第1話|母の病床/父が実務を握る
朝の柔らかな光が、カーテンの隙間から部屋に差し込む。
リリアーナ・ベルナールは母アデリーヌの傍らに静かに座る。
母の手は軽くベッドに置かれ、呼吸はかすかに揺れている。
「お母さま……お加減はいかがですか」
リリアーナの声は落ち着いているが、どこか心配を帯びていた。
アデリーヌは微かに目を開け、柔らかな笑みを浮かべる。
「大丈夫よ、リリアーナ。こうしてあなたがそばにいてくれるだけで、心が温まるわ」
母の声は弱いが確かで、リリアーナの胸にじんわりと沁みる。
「家のこと……あれこれ心配されているのでは、と」
「もちろん、心配はあるわ。でも、私はあなたを信じているわ。
あなた自身の力で歩んでいけると」
リリアーナは頷く。
母の言葉は優しく、同時に重みがある。
弱さの中に揺るがぬ意思が秘められているのを、彼女は理解していた。
「リリアーナ……これだけは覚えておいてほしい」
アデリーヌはベッド脇に置かれた小さな宝石入りのペンダントをそっと指先で触れる。
「これは……?」
「あなたのおばあさまから受け継いだ大切なものよ。今は意味がわからなくても構わない。いつか、必要な時にきっとわかる」
リリアーナはそっとペンダントを手に取り、そのひんやりとした感触を確かめる。
重さは軽く、まだ何の力もない小さな装飾品のように見えた。
「……わかりました」
「大事なのは、あなた自身の心と決意。どんな状況でも、自分を信じること」
母が病床に臥すようになったのは、数年前からだ。
しばらく二人は、言葉少なに過ごす。
窓から差し込む光は静かに揺れ、暖炉の余熱が室内をやわらかく包む。
庭の木々の影が揺れ、鳥のさえずりが遠くに聞こえる。
リリアーナは胸の奥で母の言葉を反芻する。
守るべきもの、信じる力――まだ小さな心でも、少しずつ芽生え始めていた。
その時、扉がゆっくりと開き、父ヴィクトル・ベルナールが入室する。
上質なジャケットに腰丈のベストを重ね、端正に身を包んだ父の姿は、家のことを真剣に考えているように映った。
父は、病に伏す母に代わり、このベルナール伯爵家の仕事をすべて引き受けている。
きっと忙しいのだと、リリアーナは思っていた。
「朝食は済ませたのか?」
淡々とした声が室内に響く。
「はい……少しだけ」
答えた声はか細く、室内の静寂に溶けていく。
母の手をそっと握り、その温もりに胸がじんわりと熱くなる。
まだ小さな祈りの声で、心の奥から願う――お母さまが、どうか元気でありますように。
父は室内で静かに母のベッド脇に立ち、母を優しく気遣う。
「今朝、南の領地から報せが届いた。収穫は順調らしい」
母に穏やかに告げる父の姿を見て、家門のことを真剣に考えているのだと、リリアーナは疑いもなく信じる。
リリアーナは疑いもなく受け止めていた。
父もまた、家族を思い、見守ってくれているのだと――そう信じて。
窓の外では、朝露に濡れた庭木の緑が柔らかく光を反射し、小鳥のさえずりが遠くから届く。
室内の静かな時間と、外の穏やかな朝の光景が、リリアーナの心をそっと包む。
手の中のペンダントに視線を落とし、そっと握りしめる。
その小さな祈りは、誰に届くともわからない。
けれど確かに、彼女の胸の奥で静かに灯っていた。
父は一瞬だけ、窓辺に視線を向ける。
朝の光に照らされたその横顔は穏やかで、何の翳りもないように見えた。
――けれど、その瞳の奥に浮かんだものを、リリアーナはまだ知らない。




