22.俺の居場所
建国史を手にしたまま、俺は暫く呆然としていた。
あまりのことに思考がうまく纏まらず、どうでもいいことばかりが浮かんでは消えていく。
本の厚みとか、差し込まれた逸話が荒唐無稽すぎるとか、そもそも神話を知らないとか。引っかかるところは多々あるけれど、それはいまどうでもいい。
重要なのは『レガンテが滅んでいる』ことと『2000年以上が経過している』ことだ。
国が滅んでいるならば当然、村も家も、家族も喪われているはず。
しかも数日や数年などの話ではなく、2000年。
あまりに壮大すぎてなかなか飲み込めない。
それだけの時間が経っているなら、まず間違いなく俺の元の体はどこにも残っていないだろう。国自体の痕跡がこれだけの記述しかないのに、辺境の一村民の何が残っているというのか。
悪い夢を見ているようだ。むしろそうであってほしいと思う。ダンジョンで目覚めたあの時から、ずっと長く酷い悪夢の中にいるのだと。そしていつかはこの悪夢から解放されると、信じたかった。
だってこれが現実なら、俺はどこにいけばいい。
村も家族も自分の痕跡すらなくなって、怪物の身体に押し込められた俺は、どこに。
腹の奥底でぐるりと暗い感情が渦巻く。
「ルーチェ? どうしたの? 痛い?」
気遣う声に、はたと我に返った。
いつの間にか傍にいたノアが、泣きそうな顔で俺を見上げている。
何故か俺の内心は高確率でノアに筒抜けだ。伝えようと思っていなくても、脳内で浮かんだ思考がまるっとノアに伝わっていることが多い。
ずっと、思考がただ伝わっているだけだと思っていたが、それだけではなかったとしたら。思考に伴う感情すらも、そのまま伝わっているのだとしたら。
この、感情が伝わるのは。
「……? ルーチェ?」
ゆっくりと瞬いて、一旦全ての思考を捨てた。敢えて目の前のことだけに注意を絞る。
ノアと、本と物語と、地名……は思考を引きずられそうなので除外して。
「? ぼくがなあに? もう痛くないの?」
痛くないよ、とノアを抱き上げる。
されるがままのノアは、不思議そうに首を傾げた。しばらくそうして探るように見つめられたものの、ノアの中で問題ないという判定が出たらしい。
ごそごそと俺の膝の上に座り直し、再び絵本を読み始めた。
ぺらりとめくられたページには、七人の天使の絵。聖書をわかりやすく絵本にまとめたもののようだ。
金色のつむじを見下ろしながらぼんやりと考える。
――もともと、頭のどこかで覚悟はしていた。
戻るべき身体がない可能性。身体はあっても生きていない可能性。もしかしたらとうの昔に死者かもしれないと。
何しろ俺は生来の虚弱体質。眠ったままの状態で生きているほうが奇跡に近い。原因や経緯はともかく、魂が散歩に出ている段階で身体の状態は推して知るべしだ。
だからその点については、さほど驚きではなかった。
死んだ記憶がないことだけが唯一の希望だったけれど、まあそんなものだろうなあ、と納得と共に諦めもついた。
飲み下せなかったのは、『帰る場所』がどこにも存在しないこと。
国が、村が――家族が。
ぐるり、と腹の底で蠢いた感情に、慌てて意識を逸らす。
咄嗟にノアに視線を落すが、ノアに異変はない。大人しく絵本を捲っている。
そのことに安堵しつつ、俺は改めて自分を戒めた。感情的になるのは、よくない。絶対にだめだ。
ノアの今にも泣きそうな顔を思い出す。
恐らく、俺の感情はそのままノアに伝播する。俺が嘆けばノアは泣くし、俺が怒ってもたぶん泣く。言葉で伝わるならともかく、俺の感情が直接伝わるのは、あまり良いとはいえない。
ノアが大人であればまだいい。俺の感情と、自身の感情をきちんと分けて考えられる。
けれど幼い心には他人の感情など毒にしかならない。
こんな、俺自身すら受け止めきれない感情なんて、もってのほかだ。
俺の感情に引き摺られて、ノアの心が歪んでしまうことだけは避けなければ。
つまりは余計なことを考えなければいいのだとわかっているのだが。
