あの時手を繋いだ少年が憧れた男の昔話
時系列は少しさかのぼる。
2021年度の高校サッカー選手権が閉幕した後、一人の選手の動向に注目が集まっていた。
彼の名前は、神木翔太。部員数100人以上、神奈川県の名門校・湘南大学附属高校で1年生から背番号10を背負う天才司令塔としてUー18日本代表にも召集歴を持つ。168㎝と小柄でやや細身ながら抜群の体幹を誇り、厳しいマークに晒されながらも局面を打開するパスを繋げ、フリーキックでは正確無比の一撃でゴールネットを何度も揺らした。
そんな逸材にはJ1の常勝クラブを含めて10を超えるオファーがあったが、後日学校で開かれた記者会見で、彼はハッキリと進路を口にした。
「僕はアガーラ和歌山に行きます。それ以外の選択肢はありません!」
会場はざわついた。アガーラ和歌山は、それなりに名を知られていたが、他のオファーと比べて資金力を含めたクラブ規模を考えれば、神木クラスの選手を引き込むにははまだまだ縁遠い存在だった。
入団の決め手は何か。記者の一人に聞かれたときに、神木はこれまたきっぱりと言い切った。
「あこがれの人がいます。その人と一緒にプレーしたい。それだけです」
彼のあこがれの人。もし読者諸兄にその気があるなら、オーバーヘッドの第1シリーズ、第53話の「試合前の表情、やり取り、触れ合い」を読んでもらいたい。
エスコートキッズを務めていたとある少年が、アガーラのある選手に尋ねる。
「おにいちゃんって、チビなの?」
「クラスで一番小さくて馬鹿にされるけど、ぼくはサッカー選手になりたい」
そう語った少年に、その選手は返した。
「体の大きさは確かに気になるけど、大切なのは頑張る時に『ぼくはできる』って信じることさ」
その言葉を励みに神木はサッカーに打ち込み、体格のハンデをかすませる才能を発揮し、今に至ったのだ。
そして時を進めて2022年。神木は和歌山のクラブハウスで、金言を授けてくれたあこがれの人、猪口太一と対面した。
「話聞いてびっくりしたよ。まさかあの時の子がこうなってたなんて」
「あの時は…正直背番号も、あと申し訳ないんですが和歌山のことすら知らなくて。猪口さんを知ったのはずいぶんあとだったんですけどね」
尊敬する人物と握手を交わしながら、神木は照れくさそうに語った。
「でも、こういうのも変だけど、よく頑張ってここまでこれたね。これは君の力もあるけど、周りの支えがあったから、というのも忘れないでほしい。プロになる前に、この言葉だけは送っておきたいし忘れないでくれ」
「…はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」
猪口からのエールを受けて神木は破顔一笑。二人が握手する画は、サッカー媒体の紙面を飾ることになる。
あの時会話した少年が、こうしてプロの舞台に上がってきた。そのことが、猪口にとっては自分のことのように嬉しかった。ただ一方で、自分の境遇を振り返った時に、「よく自分がそんな立場になれたもんだな…」とも思った。
豊富な運動量と俊敏性をもって、Jリーグの歴史上に名が残るほどのインターセプトの名手として名を馳せる猪口であったが、故郷の滋賀県でサッカーを始めたころの幼少期はその小柄な体格からまともな扱いをされない日々が続いた。
小学校3年生となった当時に、地元のサッカー少年団に入ったのだが、同学年で頭一つ小さかった猪口はなかなか出場機会を与えられず。誰よりも体力があり足も速かったが、線の細さは改善されず公式戦にはほとんど起用されずに終わった。これが中学進学後にはさらに指導者の偏見に苦しむことになる。黙々とドリブルやシュート練習を日課にしていたし、体力と俊足は光ったが「身体が小さい」というだけで当時の指導者たちは猪口を見限り、練習試合や紅白戦で「やりたい奴がいない」という穴埋め要員としてサイドバックでプレーする日々を送った。ある雑誌のインタビューで幼少期を振り返った時に、猪口はこう語っている。
「身体だけで判断されて一切見てもらえなかった。決して技術があったわけじゃないけど、自分より背が高いというだけで積極的に後輩や同級生を見ていい気はしませんでしたね。出番さえあれば、少なくとも誰より走る自信はあった。校内のマラソン大会じゃ陸上部にも勝ってたし、ばてた記憶はないですね」
そんな彼にサッカーの女神は3年生になったゴールデンウィークに微笑んだ。当時のレギュラーが交通事故で骨折、控え選手も急な虫垂炎で中体連の公式戦を欠場。空いたボランチのポジションに猪口が起用された。すると、これまでの鬱憤を晴らすかのように、相手の司令塔、あるいはキーマンに対して誘導ミサイルのようなマーキングで削り、とっさのパスもことごとくカット。ひそかに磨いていたパス技術もここで開花し攻撃の起点として瞬く間にチームの心臓と化し、チームを初の県大会ベスト4に
導く。このプレーが県内のサッカー関係者の目を引きトレセンに召集されると、涼しい顔でピッチを走り続ける体力と俊足、さらに「縦に伸びないのなら身体を頑丈にしよう」と鍛え上げた体幹の強さで周囲を圧倒。これがアガーラ和歌山関係者の目を引き、ユース入団の誘いを受けた。
小中に渡ってサッカーチームに入りながらサッカーをまともにさせてもらえていない経験から、当時は猪口以上に両親が反対したが、クラブ社長自らが出向き『彼がサッカー選手になることは、多くの少年に勇気を与える。何が何でも彼をサッカー選手として大成させます』と土下座しながら言い切るほどの熱意をぶつけることで承諾を得た。
以後の活躍は周知のとおりだが、地元に対しては苦い経験しかないこともあり、度々オファーがあるサッカー教室の開催はすべて断っている。当時所属したサッカー少年団でJリーガーとなったのは後にも先にも猪口だけであるが「猪口太一が生まれたのは滋賀県だとしても、“猪口太一選手”を生んでくれたのは間違いなく和歌山だから」というのが猪口の考えだからだ。
どのスポーツにおいても体格の問題はある。そして体重と違ってコントロールの効かない身長がネックになって道が閉ざされる例は、まったくないとは言い切れない。
猪口はただひたすらにできることを徹底し、そして運を吸い寄せて人の目に留まり人生が変わった。そして、猪口に憧れる少年が生まれ、同じ場所にたどり着いた。
猪口にとって、それが何よりもご褒美だと喜びをかみしめていた。そして決意する。この流れを断つことのないよう、先例として走り続けることを。




