4.レオニスの頼み事
部屋で朝食を食べ終えてから、廊下に出て食器を下げにいくのがアベルの日課となった。
使用人達からの挨拶にも、自然に返すことができるようになってきていた。
手首の痣もずいぶん薄くなった。痩せていた腕も、子供らしいふくふくとしたものに戻りつつある。これはあまり嬉しくはないが。
昼過ぎ、静かな部屋の扉がノックされた。入ってきたレオニスは、手に紙束を持っている。
「アベル、ちょっと頼めるか」
レオニスから意外な問いかけがあった。ここに滞在してから自分に頼み事など、今回が初めてだ。
「内容を確認して判を押して欲しい。雑務が溜まっててな」
そう言ってアベルの目の前に数枚の紙が滑る。
各地への物資供給の明細が書かれた報告書、部隊編成の変更届など、不備がないか確認をして最終印を押すものだった。
随分と久しく目にしていない言葉に、アベルはふと懐かしさを覚える。
「このくらいならすぐ終わるだろうに」
「まあ、お前の気晴らしも兼ねてだな。それから……」
そう言って最後に出してきた書類には見覚えのある名前が載っている。アベルは書面を読み上げた。
「黒狼隊、副官ノア・クレインの駐留延長および地域防衛任務継続に関する件……」
「黒狼将軍を敬愛してやまない副官殿からの報告書だ」
わざとらしく言いながら、にやりと口元をゆがめて文書を差し出す。
「……茶化すな」
アベルはわずかに眉を寄せるが、文書を受け取る手は丁寧だった。軽く息を吐き、読み始める。
──第七駐屯地現地指揮中、疫病発生により封鎖継続中……
几帳面な字の向こうに、真剣に任務と向き合うノアの姿が見えた気がした。
少しだけ目を細め、アベルは報告を最後まで読み終える。
西方戦線制圧完遂の折、アベルの命で残地指揮と民間保護を担っていた。疫病が発生した為、帰還が延期になるとの事だった。
確認印を手に取り、片手で押すには少し骨の折れるそれを、ぐっと押し込んだ。
カタン、と小さな音が部屋に響く。じっと印影を見つめる。久しぶりの動作で少し曲がってしまったかもしれない。
「あいつも、ずいぶん苦労しているようだな」
レオニスがぽつりと呟く。
「ああ……だが、よくやっている……この状況を、どう伝えるべきかな……」
報告書を見つめたまま、アベルがぽつりと呟く。ノアの帰還にはまだ時間を要するだろう。
未だ幼い姿のままという現実に、どう向き合い、どう報告すればいいのか。
自身の右腕とも言える副官のノアには、何より正しく伝えねばならない。
「正直に言うしかねぇだろ。お前、そういうとこで誤魔化すの得意じゃないしな」
ソファに腰を下ろしたレオニスが、面倒くさそうに言いながらも、視線はどこか柔らかい。
「……馬鹿にしてるのか」
「してねぇよ。お前がどんな見た目でも、あいつはちゃんと受け止めるだろ。……それに、変わらずお前を唯一無二の将だと思うはずさ。あいつがお前を見る時、神様か何かを見るような目をしているもんな」
「……そうか?」
レオニスの言葉に首を傾げる。
「気づいてねーのかよ」
くつくつとレオニスは笑う。アベルはしばし黙ったまま、窓の外を見つめた。
柔らかな陽が庭の花を照らしている。
「……あいつがここに着く頃には、元の姿に戻れていればいいんだがな」
「まあ、焦るなよ。こうして屋敷内を歩けるようになっただけでも、今は大したもんだと思っておけ」
レオニスの言葉に肩の力が、少しだけ抜ける。
子供の姿になる前には、レオニスとこんな会話はいくらでもしていたはずなのに。
久しぶりだな、とアベルは懐かしさを覚えながら、副官の文字が走る書類を静かになぞった。