人族編 第2話:翡翠月(ヴェニス)の恵み、鉄の壁
浮遊艦アルバトロスの甲板を叩く風は、高度を上げるにつれて鋭く、冷たくなっていく。 アイアン・ギルを離脱してから数時間。リアンは操縦席の計器類と格闘しながらも、時折、風防の向こうに広がる景色に目を奪われていた。
そこには、人族の居住区では決して見ることのできない、圧倒的な「空の営み」があった。
「カイル、見ろよ! 始まったぞ」
リアンが歓声を上げる。進行方向の地平線、淡いエメラルド色の光を放つ**翡翠月**が、その優美な姿を現した。ヴェニスは四つの衛星の中でもひときわ神秘的だ。その周囲には、氷の粒子か水蒸気か、透き通ったベールのような環が幾重にも重なっている。
やがて、ヴェニスの放つ光が強まると、空から銀色のカーテンが降り注ぎ始めた。 「天水」だ。 雲からではなく、宇宙の深淵にある月そのものから、光を孕んだ水が糸のように地上へ向かって落ちていく。それは雨というよりも、天から零れ落ちた星の涙のようだった。
「何度見ても信じられないな。あんな高いところから水が降ってくるなんて。……カイル、あれが僕たちの命の源なんだな」 「感傷に浸るのはそのくらいにしろ。翡翠月の軌道計算は完了している。降雨ポイント、第8集水施設まであと十五分。重力翼の角度を三度下げろ」
隣の席でカイルが淡々と告げる。彼の視線は、天水の美しさではなく、その落下エネルギーを数値化する計器に向けられていた。 アルバトロスは巨大な重力翼を傾け、銀色の雨が降り注ぐ「中心地」へと突入していく。
やがて見えてきたのは、赤茶けた不毛の平原にそびえ立つ、人族の傲慢さを形にしたような巨大構造物だった。 『連邦第8集水施設』。 それは、直径数キロメートルにも及ぶ巨大なパラボラ型の受皿を空に向けた、鋼鉄の怪物だ。受皿の表面には、天水の衝撃を吸収し、不純物を取り除くための特殊なフィルターが張り巡らされている。
空から降る天水は、本来なら大地を潤し、川を作り、森を育むはずのものだ。 しかし、この巨大な「鉄の壁」は、その恵みの九割を強引に吸い込み、地下の貯水タンクへと流し込んでいた。
「すごいな……。あんなに巨大な施設を、よくこんな荒野に作ったものだ」 「連邦の威信をかけた大事業だからな。おかげでアイアン・ギルの工場は止まらずに済んでいる」
カイルの声には、微かな自慢げな響きがあった。 だが、リアンは操縦桿を握りながら、施設の「下流」にあたる景色に違和感を覚えた。 施設の周囲を囲う高い防壁の外側には、かつては川だったと思われる、ひび割れた大地がどこまでも続いていた。その干上がった溝に沿って、点々と小さな影が見える。
リアンは拡大スクリーンを作動させた。 そこに映し出されたのは、人族の兵士ではない。粗末な布を纏い、角や尾を持つ者たち。 獣人だ。
彼らは干上がった川底にひざまずき、空を見上げていた。だが、彼らの頭上には雨は降らない。すべての恵みは、彼らの目の前にある鋼鉄の皿の中に吸い込まれて消えていく。 幼い獣人の子供が、空に向かって手を伸ばしている。その手には小さな土器の器が握られていたが、そこには泥混じりの湿り気さえも溜まってはいなかった。
「……カイル。あいつら、何をしてるんだ?」 「決まっているだろう。天水の『余り』を待っているんだ。だが、今の時期は翡翠月の高度が低い。一滴も余分な水はない」 「余り、だって? あんなに降ってるじゃないか! あの大皿をほんの数度傾けるだけで、彼らの村には川が戻るはずだろ?」
