おいでまっし王妃様①
「わたくしにも王妃としての仕事をちょうだい」
ディマッシオ王国の国王ラウルは、執務室を訪れた王妃フローネの懇願に顔を顰めた。
「フローネ、また母上に役立たずだのなんだの言われたのか?私から母上に厳しく注意をしておくから、お前は余計なことは気にしなくていい」
「ラウル……そうではないの。もっと役に立ちたいって、わたくしが自分で思ったのよ。貴方と結婚して1年…婚約期間を入れたらもう9年にもなるわ。わたくし、いつもいつも何かしてもらうばかりで、何一つ誰かの役に立てたことがない……」
「それでいいんだよ、フローネ」
ラウルはフローネの両肩を掴むと、その額に口づけをする。
「愛しているよ。ただ居てくれるだけでいいと何度も言ってきたじゃないか。余計なことは考えず、私の側で居てくれさえすればいい……」
「そのとおりですわ、フローネ様」
口を挟んで来たのは側妃のユリアだ。
顔も服装も華やかなフローネとは対照的に、黒髪をきっちり纏め上げ飾り気のないドレスに身を包んだユリアは、ラウルの執務机の上の書類を整理しながらにっこりと微笑んだ。
「こんな可愛らしい方に難しい仕事をさせるなんて、そんな酷いことできるわけありませんわ。貴方様は美しく着飾って甘いお菓子を召し上がって、陛下のお側で機嫌よく微笑んでいらっしゃればそれでいいのです。面倒な執務はわたくしが請け負いますから」
「でも、わたくしも……」
「フローネ様…わたくしは側妃と言ってもそれは形ばかりのことで、実質秘書官として陛下にお仕えしている身です。執務のためにわたくしがいるのです。どうか気兼ねなくお任せ下さいませ」
「ユリアの言うとおりだ。フローネ、お前は何も心配しなくていい。何も考えなくてもいいんだ」
ラウルは控えていた女官にフローネを連れて行くよう合図を送る。
しかし、フローネは目に涙を溜めて抵抗するかのように動こうとしない。
「ーーそうだ!来月の舞踏会で身につける新しい宝石が必要だろう?明日にでも商人を呼んで何でも好きな物を買うといい。ドレスもあるものを着回すと言っていたが、遠慮せずに新しいものを新調していいぞ。嬉しいだろ?フローネ?」
ニヤニヤ笑いながら幼子をなだめるように語りかけてくるラウルに、フローネは抵抗する気力を失った。
そうしてトボトボと自室に帰ると、人払いをし寝室のソファに倒れ込む。
(……わかってるわ。わたくしにユリアほどの仕事はできないということは……)
執務に関して、優秀な2人の間に割って入れるとはフローネも思っていない。
20歳のフローネより一回り年上のラウルとユリアは、かつて国立アカデミーで首席を競い合った秀才同士だ。ユリアはアカデミー卒業後に文官として城へ上がり、フローネとラウルの結婚を機に側妃となった。
それ以降、ラウルの執務補佐や重要な社交の場は全て側妃のユリアが受け持っている。そんなユリアに敵うわけがないのだ。
(でも、わたくしだって何年も王妃教育に励んできたのに……たとえ小さな事でも、出来ることはあるはずなのに……)
奉仕活動に励もうとすれば反対をされ、勉学に励もうとすれば反対をされ、社交に励もうとすれば反対をされ、勇気を出して仕事をしたいと訴えても取り合ってもらえなかった。
王妃としてのフローネに求められている役割は、ラウルの機嫌をとること、ごく稀に社交の場に顔を出すこと、そして跡継ぎをもうけることだけだ。
(だけど、たとえ子どもが生まれてもすぐに取り上げられてしまうのでしょう?わたくし王后陛下から聞いてしまったんだから…子が生まれたとて、賢いユリアの元で育てるのだと……)
これから先の人生の全てを、ラウルの寵だけを頼りに愛玩人形として生きていくのだと思うとゾッとする。そしてその愛玩人形の地位さえも絶対であるとは限らないのだ。
(何か…何か探さなければいけない……わたくしに出来ることを、わたくしの居場所を)
そう強く思った時、フローネの左手薬指の指輪がわずかにきらめいた気がした。
代々の王妃に受け継がれてきた王家の紋章が彫られたアンティークの指輪である。
「???」
起き上がって指輪に目を凝らしたフローネは、しかし(気のせいでしたわ……)と再びソファに倒れ込む。
だが気のせいではなかった。
目を凝らしても分からないほどだった小さな光は徐々に輝きを増していき、やがて一本の線になって暖炉横の壁を指し示した。
フローネが恐る恐る壁に近づくと、壁が内側から溶けるように歪んで穴が現れる。
「………なんですの?」
人ひとり通れるほどの穴の先には、古びた石壁に囲まれた狭い通路が伸びている。
(この壁の向こうはわたくしの居室があるはずなのになぜ?魔法の隠し通路……?)
