第2話 静かなる客人
その日、屋敷の空気は、目に見えぬほどわずかに変わっていた。
玄関ホールには、いつもより多くの花が活けられている。
父が客を迎える時だけ使う、香の焚かれた匂いが漂っていた。
けれど――母の姿はない。
胸の奥に、小さな棘のような違和感が刺さる。
応接間の扉を開けた瞬間、視線が集まった。
父の隣に立つ女性は、深い藍色のドレスを身に纏っていた。
華美ではない。
だが布地の質は明らかに上等だ。
秘書にしては、過ぎている。
「リリアーナ。こちらはヴァネッサ。私の秘書だ」
紹介の声は、どこか誇らしげだった。
その後ろから、一人の少女が進み出る。
「セリーナでございます。お目にかかれて光栄です」
柔らかな所作。
完璧なカーテシー。
視線が上がった一瞬――その瞳は、伏せていた時よりもずっと強く光った。
値踏みするように。
「しばらく屋敷で預かることにした」
父はそう言うと、ヴァネッサに視線を向ける。
確認を取るような、相談するような目。
本来なら、母に向けられるはずの視線だった。
夕食の席。
母は少し咳き込みながらも、客人を歓迎した。
「どうか、ゆっくりなさってくださいね」
「ありがとうございます、奥様」
ヴァネッサは丁寧に頭を下げる。
その仕草は完璧だ。
非の打ち所がない。
だが――彼女の手が自然と父のグラスに触れ、水を注ぎ足す様子は、秘書というよりも。
まるで、長年連れ添った妻のようだった。
父はそれを、当然のように受け入れる。
食後、母の薬が運ばれてきた。
「奥様、そのお薬ですが……」
ヴァネッサは静かに言葉を選ぶ。
「少し量が強いように見受けられますわ。
胃に負担が……」
医師でもないはずなのに、ヴァネッサは、母の意見を伺う。
父は頷いた。
「明日、医師に相談しよう」
母は、何も言わない。
ただ穏やかに微笑んだ。
数日が過ぎた。
屋敷の中心は、少しずつ移ろっていった。
書斎の机の上には、ヴァネッサの筆跡が増える。
使用人たちは、父ではなく彼女に確認を取る場面が増えた。
セリーナはいつも控えめにしている。
だが、廊下ですれ違うたび、彼女の視線は一瞬だけリリアーナをなぞる。
測るように。
試すように。
夜、母の寝室。
薄いカーテン越しに月光が差し込む。
「お父様は……お忙しいのよ」
母はそう言い、リリアーナの手を撫でた。
骨ばった指。
以前よりも、明らかに細い。
「ええ」
言葉は出る。だが胸の奥が重い。
父は最近、夜に来ない。
代わりに、書斎の灯りが長く点いている。
部屋への帰り道。
書斎の前で、足が止まった。
扉は閉ざされている。
だが中の灯りが、隙間から零れている。
「……奥様は、もう長くは」
ヴァネッサの声は低く、抑えられていた。
父の声は、疲れたように返る。
「分かっている」
それだけ。
しばし沈黙がありーー
やがて、布が擦れる音がした。
「セリーナは賢い子ですわ。あなたのお力になれます」
“あなた”。
その響きは、親しみを含んでいた。
否定の声は聞こえない。
代わりに、低く笑う気配。
リリアーナは、息を止めていたことに気づく。
廊下は冷えている。
けれど、背筋には別の冷たさが走っていた。
まだ何も起きていない。
まだ、誰も何も言っていない。
それでもーー
屋敷の灯りは、確実に別の場所へと移り始めていた。
その夜、書斎の灯りは、夜更けを過ぎても消えなかった。




