21.今いるここは
現在地を知りたい。
それが、ダンジョンで目覚めてからこちら、ずっと思っていたことだった。
もちろん、今いる街の名前は知っている。
ダンジョン近くの辺境の街、マリード。
防衛のためか、ダンジョン側の半分ほどが高い壁に囲まれている。壁近くに配置されているのは、工房や武器などを扱う店が中心で、壁から離れるにつれ飲食店や日用品などの店が並ぶ。街の中心部には冒険者ギルドや役所などの重要施設、そして壁のない街の後ろ半分は居住区だ。
教会はその居住区とのちょうど境目、壁の傍に建てられている。教会のすぐ後ろに併設されている孤児院の奥には、やや低くなった壁がそびえていた。
俺の『現在地』は、その教会だということは理解しているのだが。
俺は村に帰るための現在地が知りたいのだ。記憶にかすりもしない地名と街の状況がわかってもどうしようもない。せめて俺の知る地名が出てきてほしい。確かに、国外の地名などろくに覚えていないが、隣国の主要地域くらいならなんとかわかると思う。
「この国のお名前?」
そう思って手近な情報源であるノアに尋ねてみた。
従魔術の影響か、最近は特に意識しなくともするりと意思が伝わることが増え、ノアの誤訳もだいぶ減ってきた。ついでにノアの語彙も多少増えた気がする。俺の余計な知識を学習しているせいだとは思うのだが。
しかしこの答えはノアもわからなかったらしい。首を傾げた後、先生に聞いてみる、と言った。
ノアの言う「先生」は修道女たちのことである。誰を指しているかは本人にしかわからない。他の子どもたちはちゃんと呼び分けているのだが、ノアは誰に対しても「先生」としか呼びかけないし、改める気配もない。名前を覚えていないはずはないだろうに。
ノアに手をひかれ、向かった先は孤児院の厨房だった。
ちなみに、修道院のほうにもやや大きめな厨房がある。今より人が多かった頃はそちらも使われていたらしい。現在は孤児院の厨房だけで賄えるので、そちらは食糧倉庫のような扱いなのだとか。
「あら、どうしたのノア」
厨房では、ふたりの修道女が夕食の下準備に取りかかっていた。
入り口から覗き込むノアに気付いて、パメラが声をかけてくる。
俺は当初、修道女たちをしっかりと覚えるつもりはなかった。遠巻きにされていたし、怖がられてもいたのでなるべく視線を向けないようにしていたのだ。服装と全体的な印象で「修道女」とわかればそれでいいかと思っていた。
けれど声をかけられることが増えて、子守り以外のことまで頼まれるようになってきたあたりで、さすがにそのままでは悪い気がしてきた。名前を覚えたところで呼びかける機会など永遠にこないのだけれど、せっかく歩み寄ってくれているのだからとなるべく視線を合わせるようにしている。
そのせいか、最近では修道女たちと目で会話が成立するようになってきた。ノアのように具体的に伝わるわけではなく、視線誘導による簡単な意思確認だ。いわゆる「空気を読む」感じである。
おかげで、いつの間にかノアを通さずに直接あれこれ頼まれることが増えている。一番多いのは食糧や堆肥の運搬などの力仕事だろうか。
俺の設定上、ノアを介していないものは無視してもいいのだろうが、本当に困っているのがわかるだけに無下にもできない。
「何か困ったことが?」
パメラは手際良く芋の皮を剥きながら、問うように俺をちらりと見遣る。
返事のしようがないため、『いいえ』の意味でそっと視線を逸らしておいた。わかりにくいけれど、日常の手伝いではこれでなんとなく通じていたので、伝わると信じている。深刻な事態でないと理解してもらえたら十分だ。
「あのね、教えてほしいの。ここ、なんてお名前の国なの?」
ノアはおずおずと厨房に踏み込んで、パメラに尋ねた。
「トルーゾ王国よ」
あっさりと答えが返ってきた。なるほど、やはり知らない国だ。
「お隣の国は?」
「隣? ここから近いのはシュマーナ王国だけど……国の名前がどうかしたの?」
いきなりこんな質問をされれば気になるのも当然だ。
