2.黒狼、知られぬ貌
目が覚めた時、最初に感じたのは冷たい床の感触だった。
肌に触れる石床で身体がひどく冷えている。
身にまとう布は自分が鎧下に着ていた内着と、誰かが羽織らせた軍の外套だった。見上げれば、見慣れた無骨な石造りの天井に木材の梁。自室の近くの備品保管庫のようだ。
小さく息を吐き出してゆっくりと頭を上げた。
目の前には二人の兵士。アベルが目覚めたと同時に無言のまま槍を構え、こちらを見据えている。その目には、不審と戸惑いが浮かんでいる。
アベルは体を起こそうとして、手首と足首に掛けられた拘束具に気づいた。
革紐による簡易なもの――だが、子供の細腕では外せそうにない。
こちらに槍先を見せている兵を知っている。紛れもない自分の配下達だ。
「イオ……ルーファス……聞いてくれ、俺は」
低く問うつもりだったのに、掠れた高い声が返ってくる。名を呼ばれた兵の槍先が揺れる。
全く違う自分の声に思わず眉をしかめると同時に、ようやく兵の一人が口を開いた。
「イオ隊長……! この子、俺たちの名前を知ってますよ……!?」
ルーファスは入隊三年目の新兵だ。まだ経験は浅い。動揺がわかりやすく顔に現れている。だが、隣の隊長は揺るがない。
「……黙っていろ。間も無くアウレス様が来られる。何者かは、すぐに明らかになる」
声は硬い。だが、どこか迷いも含んでいた。
もう一人の若い兵士がちらとこちらに目線を寄越す。瞳が揺れている。まだ動揺を隠せない。この新兵の弱点だ。
「……でも……隊長」
「見た目に惑わされるな。魔術や擬態の可能性もある。何より、黒狼将の私室に侵入していた以上、只者じゃない」
将、という言葉にアベルの意識が鋭くなる。
自身が今、アベル本人だと訴えた所で、証明できるものは何もない。下手なことを言えば、ますます信用を失うだけかもしれない。
アウレス宰相がこちらに向かっていると言っていた。
長年国に仕える王に一番近い側近だ。魔術の分野にも詳しく、王からの信頼も厚いあのお方なら、きっと自分の正体を証明してくれるはずだ。アベルは目の前の二人の兵に訴えるのを止め、静かにその時を待つ事にした。
「……」
年端のいかぬ子供らしからぬ行動と表情に見えるだろう。ルーファスの目が揺れる。
「隊長……この子の目元、将に似てませんか……それに、こんな場所で拘束されてるのに……泣きもしないなんて」
一瞬、空気が張り詰めた。槍を握る隊長の皮手袋が、小さく音を立てる。
「……いいから……黙っていろ……!」
これ以上何も言うな、と隊長の目は部下を睨め付ける。上に子供を見張れと命じられた以上、兵にそれ以上の権限はない。目の前の子供が黒狼将アベルと内心で確信していたとしても、拘束を解く権限はこの者たちにはない。軋轢に苦しむだけだ。イオ隊長はそれを弁えている。上の指示を待つしかないのだ。
懐疑と緊張が交差する重い空気のなか、幾許かの時間が経過する。
部屋の扉が軋んだ音を立てて開いた。
宰相アウレスと、つい先ほど凱旋の報告をしたアルドリック元帥が姿を現した。
共に青ざめた表情でこちらを見つめている。
即座にアベルは頭を下げた。アルドリック元帥の声が震える。
「その髪と瞳の色……やはり、この者」
「お待ちください。……お手を、失礼します」
元帥の言葉を遮り、アウレスは懐から銀製の器具を取り出す。肩に流れていた長い髪がさらりと落ちる。アベルの手を取り、甲にそっと当てた。
ふわりと弱弱しい光が灯り、複雑な紋様が空中に浮かび上がる。その紋様を確認したと同時に、アウレスは小さく息を吐き出した。
「……間違いありません。魔力は大幅に弱まっているものの、この波紋はアベル・ノクス本人です」
横に控えていた兵たちの顔がこわばる。
即座にルーファスが駆け寄り、手足を拘束していた革紐が切られた。
「将……! 申し訳ありません……! どうして、こんな……!」
ルーファスが動揺を抑え込みながらも涙ながらに訴える。アベルは手首をさすりながら首を振った。
「……いいや、仕方がない。不確定な言葉を信じずに命令を貫いたのだ。正しい判断だった」
アベルの言葉にルーファスの息が震える。そっと腕に手を置くが、元の自分の手の大きさとあまりに違う。小さく動揺が広がる。
「それにしても一体その姿はどうしたというのだ」
歴戦の老将アルドリック元帥にも、抑え込めぬ動揺が見える。かがみ込みこちらを覗き込む姿は、先ほど報告した時分よりも遥かに大きく見えた。
まだ体がくらくらとする。それでもアベルは両足を踏ん張り、二人を見上げた。
「分かりません。鎧を脱ごうとした瞬間に急に体が縮み始め、助けを求めることもできず……気を失いました」
「鎧……? 此度、王から賜った黒鋼のあの鎧ですか?」
アウレスが目を見開く。
「……調べた方が良さそうだ」
言うが早く、アルドリックは保管庫を後にする。宰相アウレスは元帥を見送った。
「……さて、アベル殿、こちらとしても一国を預ける将がこのような姿になってしまっては、国の威信に関わる。ひいては和平の存続が危ぶまれます」
アウレスは膝をつき、アベルに目線を合わせた。
「貴方ともうひと方の将、その比翼の存在自体が他国への牽制抑止力となっていたのです。ですから、この件は極秘に。秘密裏に原因究明をはかり、貴方を元に戻す手立てを考えます。よろしいですね?」
アウレスの言う通りであった。王から信頼の厚く、魔術の分野に詳しいこの者は、有能な魔術師団を抱えている。原因究明もさもない事だろう。
自身をアベルと認めてくれた事も相まってアベルの心中に僅かに安心が広がる。
「……どうか、お願い申し上げる」
柔らかな目をさらに細め、アウレスは微笑んだ。
「全力を尽くします。貴方は我が国の要なのですから」
こうして、今の「黒狼将アベル」の姿を知る者は、ほんの一握りの者たちだけとなった。
誰も、彼の「知られぬ貌」が、王国の運命を左右するとは知らぬまま――。