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人族編 第3.5話:観測士の孤独 ―境界線の向こう側―

 割れた窓から吹き込む冷たい風が、資料室の静寂をかき乱している。  カイルは銃を構えた姿勢のまま、リアンが消えていった夜の闇をじっと見つめていた。スプリンクラーから降り注ぐ水が、彼の完璧に整えられた軍服を無慈悲に濡らし、体温を奪っていく。


「……馬鹿な奴だ」


 低く呟いた声は、風にかき消された。  カイルの手の中にある軍用銃。その安全装置は、実はリアンが窓へ走る直前に、親指ひとつで再びかけられていた。観測士としての精密な計算能力を持つ彼が、あの大至急の場面で、たった数メートルの距離にいる標的を外すはずがないのだ。


 撃てなかった。  規律こそが秩序だと、自分自身に言い聞かせてきたはずなのに。    カイルは濡れたままの足取りで、リアンが操作していた端末の前に戻った。画面にはまだ、天水の不当な独占を示すデータが明滅している。カイルはそのさらに奥、一般兵士には決して開示されない「極秘階層」のファイルを展開した。


 そこには、リアンすら知らない絶望が記されていた。  **翡翠月ヴェニス**の公転周期の異常。天水の総量は年々減少しており、このままでは十年以内に、人族の全浮遊都市は墜落する。カイルが「略奪」を黙認し、冷徹に獣人を排除してきたのは、一滴でも多くの水を蓄え、リアンが愛するこの空の世界を一日でも長く延命させるためだった。


(お前の好奇心は、いつも眩しすぎたんだ、リアン)


 幼い頃から、リアンは常に前を見ていた。月の輝きに目を輝かせ、機械の唸りに声を弾ませる。その純粋さを守るためなら、自分の手はどれほど汚れても構わない。カイルにとって、リアンは単なる親友という言葉では片付けられない、唯一無二の「守るべき対象」だった。


 友情と呼ぶには重すぎ、愛と呼ぶにはあまりに歪な執着。  カイルは、リアンが自分と同じ「汚れ仕事」を知ることなく、規律という檻の中で安全に笑っていてほしかったのだ。例えそのために、リアンの正義感を踏みにじることになったとしても。


「……観測結果、修正。反逆者リアンの追跡に失敗。対象は墜落し、死亡したと推定される」


 カイルは震える指で、虚偽の報告書を端末に入力した。  これが軍に露呈すれば、今度はカイルが処刑台に送られることになる。それでも、彼はリアンに「自由」という名の逃げ道を与えてしまった。


 窓の外、遙か下方で、紫色の小さな光が闇に溶けていくのが見えた。   「境界線を越えたのは、お前の方だ。……なら、僕は最後までここで、お前の帰る場所を『秩序』という地獄の中に維持し続けてやる」


 カイルは濡れた前髪を乱暴にかき上げ、冷徹な仮面を再び被り直した。  彼の中に渦巻く、恋慕にも似た激しい独占欲と、親友を突き放してしまった後悔。それらすべてを心の奥底に封印し、彼は静かに、追撃の準備を進める軍隊の喧騒の中へと戻っていった。

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