いかんせん、たった今知った情報が衝撃過ぎて、どうしてもそこに思考が戻ってしまう。
だって信じられないだろう。
俺の記憶では、ついこの間まで村にいたのだ。家族の顔も名前も、昨日のことのように思い出せるのに。
それが2000年以上も昔の話だなんて。
何もかも喪ったような気分だ。実際、俺の手には何も残っていない。家族も身体も、名前すら。俺を形作っていたものは、とうに土の下に埋まってしまった。
きっと、俺もそこに埋まっていた。
家族と共に朽ちて眠っていたはずなのに、なんの冗談か泥人形なんて怪物になってしまっている。こんなことならずっと土の下で眠っていたかった。俺を知らない世界に、たったひとり取り残されるくらいならいっそ。
「ルーチェ」
ぽつんと呼びかけられて、はっとする。
しまった。考えまいとしていたつもりだったのに、うっかりまた余計なことを。
「こうしてるとね、ここがぎゅってなるの。ぎゅーって。これってルーチェが痛いのかなって……あってる?」
俺を振り仰いで、ノアが自分の胸のあたりを示す。
心当たりがありすぎてぐうの音もでない。戒めたそばからこの体たらくである。
「でもどこが痛いのかわからないよ。ぼくに教えて? ぼくが先生に言ってあげる」
先生がきっと治してくれるよ、と無邪気なノアの言葉に、ますます罪悪感が募る。
ノアはつい先日、食堂ではしゃいで机に頭をぶつけた。ごん、といい音がしたなと思ったら、ノアが頭を押えて蹲っていた。たまたま少し離れていたため気付くのが遅れた。
すぐ近くにいたキャロルが慌ててノアの手当をしていたが、小さなたんこぶひとつで済んだようだった。
そういう経緯もあり、ノアの中では「怪我を治す=先生に言う」という図式が成立しているらしい。
まあ子どもとしてはその図式は間違いではない。
ただ俺がその対象に入らないだけで。
どの「先生」かはわからないが、魔物の治療をと言われても困るだろう。あと物理的に怪我をしているわけではないので、そういう意味でも対象外である。
「だいじょうぶだよ、ちゃんと治るから。すぐ痛くなくなるよ。だいじょうぶ」
にこにこと繰り返す言葉は、ノアが言われた言葉だろう。キャロルか、もしかしたら他の誰かから言われてきた言葉かもしれない。
拙いそれを微笑ましく思うと同時に、本当にそんな気がしてしまうから不思議だ。
ただの気休めでしかないとわかっているのに。
……確かに、いつかはくるのだろう。痛みを感じなくなることも、時と共に癒えることも知っている。人でなくなってしまった今、時間だけはあるはずだから。
その頃には、ひとりの孤独も感じなくなるだろうか。
「怖くないよ、ぼくが一緒にいてあげる」
小さな手が、俺の手を掴んでいる。
どこか得意げな顔をしたノアは、俺が怪我の手当てを怖がっていると思ったようだ。当たらずとも遠からずな理解に、苦笑したくなる。
そうだ。俺は怖がっている。
家族に永遠に会えないことを、ひとり知らない時代にいることを。
そして、魔物である以上この先もずっとひとりだと、怯えている。
でももしかしたら。
ノアに握られていない方の手で、その丸い頭を撫でる。ふわふわと柔らかな感触が伝わってきて、今更ながらこの土でできた手のどこで感覚を拾い上げているのか不思議に思った。
かき混ぜられた髪にきゃっきゃとノアが笑う。
どうやら、良い感じに誤魔化されてくれそうだ。
――ノアの言葉につい安堵してしまったのは、俺が弱っていたせいに違いない。
◆◇◆◇◆◇
『奥の庭』は、いまや畑と言っても遜色ないほどにらしくなっていた。
例の、ルッツが持参した種が芽吹いたのだ。
畝にはわさわさと葉が茂り、丈もぐんぐんと伸びている。知らない植物だったのでよくわからなかったが、野菜なのは間違いない。とにかく異様に葉が繁るので、可食部は葉の部分だと思われる。
何をしても育たないと言っていなかっただろうか。
