人族編 第4話:渇きの巡礼
空から落ちる感覚は、リアンが知るどの「飛行」とも違っていた。 アルバトロスの操縦席から見る景色は、常に強固な装甲と重力障壁に守られた「安全な映像」でしかなかった。だが今、リアンの体を叩くのは、喉を焼くような乾燥した熱風と、巻き上がる不毛の砂塵だ。
「……う、あ……ッ」
地面に激突する寸前、ベルトに固定した小型重力発生装置が最後の一吹きのエネルギーを放出し、リアンの落下速度を無理やり殺した。 砂煙の中に転がり落ちたリアンは、激しい衝撃に咳き込みながら、震える手で周囲の砂を掴んだ。
熱い。そして、驚くほど乾いている。 アイアン・ギルの人工庭園にある柔らかな土とは違う。それは命を育むことを拒絶した、ただの岩の死骸のようだった。
「ここが……下、なのか……」
リアンはよろよろと立ち上がり、空を見上げた。 遙か高空には、人族の誇りである浮遊都市の影が、巨大な鳥のように悠然と黄金月の光を遮っている。あそこには、溢れるほどの水と、冷房の効いた部屋と、自分を案じていたはずのカイルがいる。
だが、今のリアンの周囲にあるのは、どこまでも続く赤茶けた荒野と、耳を貸す者もいない沈黙だけだった。
「歩かなきゃ。……誰か、あの時の人たちが、いるはずだ」
リアンは、アルバトロスから目撃した第8集水施設の方向を思い出し、重い足取りで歩き始めた。 数時間が経過した。黄金月は容赦なく熱を放ち続け、リアンの喉は数分おきに悲鳴を上げる。携帯していた水筒の中身は、脱走の際の混乱ですでに空になっていた。
やがて、視界の先に不自然な影が見えてきた。 それは、巨大な岩場の陰に作られた、いくつもの天幕の群れだった。 第8集水施設の排水ダクトから漏れ出す、わずかな湿り気を求めて集まった獣人たちの野営地。そこは、軍の報告書に書かれていた「武装組織の拠点」などではなく、飢えと乾きに瀕した者たちの、静かな墓場のような場所だった。
リアンが野営地の入り口に差し掛かった時、背後から鋭い殺気が走った。
「動くな。人族」
喉を焼くような低い声。振り返る間もなく、リアンの首筋に冷たい刃の感触が押し当てられる。 視界に入ったのは、しなやかな豹のような尾と、鋭い耳を持つ獣人の戦士だった。その瞳は、憎しみと警戒心で焦げ付いたような鋭い光を放っている。
「……違う、僕は……」 「黙れ。その服、その匂い……あの鉄の鳥に乗っていた奴らと同じだ」
獣人の戦士は、リアンの軍服にある「アルバトロス」の紋章を睨みつけた。 その直後、天幕の中から、一人の老婆に抱えられた小さな獣人の子供が出てきた。子供の腕は木の枝のように細く、その瞳はひどく濁っている。
「あ……」 リアンの口から漏れたのは、言葉にならない溜息だった。 その子供が手に持っていたのは、あの時モニター越しに見たのと同じ、ひび割れた土器の器だった。
「殺せ、ミカ。こいつらの一族が、私たちの天水をすべて盗んだんだ」 老婆の静かな、しかし重い言葉が、リアンの胸を熱線砲よりも鋭く貫く。
リアンを拘束している戦士――ミカと呼ばれた娘は、刃に力を込めた。 好奇心に従ってここに来た。正しいと思ったことをするために来た。 だが、目の前の獣人たちにとって、リアンの存在そのものが、自分たちを殺しにきた死神の象徴でしかない。
「……待ってくれ。僕は、戦いに来たんじゃない。……これを、見てほしいんだ」
リアンは震える手で、懐から一つの部品を取り出した。 それは、アルバトロスから持ち出した最新型の「簡易濾過装置」だった。
