餃子の皮
「じーさん、今日はチューハイください、レモンで」
「あぁ、今日は暑かったからねぇ。真夏だとビールなんだろうけど、初夏の頃だと暑かった日はチューハイみたいなのが欲しくなる人、多いね」
「そうなんだ」
「いや、この店では、だけどね。はい、チューハイレモン」
「あぁ、旨いなァ」
「そりゃ、なにより。ちょっと待ってておくれ。今、つまみ作るからね」
「あ、なんか作りこんでるね。何、何?」
「はい、お待たせ。そんな凄いもんじゃないよ。チーズ餃子みたいなもん?かな」
「いただきます。あ、いける。食べたことないけど」
「ツナにカイワレとマヨを和えて、とろけるチーズでサンドして、餃子の皮二枚で挟んで焼いおたんだけどね。ピザ風でもあるね、油はオリーブオイル使ったし」
「美味しいけど、何料理何だろうね。中華じゃないし、イタリアンとも違うような」
「カイワレ使ってるから和食でいいんじゃない」
「それだけは無いなァ」
「居酒屋料理はそういうもんさ。だいたい料理に国籍はないからね」
「でも和食はなんとか文化遺産になったんだよね」
「ユネスコの荒唐無稽文化遺産ね」
「荒唐はないよね」
「まあね。でもユネスコに登録した時の和食の4つの特徴っていうのも、いかにも後付けでそれらしくしているけど、多様な食材とか栄養バランスの取れた健康的な食生活とか、自画自賛はいいけど他の国の料理だって、ちゃんと意識すればそういうメニューもあるし、和食だって偏ってるものは偏ってる。伝統的な部分で言えば和食に牛肉や豚肉が入っちゃおかしいけど、和食の店でいくらでも出てくるよね。そもそも日本料理って言葉が提唱されたのも明治末だし、和食はそれより後の言葉。プロの料理人が、自分の志向性を表現するのに和食を極めたいって言うのは分かるし、認める。でも『和食』ってものに実体はないよ。無形どころか無だね」
「そうですね。天ぷらもポルトガル伝来だし、漬物は健康食材というには塩分多いし」
「食べる方は、あんまり意識しないで、ま、脳で味わう調味料として、和食は日本人らしくて合うなぁ、と思いこんどきゃ幸せなんじゃないかな。最も、日本人ってのも実体はないだろうけど」
「また、極端なことを」
「いや、あるよ。日本国籍を有する人。それは日本国民だから日本人って言ってもいいかな」
「じゃ、ですよ。僕が米国に行ってそっちの国籍取ったら、日本人じゃなくなる?」
「その定義ならそう。で、他に定義はちゃんとはできないよね」
「いや、血統とか。父母ともに日本人だし」
「血統だけで言うとね、父母共に日本人とイウには、父母の父母も日本人じゃなきゃいけなくて、どこまでも遡って日本人同士だけの純血。多分、天皇家でも自信ないんじゃないかね。ね。人類なんて大本はアフリカから出た一種類だし、遺伝的に交配可能なまま世界中に散ってるだけだから、生物学的には有意に分けられないよね。たまたま地域内での閉じた交配が長かった時期に、遺伝子的に偏りが出ただけのことだもの」
「交配って言わないでください」
「ふふふ。でも血統主義で言ったら、仮に日本人らしい偏りを「日本人の型」と決めたところで、国際結婚もあるんだし、血はどうしたって混じるよね。そうしたら、偏差値で例えば40から60までなら日本人って言うとか?」
「それも変ですね」
「民族の定義で時々使うけど、文化の共有っていうのも曖昧だよね。まぁ、日本語って特殊な言葉を使う習慣は上げられるけど。でも英語使えばみんなイギリス人じゃないし、スペイン語だって違うし、言葉だけで美音族は分けられない。文化風俗も地域差と民族差を正確に分けられるとは思えないけどな。日本や中国で見りゃ、宗教も関係ないしね。」
「じゃ、どうして民族とか、何々人として、とか言う言葉が当たり前に通用して、それで戦争まで起きたりするんですか」
「集団を維持するために、集団と個人を繋ぐアイデンティティが必要だからだろうね。だから民族ってのは必ずある前提で、一生懸命に定義らしきものを作って、思い込む。でも個人にとっては、所属している集団と自分のアイデンティティを重ねる必要なんてない。でも集団を組織する立場からは、アイデンティティを重ねて、集団の維持をすべての構成員が我が事として意識して欲しい。だから教育で、物語で、徹底的に刷り込もうとするんだね」
「そういうじーさんは、自分のアイデンティティに日本人要素を重ねてないと」
「うん、日本語も好きだし、日本の風土も好きだし、馴染んでる。でもね、俺は自分の生きてきた経緯と嗜好から日本を愛して、日本国に参加してるけど、日本人であることが自分の重要なポイントだとは思っていないんだね。少なくとも日本に帰属してるって意識はない。このつまみで言えば、カイワレぐらいかな、日本人であるってことは。でも美味しくて人に喜ばれて自分も楽しけりゃ、それでいいんじゃないって感じだ」