先の言を疑ってしまうレベルの成長っぷりだったが、それは皆同じだったようで。
芽吹いた時に子どもたちと一緒になって喜んだローレンは、日を追うごとに増えていく嵩に表情が死んだし、修道女たちも目をまるくしていた。
一体何がよかったのか、まだ誰もわかっていない。
選んだ野菜がよかったのかもしれないし、たまたま生育条件がよかったのかもしれない。
違う種類の野菜を植えてみないことには原因もはっきりしないのだが、この一件で「土妖精すごい」と謎に評価が上がってしまって困っている。
俺がしたのは適当に土を混ぜた程度のことだ。調査も処置もしていない。あとついでに土妖精でもないので、過分な評価はやめてほしいところである。
真実を知っているはずのアンジェリカは、特に口をはさむことなく穏やかに微笑んでいた。静観していないで誤解を解いてほしいのだが、そんな俺の内心はノアには伝わっても彼女には伝わらない。
そして俺の内心が伝わっているはずのノアはというと、当初こそうろたえていたものの、子どもたちから「ルーチェってすごいね」と褒められるに至ってころりと態度を変えた。
にっこにこの得意満面で俺を自慢し、さらに余計な誤解を子どもたちに広めている。完全な間違いとも言えないものを持ち出すので、苦情も入れ辛い。
そんなこんなで、日々の行動に「畑仕事」が追加された。
もちろん、基本的にはローレンがやっている。彼としても仕事というよりは厚意でやっている側面が強いようで、熱心にあれこれするというよりは最低限の管理をしているような印象だ。
初の野菜畑に興味津々の子どもたちは、何も頼まれないうちから畑のまわりをうろちょろとするので、それならとローレンが手伝いをさせるようになった。
とはいえ、さすがに力仕事はさせられない。子どもたちの手伝いは、雑草を抜いたり水を撒いたりといった、軽作業だ。
「おっ、来たか。ちょうどよかった」
畑に顔を出したら、ノアをみつけるより先にローレンに呼ばれた。
今日の午前中はノアと別行動だったため、ノアは先に子どもたちと畑に来ている筈である。
俺の『設定』上、別行動はどうなんだろうと思わなくもないのだけれど、その設定を信じているはずの修道女たちから次から次にと手伝いを頼まれている。たぶん、忙しすぎて彼女たちも設定を忘れている可能性が高い。まあ誰も不審に思ってないならいいかと判断して、パメラに頼まれて倉庫と厨房を往復してきたところである。
ローレンに手招きをされたので、はいはいと向かえば、建物の残骸を示された。
どうやら残骸をどうにかしたいらしい。
「あの辺にも畑を広げたらどうかって話でな。邪魔なアレを掘り起こしてぇんだが」
元は建物なだけあって、地中に埋まっている部分は意外と多い。建物の上部分だけをざっくりと撤去したらしく、基礎部分は殆ど残っているようだ。
確かに人の手でどうこうするには時間も手間もかかる。本来は専門の業者に依頼、ないし数人の人足を雇うべき案件だ。間違ってもローレンひとりでする作業ではない。
まあ、そんなことは彼も重々承知だろう。
「お前あのあたりの土をどうにかできねぇか。固すぎて掘るにも骨が折れんだよ。柔らかくなりゃあとは適当に取っ払うから」
おや、と思う。
てっきり「残骸を取り出して、ついでに処分してくれ」くらいは頼まれると思っていたのだが。
ちなみに、レンガ製の残骸は操作可能である。つまりは力任せに割らずとも分解できてしまう。ダンジョンの石畳が操作できなかったのでダメだと思っていたのだが、元が土や砂だと操作可能の判定になるようだ。
俺が怪訝に思ったことを、ローレンも気付いたようだ。溜め息をついて、やや呆れたように口を開く。……最近、修道女たちだけでなくローレンとも目でなんとなくの会話が成立するようになってきた。何故かはわからない。
「お前に全部させるわけねぇだろ、土妖精なんだから。まあ便利使いしてる自覚はあるが……コレはそもそもお前の仕事じゃねぇし」