なので、あらかじめそれらしい理由を用意しておいた。何度も確認した甲斐あって、ノアは拙い言葉ながらも違和感なくパメラに答える。内容を要約すると「将来のために見聞を広めたい」である。
「将来は冒険者かしら? ノアはロビンが大好きだものね」
納得した様子のパメラが微笑ましげに目を細めた。そういえばノアのお兄ちゃんは冒険者だったな、と思い出す。
「それなら聖書を読んでみるのはどうかしら。国の成り立ちから書いてあるのよ」
「でもパメラ様、聖書はさすがに難しくないですか? 絵本とか易しい本は……」
パメラの提案に、キャロルが困惑気味に話に入ってきた。
キャロルは修道女の中でも一番若く、まだ「見習い」なのだという。色々と仕事を覚えている最中のようで、いつも必死な様子で働いているのをよく見る。真剣な顔で皮を剥いていたから、こちらの会話など耳に入っていないかと思っていた。
「絵本はダメになって処分してしまったのよ。でもそうね、聖書は難しいわね。挿絵があるような本があればいいのだけれど……どこにやったかしら」
「王都みたいに書庫があればいいんですけどねぇ」
どうやら書庫のある施設もあるらしい。王都に存在するだけあって、施設自体も相当に広いのだろう。
アンジェリカならば知っているかもしれない、という情報を二人から得て俺たちは厨房を後にした。
俺は、ノアに感謝している。
ノアだけじゃない。ジークやアリシア、エレン、それから2人のギルドマスター。アンジェリカをはじめとしたこの施設の人々。
俺をダンジョンから出して、ひとまずの居場所を与えてくれた人々には、感謝してもしきれない。
彼らがいなかったら、俺はまだダンジョンの中をうろついていたに違いないから。
だから、彼らにこれ以上の迷惑はかけられないと思っていた。
帰りたい気持ちはずっとあったけれど、俺が勝手に行動したらどこに迷惑がかかるとも知れない。ならばもう少し、討伐隊が組まれないだけの信用を得てから動くべきだ。
そう思って一応は大人しくしていたのだけれど。
そろそろ、行動してもいいだろうか。
まだ信用を得ていないことは重々承知の上だ。考えなしに動けば、それこそ討伐対象になる。最悪ノアも巻き込まれるだろう。
それらを回避しつつ、今の俺ができることなんてたかが知れている。俺自身の行動が制限されているのだから、せいぜいが情報を集めることくらい。ならばもっと後で、信用を得てから行動するのが賢いとわかっているが、日ごとに焦燥が増してどうにも辛くなってきた。
俺の身体は、たぶん生きている。
死んだ記憶がないというのがその理由だが、そもそもこうなっている現状が意味不明なので、仮定と推測しかできない。希望をふんだんに混ぜた俺の推測では、何らかの要因で魂が身体から弾きだされ、身体はそのまま眠り続けているというものだ。
その場合、俺の身体は村、もっといえば自分の家にあるだろう。虚弱な俺がこんな時に限って屋外にいるとは思えないので。
つまり、俺が今調べるべきはレテの村と、マリードとの距離。
村が見つかったところで、その先の展望は何も開けていないのだが、それはそれ。
兎にも角にも身体を見つけないことには話にならないのだ。
……人は、眠り続けたまま長く生きることはできない。それこそ特殊な魔法でも使わない限り、いずれ衰弱死する。しかも俺は成人まで生きられないと言われた生粋の虚弱だ。普通の人より死に近い。
早く。一刻も早く。俺が、まだ生きているうちに。
そう、ずっと焦っていた。
アンジェリカは修道院内にある院長室にいた。
他の修道女と比べて留守にすることも多い彼女だが、今日は事務仕事をする日だったようだ。
「あら、いらっしゃい。何かご用かしら」
仕事の手を止めたアンジェリカが、わざわざ出迎えてくれる。
ノアはパメラたちに告げたのと同じ内容を再度アンジェリカにも繰り返した。パメラたちに言われた内容も付け加えると、アンジェリカは考える素振りをみせながら背を向ける。