「濾過装置……? 呪いの道具の間違いじゃないのか」
戦士ミカの冷ややかな声が、リアンの鼓膜を震わせる。首筋に当てられた刃は、微塵も揺るいでいない。周囲には、異変を察知した獣人たちが続々と集まってきた。どの瞳にも、人族への隠しきれない敵意と、それを上回るほどの「疲れ」が滲んでいた。
「違うんだ! これを使えば、そこにある泥水だって飲めるようになる。信じてくれ、僕はただ……」 「信じる? お前たちの言葉をか? あの鉄の鳥から放たれた光で、私の兄がどうなったか知っているのか!」
ミカの叫びに、リアンは言葉を失った。彼女が言っているのは、あの三発目の熱線で命を落とした男のことかもしれない。加害者としての自覚が、リアンの心臓を冷たく締め上げる。
「……それでも、あの子を死なせたくないんだ」
リアンの視線の先には、老婆の腕の中で今にも灯火が消えそうな小さな子供がいた。リアンは強引にミカの刃を押し返し、地面に這いつくばった。そこには、第8集水施設の排水口から僅かに漏れ出し、砂に混じって泥と化した「かつての水」が僅かに溜まっていた。
リアンは汚泥の中に濾過装置を突き立てた。装置が紫水晶月の微弱なエネルギーに共鳴し、低い駆動音を立てる。 「やめろ、何をする!」 ミカがリアンの背を蹴り飛ばそうとした瞬間、装置の排出口から、透き通った一筋の「水」が流れ出した。
野営地に、形容しがたい静寂が訪れた。 人族の街では当たり前のように蛇口から溢れていた、澄んだ水。それが今、この乾ききった地上の泥の中から生まれたのだ。
老婆がおずおずと、ひび割れた土器を差し出した。溜まった水を、子供の唇に湿らせる。 数秒後、死を待つだけだった子供の喉が、小さく「こくん」と鳴った。
「あ……ぁ……」
子供の瞳に、微かな生気が戻る。それを見た獣人たちの間に、動揺と、それ以上の「困惑」が広がった。彼らにとって、自分たちを虐げる悪魔であるはずの人族が、命を繋ぐ奇跡をもたらしたのだ。そのギャップが、彼らの心をかき乱していた。
「……お前、一体何のつもりだ。こんな小細工で、許されると思っているのか」 ミカは刃を引いたが、その表情は余計に険しくなっていた。リアンの「正義」は、彼女たちが何世代もかけて積み上げてきた憎しみのやり場を奪うものでもあった。
リアンが答えようとした、その時だった。
――ズ、ズズ……。
不気味な地響きが、大地の底から響いてきた。地震ではない。何かが、硬い岩盤を内側から削り取っているような、不快な咀嚼音。
「な、何だ……?」 「この音……まさか『漆黒月』の影響か!?」
ミカが慌てて大地に耳を当てる。 突如、野営地の中央にある巨大な岩が、内側から爆ぜるように砕け散った。 そこから這い出してきたのは、黄金月の光を浴びてぎらつく、黒い甲殻を持った巨大な「足」だった。
それは、リアンが資料室で見たどの生態記録にも載っていない、異形の蟲。 ただの蟲ではない。その甲殻には、紫水晶月のエネルギーを吸収し、赤黒く脈打つ不気味な文様が浮き出ている。
「ギ……、ギギギ……ッ!」
蟲が放つ叫び声は、先ほどリアンが聴いた獣人の絶叫に似て、さらに悍ましく歪んでいた。 蟲は、水を得て生気を取り戻したばかりの子供を目掛け、鋭い鎌を振り上げた。
「逃げろ!」
リアンは反射的に叫び、濾過装置を投げ捨てて子供の元へ走った。 技術がもたらした束の間の平和は、より深い闇からの訪問者によって、一瞬で引き裂かれようとしていた。