お前の仕事は護衛だろ、とローレンが見遣った先には、ルッツの後をついて回るノアの姿。
言われてみればそんな設定ではある。
ノアは『何だか厄介』な魔物に目を付けられた哀れな子どもで、俺は護衛のためにギルドマスターから貸し出された従魔。
実際、俺は従魔だし、ノアを守ることが契約の主目的だとは思う。違うのは俺の主人がノア本人だということと、『何だか厄介な魔物』が存在しない仮想敵だということだけ。
よって俺は特に行動を偽る必要もなく、ただ諾々と流されて過ごせている。未だに従魔がなんたるかはわかっていないのだけれど。
ずっと付きまとっていた焦燥も、今やさっぱりと消えた。当然だ。この世界、いや時代に、俺の帰る場所などない。経過年数が途方もなさすぎて、懐かしさを呼び起こされる痕跡が何もなく、むしろ異世界にいるような気分だ。
「で、どうだ。できそうか?」
再度問われて、俺はその場に屈み込む。
ここからは距離があるが、土を動かしてしまえば多少の距離は誤差なので問題ない。やろうと思えば掘り起こしとレンガの分解くらいは簡単にできるだろう。
ただ、ローレンも気を遣ってくれたことだし、ここはあまりやりすぎないほうがいいかもしれない。
本物の土妖精がどんなものか知らないが、さすがにレンガを分解したりはしないだろう。
彼が音を上げたら、或いは見ていられないほど辛そうだったら、もう少し手伝うことにしよう。
ぺたりと地面に手をついたところで、不意に背中に軽いものがぶつかった。
咄嗟に周辺の土を支配下に置いて、広い『視覚』で確認する。
俺の屈んだ背中に張り付いていたのは、金色の小さな頭。
なんだと警戒を緩めると、それはネコのようにぐりぐりと背中に頭をこすりつけてくる。
ああ、もしかしてこれは甘えられているのか。
「ん? どうした……ってノアか」
俺が動きを止めたことに気付いたローレンが覗き込んできた。
それに、ぱっとノアが顔を上げる。次いで、俺が両手を地面についているのに気付いたらしい。
「あ……ルーチェ、お仕事……?」
ぱちぱち瞬いたノアが、そろりと俺のローブを掴んでいた手を離す。
窺うようなその仕草は、邪魔をしてはいけないと思ったのか。眉を下げ、何かを耐えるように唇をきゅっと結んでいる。緑の目は、少し潤んで揺れていた。
俺は両手を地面から離す。
視界が切り替わり、狭まる。ゆっくりと身体の向きを変え、ノアの姿を両目で捉え直して手を伸ばした。
ノアは困惑顔で、けれども俺の手を拒むこともなく見つめてくる。
思い返せば、最近はあちこちで手伝いをしていた。
今日のようにノアと別行動をとることも何度か。俺からしてみれば、それでもノアと四六時中一緒にいるような気がしていたが、それはあくまでも大人の感覚だ。
幼い頃の一日は、とても長かったことを思い出す。
ノアを抱き上げて立ち上がると、ノアが不思議そうに首を傾げた。
「……お仕事じゃないの?」
遠慮がちな言葉とは裏腹に、その両手は俺の首に回されている。ぎゅう、と離れないと言わんばかりのひっつき具合におかしくなった。
心配しなくても、俺はノアの傍を離れたりはしない。
事実を知る前ならいざ知らず、今の俺には他に行く場所などないのだ。
モンスターの俺では、討伐されるか従魔として存在するかの二択しかないし、例えそれ以外の道があるとしてもひとりで彷徨えるほど頑強な精神はしていない。中身はあくまで平凡な村民である。
――それに、俺の主人はノアだから。
ふつう、従魔は主人を最優先にするものだ。たぶん。
ご主人サマが寂しがっているなら、それを取り除いてやるのが従魔の仕事だろう。
だからこれは俺の仕事、とノアを抱き上げたままローレンを顧みる。
ローレンは軽く目を見張ったあと、「ああなるほど」と頷いた。
伝わったようで何よりだ。
「また今度頼むわ」
それには無反応を貫いて、俺はノアと共に庭を後にした。
状況に割と流されがちな俺だが、回避できる労働はできるだけ回避していきたいので。




