獣人編 第3話:強奪の狼火
翡翠月の雨が、今夜も地表に届く直前で「見えない壁」に阻まれている。 第5集水施設の外壁を見上げる位置に、東方氏族の戦士たちは潜んでいた。
「見ていろ。人族どもが、我らの涙をタンクに詰めて笑っているぞ」
低く、殺意の籠もった声を出したのは、東方の女戦士シバ。豹の耳を伏せ、彼女は人族の哨戒ライトの動きを冷徹に数えていた。 彼女たちの集落は、ヴォルガの西方氏族とは異なり、武力による「水と資源の奪還」を至上命題としている。
「シバ、準備はできている。……だが、本当にやるのか? 第5施設は連邦の精鋭が守っている。ヴォルガ殿が知れば、無謀な火遊びだと一蹴されるぞ」
隣で大剣を担ぐ巨漢の戦士が囁く。シバは鼻で笑った。 「ヴォルガの老いぼれは、穴の中で砂を噛んで死ぬのを待つのがお似合いだ。私たちは違う。……あの蟲どもが現れた今、逃げ場はない。ならば、あの鉄の壁の中に、私たちの安住の地を築くまで」
シバが合図を送ると、背後に控えていた十数名の戦士たちが、自らの血液を混ぜた特殊な「魔導触媒」を武器に塗布し始めた。 彼らが狙うのは、施設の排熱ダクトから伸びる、わずかな装甲の隙間だ。
「行くぞ。……奪われた血の分だけ、水を啜らせてやる」
シバは豹のようなしなやかさで岩陰を飛び出し、重力センサーを掻い潜る。 人族の拠点は、常に「外側からの攻撃」を想定しているが、獣人たちが土を掘り、排熱の熱気に耐えながら、死に物狂いで内部へ侵入してくることまでは想定していない。
ダクトの巨大なファンが回る轟音の中、シバたちはついに施設内部の「外郭回廊」へと足を踏み入れた。 そこには、地上の熱砂が嘘のような冷気が漂い、壁のパイプからは、あろうことか「結露」した水滴が床に落ちていた。
「……水だ」
一人の戦士が、床に溜まったわずかな水たまりに指を触れ、それを喉に流し込む。 「シバ……これ、本物の、冷たい水だ……!」 その言葉に、戦士たちの目に狂気にも似た情熱が宿る。彼らにとって、ここはもはや施設ではない。神の住まう神殿であり、自分たちが奪い取るべき楽園だった。
だが、その歓喜を切り裂くように、回廊の奥から赤い警告灯が回り始めた。
『侵入者確認。警備用オートマトン、起動。……駆除を開始します』
無機質な音声と共に、天井から四足歩行の戦闘ドローンが次々と投下される。 シバは牙を剥き出し、手に持った双剣を交差させた。
「来い、鉄の屑ども。私たちの渇きを、そのオイルで潤してやる!」
「第5施設を落とせば、南の浮遊都市アイン・ギルの水供給の二割が止まる……。奴らの顔が青ざめるのが目に浮かぶようだ」
シバは、戦闘ドローンの残骸を踏みつけながら、施設の深部へと突き進んでいた。第5集水施設は、全10施設の中でも「中枢」に位置し、地底からの水脈を直接組み上げる巨大な心臓部を抱えている。
施設の心臓、中央制御室の巨大なガラス張りの向こうに、彼女たちはそれを見た。 天から降る翡翠月の雨を集めるだけでなく、巨大なドリルが地底深くを貫き、大地の「血」である深層水までも強引に吸い上げている光景を。
「……やりすぎだ。あんなに吸い上げれば、地上の川跡すら二度と戻らなくなる」
同行していた大剣使いの戦士が、恐怖にも似た呆れ声を出す。 だが、シバの視線はそのさらに奥、厳重に封印された透明なタンクに釘付けになった。
そこには、水ではなく、赤黒い光を放ちながら脈動する「黒い液体」が満たされていた。そして、その液体の中に漬けられているのは……ヴォルガの拠点を襲ったあの**「蟲」の幼体**だった。
「何だ、あれは。水と一緒に、地底から化け物を汲み上げているのか?」
『不適合。サンプルNO.052、生命反応消失。廃棄プロセスを開始』
無機質なアナウンスと共に、タンクの液体が循環し始める。シバは戦慄した。人族は蟲の驚異を知らないのではない。むしろ、この蟲が持つ「魔力を吸収し、物理的なエネルギーに変換する性質」を、第5施設を使って研究・利用しようとしていたのだ。
「奴ら……このバケモノを動力源にするつもりか!? 私たちの故郷を食い荒らす毒を!」
その時、制御室のシャッターが開き、連邦の重装歩兵部隊がなだれ込んできた。
「そこまでだ、野良犬ども。貴重な『燃料』に触れるな」
隊長らしき男が銃口を向ける。シバは激昂し、双剣に自らの血を塗りたくった。 獣人にとって、大地を枯らす蟲は「不浄の災厄」だ。それを管理し、あろうことか利用しようとする人族の傲慢は、もはや生存競争を越えた「禁忌」に触れていた。
「燃料だと……? これは私たちの命を吸う毒だ! 貴様らごと、こんな施設ぶち壊してやる!」
シバが床を蹴り、銃弾の雨を潜り抜けて隊長へ肉薄する。 第5施設の奥底で、人族の禁忌と獣人の怒りが激突する。同時に、地下に繋がる巨大ドリルが、未知の深淵をさらに掘り進めていた――。