リアンの声がわずかに震える。 好奇心に従って空を飛んできたリアンにとって、技術とは「不可能を可能にするもの」だった。だが、目の前にある技術は、明確な悪意を持って「誰かの生存を不可能にしている」ように見えた。
「リアン、マニュアルを思い出せ。我々の任務は施設の安定運用と防衛だ。それ以外の行動は、人族への裏切りと見なされる」 「裏切り? 誰が、誰を裏切ってるって言うんだよ!」
その時、アルバトロスの警報が鳴り響いた。 観測モニターに、施設の外周部を突破しようとする複数の熱源が感知される。
「接近する熱源多数。識別――獣人の抵抗組織だ。……やれやれ、やはり来たか」
カイルの手が、冷徹に「戦闘配置」のスイッチへと伸びた。
「カイル、待て! まだ攻撃すると決まったわけじゃない!」 リアンの制止も虚しく、アルバトロスの艦内に戦闘開始を告げる低いブザーが鳴り渡った。 モニターには、施設の外壁に取り付こうとする獣人たちの姿が鮮明に映し出されている。痩せ細った腕で鋼鉄の壁に爪を立て、必死に排水ダクトを目指す彼らの姿は、戦士というよりは、死に物狂いの生存者にしか見えなかった。
「警告は済んでいる。防衛境界線を越えた段階で、彼らは『除去すべき障害』だ」 カイルの指が、冷徹に火器管制システムをロック解除していく。
施設の屋上に設置された自動旋回式の熱線砲が、重苦しい機械音を立てて獲物を定めた。人族が誇る精密工学の結晶。だがその「精密さ」は、標的を苦しませずに消し去るためのものではなかった。
――バシュッ、という乾いた発射音。 紫色の熱線が、先頭を走っていた獣人の男の足を射抜いた。 「……っ!?」 男が転倒する。だが、一発では死なない。焼けた肉の匂いと、耐え難い熱さが男を襲う。男は足を引きずりながらも、なおも水場を目指して這いつくばった。
「カイル、もういいだろ! 足を止めたじゃないか!」 「……沈黙させなければ、他の個体も続く。二発目、照準固定」
二発目の熱線が、男の肩を貫く。肉が焦げ、骨が砕ける嫌な音が、高性能な外部集音マイクを通じてリアンの耳に突き刺さった。 「ア、ガ……ッ、アアアァァ!!」 スピーカーから漏れ出すのは、言語ですらなく、ただの「悲痛な叫び」だった。喉を焼かれたような掠れた絶叫が、静かなコクピット内に響き渡る。
それでも、男は止まらなかった。背後にいるであろう家族のためか、それともただの生存本能か。震える手で、施設の隙間から漏れ出すわずかな湿り気に触れようと手を伸ばす。 その指先が、鉄の壁に触れた瞬間――。
「三発目。……終了だ」 カイルの声がわずかに震え、最後の一撃が男の胸部を正確に貫いた。 男の叫びが不自然に途切れる。泥の中に崩れ落ちたその体は、二度と動くことはなかった。
一人ではない。周囲でも同じような惨劇が繰り返されていた。一発で命を奪われず、何度も熱線に焼かれながら、泥を啜るようにして息絶えていく獣人たち。 「あ……ああ……」 リアンは耳を塞いだ。だが、一度耳にこびりついたあの叫びは、頭の中から消えてくれない。
自分が愛した「重力技術」が生み出すエネルギーが、これほどまでに執拗に、そして醜く「命」を削り取っていく。 空からは、変わらず美しい**翡翠月**の雨が降り注いでいる。その銀色の雫は、泥にまみれて横たわる獣人たちの死体を冷たく洗うだけで、彼らの渇きを癒すことは二度となかった。
「これが……僕たちが守っている『秩序』なのか……?」 リアンの問いに、カイルは答えなかった。 ただ、施設の巨大な貯水ランプが「満タン」を示す青い光を点灯させ、誰の耳にも届かない冷徹な勝利を告げた。




