獣人編 第2話:骨の意思、肉の掟
地響きは、もはや大地の呻きなどではなかった。それは、地面を這いずる無数の「何か」の、おぞましい足音だった。 西方氏族の拠点入り口、岩壁の裂け目を守る最前線に、ヴォルガ・ハイネは立っていた。
「ヴォルガ様、北の防壁が突破されました! 奴ら、岩盤を喰らって進んできます!」
報告に来た戦士の顔は土色だった。 闇の中から現れたのは、漆黒の甲殻をぎらつかせる巨大な蟲の群れ。人族の空爆から逃れてきた獣人たちが、漆黒月が育んだ未知の脅威に直面する。
「慌てるな。我らは砂の一粒まで、この大地を熟知しているはずだ」
ヴォルガは低く、しかし拠点全体に響く声で命じた。彼は右腕の「骨義手」を強く握りしめる。 ヴォルガが地面に膝をつき、義手の指先を砂に沈めると、そこから赤黒い魔力の波紋が広がった。
「――『大河の記憶』。目覚めよ」
ヴォルガが叫ぶと同時に、拠点の地面から巨大な岩の杭が突き出した。それは、かつてこの地を流れていた大河が削り残した硬質の地層を、ヴォルガの魔力で強制的に隆起させたものだ。 次々と這い出してきた蟲たちが、鋭い岩の杭に串刺しにされる。
「ギィ、ギギギギ!」
蟲たちが悲鳴を上げ、砕け散る。 だが、安堵の表情を見せた戦士たちの前で、信じがたい光景が広がった。砕けた蟲の体から溢れ出した赤黒い液体が、ヴォルガの作り出した岩の杭を「腐食」させ始めたのだ。
「……魔力を喰らっているのではない。魔力そのものを『毒』に変換しているのか」
ヴォルガの隻眼が驚愕に揺れた。 岩の杭はみるみるうちに崩れ、そのエネルギーを吸収した蟲たちは、より巨大に、より禍々しい姿へと変異していく。獣人が魔力を放てば放つほど、敵は強くなる。
「ヴォルガ様、これでは防ぎきれません! 奥の地下空洞へ退くべきです!」 「馬鹿者が。地下は逃げ場のない墓場になるぞ。……だが、このままではジリ貧だ」
ヴォルガは、絶え間なく押し寄せる黒い波を見つめた。 人族から水を奪うための戦力さえ、この蟲たちに削り取られていく。かつての大河の名を継ぐ男の誇りが、かつてない焦燥に焼かれていた。
その時、拠点の上空――遙か高い空を、一条の光が横切った。 人族の哨戒艇か、あるいは……。
「……あやつら(人族)はこの事態を知っておるのか。それとも、これすらも奴らの仕業か」
ヴォルガは骨義手をさらに深く大地に突き立てた。自らの命を削るほどの魔力を込め、彼は決断を下す。
「……全軍、撤退だ」
ヴォルガの絞り出すような声に、場が凍りついた。 この拠点は、彼らが幾世代もかけて人族の目から逃れ、守り抜いてきた唯一の安住の地だ。それを捨てることは、流浪の末の死を意味するに等しい。
「ヴォルガ様! ここを捨てれば、我らはどこへ行けばよいのですか!」 「外には水も、隠れる影もありません!」
「死にたくなければ動け!」 ヴォルガの咆哮が、戦士たちの動揺をねじ伏せた。 「ここはもはや、ただの袋小路だ。奴らは我らを食っているのではない。我らの中に流れる、僅かな『魔力』の残滓を追って集まってきているのだ!」
ヴォルガの隻眼は、拠点の中央にある貯水石を捉えていた。人族から奪った魔導結晶を使って、空気中の僅かな湿気を集めていた装置。それが今や、蟲たちを呼び寄せる「餌」と化していることに彼は気づいていた。
「私がここで奴らを食い止める。その隙に、民を西の『乾きし峡谷』へ運べ。あそこの風洞なら、奴らも追ってこれまい」
「しかし、ヴォルガ様お一人では……!」
「行け! ヴォルガの名を継ぐ者が、枯れた大地で背を見せると思うか!」
ヴォルガは骨義手を自らの胸に突き立て、無理やり心臓の鼓動に魔力を同期させた。全身の血管が赤黒く浮き上がり、肉体がミシミシと悲鳴を上げる。獣人の禁術「血髄強化」。一時的に圧倒的な力を得る代償に、自らの命を燃料として燃やす技だ。
「ギガァァァァッ!!」
崩落した岩壁を越え、一体の巨大な蟲が姿を現した。他の個体とは比較にならない巨躯。その背中には、まるで人族の機械回路のような模様が、赤黒い光を放ちながら浮かんでいる。 『王』と呼ばれるべき個体。
ヴォルガは地を蹴った。 赤黒い残像を引きながら、その骨義手の一撃が王の眉間を打つ。爆圧が拠点の空気を震わせ、巨大な蟲の頭部が岩盤にめり込んだ。
「ここから先は、一滴の水も、一塊の肉も通さん……ッ!」
王の鋭い鎌がヴォルガの脇腹を裂き、温かい血が砂を濡らす。だが、ヴォルガは怯まない。彼は血を流しながら、逆にその血を魔力の触媒とし、巨大な氷の槍(僅かな貯水の成れの果て)を生成して王の胸甲を貫いた。
背後では、民たちが次々と西の出口へ逃れていく。 ヴォルガは戦いの中で、不思議な静寂を感じていた。 かつての大河ヴォルガも、こうして干上がっていく最期、大地に自分の身を削って潤いを与えようとしたのだろうか。
蟲の王の叫びが止まない。 ヴォルガは死闘の最中、ふと、遙か上空を見上げた。 そこには、かつての部下が命を懸けて向かった「第8集水施設」が、相変わらず冷酷に、月の光を浴びて輝いていた。
「……ミカ。生きて、繋げよ。……我らの乾きを、この世界の終わりを……」
ヴォルガの骨義手が砕け、爆発的な魔力の余波が拠点を包み込む。 巨大な土煙が上がり、西方氏族の誇りであった拠点は、轟音と共に崩落した。




