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冷酷宰相は私だけを甘やかす  作者: 絵宮 芳緒
失われた光

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第4話 宰相ディートリヒ、静かに動き出す

夜更け。

屋敷が眠りに沈む頃、ただ一室だけ、かすかに灯りが揺れていた。


伯爵夫人の寝室。

机に向かうアデリーヌの背は、以前よりも細い。

羽ペンを持つ指が、わずかに震える。

けれど、文字は乱れていなかった。

 

――閣下へ。

 

書き出しの一行に、迷いはない。

インクが紙に染み込むたび、静かな覚悟が積もっていく。

 

 ――我が娘リリアーナの将来について、どうか一度お力添えを賜りたく……

 

言葉は丁寧で、慎み深い。

だがその奥にあるのは、母としての本能だった。


自分の命が長くないことを、彼女は悟っている。


屋敷の空気の変化も、夫の心の移ろいも。

すべてを責めず、ただ現実として受け入れた上で。

 


――彼女はまだ十六。

この国ではまだ後ろ盾の必要な年頃です。

世の荒波にはあまりに早いのです。

 

一滴、インクがわずかに滲む。


それが涙だったのかどうか、誰にも分からない。

 

封蝋が押される。

それは伯爵家の紋章。

誇りの象徴。

そして――最後の盾。

 

母は深く息を吐いた。


「どうか……あの子を」


祈りは、声にならず夜へ溶けた。

 



 

数日後の王都ーー


重厚な扉の向こう、整然とした執務室。

壁一面の書架に、窓辺に差す冷たい光。

そこに立つ男は、封書を静かに開封していた。

 

王国宰相、ディートリヒ。

銀混じりの髪を後ろへ流し、眼差しは凪いだ湖のように静かだ。

 

彼はゆっくりと読み進める。

伯爵夫人の端正な筆跡、乱れのない文面。

しかし、その奥に滲む切迫。

 

「……なるほどな」

短い独り言。

 

彼は伯爵夫人を知っている。

聡明で、誇り高く、決して軽々しく助力を求める女性ではない。

 

その彼女が筆を取った。

それだけで、十分だった。

読み終えた後、彼は目を閉じた。


――思い出すのは、数年前の王宮の宴。


燭台の光の中、淡い色のドレスを纏い、緊張しながらも気丈に微笑んでいた少女。


まだ、デビュタントを終えたばかりだった。


名を呼ばれ、完璧な礼を取ったその姿に、周囲は「愛らしい」と笑った。


だが彼は違った。


――凛としている。

そう思ったのだ。

 

まだ社交界の空気に、慣れきっていないはずの少女だった。


名を呼ばれた瞬間、迷いなく礼を取り、堂々と顔を上げた。


華やかさよりも、凛とした静けさ。

その姿に、彼の視線は止まった。

 

以来、婚約の動きがないことは把握している。


職務上の情報収集――そう整理していた。

だが。


「……まだ早い」

低く、独り言が落ちる。


彼女はまだ若い。

打診するならば、母君が健在なうちが筋。


それは政治的判断でもあり――

同時に、私情でもある。

 

彼はその言葉を心の内で切り分ける。

感情は、後回しにするものだ。

今、優先すべきはーー

伯爵家の異変。

 

 

机の引き出しから、小さな鈴を鳴らす。

音も控えめだ。


入室したのは、目立たぬ装いの男。


「伯爵家を裏より調べよ」

声は平坦。


「近況。資金の流れ。新たに出入りする者。

特に――夫人が筆を取るに至った要因を」


「承知いたしました」

 

それ以上の説明は不要だった。

宰相の言葉は、刃のように無駄がない。

 

男が去ると、ディートリヒは窓の外を見る。


だが彼は知っている。

崩れは、いつも内側から始まることを。



彼は再び手紙を折りたたむ。


「間に合えば良いが……」

それは願いではない。

計算だ。

 

 



数日後、報告は速やかに上がった。

 

「新たに屋敷へ入った女性、ヴァネッサ。

伯爵の秘書とされていますが、経歴に不自然な空白がございます」


「続けよ」


「資金の一部が、ここ半年で別口へ移動。

使用人の入れ替えも同時期に進んでおります」

 

ディートリヒは書類をめくる。

若い使用人の名簿。

入れ替え時期、支出の増減。

 

家の重心が、静かに移っている。

内部からーー

 

「夫人の病状は」


「悪化傾向にあると」

 

彼の指先が止まる。

政治的には、伯爵家は重要な家門だ。


だが、それだけではない。

もしこのまま推移すれば――


彼女の立場は危うい。

 

王都は穏やかだ。

だが、穏やかさは永遠ではない。

 

「もう少し探れ。証を押さえよ」


「はい」


彼は感情を表に出さない。

だが、動きは早い。


まだ婚約を申し出る時ではない。

だがーー

 

守る準備は、始めておく。



宰相は、何もなかったかのように書類を閉じた。


だがその瞬間、ひとつの流れはすでに変わっていた。


誰にも気づかれぬままー



――そして。

 

ディートリヒは机の引き出しを開ける。


上質な羊皮紙を一枚取り出し、羽根ペンにインクを含ませた。

ほんの一瞬だけ、ためらいが生じる。


これは、政務か。

それとも――私事か。

 

自嘲するように、薄く笑った。

どちらでも構わない。

 

筆先が紙に触れる。

 


〈伯爵夫人殿〉

 

そこから先は、誰にも見せぬ文字。

丁寧で、端正で、そして――決意を帯びた文章。

 

書き終えたあと、彼はしばらく封をせずに見つめていた。


蝋を溶かし、印章を押す。

それは宰相の紋章。

 

「これを、早馬で」

 

差し出された封書は、政務書類と何ら変わらぬ顔をしている。

だが、その一通がーー


後に、ひとりの少女の運命を大きく動かすことになるとは、まだ、誰も知らない。

 

窓の外で、風が静かに鳴いた。

 

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