6.狼の瞳
まだ体調が本調子ではないとはいえ、邸の中を歩くだけでは身体が余計に鈍ってしまう気がして、アベルは外に出る事にした。いつのまにか今の自分のサイズの靴や、今日の気候に合わせた服が毎日綺麗に整えられている事に、今更になって気づく。
小さな指でボタンを留めるのにまだ時間を要するが、人の手を借りて着替えをするのは自分が自分で許せない。少しずつ慣れてきているような気がしなくもない。ようやく着替えを終えて、廊下へと出る。
レオニスから邸の中は自由に歩いて良いと言われている。数日前に二階から見下ろした中庭がふと頭に浮かんだ。美しく整えられた庭園なら、歩くのも邪魔にはならないだろうとアベルは考えて一階へと降りる階段に向かった。
屋根付きの渡り廊下を抜けて、中庭の光が差し込む場所へ足を向けた。
「……っ」
日差しが眩しい。思わず目を細めた。自分の足で外に出て、日光を浴びるのは久しぶりだった。
広い中庭には石畳の小道が、柔らかく刈り込まれた緑の芝と美しく整えられた低木の間を縫って伸びている。
庭の中心には白い大理石で縁取られた噴水が柔らかい音を奏でている。
花の名前などはアベルにはわからないが、色とりどりの季節の花が、互いの色を引き立てるように並んでいる。時折、鳥のさえずりが聞こえ、風は穏やかだ。靴音を立てて、ゆっくりと庭園を回った。
「おっと、お足元に気をつけて」
上から声が掛かる。脚立に跨り、庭木の刈り込みをしていた老齢の男性だ。アベルの近くには、オーク材の工具箱と手入れの道具が無造作に置かれている。
「庭師のヨハンです。レオニス坊ちゃんのお客人ですな」
「ああ、ここで世話になっている」
長く白い眉毛の下の、皺だらけの目が緩められる。脚立をゆっくりと降りて身体に付いた葉や枝を払うと、片膝を付いてヨハンは笑う。
「綺麗な金の眼をしていらっしゃいますな」
「……これは」
アベルの言葉を待たず、ヨハンは背後の荷車から、一つの苗を取り出した。
「……よろしければこれを」
爪の先まで土の色に染まったヨハンの手には、一株の花が包まれていた。
「『狼の瞳』と言います。黒狼将アベル様が任官の折、ある領地の園芸師が品種改良した特別な花です。お客人には、この花がよく似合う」
花はまだ蕾だった。
黒に近い青みがかった蕾がひらけば、金色に淡く透ける花になるという。
アベルの正体を知ってか知らずか、ヨハンはそのままアベルの傍らの花壇に膝を付いた。
「植えてみませんか。土に触れるのは、気持ちがいい」
「……そういう事を、やったことがない」
やろうにも、方法が分からない。苗を受け取ろうとして、どう持てばいいのかも分からなかった。
握っていたのは、いつも剣だった。花を、土を、自ら触れた経験など今までの人生で無かった気がする。
「ならば、尚更。植え方を一緒にやりましょう」
アベルは頷く。ヨハンの手を真似て、苗を植えるための穴を作る。
朝露で湿った土はひんやりと、しかし柔らかい。指の間から溢れる土の感触、匂いが心地よい。
何度か土を掘り返して、ヨハンから受け取った苗を植え、土を柔くかける。
「十日ほどでしょうかね。花が開くのは」
「……こういうものには、毎日水をやるものなのか」
アベルの言葉の先をヨハンは読んだようだ。
「毎日必要です。やってみますか?」
アベルは頷く。
「自分で植えたのだから」
ヨハンはほほ、と笑い声を上げた。
「見た目以上に真面目なお人だ」
アベルの日課に、花への水やりが加わった。朝早くに庭に向かう小さな客人を、使用人達は毎日静かに見守っていた。




