っても少女の右目は真っ白な包帯に隠されている。真黒の髪を一つに結い上げている赤のリボンと、同じ色の着物の所為か、それとも少女の顔の右半分をほとんど覆っている所為か(おそらく両方だろう)、その包帯がどうしても人々の目を引いた。それでも少女は、3カ月前に目の前のこの男が、異国から輸入されてきたという(かなり値の張る)リボンを買い与えてくれたことが嬉しくて、いつもこのリボンとそれに合う色の着物を選んで身に着けていた。あの時の優しさはどこへ行ったのだろう、と少女はリボンで髪を結うたびに内心溜息をついていた。
「あと一刻もこんな急な山道を登るんですか」
少女が声に絶望の色を滲ませながら言った。膝と踝の丁度真中までの丈の袴から除く編上げのブーツは泥で汚れていた。
マキ先生、と呼ばれた男がやれやれといった風に、大げさに肩を竦めて見せた。
「か弱きイチカ嬢には、この山道は少々きついですかな?」
「まさか! こんな山道何ともありません、少し肌寒いと思っただけです。ええ、本当にこんなの、どうってことありません!」
こんな安い挑発に乗る自分も愚かだとわかっていたが、少女はむきになって答えていた。この反応を見るのが楽しくてマキが少女を――イチカを――からかうのだという事に、まだイチカは気付いていなかった。
「今日は寒くなるからコートは持っておけと、宿を出る前にちゃんと言ったぞ。聞いてなかったのか?」
「いいえ、先生はそんな事一言も、全く、一切、おっしゃってません。仕事に必要な物以外は荷物になるから預けていけ、と言ったんです」
「そうだったかな」
クツクツ笑いながらマキはくるりとイチカに背を向け歩き始めた。イチカは拗ねたようにぷくっと頬を膨らませながらも、慌ててマキの後に続いた。駄々を捏ねるより、早く歩いてさっさと目的の村までたどり着く方がずっと懸命だと考えたからだ。ずんずん進み、2人が横に並ぶには少々幅が足りない道を、片足を茂みに突っ込みながら無理やりマキと並んで歩いていると、頭上から呆れたような溜息が降ってきた。
「ところで、その村ではどんな奇怪が起きているんですか?私、まだ何も伺ってません」
若干息を弾ませながらイチカが尋ねた。少女と歩いているというのに歩く速度を落とそうともしない隣の男に内心悪態をついていたので当然、不機嫌そうな声が口から飛び出したので一瞬ギクリとしたのを、マキは見逃さなかったがそれについては何も言わなかった。
「そりゃあ、そうさ。まだ俺はお前に何もおっしゃってねえんだからな」
「いつもはきちんと教えてくださるじゃありませんか!」
どうしていちいち人をからかわなきゃ気が済まないのかしら、と言うイチカのぼやきは幸いマキには聞こえなかったようだ(とイチカは思っているがマキにはちゃんと聞こえていた)。イチカの言葉に、マキはう~む、と顎に手を当て暫く考え込む素振りを見せた。
「……実をいうと、はっきりしたことは聞いてない」
「何ですって?」
あんぐりと口を開けてイチカは頭2つ分上にある男の顔を見上げた。マキはふいっと視線を逸らしてしまった。何か言い忘れた時やイチカに怒られそうだと感じた時に出る癖だ。きっと桃色の頬を真っ赤に染め上げて「本当に奇怪が起こっているかどうかも確認せずに仕事を受けるなんて!」とか何とか言いだすに違いない、とマキは感じていた。
マキの予感は的中した。
「そんな、情報が正しいかどうか確認もしないなんて!奇怪が起こっていると言って助けを求める連絡の中には、依頼主の思い違いだった、なんて事象がたくさん混ざってるなんて事は先生が一番よくご存じのはずでしょう!」
マキはほら始まったと言わんばかりの盛大な溜息をついたが、説教を始めたイチカの耳にそれが届いているとは到底思えなかった。自分より遥かに年下の少女は説教やうんちく話を始めると手が付けられないという事を、マキはこの3カ月で嫌というほど思い知らされていた。
「村に着いてから、実は間違いでしたなんて事があったら、私、先生の事許しませんからね!」
「おーおー許さなくて結構。仕方ないだろう、昔馴染みが寄越した情報なんだから」
「……昔馴染みなんていたんですか」
心底驚いた目で見つめられたので、マキはイチカが自分の事を人間と認識していなかったのではないかと疑わなければならなくなった。
「そりゃ、昔馴染みや友人の1人や2人いるさ。文句あるのか」
「いえ、文句なんてありません。……その方も《奇術師》なんですか?」
「一応はな。今は副業に専念してる」
イチカがその昔馴染みについて更に何か訊きたそうにしている気配を感じ取ったマキは、一層歩く速度を速めることにした。後ろからイチカが何か喚いているのが聞こえたが、マキは無視してひたすら続く山道を登って行った。
それから半刻ほどで、ようやく峠を越え、なだらかな道に出た。二人が息も絶え絶えに、額の汗を拭っていると、前方から誰かが走ってくるのが見えた。簡素な着物を身に着けた、12,3歳くらいの少年だった。
「《奇術師》の方ですか?」
少年は2人の前で立ち止まると同時に、そう尋ねた。マキが頷くと、少年はホッとした表情を浮かべた。
「お待ちしてました。……おれ、依頼した村に住んでるトジといいます。お二人をお迎えに行くよう言われたので……」
「ああ、それはどうも」
愛想よく微笑みながらも、トジの目はマキの奇抜な風貌に捕らわれたようだ。無理もないとイチカは思った。黒傘を目深に被っているが、狼のような金色の瞳は傘の下からでも力強い光を放っていた。濃藍の着物の下に、おそらく普通の人なら見たこともないだろう、西洋のシャツという衣服を着こみ、そのボタンを上から3つほど開けている。そのせいでシャツは大きく開いており、胸まで素肌が露わになっていて、目玉の様な奇妙な首飾りをつけている。しかも着物の上には派手な極彩色の女物の着物を羽織っているのだ、奇妙に映って当然だ。マキが傘を脱いだ時の反応はもっと凄いだろうとイチカは思った。
「俺は《奇術師》のマキだ。こっちの娘は俺の助手」
「イチカです」
マキの言葉を引き継いでイチカが名乗ると、トジは一瞬イチカの顔の半分を覆う包帯に視線をやったが、すぐににこやかな笑顔を浮かべ、イチカに握手を求めた。
「さ、村へ行きましょう。皆お2人をお待ちしてます」
そう言ってそそくさと歩き始めたトジの後を追って、マキとイチカは棒のような足を無理やり前へ押し出した。