8.廃聖堂の地下で
かつて女神イーラの御名を讃える祈りが響いていた聖堂は、今や祈る者もいない。朽ちた女神の石像は、砕けた頬に煤を垂らし、崩れた祭壇の向こうで沈黙している。
信仰はとうに形骸化し、この地では祈りの言葉すら売買の声にかき消された。残されたのは、名ばかりの「女神殿」という呼び名と、石の冷たさ、全てを飲み込む暗闇だけだ。いまや静謐さや清浄な空気はどこにも無く、悲惨な叫び声を上げる「商品」の檻が並ぶ「見せ場」になっている。
子供達の啜り泣く声、穏やかではない男のがなり声があちこちから聞こえてくる。
並んだ牢の中を値踏みするように覗く上等な着物を着た貴族風の男、それに釣り合わない粗雑な服を纏い案内する義足の男。首に縄をつけられ、怯えた顔で膝を抱える子供――
湿り気を帯びた空気は据えた臭いを孕み、深く息を吸うのが躊躇われる。アベルは眼前に広がる光景に顔を顰めた。
担がれたままのアベルは、元聖堂を抜けて、細く灯りの漏れる小部屋へと運ばれた。
アベルの暗闇に慣れた目は、小部屋の中の異様さを瞬時に捉える。
「……っ!」
子供だ。それも複数人。攫われてきたばかりなのだろう。身を寄せ合って、見知らぬこの不気味な場所に怯えている。
突如部屋に入ってきた男に怯え、さらに壁際へと身を寄せた。アベルがその場に降ろされる。
「黒狼の仔とはいえ、『検品』前だからなぁ……ここで大人しくしていろ」
「……」
アベルは男を見上げた。
「……ヘッ。ビビってんのか? 急に大人しくなりやがって。お前は良いトコロに売られるだろうよ。精々楽しみに待ってな」
内部に潜り込んだのだ。もう怯えたり暴れたりする演技をする必要はない。男はアベルや中の子供達を一瞥すると、部屋を出て行った。ぐす、ぐすと子供達の啜り泣きが聞こえる。
「大丈夫……?」
一番背の大きな子供が、アベルの両手足の拘束を解こうと手を伸ばす。翡翠のような翠色の瞳が目を引いた。
「あぁ、すまない」
少々手こずったが、荒縄を解いて貰い、アベルは無事に動けるようになった。
「お母さん……お父さん……!」
隅で見た目はアベルとそう変わらない子供が泣いている。アベルは近づき、そっと肩を寄せる。
「大丈夫だ、俺の仲間がじきに助けに来る。気を強く持て」
泣き腫らした目がアベルを映す。
「本当……?」
「あぁ、本当だとも」
そのやりとりを見ていた、年長の子供がふっと笑う。
「そのお話の仕方、まるで黒狼将みたい」
「……!」
アベルは目を見開き、年長の子供を見た。
「寝る前に、お父さんが話してくれるんだ。赤竜将レオニスが南の砦を一晩で落とした話や、黒狼将がひとりで敵の将と話をして誰も傷つけずに戦を治めた話、何度も聞いたんだ。赤竜将は決して敵を逃がさないし、黒狼将は決して仲間を見捨てない。強い将なんだ」
「……それは随分と頼もしいな」
随分と話が大きく伝わっているようだ。レオニスが聞いたら鼻を高くするかもしれない。アベルは苦笑した。
だが、そんな自分の働きが民に、子供に希望を与えているのなら、それは悪くない。まだ自分はここで終わるわけにはいかない。元の姿を取り戻し、再び民の前に立つためには、ここで手がかりを掴まなければならない。
アベルは立ち上がり、周囲を注意深く見渡した。壁は石造り。元々聖堂だけあって、荘厳で立派な作りだ。アベルが入ってきた扉は施錠されている。もう一つ奥に続く扉もあるが、こちらも外側から鍵がかかっていて、逃げられそうにはない。元は聖職者の着衣や備品を保管しておくための場所だったようだ。
――おそらく、ここは『仮置き』
『検品』、と言う言葉が聞こえた。考えるのも腹立たしいが、おそらくここに入れられた子供は、検品を経て分類され、女神殿の広間である『見せ場』に出されるのだろう。扉の向こうからは、鉄扉の開け閉めされる音や、檻がぶつかり合う音、鎖の擦れる音などが子供の泣き声に混じりひっきりなしに聞こえてくる。
「……」
周囲の棚を調べたが、ここには何も書類や手がかりになるようなものは無さそうだ。
「さぁ、餓鬼ども。検品の時間だ」
突然扉が乱暴に開き、男が二人入ってくる。逃げ遅れた年長の子供が腕を掴まれた。
「ひっ……!」
怯える子供を無理やり引っ張り、男たちの目の前に引き出した。顔を一人の男が固定し、もう一方の男が品定めするように目を凝らす。恐怖で子供の身体は震えている。
「顔も悪くねえ。目の色も人気の翠、こりゃ愛玩用でいいんじゃねぇか」
「病気があっちゃ困る。ちゃんと見ろよ」
「わーってるよ」
面倒くさそうに男はナイフを取り出す。子供の細腕に走らせ、血を流させるつもりらしい。
「や! 嫌だ! やめて!」
「大人しくしろ」
刃物を目の前に、翠の目の子供はみじろぎ、暴れ、どうにか逃れようと必死だ。その度に抑える力が強くなる。
「痛い! 誰かッ! 助けて……!」
「……ッ!」
悲痛な子供の声が部屋の中に響き渡る。暴力的な光景に、アベルの周りにいる子供達は顔を背け、声を殺して泣いている。
ノアの視界を遮られて、ここに連れてこられた。アベルを追う為の痕跡を残してはいるが、ここに辿り着くまでには時間が掛かるだろう。まだ、手がかりも掴んでいない。時間を稼ぐために、目立つわけにはいかない。身を潜め、自分に意識が向かないようにしなければ、だが――
涙で濡れた翠の目がこちらを見た。助けを求める目が。
「……やめろ!」
次の瞬間には、男の腕に取り付いていた。力で敵うわけがない。それでも、助けを求める目を、見て見ぬふりはアベルには出来なかった。
男の腕にしがみつき、噛みついた。子供の体で抵抗する手立てはこれくらいしかない。
「この……餓鬼ッ……!」
振り払われた腕は、アベルの体をいとも簡単に吹き飛ばし、壁へ強かに打ち付けられた。
「ッぐ!」
肺から息が全て吐き出されるような衝撃。それでもアベルは耐え、地面に手をついた。さらに追い討ちをかけようと歩み寄った男の影がアベルに落ちる。
「おい! よせ! そいつは上玉の……!」
別の男が制止する。舌打ちをした男は、それ以上危害を加えてくることはなかった。
「……その子に手を出すな、俺なら、高く売れるんだろ」
男たちを睨み上げる。だが、睨まれた男らの口の端が上がった。
「良いだろう。その威勢、後で後悔する事になるぞ」
翠の瞳の子供を放り出し、アベルの胸ぐらが掴まれた。そのまま奥の部屋の扉が開かれる。
廃聖堂の更なる奥へ、アベルは連れ出された。
扉の向こうはガラリと変わり、どこか病的に甘い香が漂っていた。地下の湿り気と血の臭いを覆い隠そうとするその香りは、逆に何か醜悪なものを誤魔化そうとしているようで、アベルの背に嫌な汗が流れた。




