獣人編 第1話:鉄の牙、乾いた叫び
その拳が振り下ろされるたび、乾いた岩盤が悲鳴を上げて砕け散る。 西方氏族長、ヴォルガ・ハイネは、自らの右腕に宿る「骨義手」を地面に突き立て、わずかな湿り気さえも逃さぬよう大地の鼓動を読み取っていた。
「……ここも死んでいるな」
ヴォルガが低く呟くと、背後に控える戦士たちが絶望に肩を落とした。 空には**翡翠月**が輝いている。銀色の雨も降っている。だが、そのすべては遙か高空で人族の「集水壁」に遮られ、この地表に届くのは、湿り気すら奪われた熱い風だけだ。
ヴォルガという名は、かつてこの地を流れていたとされる伝説の大河から取られたものだという。だが今の彼に宿るのは、溢れる水などではなく、砂塵を噛み締め、乾きに耐え抜いた末の、鋼のような強靭さだけだった。
「氏族長! 第8集水施設の周辺に派遣していたミカの部隊から伝令が来ました。……施設への接触に失敗。人族の浮遊艦による爆撃を受け、集落は壊滅したとのことです」
報告を聞いたヴォルガの隻眼に、鋭い殺気が宿る。 ミカは、彼が次代の指導者候補として期待を寄せていた若き戦士だ。その集落が焼かれたということは、人族がもはや「余り水」を分け与えるつもりさえなく、本格的な掃討戦に入ったことを意味していた。
「……あやつらは、我らを獣としてさえ見ておらん。ただの、水を浪費する害虫だと思っているのだ」
ヴォルガは、腰に下げた革袋から、最後の一口の水を部下に分け与えた。自分は飲まない。ヴォルガ(大河)の名を持つ者は、民の渇きが癒えるまで、自らを潤すことは許されない。それが彼自身の課した規律だった。
その時、キャンプの境界線を守っていた見張りが声を上げた。 「ヴォルガ様! 北の砂丘から……同胞が戻りました。ですが、様子が……!」
ヴォルガが目を凝らすと、砂塵の向こうから、傷ついた数名の獣人たちがよろめきながら近づいてきた。もっと北、**漆黒月**の影響が最も濃く出る「影の谷」の守備隊だ。 彼らは戦った様子すらない。ただ、何かに怯え、魂を削り取られたような顔をしていた。
「ヴォルガ……様……。逃げて、ください……。地底から……黒い死が……」
戦士の一人が、ヴォルガの足元に崩れ落ちた。その背中には、斬り傷ひとつない。ただ、全身の水分と魔力を根こそぎ奪われたように、無残に萎びていた。 ヴォルガはその冷たくなった体を抱き上げ、静かに立ち上がった。
「総員、これ以上の探索は無用だ。傷ついた同胞を担げ。……黄金月が沈みきる前に拠点へ戻り、防備を固める」
ヴォルガの号令に従い、戦士たちは野営道具をまとめ、砂丘の合間に隠された拠点へと向かった。 そこは、切り立った岩壁のわずかな裂け目を利用して作られた、獣人連合・西方氏族の本拠地だ。人族の偵察から逃れるための隠れ家だが、皮肉にもそこは、最も翡翠月の雨から見放された「影」の場所でもあった。
拠点の中央に置かれた巨大な石の円卓。その周囲には、ヴォルガに仕える各部族の長たちが、暗い顔で集まっていた。
「ヴォルガ様、もはや猶予はありません」 年老いたキツネ獣人の長が、掠れた声で切り出した。 「貯水池は底をつきました。ミカの部隊が天水を奪えなかったのであれば、我らにはもう、明日を生きるための水すら……」
「水なら、そこにある」
ヴォルガは骨義手で円卓の一点を叩いた。そこには、第8集水施設の精巧な地図が刻まれている。人族の若者が命を懸けて暴いた「天水の偏り」を、ヴォルガもまた、長年の経験から察知していた。
「人族は、雨を盗んだだけでなく、大地の底にある『脈』まで塞ごうとしている。このまま大人しく干からびるか、それとも鉄の壁を内側から食い破るか。……選択肢は、初めから一つしかない」
「しかし、人族と正面から戦えば全滅は免れません! アルバトロスの爆撃を、どう防ぐつもりですか!」
別の長が激昂して叫ぶ。その声は、恐怖からくる絶望の裏返しだった。 ヴォルガは、その言葉を遮るように静かに、だが重々しく立ち上がった。
「戦う相手は、人族だけではないかもしれん」
ヴォルガの隻眼が、入り口で横たえられた伝令の遺体へと向けられる。 「あの死に様を見ろ。傷跡はない。ただ、内側の『気』を、潤いを、根こそぎ奪われている。人族の兵器とは明らかに異なる力だ。……北の影の谷から、我らの想像を超えた何かが這い出し始めている」
会議場に不気味な沈黙が落ちた。 人族という「目に見える強敵」に加え、地底から迫る「未知の死」。獣人たちは、逃げ場のない境界線の上に立たされていた。
「これより、我らは軍を二つに分ける。一つは人族の集水施設への陽動。そしてもう一つは……」
ヴォルガが言葉を続けようとしたその時。 拠点の地面が、微かに、だが不気味に震えた。砂粒が円卓の上で躍り、遠くの岩壁が鳴る。
「……来たか。会議は終わりだ。各員、民を奥の空洞へ避難させろ! 戦士は武器を手に取れ!」
ヴォルガは骨義手の魔力を解放し、赤黒い光を指先に宿した。 作戦会議の時間は終わった。彼らが「大河」への渇望を胸に、血で喉を潤す夜が始まろうとしていた。