警戒したフローネが思わず壁から離れると、穴は消え元通りに戻ってしまった。
「あら。消えてしまったわ」
びっくりして再び壁に近づくと、またもや指輪が光り穴が現れる。
「あら。また魔法の通路が現れましたわ」
フローネは何度かそれを繰り返した後、壁から離れソファに静かに座った。
「ーーこれは何かの啓示なのでしょうか?」
指輪に語りかけるも返事はない。
(今宵はラウルの夜伽がある……明日…明日の夜なら1人になれます……)
あの通路の先には何かがあるかもしれない。何もないかもしれない。
それでもフローネは何かのきっかけを求めずにはいられなかった。
(ーー明日の夜、あの道の先へ行ってみましょう)
とにかく今は何かを掴むためにガムシャラに手を伸ばすべきだと、フローネは思った。
_________
「さあて、そろそろ店に顔を出すかね」
白髪の老婆はテレビを消すとゆっくりとコタツから腰を上げた。
大音量で流れていた歌謡ショーが画面から消えると同時に、近くにある茶屋街の賑わいが聞こえてくる。時刻は夜の8時30分。店では常連客たちが酒を傾けつつ話に花を咲かせ始めた頃合だ。
老婆は壁にかかっていた黄色のコートを羽織りながら、キャットタワーの上の愛猫に語りかける。
「モナカちゃん、純ちゃんは今日も良いオトコっぷりだったねえ。そろそろまた北陸にショーをしに来てくれたっていいんだけど……」
それはいつもの老婆の習慣で、愛猫モナカちゃんが毛繕いをしながらそれを華麗にスルーするのもいつも通りのこと。
しかし今日のモナカちゃんは、ふと何かに気づいたようにキャットタワーを飛び降り、爪研ぎでボロボロになった押し入れの前で何かを探るようにウロウロし始めた。
尻尾をピーンと立てて、興奮しているようにも見える。
「……どうした?モナカちゃん?」
老婆が怪訝そうに押入れに近づくと、押し入れの戸がガタガタと音をたて始めた。どうやら内側から開けられようとしているようだ。
「!!!」
ーー泥棒が潜んでいたのかもしれない。
そう思った老婆が咄嗟にモナカちゃんを抱えて逃げ出そうとした時、押し入れの戸がスーッと開かれた。
_________
「ーーあらまあ、ここはどこ?」
押し入れの上段から姿を現したのは、優雅に座した20歳前後の美しい女性だった。
光り輝く金の髪はゆったりとその華奢な体を流れ落ち、大きな青い瞳をパチクリさせて、薔薇色の唇をポカンと開いている。
レースとリボンで飾られたネグリジェのような白いドレスを身に纏ったその女性は、その格好に不釣り合いな押し入れの湿気取りを手に持っていた。
「そこの貴方、ここがどこなのか教えてくださらない?」
猛烈な勢いで擦り寄るモナカちゃんの頭を撫でながら、女性はおっとりと老婆に問いかける。
「わたくしはディマッシオ王国の王妃フローネ。寝室の壁に秘密の入り口を見つけて入ってみましたら、ここに辿り着きましたの」
「ーーこりゃあ驚いたね……母さんの話は本当だったんだ。絵に描いたようなお姫様じゃないか」
まじまじと見つめてくる老婆に、フローネと名乗る女性は困ったように微笑んだ。
「わたくしはお姫様ではなく王妃ですの。実家のテルミン公爵家にいた頃は、冗談でお姫様と呼ばれる事もございましたけれど。うふふ」
「……アタシの母さんが言っていたよ。この押し入れからお姫様が出てきたら親切にしてあげなさいってね。母さんの若い時分にアンタと同じように押し入れから出てきたお姫様がいて、家に福をもたらしてくれたそうなんだ」
「よく分からないけれど、親切にしてくださったら後日城から褒美を贈りましょう。それで、ここは一体どこなのかしら?」
老婆はカビ臭い押し入れの中で呑気に微笑むフローネの白い手を取り、押し入れの外へと促す。
「ここはね、下鏡通りにあるアタシの家さ」
「あらまあ、シモカガミドオリ……城下にそのような場所があったとは知りませんでした。わたくしの勉強不足ですね」
「アンタの国の城下じゃないけど、確かにここは城下ではあるね」
「まあ!ではわたくし、いつの間にか他国まで来てしまったね!短い通路を歩いただけなのに……あの秘密の通路はやっぱり魔法の通路だったのかしら?」
モナカちゃんを抱き上げたフローネは「勝手に外国に来てしまって外交問題になってしまったらどうしましょう……」とオロオロし始めた。
「ーーそ、それで、このシモカガミドオリはどちらの国の町なの?」
「ここは日本って国だよ」
老婆はフローネを居間の窓際に連れていくと窓を開け放った。
2階から見下ろす夜の路地にポツリポツリと街あかりが灯っている。
遠くから聞こえる喧騒。
どこかから漂ってくる出汁の香り。
冬の雨上がりの冷たい空気の中、人々は楽しげに連れ立って店から店へ渡り歩いている。
目に見えるものも、音も、香りも、その全てがフローネにとって初めてのものだった。
目を丸くしているフローネに、老婆は愉快そうに笑った。
「アタシはカズエっていうんだ。おいでまっし、王妃様!」