廃屋
一裕は、従業員わずか十数名の小さな解体業者で事務員として働いていた。蒸し暑い夏の朝、現場作業員のリーダーである田中から会社に電話が入った。
「今日の現場は社長が直接依頼を受けた仕事だったよな」
電話口から、いかにも不機嫌そうな田中の声が響いてきた。
「そうですよ」
一裕は顔をしかめながら答えた。
「社長はいるか?」
「今、外出中でいません」
電話の向こうで、舌打ちのような音が聞こえた。田中は苛立ちを隠そうともせずに言った。
「さっきから社長の携帯に電話してるのに全然繋がらないんだ。一体どうなってんだよ」
「何かあったんですか」
「何かあったなんてもんじゃない。このままじゃ作業が進められない。とにかく一裕でもいいからこっちに来てくれ」
一裕はまだ若手だったが、社長の息子という立場から、社長不在時には何かと代理を務めることが多かった。
「わかりました。すぐに向かいます」
(またか......)
一裕は内心うんざりしながら社用車に乗り込み、現場へと向かった。
現場は会社から車で三十分ほどの距離にある、古い家と新しい家が混在する住宅街の一角にあった。目指す古い家は敷地も広く、まるで邸宅と呼ぶにふさわしい風格を漂わせていた。聞くところによると、かつては地元の名士の家柄だったらしいが、いつしか家は没落し、家族は散り散りになり、長い間誰も住んでいないという。
空き家となって久しいのだろう、庭は草木が生い茂り、鬱蒼とした様子は足を踏み入れることすら躊躇わせるほど荒れ果てていた。家屋もあちこちが傷んでおり、屋根の一部は今にも崩れ落ちそうだった。
門をくぐり、玄関前に停まった作業車から、田中が重い足取りで降りてきた。見るからに不機嫌そうな顔をしている。一裕はこれ以上田中の機嫌を損ねて面倒な事態にならないよう、言葉を選びながら話しかけた。
「どうしましたか。作業を進める上で何か問題でもありましたか」
「問題どころじゃない、大問題だ。とにかくまずは見てくれ」
そう言うと、田中は足早に家の中へと入っていった。玄関先には他の作業員たちが所在なさげに座り込んでおり、皆困惑したような表情を浮かべていた。
一裕は、また田中の悪い癖が出たのだと思った。田中は頑固で自分の考えに固執する傾向があり、融通が利かない性格だった。そのため、これまでも度々顧客との間でトラブルを引き起こし、会社にとって頭痛の種となっていた。
一裕は田中の後を追って家の中へ入った。奥座敷と思われる部屋に足を踏み入れた瞬間、一裕は目の前の異様な光景に息を呑んだ。
部屋は典型的な和室の座敷だったが、壁という壁一面に、びっしりとお札が貼り付けられていた。奥の床の間には、特に夥しい数のお札が積み重ねられ、柱が見えないほどだった。近づいてよく見ると、お札は一種類ではなく、様々な種類があるようだ。中には、古びて紙の色が変わり、ボロボロになっているものも多数あった。
「これは……」
一裕はその光景に言葉を失った。田中が鼻を鳴らして言った。
「俺は別に信心深いわけじゃないが、これに無造作に手を出す勇気はさすがにない」
一裕も普段から心霊的なものに興味はなく、呪いなど全く信じていなかった。だが、目の前の異様な光景は、この屋敷に下手に手を出したら何か悪いことが起こる、そんな不吉な予感を一裕の心に植え付けた。
結局、その日の作業は中止となり、一裕たちは会社に戻った。一裕は何度も社長に電話をかけたが、呼び出し音は鳴るものの、一向に繋がる気配がなかった。そういえば、今日は社長は会社に出社していなかった。もしかしたら、体調でも悪いのかもしれない。
一裕は現在一人暮らしをしているため、実家にいる母親に連絡を取ってみることにした。すぐに電話が繋がり、母親が出た。
「お父さんは家にいる?」
「それがね、お父さん昨日から熱を出して寝込んでいるのよ」
「そうだったのか。道理で電話しても全然繋がらないわけだ。それで、少しは良くなった?」
「それがなかなか熱が下がらないの」
母親がそこでふぅーと深いため息をついたのが電話越しにも聞こえた。
「それにね、お父さん、何か夢を見ているのか、ずっと魘されてて譫言を言っているの」
「譫言?なんて言ってるの?」
「それがよく聞き取れないんだけど、なんか柱は切らないとか、切ってはダメだとか……」
「柱……」
それからしばらくして、社長は熱も下がり、体調が回復した。しかし、熱にうなされていた時のことは全く覚えていなかった。一裕はあの屋敷の取り壊しの件について社長に尋ねた。すると社長は、困ったような顔でこう言った。
「実はあの家の取り壊し、同業者間でたらい回しになっていたみたいなんだ」
「そのせいか、代金が通常の二倍になっていて、それでつい引き受けてしまったんだ。例の件の後、不動産会社Zからあまり仕事を回してもらえなくなって、会社が厳しかったからね」
例の件とは以前に田中が顧客との間で起こしたトラブルのことだった。
現場を見た田中が「あれはちょっと作業できない」と言っていたことを伝えると、社長は「今回は諦めるしかないな」と深いため息をついた。
後日、一裕が社長から聞いた話によると、あの屋敷の解体作業には、別の解体業者が名乗りを上げて実際に作業に入ったらしい。しかし、いざ解体作業を始めようとした時、以前から崩れかけていた屋根が突然崩壊し、落下した瓦礫の下敷きになった作業員が大怪我を負ってしまったという。そんなこともあり、結局その解体業者も途中で撤退したらしい。
一年ほど経ち、一裕は用事があってその町に行く機会があった。あの屋敷は以前にも増して不気味な廃墟と化し、まるで何かを拒むように、ひっそりとそこに佇んでいた。風が吹くたびに、家の中から微かな音が聞こえたような気がした。それは、無数の札が擦れ合う音だったのか、それとも......。一裕は足早にその場を後にした。あの家には、決して近づいてはならなかったのだ。もう二度とここには来ない、そう誓ったのだった。