影を見る目 一
「まただ……」
「あの子だ……キイの《影読み》だ」
「次は誰が……」
もうそろそろ日も沈むかという時間。細い畑道で村人たちとすれ違う時、彼らがヒソヒソと交わす言葉が嫌でも耳に入ってくる。彼らの目には恐怖が浮かんでいる。無理もない、今この村には「何か」が起こっているのだから。
トジは村の外れにある小さな小屋へ急いでいた。手に持った小さな網籠の中には、握り飯2つと、今日とれた柿の実が入っていた。小屋の中にいるトジの幼馴染、キイのために、彼女の母親が用意したものだ。キイの家から小屋まで毎日食事を運ぶのはトジの役目だった。小走りで小屋へと向かうトジを見る村人たちの目は冷ややかだ。
「トジもよくやるよ」
「またキイの《影読み》を聞いて戻ってくるかも…」
冷たい視線を振り切るようにして、トジは小屋へと向かった。扉にかけられた鍵を開け、扉のすぐ近くにおいてある台の上の蝋燭を灯す。
「キイ、夕飯持ってきたよ」
蝋燭一本で全体を照らすのに事足りる小屋の中央に置かれた古く小さな机。その横の同じく古く小さな椅子にちょこんと座った少女がトジに微笑んだ。黄色地に小さな花の柄が施されたお気に入りの着物が、少しくたびれて見えた。キイが小屋を出て体を拭き、着物を変えることを許されているのは週に一度だけだ。
「ありがとう、トジ」
そっと頬をなでる春風の様に柔らかな声だ。トジはキイの声がとても好きだ。こんなきれいな声をしている人を、トジはキイ以外知らない。トジは手に持っていた網籠をそっとキイの前に置いてやった。キイの、着物と同じ黄色をした瞳が、柿の実を捉え嬉しそうに細められた。キイは柿が好物だ。
「トジも一緒に食べる?」
「……ごめん、今日は一緒に食えないんだ。親父が足を捻っちまったから、代わりに牛の世話をしなきゃなんねえんだ」
「ダイおじさんが?大丈夫なの?」
黄色の瞳が途端に心配そうにトジに向けられた。トジはいつもこの目に見つめられると心臓を直接手で掴まれたような、そんな感覚に陥る。キイの目が、キイの髪と同じ黒色だった時はそんなことはなかったのに、やはり自分も、キイが突然手に入れた不思議な力を恐れているのではないか、とトジは少しばかりの後ろめたさを感じていた。その後ろめたさを隠すように、トジは明るく笑って見せた。
「ああ、風呂場で派手にすっ転んだだけさ。2,3日もすりゃ歩けるようになるよ」
「よかった」
キイがゆっくりと食事をするしばらくの間、トジはキイに今日起こったことを話して聞かせた。西側の古いつり橋がとうとう壊れたこと、明日から男たち皆で橋を作り直すこと。その間女たちが、普段男たちのやっている分の畑仕事までやる羽目になり北3軒目のトヨばあさんが文句を言っている事。この村で起こる事と言えばそんな程度だ。
「……じゃ、キイ。おれ、そろそろ戻るよ」
キイが握り飯を食べ終え、柿の実に手を出そうとしていた時、トジはそう言ってキイに手を振り背を向けた。
「うん、また明日………あっ」
小さな、しかしトジの足を止めるのには十分すぎる悲鳴がキイの口から洩れた。トジは驚いてキイを振り向いた。
「キイ?」
「そんな……う、嘘だわ…」
ぶるぶると震える両手が、キイの顔を覆い隠していた。指の間から、黄色い瞳が不気味な光を湛えてトジを見つめているようだった。トジは見覚えのあるキイの異変に、内臓が凍りついたように冷え切っていくのを感じていた。
「キイ、まさか……」
「…と、トジ……影が、あなたの影が………見えないわ…」
トジはその黄色の瞳から逃げるようにして小屋から飛び出していた。