8.影落ち
「アベル、街に降りてみないか?」
昼食を終えた昼下がり、自室で本を読んでいたアベルにレオニスから声を掛けられた。
「なんとも急な話だな」
「月に一度、領地の視察も兼ねて歩くんだ。屋敷ばかりの散策も飽きてきた頃だろ?」
ぱたん、と膝の上の本が閉じられた。
「そうだな。行こうか」
飛び降りるようにソファから降りてすぐさまこちらに向かってくる様子を見て、本当に散策に飽きて来た頃だったのだな、とレオニスは噴き出しそうになる。
「そのフード、必要あるのか?」
外出のために着替えをしている最中、頭も、目元も、すっぽりと覆うように被ったアベルを見て、レオニスが問いかける。
「この背丈の頃、外を歩くときはいつもこうしていたから、隠さないと落ち着かない」
「……ああ」
それ以上レオニスは何も言わなかった。
――『影落ち』
かつて、アベルのような黒髪金眼の人間を指す言葉だった。親がどんな容姿であっても、突発的に黒髪金眼の子供が生まれることがこの国にはある。その生まれ方から、その身を影に落としては魔を宿し、不幸を呼ぶ、などと噂され、忌み嫌われる存在だった。アベルが幼少期の頃は特に酷く、生きる手段を探す事が困難であった程だという。
子供の姿になってから、少し怯えた表情を時折見せるのも、そんな経験をしてきているのなら当然の事だろう、とレオニスはふと思った。
「まあ、今はだいぶ状況が違うだろうけどな。その身体での外出も少しずつ慣れていけばいい。今日はその練習第一歩という事で」
街の門を抜けて、アベルの足が止まった。
昼下がりの陽を受けて、石畳の道が白く光っていた。
鋪装された一つひとつの石には、長い年月を経た擦り傷や丸みが刻まれている。
両脇には、赤い瓦屋根の家々が並び、窓辺には花の鉢が飾られていた。
商人の声、子どもの笑い声、パンを焼く香ばしい匂い。
石の壁に跳ね返る日常の音が、どこまでも柔らかかった。
「領主様! 今日もお一人で?」
「いいや、今日は大事な連れとだ!」
「レオニス様、こないだのお酒、入りましたよ!」
「おお、そいつはいい! 後で寄らせてもらうぜ!」
レオニスにはひっきりなしに声がかかる。
将として恐れられている顔しか知らなかったが、ここでは領民と親しげに言葉を交わし、笑い合う姿があった。
これがレオニスのもう一つの顔――領主として、人々に「必要とされている顔」なのだと、胸の奥が静かに温まった。
思ったよりも人の往来が多い。アベルはフードを深く被り直した。
「……」
チラリとそれを見ると、レオニスは身を屈めてアベルの耳元で話しかける。
「市の方に行ってみるか。屋台の串焼きが美味いんだ」
「ああ」
アベルの返答を聞くが早く、レオニスはアベルを抱えた。
「レオニスッ……! 抱き上げるな!」
「まあまあ。こっちの方が早えーし。迷子になられても困るからよ」
「ならん! 子供ではない!」
アベルの抵抗虚しく、結局レオニスの足で市へと辿り着いた。街の入り口とは違う活気がある。広場にはさまざまな屋台が並んでいた。
「早速買ってくるから、少し待っててくれ」
アベルを広場の噴水の近くに下ろし、レオニスは屋台へと向かっていく。
周囲を見渡してみた。皆、楽しそうにアベルの横を通り過ぎていく。この街には活気が満ちている。
「待たせたな。ほら、食べようぜ」
両手に屋台から買った串焼きを持ったレオニスが、片方に持っていた串焼きをアベルに差し出す。
手を伸ばした瞬間、風がアベルのフードを攫う。手で押さえる暇もなく、アベルの顔が、髪が顕になる。
「あっ……!」
一拍遅れてフードを押さえようとした手が空を切った。
数人の視線がアベルに注がれる。アベルは思わず身を竦める。しかし、掛かる声はアベルの予想外のものだった。
「おや。『黒狼の仔』かい! 珍しいね!」
「ここ最近は見かけなかったからねぇ」
「はぁー、本当に髪が綺麗に真っ黒なんだねぇ。黒狼将と同じだ」
注がれる目線は、暖かい。
「……」
思っていた反応ではなかったアベルが呆然としていると、くつくつとレオニスが笑う。
「自分のやった功績については無自覚なんだもんなお前。言ったろ? 今はだいぶ状況が違うって。黒狼将殿?」
数年前、アベルが将になり、大きな功績を残したことで、世の中の『影落ち』の処遇は大きく変わった。
忌まわしき見た目、から、強く誇り高い将と同じ姿を持つ者へと変わったのだ。
「『影落ち』なんて言葉もここ数年、全く聞いてないぞ。……良かったな」
珍しい目を向けられてはいるが、そこに拒絶の視線はない。
「……俺の存在が、元『影落ち』を救っているのなら、これほど嬉しいことはないな……」
面映ゆいような、少し誇らしいような顔で、アベルはわずかに下を向く。そんな様子にレオニスは小さく口の端を上げた。
「ほら、串焼きが冷める。早く食べちまおうぜ」
「ああ」
串焼きを口に運ぶと、香ばしい匂いが鼻を抜け、じんわりと旨みが広がった。
通りのざわめきも、子どもの笑い声も、この街にたどり着いた直後よりもどこか新鮮に感じられた。
――世界は、少しずつ、変わっている。
それを噛みしめるように、アベルはもう一口、串をかじった。
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