【第9話】 名を持つ禍、交わる剣
――禍は、名を持ったときから災厄となる。
世界に“魔禍種”と呼ばれる怪異が現れはじめたのは、百年ほど前とされている。
だが、記録に残らぬ“前触れ”は、それより遥か以前から続いていた。
この化け物たちは、魔力でも呪いでもない。
人間の心に渦巻く「恐怖」「憎しみ」「後悔」……そういった感情の澱が、姿と力を与えてしまったものだ。
とりわけ厄介なのが、“名を与えられた”個体。
それは、人々が無意識に抱いたイメージが形となり、この世界に定着してしまった“概念の化身”である。
その一体が――
《笑う主》
高位悪意存在(魔禍種)/人間の感情を喰う怪異
皮膚のない巨大な顔に、六本の脚。
その表情は常に笑ったまま、無声のまま人の“心”を嗤う。
奴は人の「恐怖」「羞恥」「罪悪感」に反応して膨張する。
その存在に触れた者は、次第に己を保てなくなり、ついには仮面のような笑顔を張り付かせ、自我を溶かす。
かつてラフィンドは、小国の貴族社会を崩壊させた。
陰謀、裏切り、失脚――その醜い人間関係に惹かれた魔禍種は、何もせずとも勝手に人の中で育ち、最後には国そのものを喰い潰した。
そんな怪異が、今――“北の森”に現れている。
◆ ◆ ◆
「まるで悪い夢のようだ……」
クラウス・レインハルトは、負傷した兵の治療を終えた聖女リーネの姿を見ながら、呻くように呟いた。
彼女は既に、盗賊団のリーダー――ラグドの傍らに立っている。
鎖は外されていた。だが、自由とは言えなかった。
クラウスは幕舎に戻り、対峙する男に目を向ける。
焚き火の火に照らされたその男、ラグドは、油の滲んだチェンソー――《黒鉄輪禍》を肩にかけたまま、座っていた。
「俺が奴らと手を組んだのは、仕方なく、だ。聖女を攫った理由もそうさ」
クラウスが眉をひそめた。
「貴様、それを今さら正当化する気か」
「してねぇよ。……ただ、“聖女”ってのが、あんたらの言うとおりのお綺麗な象徴ってだけなら、俺はあんなもん必要ない」
「ならばなぜ攫った!?」
「力があったからだよ」
焚き火がパチリと弾けた。
「俺たち盗賊は、泥を啜って生きてる。お前らのように“正しさ”の陰に隠れて、人を裁く立場じゃねぇ。
だがな――その“汚さ”でなきゃ、化け物とは戦えねぇ」
ラグドの声には、感情がこもっていなかった。まるで道具の機能を語るように。
「聖女リーネは“希望”じゃねぇ。便利な道具だ。俺にとってはな。
使い道があるうちは利用する。それだけの話だ」
「お前という男は……!」
怒りを露わにしたクラウスを、リーネが止めた。
「クラウス様。……私は、この人の言葉を否定しません」
「リーネ……」
「私自身が……“世界を祈るだけの聖女”でいようとした。
でも、ラグド様のやり方で、目の前の命が救われたことも、また事実なのです」
リーネは静かに微笑む。
その笑みは、ラグドには見せない。
「あの方の手のひらの上であろうと……私は、この手で命を救いたい。それだけです」
◆ ◆ ◆
夜明けと共に、クラウス率いる騎士団は南へ引き、聖堂へ報告に戻ることとなった。
リーネは「自らの意思」で残ると宣言し、仮初めの同盟が成立する。
ラグドは、森の深部に残された“笑う主”の巣の探索に着手する。
手負いのままでは戦えない。だが、それでも、何もしなければ全てを喰われる。
クラウスは、去り際に言った。
「お前のやり方には、心から賛同できない。だが――あの子が、自分の意思で共に戦うというのなら……俺は、見守る」
「それでいい」
ラグドは、煙草をくわえたまま、彼に背を向けた。
「正義も、信仰も、覚悟も――全部くれてやるさ。
その代わり、化け物の首は俺に寄越せ。最後まで、な」
◆ ◆ ◆
――こうして、聖女と盗賊の奇妙な共闘は、幕を開ける。
これは、世界を救う物語ではない。
これは、世界の“壊れかけた歯車”たちが、化け物をぶっ壊していく物語だ。
第一章「聖女攫いと黒鉄輪禍」 完