人族編 第5話:揺らぐ正義
「ギ……、ギギギギッ!」
大気を震わせる不快な摩擦音とともに、地中から現れた黒い蟲が鎌を振り下ろす。標的は、先ほど水を得てようやく息を吹き返したばかりの、獣人の子供だ。
「逃げろッ!!」
叫びよりも先にリアンの体は動いていた。重力制御装置の残エネルギーを無理やり絞り出し、慣性を無視した速度で子供に飛びつく。 直後、さっきまで子供がいた地面が、巨大な鎌によって深く抉られた。爆ぜた岩の破片がリアンの頬を切り裂く。
「な、なんだよ……こいつ……ッ!」
間近で見るその姿は、悪夢そのものだった。 全身を覆うのは、光を吸い込むような漆黒の甲殻。だが、その節々からは血管のように赤い光が漏れ出し、まるで意思を持っているかのように脈打っている。
「『漆黒月』の呪いだ……。月の影が落ちる時、土の底から魔物が這い出すという伝承は本当だったのか!」
ミカが叫び、腰の長刀を抜き放つ。彼女のしなやかな肢体が地を蹴り、蟲の横腹へと肉薄した。獣人特有の驚異的な跳躍から繰り出された一撃は、正確に蟲の脚の関節を捉える。 だが――。
火花が散り、鋼鉄を打ったような硬い音が響いた。
「効かない……!? 硬すぎる!」 「ミカ、下がれ!」
リアンは子供を老婆の元へ突き飛ばすと、投げ捨てていた「簡易濾過装置」をひっ掴んだ。 この装置は、本来水を清めるためのものだ。だが、その心臓部には**紫水晶月**から抽出した高密度の魔導結晶が組み込まれている。
(調整を変えれば……重力の出力を一方向に集中させれば、衝撃波として使えるはずだ!)
リアンの好奇心と技術者としての直感が、極限状態の中で火花を散らす。彼は装置のカバーを力ずくで剥ぎ取り、魔導回路のバイパスを指先で繋ぎ変えた。マニュアルにはない、機材を自壊させかねない禁忌の改造。カイルが見ていれば「規律違反だ」と激昂するであろう暴挙だ。
「出力固定……共鳴係数、最大! 行けッ!!」
リアンが装置の先端を蟲に向けた瞬間、紫色の強烈な衝撃が放たれた。 局所的に発生した重力の塊が、黒い蟲の巨体を数メートル後方へと弾き飛ばす。
「ギ、ガァッ……!?」
蟲が初めて苦悶の声を上げ、体勢を崩した。その隙を逃さず、獣人の戦士たちが一斉に槍を突き立てる。 だが、リアンは気づいてしまった。装置のセンサーが捉えた、異様な数値に。
「待て……! こいつ、エネルギーを食ってるのか?」
衝撃を与えたはずの場所に、紫色の光が吸い込まれていく。蟲の傷口が、赤い脈動を激しくしながら、より硬質で不気味な形へと変異し始めたのだ。
「……ミカ! 攻撃をやめろ! こいつ、僕たちの『力』を吸収して成長してるんだ!」
リアンの警告と同時に、地響きはさらに激しさを増した。 一つではない。野営地のあちこちで地面が盛り上がり、同じような黒い影が次々と姿を現し始める。
空を見上げれば、そこには不気味に微笑むような**漆黒月**の影が、少しずつ、だが確実に世界の光を侵食しようとしていた。
「……全滅する。こんなの、勝てるわけがない」 ミカが絶望に声を震わせた。次々と地中から這い出す黒い蟲。重力波さえも糧にするその異形を前に、獣人の戦士たちも、改造装置を構えるリアンも、ただ死を待つ獲物のように見えた。
その時。 乾いた荒野に、重厚な機械音が降り注いだ。
――空を裂いて現れたのは、人族の最新鋭浮遊艦「アルバトロス」だった。 眩いばかりのサーチライトが野営地を照らし出し、黄金月の光を奪うほどに巨大な影を落とす。
「援軍か……!?」 一瞬、リアンの胸に希望が芽生えた。だが、艦のスピーカーから響いたのは、あまりにも冷徹な、かつての親友の声だった。
『反逆者リアン、および敵対勢力の獣人集落を確認。――全門、火器管制ロック解除。目標を完全消去せよ』
カイルの声だった。だが、そこにはかつての友情の残滓など微塵も感じられない。 「待て、カイル! 敵はこいつらじゃない、この蟲なんだ! 見ればわかるだろ!?」 リアンは叫び、空に向かって装置を振った。だが、艦の熱線砲は冷酷に、蟲と、そして獣人たちをまとめて射線に捉えた。
カイルにとっての「秩序」とは、不確定要素をすべて排除すること。たとえそこに、未知の脅威があろうと、唯一の親友がいようと、連邦の平穏を脅かす「境界線の乱れ」は許されないのだ。
「伏せろッ!!」 リアンはミカと子供を抱きかかえ、背を向けた。 爆音。大地が震え、熱線が蟲の甲殻を焼き、野営地の天幕を次々と灰に変えていく。カイルの攻撃は正確無比だった。蟲の群れは断末魔を上げながら溶け崩れていくが、それと同時に獣人たちの居場所も、リアンの居場所も、すべてが業火に包まれていく。
熱風の中で、リアンは空を見上げた。 艦の艦橋に立つカイルと、目が合った気がした。カイルは悲しげに瞳を伏せ、それでも引き金を引き続けている。
(……ああ、そうか。僕が守りたかったものは、この『正義』じゃなかったんだ)
リアンの中で、何かが音を立てて崩れ、そして再構成された。 好奇心に従い、正しいと思ったことをする。その代償が、この地獄だというのなら。 リアンは、腕の中の温かい子供の鼓動を感じながら、初めて「連邦」を捨てた。
「ミカ、僕に捕まれ! あの施設の排水ダクトまで走るんだ! 重力翼を最大展開する!」
リアンは、自らの重力発生装置を過負荷させ、紫色の光の嵐を巻き起こした。 艦からの熱線を、局所的な重力の歪みで無理やり逸らす。 「何をしている、リアン……! 死ぬ気か!」 カイルの驚愕の声が無線から漏れる。
爆炎の中を、紫色の光が駆け抜ける。 それは人族としての誇りも、軍人としての地位もすべて捨て去った、ただ一人の人間としての輝きだった。
夜が明ける頃、アルバトロスが去った後の荒野には、焦土と、破壊された集水施設の残骸だけが残されていた。 リアンとミカ、そして生き残った獣人たちは、瓦礫の山の中で、遠く昇る黄金月を見つめていた。
「助かった……のか?」 ミカが呆然と呟く。リアンの手にある装置は焼き切れ、軍服はボロボロになっていた。
「わからない。でも、境界線はもう消えたよ。……これからは、自分たちで水を探さなきゃいけないんだ」
リアンが見つめる先には、逃げ延びた先で見た、自分たちを追うように蠢く「黒い影」が、まだ地中の奥深くに潜んでいる予感があった。 そして空の上では、カイルが自分を殺したことにして、孤独な闘いを続けていることも。
四つの月が交わる「大合」まで、あとわずか。 リアンの本当の旅が、この渇いた大地から始まろうとしていた。