「パメラの言うように、絵本はもう殆ど残っていません。残っている本で読めそうなものといったらこれくらいでしょうか」
窓際に置かれた棚から取り出したのは、だいぶ傷んだ本だった。相当古い本なのか、表紙は変色してタイトルすら読めない。手渡されたノアがそっとページを捲ると、滲んだような線で描かれた天使の絵が出てきた。
「聖書について描かれたものです。あとは……こちらが一般的な聖書ですね。これはルーチェに渡しておきましょう」
そういって、アンジェリカはやや厚みのある本を俺に渡してきた。
咄嗟に受け取ると、彼女はにこりと微笑む。単にノアの手が塞がっているからと思っていたが、もしかしなくても俺の意図に気付いているのでは。
「それからこちらも。トルーゾ王国の建国史と、薬草図鑑です」
「けんこくし?」
「国の歴史について書いてある本のことですよ。ノアには少し難しいかもしれませんけれど、ルーチェに読んで貰うと良いでしょう」
「うん!」
元気に返事をするノアに、アンジェリカはにこにこと微笑んでいる。
あれこれ知りたがっているのは俺のほうだとバレているようだ。その証拠に、渡された本の中になぜか薬草図鑑がある。広い意味では役に立つだろうけれど、冒険者に憧れる5歳児に薦めるには渋すぎる。ノアも表紙をみて首を傾げているし。
これはあれかな。薬草園の手伝いもさせるから読み込んでおけという。
現状、いろいろ手伝っているといっても、運搬とか水汲みとか本当に簡単なことしかしていない。実際問題としてこの手足では細かな作業はできないのだ。
しかし、中身が俺だからいいけれど魔物相手に遠慮がなさすぎでは。
「なにかわからないところがあったら、いつでも聞きに来てくださいね。ルーチェも遠慮せずに」
アンジェリカは、俺が口の利けない泥人形だと忘れてやしないだろうか。
絵本と3冊の本を手にした俺たちは、ひとまずそのままあてがわれた部屋に移動した。
さすがに堂々と読書はできない。一応、土妖精の設定なのだ。魔物は読書なんてしないだろう。
ノアが興味深げに絵本をめくる横で、先に建国史を手に取った。
知らない文字で書かれていたが、暫く眺めていたら何故か読めるようになった。意味もちゃんとわかる。
俺にそんな便利な能力はないので、恐らくこの魔物の身体が持っている何かだろう。ひょっとしてモンスターは頭がいいのだろうか。生きていないのに?
考えても答えはでそうにないので、ひとまず棚上げしておく。便利なのでよかったと思っておこう。
そうして、なんとか読み終えた『トルーゾ王国建国史』。
七人の天使が英雄に王権を授けるところから記述が始まる。冒頭から読者を置いていく勢いだが、このあたりの物語は聖書と同じらしく、この国の人々にとっては知っていて当然の物語のようだ。
聖書によれば、世界に破滅をもたらす魔王を七人の天使が封印し、その際に英雄が多大なる貢献をしたそうだ。その功績を称えて、ということらしい。
王となった彼は善政を敷き、国は栄え、その子孫が今も国を守っている……というのが大体のあらましである。
あとは、各時代の王についての逸話や周辺国、偉人などの話が随所に盛り込まれている。真偽の怪しい話もちらほらあったが、まあ昔のことなので多少盛られて伝わっている部分もあるのだろう。
期待していた、現在地の目安となる記述は見つからなかったが……それよりも、もっと基本的なことが判明した。
俺の国は、ない。
トルーゾ王国が生まれるより前、神話の時代。
英雄が天使と共に戦いに身を投じていたその頃、地上にはとある国が存在した。後にトルーゾ王国を含めた現在の多くの国の礎となった、大国である。
ただ国の詳細は何も残っておらず、ただ「大国」であったことと、滅亡したことだけが事実として記述されている。
その滅んだ大国の名は『レガンテ王国』。
俺が生まれ育ったレテの村は、そのレガンテ王国の辺境に位置していた。
そう、実に2000年以上も昔に、滅亡されたとされる国である。
つまり……俺の帰るべき村は、もうどこにもないのだ。