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夜明け知らずの黒狼ー幼き将と終齢の子ー  作者: 紺
一章 赤竜の巣
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2.名もなき日々

 陽の光が差し込む広い部屋は、外からの鳥のさえずりや風に靡く木々の葉音が届くほど静かだった。

 整えられた寝具、薬草の香り、柔らかな絨毯。何処を見ても、王都の将官私室の無骨さとは無縁な、平穏の象徴のような空間だった。

 だが、そのベッドの上でうずくまる小さな身体が、その平穏に溶け込めていなかった。


 

 レオニス邸に到着して三日。

 階段を登るのにも息が切れ、食事は半分も喉を通らない。昨日は熱を出して薬を溶かした白湯だけで過ごした。鏡に映る姿は、兵でも将でもない。ただの病み上がりの子供だ。それが自分だという事に、アベルはまだ慣れないでいた。

 地下に囚われていた時には、痛みに意識が向いていた。疲労と消耗で自身の身体にまで意識を向ける余裕がなかった。だが、平穏な空間に放り出されたと同時に、大人の意識と、小さな身体。そのかみ合わなさを嫌でも自覚しなければならなくなった。

 

「これでは、剣すら握れない……」

 鏡の中の子供が悔しげに呟いた。細く頼りない、誰かの力を借りなければ、命をつなぐことさえ出来ない姿だ。

 この姿を誰にも見られたくなかった。いや、見せられなかった。あの地下で、無機質に自分を見下ろす目が、今でもアベルの脳裏にこびりついて離れない。克服したはずの過去の記憶と重なり、体が強張る。自分は、黒狼将のはずだ。民を守る為に、強く在らねばならないのに。

 

 使用人の足音が廊下に響くたび、アベルは思わず布団を頭までかぶって身を隠した。

 細い手首には、癒えきらない痕がいくつも残っている。それすら只の「拷問を受けた子供の痕」としか見られない。すぐに熱を出し、疲れ、ベッドから立ち上がれば、数歩でふらつく。横になっていなければ息が切れる。そんな自分を、人目に晒すことが堪らなく情けなかった。


 こんな姿では任務に戻ることも出来ない、と、配下たちの顔を思い出しては、胸の奥が焼けるように苦しくなる。

 自分が軍を率いなければ、剣を振るわなければ、死ぬはずのなかった誰かが死ぬかもしれない。自分の居るべき場所はここではなく、戦場なのだ。焦燥感だけが先に立つくせに、身体が動かない。この数日、そのような思考ばかりがぐるぐると廻り、アベルの心中は晴れなかった。


 

 そんな思考を遮るように、そっと扉が開いた。

 深い木の皿から湯気立つ粥と、軟らかく煮た根菜のスープ。それを持って入ってきたのは、屋敷の使用人ではなくレオニス本人だった。

「起きてるか?」

 レオニスは一度も、誰かに配膳をさせることは無かった。

 アベルがこの屋敷に留まるようになって三日間、食事も薬も、すべてレオニスが運んできた。

 アベルが食事を拒否しても、レオニスは何も言わずに、静かに皿だけを置いていく。身体を拭くための湯涌を持ってくると、そっと部屋を後にする。部屋の中にあった鏡は、いつの間にか無くなっていた。

 

「……レオニス……すまない」

 布団に潜り込んだまま、アベルは小さく呟いた。

 情けなくて、役に立てなくて、誰の前にも立つことが出来ない、様変わりしてしまった今の自分を、それでも支えようとしてくれるこの男に、何も応えてやれない自分が悔しかった。

「いいから、食え。食って寝ろ。今はそれだけでいい」

 レオニスはそっと皿をテーブルに置き、なるべく音を立てずに部屋を後にする。

 塞ぎこんでいるアベルに慰めも、叱責もすることなく、距離を置いてくれている。

 その背中は、自分を急かすことなく「待っている」と、そう言っているように思えた。



 

「……」

 ゆっくりとベッドから降りた。大人の姿なら数歩でたどり着き、難なく座ることが出来る椅子。だが今はそれにすらよじ登らないといけない儘ならない身体だ。

 ふらつく身体をどうにか制御して、椅子に登りアベルはテーブルについた。

 目の前にある、小さな手に合わせて選ばれた匙を手に取ってそっと粥を掬い、口に運ぶ。

「……」

 ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。スープの器を持ち、少しずつ飲み込む。

 温かな食事がアベルの身体を内側から温めていく。

「美味い……」

 この身体になってから、初めて味を感じたように思う。食べやすいように細かく切られた野菜は、口に運べば優しく解けていく。弱った身体に馴染むよう、薄い味付けなのに、深みがある。

 

 ――ああ、人の心が通っている。

 

 そう感じずにはいられない、優しい食事。

 鼻の奥がつん、と痛む。目の前の皿が何故か滲む。

 紛らわせるために小さく息を吐き出した。

 子供の身体になったから、きっと涙も出やすくなったのだろう。今は、そう思うことにした。


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